第三話 殺意の処方箋
一 記憶を奪われた刑事
「別になんにも。ただ、こう思ったんですがね。これから先はさぞかし孤独だろうってね」
――リチャード・アーヴィング監督『刑事コロンボ 殺人処方箋』
会議室に入ると暗かった。入力信号がないことを告げるメッセージがスクリーンに映っている。反町は奥へ目をやった。スチール製の長机の向こう、背広を着た二人の中年男性がいる。一人がノートパソコンを操作し、もう一人がそれを後ろから覗きこんでいる。そのボタンじゃないか。どれですか。四角いの。ぜんぶ四角いですよ。
スクリーンの映像が切り替わった。デスクトップに大量のアイコンが散らばっている。「座ってくれ」
五本脚のオフィスチェアを引き寄せ、反町は腰を下ろした。嫌な予感がした。ヒラ刑事の反町が、捜査一課長の渋谷と対面で話をすることなど滅多にない。
「
「
反町が応じると、渋谷はうなずいた。
「会ったことは」
「ずいぶん前、警備課にいた頃に」
「それだけか」
「それだけですが」
どうかしたんですか。反町の問いに返ってきたのは沈黙だった。暗がりの中、渋面の射貫くような視線が反町を押さえつけている。反町はまばたきし、上司たちが言葉を続けるのを待った。
汐帆会が宗教法人の認可を受けたのは敗戦から間もない頃だった。戦前から三重県の北部を中心に活動していたが、七〇年代には行動経済成長期の新新宗教ブームにのって関西一円に広がった。宗派としては浄土真宗の流れをくみ、冠婚葬祭の支援や福祉事業、病院経営なども手掛ける。地域に密着した穏和な団体とみなされていたが五年前の事件で世評が一変した。
建造中の客船に火災が発生したと、神戸の造船所から通報があった。六時間にわたる消火活動の後、おびただしい数の焼死体がみつかった。当初は事故として報道されたが、造船会社の下請け社員による内部告発をきっかけに、客船が宗教施設として利用されていたことが判明した。事件から二週間後、百二十九名という未曽有の大量殺人を指揮および実行した人物として汐帆会の教祖が逮捕された。
「
釈迦河が口を開いた。反町より十歳ほど年上だが、話し方が穏やかで自然と人を和ませるところがある。
雲行きが怪しくなってきたのを反町は感じた。祐天寺警視は公安三課の課長だ。
「ニュースでやっていただろう、
十年前、当時十八歳だった時任涯奈は所属していたアイドルグループからの脱退を宣言した。大学も中退し、汐帆会へ出家するという。頭を丸刈りにして、ぼろ泣きしながらファンに謝罪する映像が話題となった。前後して女性週刊誌が、所属していた芸能プロダクションの社員によるセクハラ疑惑や、実母との確執を記事にした。汐帆会の施設に身を潜めた涯奈は取材にいっさい応じなくなり、一ヶ月ほどで報道は下火になった。
九〇年代後半、汐帆会は東日本の各地に支部を新設した。若い世代をとりこもうとしてカルト化が進んだと云われている。家族に無断で高齢者が高額の寄進をしたり、家出した未成年者が修行場とされる施設に「保護」されたまま帰らないといった問題が多発した。
神戸での事件後、脱会者が続出したものの汐帆会は活動を続けていた。関東地方では若い世代を中心に新しい宗教団体を作る動きがあった。その中心人物としてメディアの前に再び姿をさらすようになったのが時任涯奈だった。
今年の四月には、都内にある複数の大学でサークル活動を装って勧誘したことが問題視された。二週間前、涯奈の代理人とされる人物がレンタルしていた賃貸しマンションとコンテナが、凶器準備集合罪の疑いで家宅捜索の対象となった。その後、テロとの関わりを示す証拠が発見されたという報道はされていない。
「押収したUSBメモリから名簿がみつかった。名前や住所が二百人分ほど並んでいたそうだ」
釈迦河がマウスをいじっている。スクリーンに大映しされたデスクトップでマウスポインタが円を描く。
「そこに俺の名前があったんですか」
「そう急ぐな」
