二 幻術使いの誘惑

 玄関ブザーの音がした。サンダルへ爪先を下ろそうとしていた御倉四方子よもこは動きをとめた。指が滑る。ビニール紐で括った本の束が、玄関の上がり框から三和土たたきへ転がり落ちた。

「ああ……」

 思わず声が漏れる。縛りが緩かったのか、紐がほどける。女性向けのファッション誌、ベストセラーになった恋愛小説、大学受験のための問題集や赤本。開いたトランプのように本がばらける。

 前のめりになったのを、なんとか四方子はこらえた。どしんと尻餅をついて廊下に手をつく。七十に手がとどく歳だ。直接的な痛みは骨身に沁みる。

 急かすようにまたブザーが鳴った。夫がネット通販でも利用したのだろうか。訝りながら四方子は身を起こした。後ろ手に腰をさすりながらインターフォンにでる。

 若い男の声だった。県警の者だという。御倉徳郎さんはご在宅でしょうか。お話させてほしいのですが、ご都合はよろしかったでしょうか。

 昼食時に夫から聞いた話を四方子は思いだした。催眠療法の専門家に意見を伺いたいと警察から申し出があり、会う約束をしたという。「少々お待ちください」インターフォンの受話器に話しかけ、四方子は再び玄関へ向かった。

 散らばった本を見下ろす。気になるが後回しにするしかない。この家はかつて汐帆会の修行場として使われていた。これらの本はきっと若い女性信者が持ちこんで、そのまま置いていったのだろう。長く物置の片隅で埃をかぶっていた。

 サンダルに足の甲をひっかけ、引き戸を開ける。短い石畳の向こうに表門がある。今は門扉を閉ざしており、そこにいるはずの客の姿は見えない。石畳の通路は途中から斜めに分岐し、離れへ伸びている。

 今にも降りだしそうな暗い雲に空が覆われている。四方子はうつむきながら、誰もいない石畳の通路を小走りした。


 父が再婚したのは、反町が小学校に入学する直前だった。庭で柿の木を見上げていたときのことを覚えている。葉の落ちきった裸の枝が風に震えていた。遠くから声をかけられ、ふりむいた。縁側に立つ父が小さく手招きをしている。その奥、開け放たれた障子の向こう、髪の長い女性の後ろ姿があった。

 新しいお母さんが来た。そんな思いが浮かんだ。思うと同時に疑問を覚えた。新しいって、なんだろう。新しいの反対は、古い。古いお母さんはどこにいるんだろう。

 父が急性肝炎で入院したと知らされたのは、反町が東京の大学に入学した年だった。晩酌を欠かさない父だったが深酒することはなく、ウイルス性の肝炎だったらしい。それから一週間も経たずに息を引きとった。

 大学を中退して地元に帰り、反町は警察学校に入学した。腹違いの妹からは顔を合わせるたびにバカだと言われた。奨学金とバイトで大学生活の費用をまかなえるか、深夜まで皮算用したこともあった。なんの目標もなく大学にいるより、自分を律してくれる枷が欲しかったのかもしれない。

 とりたてて父の後妻と不仲だったわけではない。ただ、見えない壁があるのは確かだった。独身寮暮らしの反町は、ほとんど実家には帰らない。七年前に妹は銀行員と結婚し、家を出た。子育てに追われる日々を電話で愚痴り、いつも最後に「実家へ顔をだせ」と締めくくる。反町が三十を過ぎてからは「結婚しろ」も付け加えられた。

「記憶をとりもどすことはできますか」

 細い煙が宙のある一点で揺らぎ、波打ち、薄れていく。煙草の先端が明るさを増し、そして暗くなった。老人が唇から煙を吐く。口元から煙草を離すと、灰皿の縁で叩いた。

 薄暗い和室で反町は、車椅子に座るローブ姿の老人と向かいあっていた。籐椅子に腰掛けた反町より、車椅子の徳郎のほうが視線の位置が高い。総白髪は寝起きのように乱れ、黒縁の四角い眼鏡をかけている。気怠そうに瞼を細め、苦いものでも噛むような表情をしている。

 外から見た離れは瓦屋根に土壁の日本家屋だった。足を踏み入れると玄関にはスロープがあり、廊下と部屋の間に段差がない。部屋の入り口は両開きのスイングドアだ。押しても引いても開き、手を離せば勝手に閉まる。畳の上にはウッドカーペットが敷かれている。車椅子生活のためにバリアフリーとなるようリフォームしたのだろう。

 書斎として使っている部屋らしく、木製のシンプルなデスクがある。車椅子のまま使えるよう、デスクには椅子が備わっていない。クリスタルの灰皿に数本の吸い殻が灰になっている。辞書やペーパーナイフ、ノートパソコンが乱雑に散らばっている。

