四 悪夢は醒めない
青い海を背景に、上品な微笑みを浮かべる白人女性。英語の文章、チカチカと点滅するバナー。どうやら広告らしい。スマートフォンの画面を目にして、四方子はそう判断した。
周囲が暗くなったように感じた。画面から顔を上げる。廊下の照明が灯されていない。静かで、誰もいない。いや、そのはずはない。夫が書斎にいるはず。
四方子は庭で洗濯物をとりこんでいた。母屋へ入ろうとしたところで玄関ブザーの音がした。一昨日と同じ刑事の姿が表門にあった。たしか反町という名だったか。御倉徳郎に会いたい、電話で話は通してあると言われたが、念のため夫に確かめることにした。
刑事を表門に待たせ、離れへ向かったところで振動を感じた。メールが来ていたので確認したが、ただの広告だった。
もう十年近く前、夫は暴漢に襲われた。命こそ助かったものの車椅子の身となった。異変があったとき助けを呼べるよう、スマートフォンを肌身離さず持っていてほしいと夫に頼み、自分でもそうしている。
スマートフォンを手にとる直前、表門から離れへ石畳の通路を歩いていた。書斎の窓越しに夫の姿が見えた。いつもどおりデスクに向かい、ノートパソコンでなにかしているようだった。だから書斎にいるはずなのに、人の気配がない。
「徳郎さん?」
一歩進む。スマートフォンを握った手の甲をスイングドアにあて、力を込める。奥へドアが開いていき、薄暗い室内が視界に入ってくる。
(――暗い)
明かりが消えている。窓から覗いたときは照明が点いていたのに。
誰もいない。障子が開け放たれ、庭木が見える。壁際のデスク、書棚、畳を覆うウッドカーペット。床になにかが輝いている。細かなガラスのかけらが散らばっている。大きな破片を目にして、ようやく四方子は理解した。灰皿だ。砕けたクリスタルの灰皿が床に散らばっている。
急に体温が下がった気がした。部屋に足を一歩踏み入れようとして、動きをとめた。スイングドアから手を離す。ひとりでにドアが閉まっていく。
早く確かめたいという焦り。恐ろしいことを目にしたくないという不安。相反する想いが四方子の胸のうちで拮抗していた。うっかり灰皿をデスクから落としてしまったのだろうか。それにしては灰皿の破片はデスクの足元から離れていた。
やや早足で四方子は廊下を進んだ。玄関の左手にあるスイングドアを開け、覗きこむ。脱衣所には残り湯の匂いがこもっていた。ガラス扉が開け放たれており、ユニットバスに誰もいないことが一目でわかる。
あとはもう、ここしかない。廊下を挟んだ反対側、寝室のドアを押し開ける。
瞳が暗闇に慣れず、室内の様子がわからない。本が日に灼けることを嫌い、夫はいつも障子を閉めていた。壁にある照明のスイッチに手を伸ばす。
目が床に吸い寄せられた。大きさは半畳ほどだろうか、ウッドカーペットに奇妙な模様が広がっている。レース編みのように美しい光の輪。
(これは――)
なんだろう。そう思うのと、影に気づいたのは同時だった。奥の壁、書棚の前に人影がうずくまっている。頭を抱えていて顔は見えない。腕の間から目だけがこちらを睨んでいる。獣のような俊敏さで身を起こすと四方子に飛びかかってきた。
反射的に両手を前へ突きだした。米袋を投げつけられたような重みがあった。スマートフォンが手から滑り落ちる。一瞬、相手の身体が光に照らされた。グレーのジャケットを着た若い男だ。
床で音がした。懐中電灯が転がっていく。持ち手のオレンジ色が鮮やかに目に灼きつく。明かりが点いたままのそれはウッドカーペットの上を滑り、廊下へ転がっていった。じゃれる猫のように男はそれを追い、懐中電灯を拾うと玄関のほうへ走り去った。
横たわったまま四方子はしばらく動けなかった。男の足音が遠ざかっていくのを聞いていた。なんだろう。いったい、なにが起きたのだろう。今のはいったい誰なのか。頭の中を疑問文が渦巻き、そして夫のことに思い至った。
床に手をつき、力を込める。身体が重い。腰が痛い。ただ立ちあがるだけのことがひどくつらい。それでもようやく身を起こし、よたよたと覚束ない足取りで廊下にでた。
玄関とは反対へ、廊下の奥へ進む。突き当りを直角に折れる。左は縁側のガラス戸、右は寝室の障子戸に挟まれている。日本家屋だった名残で、寝室の西側だけ障子のままだ。もう少し暖かくなれば桜が咲き始める。戸を開け放ち、寝室から庭の桜を見物して過ごすことができる。
曇り空とはいえ、それなりに明るい。ガラス戸から日が射すので奥まで見通すことができる。物置は引き戸が開け放たれており、車椅子がないことは一目瞭然だ。
踵を返す。四方子は廊下を玄関へ進んだ。これでもう、離れにいないことは確かだ。スマートフォンで電話してみるべきだろうか。入れ違いで母屋のほうに行っているのだろうか。
重苦しい煩悶は、玄関の様子を目にするなり霧散した。スロープの端に車椅子があった。白髪頭が、くっと首を傾けたまま動かない。
「……徳郎さん」
返事はなかった。外へでかけようとしているのか、車椅子は玄関扉のすぐ手前にある。しかし、そこから前へ進もうとはしなかった。ローブを着た徳郎は眠っているかのように瞼を閉じていた。
みぞおちからペーパーナイフの柄が突きでていた。刃先がローブに刺さっており、血がにじんでいた。指で触れれば真っ赤になりそうなほど湿っていた。
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