九 死体はありません
半分に欠けた月が、流れる薄雲に隠れた。ブルゾンを着ていても冷気が容赦なく忍びこんでくる。朱路は身体を横にすると、生け垣の隙間へ身を捻じこんだ。枝が頬をひっかき、うなじをくすぐる。右手にぶらさげたシャベルが重い。
縁側は雨戸が閉ざされていた。二階の窓は、常夜灯らしきオレンジの光がカーテン越しに見える。あけびの姉は、高校卒業後は市役所勤めをしている。部屋は二階だったはずだ。きっと眠っているのだろう。
あけびはどうしているだろう。まだ受験勉強をしているのか。日曜の夜だ、早めに眠ってくれているといいが。あけびの母は看護師のため帰りが遅いことが多く、おたがい眠りを妨げないよう寝室は離ればなれにしているらしい。好都合だが、それでも音には気をつけよう。
物干し台の横に立つ。ぐるりと周囲を見渡してみる。思いがけず、広い。自分のしようとしていることの無謀さに
「――なにしてんの、ジの字」
雨戸を半分開けて、マグカップを手にした寝間着姿のあけびが立っていた。シャベルの先を土にめりこませたまま、朱路は動きを止めた。
アニメ映画のポスターが、女性ボーカリストのポスターに代わっていた。色違いのカラーボックスが二つ並び、文庫本やマンガが乱雑に詰めこまれている。この部屋に来るのは何年ぶりだろう。六畳の和室を見渡しながら朱路は思った。
「で、努さんがウチのお父さんを殺しました。めでたしめでたしじゃなかったの?」
勉強机の前に座るあけびが、ココアの入ったカップを傾ける。ラズベリー色に白い水玉模様のパジャマ、白いカーディガンを肩に掛けている。なぜか椅子の上で膝を抱え、体育座りをしている。
「おまえなあ、それのどこがめでた――」
畳の上に正座を命じられたまま、朱路は声を荒げようとした。「静かに、お母さんたち起きちゃうじゃない」そう言われてしまうと黙るしかない。
「そんなこと訊いてないから。私、ジの字がどうして夜這いかけに来たのか、理由を尋ねてるんだけど」
膝に両方の握り拳を揃え、朱路は短く唸った。数時間前の出来事を思い返す。森澄が去った後、あけびにどう説明すべきか悩んだ。せめて母と話しあってからかと煩悶したが、森澄が残した言葉が気になった。
「懐中電灯に小石が詰まってたんだ」
あのときは思考停止に陥ったが、今なら犯人がわかる。森澄だ。
「夢遊状態なら同じ行動をしゃにむにくりかえす。森澄は昨日、電池を小石とすり替えることで、親父が本当に夢遊状態か確かめようとしたんだ」
懐中電灯が点かなくても、まるで点いているかのようにふるまったなら夢遊状態だと判断できる。わざわざ小石と入れ替えたのは、重さが違うと不自然だからだろう。朱路はその光景を目にしていないが、森澄が確信していたのだから、やはり父は点灯しない懐中電灯をそのまま使い続けたのだろう。
「それから、傘がないのに傘を差そうとした」
「なにそれ?」
「前は勝手口に黒い傘を置いていたんだ。今はビニール傘で、置く位置も変わった。なのに親父はまるで見えない傘があるみたいに、それを差すしぐさをした」
一昨日、朱路が散歩のあとで野久家を訪れようとし、勝手口にいた父をみかけた。父は優勝旗でも掲げるように、右手を腰の前に、左手を上へあげるしぐさをした。
朱路は中学と高校では剣道部に所属していた。そのせいか父のしぐさを、刀の鞘を抜く動作だと勘違いした。五味木元刑事の話によれば十五年前の事件で日本刀も盗まれたらしい。だが天藤貴音は無実であり、盗品は持っていなかった。赤尾家に刀などあるはずがない。あれはもっと簡単なことだった。傘を広げようとするときのしぐさだった。
「あと、バットだ。納屋に入ると、すぐそこに俺の金属バットがあるんだ。不審者が忍びこんだと勘違いしたなら、親父はどうしてバットを使わなかったんだ? 懐中電灯なんかで殴らなくても……」
バン、とあけびが机を手の平で叩いた。机に置いていたカップからココアが跳ねる。
「あー、もう! 小石だの傘だのバットだの、それがどうしたってのよ! ジの字がウチに忍びこむ理由になんかなって――」
「もうひとつある。ダウンジャケットだ。親父はダウンジャケットを着ていた」