「反町、竜二りゅうじか」

 徳郎が腕を伸ばし、机上の名刺を手にとった。皺に埋もれそうな両眼を細め、めつすがめつする。

「子供の頃、野浦群に住んでいなかったか?」

 動揺をこらえたつもりだった。だが、籐椅子がぎしりと鳴った。

 野浦群は、県の最西端にある山間部一帯を指す。反町は記憶していなかったが、父が前妻と離婚する前はそこに住んでいたらしい。

「怖がりな子だったな。竜の字が似合わんと思ったよ」

 悪戯がうまくいったことを喜ぶように老人は唇の端を歪めた。

「その子の記憶を奪いましたか?」

 刑事の問いに、答えはなかった。徳郎の口は再び煙草に栓をされた。

 昨夜、上司たちにキーワードを見せられても反町はなにも思いだすことができなかった。会議室をでた後、反町は釈迦河に提案した。御倉徳郎と話をさせてほしいと。案の定、釈迦河は良い顔をしなかった。時任涯奈の事件は警視庁公安部のヤマだ。勝手に接触したと知られれば責任問題に発展しかねない。

 廊下を歩き、エレベーターに乗り、到着した階の長い廊下を歩いても、まだ反町は説得を続けていた。医師としては引退し、その後で神戸の事件が起きた。汐帆会から気持ちが離れているなら、なにか話を聞きだせるかもしれない。

 やがて釈迦河は折れた。警戒心を煽らないよう、一人だけで訪れる。催眠療法について専門家の教えを請うという扱いにする。恐らく釈迦河は、門前払いされるのが関の山だと考えたのだろう。それは反町も同じだった。

「いいだろう、試してやろう」

 老人の口から煙と言葉が吐きだされた。クリスタルの灰皿に灰を落とす。

「ただし、あまり口外はせんでくれ。引退したことになっている身だからな」

「いや、ちょっと待ってください」

 俺は、自分の思い出を取り返しに来たわけじゃない。催眠で記憶を封印したり、それをキーワードひとつで思いださせるなんてことが本当に可能なのか、専門家としての意見を伺いに来ただけだ。慌てて問い直そうとする反町をうるさがるように、徳郎は大きく首を左右にふった。

「口先だけのご意見なんぞ、なんの役に立つ。試したほうが早い。アンタの記憶を回復できたなら、私は本物ってことだ。そうだろう?」

 鈍い音がした。隣の部屋からだった。若い女の笑い声と、それをたしなめる声がした。手にしていたものをうっかり落としでもしたらしい。

 高校生らが来とるんだよ。壁のほうへ目を向けた反町に、徳郎が説明した。不用品の回収に来ているのだという。

「もうひとつ、条件がある」徳郎が黒縁眼鏡を外した。瞼を閉じ、目頭を指で押さえる。「世間はどうあれ、私はこれを治療行為だと信じてやってきた。報酬なしにはやれん」

「……高いんですか」

「催眠療法は、日本では医療行為とみなされておらん。保険の適用外だ」

 首をぐるぐるとまわし、それから徳郎は壁のほうをみつめた。昨日は夜中まで本を整理していてな、とつぶやく。

「あんた、運が良かったな」

 眼鏡をかけ直し、徳郎は再び煙草を口にくわえた。


 考えさせてほしい。反町がそう述べると、徳郎は鷹揚にうなずいた。電話番号を交換し、スイングドアを押し開けると反町は廊下へでた。徳郎は玄関まで見送ろうとしたが固辞した。車椅子のお年寄りに負担はかけられない。

 玄関へ足を向けたところで、背後から「反町さん」と声がした。ふりかえると、背の高い若者がジャージ姿で立っている。廊下は薄暗く、相手が誰なのか判断しづらい。

ひかるくんか」

 四年前、食品会社の副社長夫人が銃撃された事件があった。その一部始終を目撃したのが当時は中学生だった占木うらき光だ。

「奇遇ですね、ご無沙汰してました」

 成長期とはいえ光は大きく印象が変わった。銃撃事件について反町が聴取したときは、長い前髪に目元が隠れ、陰気な印象を受けた。会うたびに背が伸び、いつの間にか反町を追い越した。高校ではバスケ部に入部したらしい。髪もスポーツ刈りにし、すっかりたくましくなった。