名簿には一人にひとつずつキーワードが記述されていた。数字と英語の小文字をランダムに並べた八文字から成る文字列。その隣には施術日という欄があり、いちばん古いものは四十年以上も前だった。USBメモリは発見されることを恐れるように隠蔽されていた。同じ隠し場所から名簿の売買に関する契約書もみつかった。
「名簿を売ったのが御倉だ」
御倉徳郎、元精神科医。汐帆会が運営する都内の総合病院に七十五歳まで勤務していたが、外来患者は担当していなかった。神戸の事件を巡り報道が過熱していた頃、御倉による治療を受けたと主張する人物の文章が匿名掲示板に投稿された。
それは記憶を奪われたという主張だった。暖房器具の不適切な取扱いにより自宅が全焼、妻と二人の娘を喪った。そのことをまったく覚えていない。汐帆会を信仰する母親から、催眠療法を依頼したと教えられた。妻子を亡くした精神的ショックで無気力状態に陥った息子を救うべく、火事にまつわる記憶をすべて封印してもらったのだという。
同じような噂を聞いたという書き込みが他にも数件あった。少なくとも御倉が催眠療法を専門とすることは事実だった。医学論文を検索できる海外のサイトで、御倉が複数の論文を発表していることが確かめられた。噂の真偽はともかくネットでは〝幻術使い〟という仇名が広まった。
「その名簿、御倉の治療記録ってことですか」
「恐らくな。ただ東京のほうでは、もっと夢があることを想像しているらしい」
マウスを操作し、釈迦河はアイコンをひとつ選択した。文書ファイルだ。
「ひとつ、実験させてくれないか」
「実験……ですか」
「名簿にはお前の名前があった。ただし、診療日は三十年も前だ」
鼻の頭をみつめるような目をしたまま反町は動けなくなった。覚えがなくもない。
「お前にこれから、名簿に載っていたキーワードを見せる」
「シャカさん、三十年前なら俺は五歳ですよ。見たことがあったとしても覚えているわけがない」
「わかってる。どうも東京では、このキーワードで記憶を回復させることができるんじゃないかと期待しているらしくてな」
反町は納得した。なるほど、たしかに夢のある話だ。警視庁の誰かは、汐帆会に都合の悪い記憶を消された患者の名簿ではないかと疑っているのだろう。それなら時任涯奈が大金を投じてまで名簿を手に入れた理由になる。しかし催眠術で記憶を奪えるということだけでも信じがたいのに、それをキーワードひとつで回復できるというのは本当だろうか。
「後催眠という現象があるそうだ」反町の疑問を悟ったのか、釈迦河が言った。
「特定の刺激をきっかけに催眠状態へ戻すことができるらしい。俺も疑わしいと思うが、試してみるだけならいいだろう」
「無理強いはしない」やりとりを眺めていた渋谷が、横から口を挟んだ。
「刑事としてではなく、一個人として判断してくれ。もし記憶を回復できるとわかれば、向こうの捜査がなにか進展するかもしれん。まあ、うちの手柄にはならんだろうがな」
話が見えてきた。釈迦河が乗り気でない様子なのはこのせいか。これは公務ではない。東京にいるお偉いさんの思いつきに付きあわされているだけだ。たまたま反町は名簿に載っていた。同じ警察関係者なら口が固い。試してみるにはうってつけというわけだ。
「おまえだけじゃなく、他にも何人か頼んだらしい」
「そっちの結果はどうだったんですか」
煙をかき混ぜるように、渋谷は宙で手をふった。「空振りだったとさ。だから、気楽にな」ふった手を、ぺたりと机上に伏せる。
「……やります」
やがて告げた反町の言葉に、釈迦河は無言のままアイコンをダブルクリックした。文書編集ソフトウェアの起動画面が長々と表示され、やがてランダムな文字列としか思えないアルファベットと数字の列がスクリーンに浮かんだ。
息を詰め、しばらく反町はそれをみつめていた。
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