十 大人になりたい

 アスファルトに降り立つ。睡眠不足のせいか、刺すような頭痛が走った。こめかみを押さえながら朱路はスライドドアを開けた。後部座席からスポーツバッグを手にとる。

 ふりかえって駅舎の様子をうかがう。月曜の早朝、背広姿の通勤客が多い。「ちょっと早かったね」運転席の母が腕時計を眺めていた。

「行ってくる」

 いってらっしゃい。そう母に告げられても、そのまま朱路は立ち尽くしていた。

「母さん」

「なに?」

「……忘れた」

「忘れ物?」

 なにを言うつもりだったか忘れた。朱路は力を込めて、スライドドアを閉ざした。

「そういえば、お祖母ちゃんにお参りした?」

「アー、それも忘れた……」

 しっかりしなさいよ、成人したばかりだってのに。母が呆れ顔になった。

「あのさ」スポーツバッグを肩に掛けなおす。「今年は、お盆も帰ろうか」

 数回、母はまばたきをした。答えを待つように朱路は母の顔をみつめている。

「どうしたの、急に」

「いや、帰ったほうがいいかなって」

「どっちでもいいわよ」

「どっちでもねえ」

「あんたのしたいようにすればいいじゃない」

 家族の優しさはたいがい理不尽だから。

 それを黙って受けとめられる、大人になりたい。

「わかった」

 いってらっしゃい。ハンドルから手をあげ、母が小さく手をふった。一度だけ朱路がふりかえると、軽ワゴン車は路肩を離れ、遠ざかっていくところだった。

 待合室に併設された地方土産のコーナーを物色した。なにも買う気にはなれなかった。幼い頃から見飽きたものばかりだ。椅子に座り、テレビのニュース番組を眺めた。

 到着五分前のアナウンスが流れた。スポーツバッグを肩に掛け、歩きだす。改札口で女性の駅員に切符を渡す。跨線橋を渡り、ホームに立った。指定席の車両の番号札を探していると、胸元が震えた。ブルゾンのジッパーを少しだけ下げる。

 携帯電話を開く。メールが来ていた。件名は〈いったっけ?〉。手の動きを一瞬止める。カチカチとボタンを押すと、画面が少しずつスクロールした。

 大学、地元に決めたって話、したことあったっけ。一行だけの本文をみつめる。気がつけば、いつもの調子で指が動いていた。〈知らなかった〉。件名だけのメールを送る。

 顔を上げると、澄み切った冬の空が広がっていた。風はない。それでも冷気が肌から離れない。朱路は急いで指を動かした。〈どこでも頑張れ〉。二通目の返事を送る。

「フラれたか」

 特急列車が間もなく到着するというアナウンスが流れた。手にしたままだった携帯電話が、また震動する。〈アイアイサー〉。件名のみ、本文はなし。

 遥か遠くから列車が近づいてくる。携帯電話のディスプレイをみつめながら、朱路は唇をほころばせた。

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