「探偵みたいなこと、まだしてるのか」

「え? いや、あれはその」

 光は後頭部をかきながら「いろいろ、お世話になりました」と頭をぺこぺこ下げた。二重瞼の愛らしい瞳をぱちくりさせ、心なし頬を朱に染める。

 銃撃事件の後も、光とは何度か言葉を交わす機会があった。人が良すぎるのか、この少年は頼まれ事をされることが多い。半年ほど前にも騒動があり、事態をどう収拾すべきかアドバイスを求められた。ファミリーレストランに三時間も居座って、将来の進路について相談に乗ったこともあった。

「反町さん、なにか用事が?」

「ちょっとな」

 刑事である反町に気を利かせたのだろう、光は訪問理由をそれ以上は尋ねなかった。代わりに光のほうが事情を語った。週末に文化会館でフリーマーケットがある。年に一度、引っ越しシーズンの三月に催される。学校から生徒が何人かスタッフとして参加するのだという。

 光は高校三年生。三月も半ばを過ぎ、後は卒業式を待つだけの身だ。バスケ部の後輩に頼まれて手伝いをしているという。家々をまわって不用品を募る。体力のない高齢者に代わって物置の整理を手伝うこともある。売上は慈善団体に寄付するそうだ。

 うらきくーん。廊下の奥にある部屋から声がした。光が「すみません」と断り、その部屋へ向かう。

 残された反町は、気配を感じて目をやった。玄関のガラス戸越しに石畳の通路が望める。母屋へ向かう小柄な人影があった。離れに案内してくれた夫人だ。スモックだけでは寒いのだろう、カーディガンを重ね着している。憂えるように眉をひそめた横顔が、擦りガラスに遮られて見えなくなった。

 この家を反町が訪れるのは初めてではない。刑事部捜査一課に異動する前、反町は警備部にいた。十年近く前にこの家で警護をしたことがある。そのとき夫人とも挨拶をした。たしか、四方子という名前だったか。離れへ案内してもらったときの感触では、向こうは反町のことを忘れているようだった。

 寒露町へ越してきた直後、御倉徳郎は散歩中に何者かに襲われた。用水路へ転落し、骨折したことをきっかけに車椅子生活となった。現在に至るまで、徳郎を襲った人物は明らかになっていない。

 当時から反町は不思議に思っていた。再び襲われる可能性があるとはいえ、なぜ民間人をここまで厳重に警護するのか。神戸の事件が起こる前から、公安課は汐帆会の動きに目をつけていたのかもしれない。この家も、以前は汐帆会で高位にあった人物の住居兼修行場だったらしい。

 車椅子の徳郎を、四方子はひたむきに介護しているように反町の目には映った。おしどり夫婦のイメージを抱いていただけに、同僚から聞いた噂には耳を疑った。二人が結婚したのは寒露町へ越してくる直前だったという。

 四方子には離婚歴があり、長らく母子だけの暮らしを続けてきた。その娘との関係が悪化し、情緒不安定になった。汐帆会の信者である四方子は御倉徳郎の治療を受け、それがきっかけで交際を始めた。引退した徳郎が新生活を始めるにあたり、二人は結婚したという経緯らしい。

 徳郎は今年で八十五歳、四方子は二十歳近く年下だという。二人の間に子供はなく、徳郎のために雇ったホームヘルパーが通ってくる以外は、近所の者や親族との付き合いもろくにないようだった。世間一般がイメージする老夫婦とはどこか違う関係なのかもしれない。

(遅いな)

 光が戻ってこない。反町は手の平同士をこすりあわせた。

 よし、俺も手伝ってやるか。廊下を進み、奥の部屋のスイングドアを押し開ける。反町が部屋を覗くとシングルベッドがあった。こちらは寝室として使われているらしい。

 奥の壁は本ばかりだった。スチール製の書棚が天井近くまで壁面を埋めている。ビニール紐でくくった本の束があちらこちらに置かれていた。医学雑誌やハードカバーの書籍がほとんどだが、大学の赤本が混じった束もあった。

 室内にはジャージ姿の高校生たちがいた。数えてみると、女子ばかり六人。男子は光だけだ。爽やかな笑みを浮かべた光が脚立の最上段にいる。棚の高いところにあるハードカバーを十冊ほどまとめて両手に挟み、悠々と下ろす。それをツインテールの女子が、おっかなびっくり受けとる。見守っている他の女子たちが「占木先輩、すごーい」と小さく拍手した。

 どうやら退散したほうが良さそうだな。反町は小さく胸の前で手を左右にふった。その身振りに気づいた光がぺこりと頭を下げた。

(そういえば)

 廊下を進み、玄関で靴を履く。腕にかけていたダウンジャケットをスーツの上から羽織る。

(あの子はどうしたっけな)

 中学のとき、光には恋人のように仲の良い、幼なじみの女の子がいたはずだ。名前はなんだったか。光が高校生になってからは顔を見たことがない。また会ったときに訊くとするか。

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