三 堂廻り目眩み

 列車を降りたのは反町だけだった。長いホームを端まで歩き、二台しかない自動改札機を抜ける。駅舎をでると足をとめた。通りは緩やかに右へカーブし、見通すことができない。コンビニエンスストアと薬局、少し離れたところに蕎麦屋があった。

 雨が降っていた。傘がなくとも気にならないほどの小雨だ。手ぶらで歩きながら反町はときどき空を見上げた。電柱が等間隔に並び、灰色の空を電線が覆っている。土曜の昼下がりにしては人影がない。

 シャッターを下ろした店舗の前をいくつも通りすぎる。脇道に入り、しばらく進む。板塀の先、瓦屋根をのせた表門があった。御倉徳郎の家だ。小学校の二十五メートルプールは約百坪の広さだそうだが、その倍はあるだろうか。

 門のほうへは行かず、まっすぐに進む。勾配のきつい上り坂があった。冬に凍ったときの滑り止めだろう、セメントに溝が刻まれている。短い坂を上りきると一車線の道路が左右に伸びていた。

 反町は建物を見上げた。鉈弟第九ビルヂング。黒ずんだ真鍮製の切り文字が、そう並んでいる。一階は古書店だった。日に灼けた文庫が百円均一の棚に並んでいる。開け放した引き戸の奥、カウンターの向こうに店主らしき中年男性が仏頂面で座っている。エプロンをした若い男が両腕の間に本を抱えて細い通路を進む。客の姿は一人もない。

 古書店の脇にある、ビルの入り口に足を踏み入れる。目の先にエレベーターの扉があった。ビニールテープで入り口が封じられている。明朝体で「工事中」と記されたプラスチックの板がぶらさがっていた。

 エレベーターの脇にある、フロア図と各階の案内に反町は目を走らせた。地上五階建て、地下は一階まで。二階から上は、階ごとに異なる会社がオフィスとして利用しているらしい。小さな掲示板もあった。今日一日、内装工事のためエレベーターが使えない旨の貼り紙がされている。

 階段を使うしかなさそうだ。反町はフロア図を確かめ、通路を奥へ進んだ。通路の右手に歯科医の看板があり、スチール製のドアに本日休診の札がかかっている。突きあたりまで進むとフロア図のとおり階段があった。

(暗いな)

 壁際に目をこらす。レバー式のスイッチがあった。指の腹をあてがい、ぐっと力を入れる。ぱちん、と音がした。天井を見上げる。蛍光灯は暗いままだった。

(切れてるのか)

 それとも節電のため、あえて切らしたままにしているのか。しかたがない。反町は足を進めた。一段ずつ慎重に下りる。踊り場で百八十度向きを変え、さらに下へ。深海へ潜るように闇が濃くなっていく。

 携帯電話のバックライトで照らすべきか、反町は迷った。画面のサイズが小さい機種のうえ、バッテリーの消耗を防ぐため明るさを最小に設定している。焼け石に水かと考えるうち、地下階に着いた。目をこらし、壁を手探りする。指先がプラスチック製のスイッチに触れた。

 ぱちん。軽く音がした数秒後、廊下は光に満たされた。やれやれ。反町は小さくつぶやき、足を進めた。一階と同じように封鎖されたエレベーターの向かい側に木製のドアがあった。ドアノブをつかむ。回し、押し開く。

 明かりが点っていた。裸電球がぶらさがっている。がらんとした広い部屋だ。壁も地面もコンクリートが剥きだしている。部屋のほぼ中央、背を向けた車椅子があった。

「来たか」

 御倉徳郎がふりかえり、手にしていた文庫本を閉じた。車椅子を操作して向きを変える。反町のほうに向けるのかと思えば、さらに回転させて左手のほうへ進める。コーデュロイの上着に、首にはマフラー。昨日のローブ姿と違って今日は外出着だ。

 壁際に三面鏡があった。化粧板のニスは輝きを失い、埃をかぶっている。鏡は閉ざされており、化粧品のひとつさえ置かれていない。

「ここ、前はスナックでな」

 店長が夜逃げし、めぼしい家財は債権者がたいがい持っていったと徳郎は説明した。

「どこも不景気ですね」

「年々寂れていくよ。空き店舗が二つもあると、維持費だけでバカにならんとオーナーが嘆いておった。まずは、それを開けてくれ」

 反町は三面鏡の前まで足を進めた。すぐ隣で、徳郎が刑事の挙動を漫然と眺めている。手を伸ばしかけて、反町は動きをとめた。

「椅子に座るんじゃないんですか」

「精神分析医みたいにか?」

 軽い口調で徳郎はそう言うと、さっさとしろとばかりに顎先を上下させた。反町は腰を軽く屈めると、両手をそろえて三面鏡の扉に手をかけ、左右に開いた。

 鏡はところどころ曇っていた。視線を右へ寄せる。車椅子に座る徳郎が映っている。黒縁眼鏡のレンズが裸電球の明かりを反射している。輝きに邪魔され、そこにあるはずの瞳が見えない。

 目の焦点がぼやけた。なにかが貼ってある。鏡の上のほう、やや蝶番ちょうつがい寄りのところ。レモン色のポストイットだ。アルファベットと数字の、意味をなさない羅列。しかし、見覚えのある文字の並び。


