五 デジャビュには理由がある

 赤レンガの敷かれた並木道を御倉徳郎が歩いている。髪に一割ほど黒いものが残っていた。皮肉そうな笑みを浮かべ、並んで歩く人々と談笑している。他の人々は顔をぼかされており、スーツ姿だということしかわからない。どこかの大学だろうか、学会の開催を示す立て看板がちらりと映った。

 ニュースキャスターの声がしている。病院へ搬送された御倉徳郎が今朝、息を引きとった。汐帆会との関わりがあった元精神科医として短く紹介され、次のニュースへ移った。

 壁にかかった液晶テレビを眺めているのは反町だけだった。背もたれのないプラスチック製のベンチが並んでいる。大ホールへの通路を絶え間なく人が行き来しているが、この休憩コーナーにはなぜか誰も来ない。ひょっとして、これが悪いのだろうか。反町は壁にある「警察官立寄所」の貼り紙をみつめた。

 もちろん反町が文化会館に来たのは、刑事としてではない。一市民として休日にフリーマーケットを覗きに来ただけだ。

 昨夜は目覚まし時計をあえてセットせず、昼近くまで寝ていた。友人たちとショッピングにでかけると母からのメモが台所に残されていた。空腹を覚え、近所の中華料理屋にでかけた。

 レバニラ炒めを食べていると御倉徳郎の名前が耳に飛びこんできた。テレビ画面を見上げているうちに胃のあたりが重くなってきた。飯を食い、勘定を済ませ、店をでて歩いた。しばらく進んでから駅の方角へ踵を返した。

 駅のホームでフリーマーケットのポスターをみかけた。寒露町の二つ手前、文化会館の最寄り駅で降りた。黙々と足を動かし、古ぼけた鉄筋コンクリートの建物に着いた。広々とした駐車場が四割ほど埋まっていた。

 雨を敬遠したのだろう、会場は屋内だった。大ホールは整然と販売スペースが区切られていた。床にビニールシートが敷かれ、洋服や雑貨、古書、スポーツ用品などが並んでいる。ダンボールにマジックで手書きの値札がつけられ、家族連れや老人たちがのんびりと眺めている。平均的な年齢層は高めだが、学校の制服姿もちらほらいた。腕章をつけているから、スタッフを務める高校生なのかもしれない。

 ひと回りし、けっきょくなにも買わずに反町は手ぶらで大ホールをでてきた。玄関に戻ってくると雨が降っていた。雨足は弱いが、すぐにはやみそうにない。誰もいない休憩コーナーで漫然とテレビを眺めていた。徳郎の死を報せたニュース番組が終わり、刑事ドラマの再放送が始まった。

 窓の向こう、雨はだいぶ弱まっている。ベンチから腰を上げた反町は、誰かが入ってきたことに気づいた。

「光くんか」

 奇遇ですね。占木光が、ぺこりと頭を下げた。ソフトジーンズにトレーナーのラフな格好をしている。肩からトートバッグを提げていた。

「なにか買ったのか」

「本とか」

 あと、これを。そう言いながら光はトートバッグを探ると、小さなものをとりだした。水兵の格好をしたアヒル。プラスチック製のドナルドダックだ。

「なんだ、それ?」

「おもちゃですよ」

 ゼンマイを巻き、光は指を離した。怒り顔のアヒルが拳をふりまわしながら口をパクパクさせ、ひれのついた足を上下させる。ゼンマイの音が甲高いドナルドダックの声を連想させる。

「亡くなってしまいましたね、徳郎さん」

 ぽつりと光が言った。ゼンマイが少しずつ弱まり、口やかましいドナルドダックは動かなくなった。おもちゃをトートバッグへ戻すと、光は壁際に並ぶ自動販売機を見渡した。

「二階にカフェがあったな」思いだしたように反町は口を開いた。「おごろうか」

 いや、ちょっと喉が渇いただけなんで。胸の前で小さく手をふり、光は紙コップ式の自動販売機の前に立つと尻ポケットから財布をとりだした。

「今日は制服じゃないんだな」

「当たり前じゃないですか」

 反町は壁に目をやった。「警察官立寄所」の文字をみつめ、肩を竦める。

「反町さんもお休みなんですね」

「まあな」

「徳郎さんの事件……」語尾を濁らせ、光は言葉を続けようとしなかった。

「探偵みたいなこと、まだしてるのか」

 思いつくまま反町が問うと、光はうつむき「うーん」と唸った。

「そうですね。相談に乗ることは前より増えました」

 何時だろう。反町が天井際を見上げると時計があった。午後三時半を過ぎている。

「そういえば、あの子とはどうなんだ」

 光は、きょとんとした表情になった。自動販売機のボタンにあてた指をとめ、動かない。

「ほら……名前、なんだったっけな」

 ピッと電子音がした。肌寒い三月に冷たいコーラのボタンを押している。「ああ……」光は嘆きの声を漏らした。うろたえた勢いで、誤って押してしまったらしい。

「ひょっとして、明日香のことですか?」

 赤いLEDの数字が残り秒数をカウントダウンしている。それをみつめながら光は小首を傾げた。「こんなこと、前にもあったような」独り言のような口調だったが、反町の耳にも届いていた。「デジャビュか」反町が応じても、光はどこか上の空だった。

 自動的に扉が開き、モーター音とともに氷を浮かべた紙コップがでてくる。光はそれを手にとると、休憩コーナーから通路へ向かった。指先を壁へ伸ばす。

 次の瞬間、反町はなにも見えなくなった。全身を暗闇に包まれる。

「反町さん!」

 鋭い声にハッとなった。パチンと軽い音がして、天井の蛍光灯が一斉に明滅した。壁際にある照明スイッチに光が手を伸ばしていた。

 反町は遅れて状況を理解した。休憩コーナーは照明もテレビも点けっ放しで良いのだろう。デジャブに気をとられた光が誤って消灯してしまったらしい。

「大丈夫ですか?」

 肩に手を置かれる。すぐ間近に光の顔があった。二年前とくらべて頬の線がさらに引き締まったように感じる。それでも瞳の優しさだけは変わらない。眉を曇らせ、愛犬の死を悼むような顔をしている。

「おう、ちょっとビックリしたな」

 反町は微笑み、肩に置かれた光の手の甲を軽く叩いてやった。しかし光は表情を曇らせたまま、まるで宇宙人を目にするかのような表情で反町の顔をみつめていた。

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