 壁に時計があった。午後三時半を過ぎていた。

「そういえば、あの子とはどうなんだ」

 少年は、きょとんとした表情になった。自動販売機のボタンを押そうと指を伸ばしたまま、学生服姿の占木光は動きをとめた。

「ほら、明日香ちゃんって子と付きあってなかったか」

「え! いや、そんな、明日香とは」

 ピッと電子音がした。肌寒い三月に冷たいコーラのボタンを押している。「ああ……」光は嘆きの声を漏らした。うろたえた勢いで、誤って押してしまったらしい。

 赤いLEDの数字が、残り秒数をカウントダウンしている。無言のまま光はそれをみつめていた。

「ずっと会ってないですね」

 自動的に扉が開き、氷を浮かべた紙コップがモーター音とともにでてくる。「高校は別々になったんで」少年は声を途切らせた。うつむく顔が陰りを帯びている。もてあますように紙コップの持ち方を何度も変えた。言葉もなく、光は反町に背を向けた。休憩コーナーから通路へでる。指先を壁へ伸ばす。

 そうか。かけるべき声を思いつかず、反町は短く応じた。気まずい。あまり不用意に訊くべきことではなかったか。

 次の瞬間、なにも見えなくなった。全身が暗闇に包まれた。


 ――見覚えのある文字列。そうだ、これは。

 次の瞬間、足元に揺れを覚えた。耐えきれず、たたらを踏む。地震ではない、目眩めまいだ。瞼を強く閉じ、顔を手の平で覆う。落ち着け、落ち着くんだ。自分自身に言い聞かせながら細く瞼を開いた。

 ポストイットが貼られていた。見覚えのあるアルファベットと数字の並び。暗記したわけではないが、恐らく会議室で渋谷と釈迦河に見せられたキーワードと同じものだ。

 違和感を覚えた。なにも思いだせない。実母の記憶は蘇らない。だが、なにかが変わった。数秒前となにかが違っている。目の前には鏡がある。三面鏡の向かって右側の鏡だ。コンクリートの壁、ぶらさがった裸電球、鏡面に貼られたポストイット。違う。なにかが違う。さっきはあったものが今は無い。

 反町はふりかえった。そこには誰もいなかった。

(――幻術使い)

 徳郎がいない。車椅子ごと姿がない。

 本能的に腕が動いた。鏡が叩き割れそうな勢いで三面鏡の扉を閉ざす。よろめくように後ずさり、視線を泳がせながら室内を三百六十度、くまなく見渡す。いない。誰もいない。

 入り口から見て左手、表通りとは反対側のほうに引き戸があった。駆け寄り、手をかけて勢いよく引く。一畳ほどのスペースがあった。収納スペースらしい。ハンガーが金属パイプにぶらさがっている。幾何学模様の暗い壁紙にセメントの床。それ以外なにひとつ無い。

 反町は引き戸を閉めた。もう一度、室内を見渡す。誰もいない。胸元に手をあて反町は深く息を吸い、そして長々と吐いた。

(なんなんだ?)

 手をあてる位置を胸元から顎先へ、そして眉間へと変えていく。実母の面影を探しても、脳裏にはなにもない。記憶は蘇っていない。

 ゆっくりと部屋を横断する。ドアを開ける。廊下へでようとして一歩後ずさり、壁にあるスイッチを切った。裸電球から光が失われ、部屋が真っ暗になる。

 ドアを閉め、廊下にでた。顔を上げる。黄色味を帯びた蛍光灯の放つ光を声もなくみつめる。なにかが起きた。なにかが起きている。だが、なにもわからない。弱々しいはずの白い光に頭の中が灼きつくされていく。蝕まれていく。

 思いっきり、両頬を叩いた。乾いた音がして、ひりひりとした痛みが残った。階段のほうへ進む。廊下の照明スイッチを切る。ここへ下りてきたときと同じように闇が充満した。

 慎重に足探りをしながら階段を上がる。一階に到達すると、廊下の先にあるエレベーターの扉が開くところだった。背広姿の中年男性が二人、無言のまま乗りこむ。

(工事が終わったのか)

 休日出勤だろうか。今日は土曜日だ、週休二日制ではない会社なのかもしれない。そういえば、何時になったのだろう。

 通りにでる。雨はやんでいたが、依然として曇っていた。百円均一の棚。開け放たれた引き戸の奥、仏頂面の店主が女性店員に話しかけている。反町は胸ポケットから携帯電話をとりだした。時刻表示を確かめる。

(五時?)

 駅の方角へ路地を折れようとして、足をとめる。デジタル数字の列は午後五時過ぎの時刻を指していた。

 曇り空を見上げる。視線を再び下ろす。縦長の液晶画面に表示された時刻はさっきと同じだ。みつめているうちに分の表示がひとつ進み、画面が暗くなった。徳郎と約束した時刻は午後二時だった。差し引き、三時間。

 時計が狂っているのだろうか。携帯電話の側面にあるボタンを押す。画面が明るくなる。時刻表示の下に、やや小さめのフォントが並んでいる。数字と記号だけで綴られた、年月日の控えめな表示。その末尾に「SUN」という三文字があった。

 手が震えた。携帯電話が振動している。デジタル数字が消え、上司の名前が表示された。

「今、いいか」耳元にあてると釈迦河の声がした。「そっちはどうなってる?」

 唾を飲みこむ。鼻が詰まったように息がしづらい。

「失敗です」

「なんのことだ」

「御倉が、その」

 一瞬で消えました。記憶は蘇りませんでした。今日は何曜日ですか。

「落ち着いて話せばいい」

 部下が混乱していることを気配で察したのだろう。釈迦河の声は穏やかだった。

「俺のほうがなにか聞き違えたのかもしれん。確認させてくれ、おまえが通報したんじゃなかったのか」

「通報?」

 一瞬の間があった。

「よく聞けよ」釈迦河は前置きした。「御倉徳郎が襲われた」

 御倉家に何者かが侵入した。胸を刃物で刺され、徳郎は救急車で運ばれた。病院や警察への通報は、御倉家を訪れていた反町がしたと聞いている。

 薄暗い空の下、耳元で響き続ける上司の言葉を、反町は遠いさざ波の音のように聞いていた。

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