「それがどうしたってのよ。寒いんだから当たり前じゃない!」
「洋司さんがいなくなったのは、夏だ」
椅子のきしむ音がした。なにかを言いかけ、口を半開きにしたあけびが動きを止めた。朱路はふくらはぎを揉んだ。正座のせいで痺れがきている。
「親父は夢遊状態だった。心の傷を受けたときの行動を無我夢中でくりかえす。だから懐中電灯が点かなくても気づかなかった。洋司さんが行方不明になった日は、夕方から雨が降った。ありもしない傘を差そうとしたっておかしくはない。雨空なら納屋の中は暗くなるだろうから、懐中電灯を持っていくのも当然だ。だが、バットはなぜだ? あれを買ってもらったのは俺が小学四年のとき。洋司さんの事件のときにはあった」
「凶器としては危なすぎるからじゃない? それで本当に殴っちゃったら大変なことになると思って」
「ダウンジャケットは? 洋司さんの死体は夏の服装だった。殺人は夏に起きたんだ。親父が洋司さんを殺したなら寒さを感じるはずがない。温かい格好をしようなんて発想は思い浮かぶはずがないんだ……」
全身から力が抜けた。朱路は話し続けながら後ろ手をつき、足を横に崩して
「親父が心を病んだのは、洋司さんの事件のときじゃない。たまたま八年前、洋司さんの事件があった後でお袋が会社を辞めた。家にいる時間が長くなって、それで親父の異常な行動に気づいた。本当は、ずっと前から夢遊状態は始まってたんだ」
「朱路の、叔父さんのこと?」
「だろうな。十五年前、貴音さんは盗難事件の犯人だと疑われ、ここへ逃げてきた。そして納屋に身を潜めたのを、親父は泥棒かなにかと勘違いして……殺してしまったんだ」
自分の言っていることが自分でも信じられない。十五、引く八。七年間もの長きにわたって父は異常な行動を毎日のようにくりかえしていたのか。
だが、話はこれで終わらない。本当に異常な話はここからだ。
「洋司さんを殺したのは多分、婆ちゃんだ」
「峰子さん? でも、峰子さんって寝たきりだったんでしょ?」
「ああ。だから、親父に殺させた」
昨日の夜、朱路が納屋の二階でみつけた本。向田邦子のエッセイ集は祖母が読みたがっていた本だった。
「婆ちゃんはなにもする必要はなかった。ただ頼むだけでよかったんだ。洋司さんに、納屋の二階へ行って本をとってきてくれって。洋司さんは庭造りや畑のことで婆ちゃんとよく会話していた。腰を悪くして起きあがれない婆ちゃんが、それくらいの頼みをしたって不自然じゃない。午後六時にタイミングを合わせさえすればよかった」
もし父の病を知っていたとしても、小学生だった兄にこんな発想は無理だろう。母が犯人なら、野久洋司の死体を棚の下敷きにしたまま放置するわけがない。腰を悪くしていた祖母だからこそ、事後の始末を完遂することができなかった。殺人計画としてはあまりにも無謀だ。野久洋司が逃げたり、大声で助けを求めただけで発覚してしまう。父の衣服に返り血が残ったかもしれない。だが、祖母には他に手段がなかった。
「ジの字、やっぱりバカだね」
ココアに息を吹きかけていたあけびが不意に沈黙を破った。いつの間にか、髪が左側だけぐちゃぐちゃになっている。
「なにがだ?」
「峰子さんの殺意を証明できてない。それって可能性だけの話でしょ?」
「……洋司さんが行方不明になった日、婆ちゃんは本をとってきてくれと頼んだことを打ち明けていない。あえて隠したんなら、それは悪意があったからだ」
「それは、そういう頼みをした事実が本当にあったと証明されていればの話でしょ?」
あけびの反論をゆっくりと咀嚼する。口をへの字にして朱路は唸った。言われてみれば、そのとおりだ。
納屋の二階に『夜中の薔薇』があったことはなんの証拠にもならない。むしろ逆だ。午後六時に父がやってくるまで洋司を納屋へ釘づけにするには、あの部屋に存在しない本を探させるほうが確実だ。存在するかもしれない本を頼んだら、父が襲ってくる前に本をみつけて納屋から戻ってきてしまうかもしれないのだから。
「ジの字、あんたがどうして殺人だと思いこんだか教えてあげよっか。天藤貴音さんの死体がウチの庭にあると思ったんでしょ」
「……言い忘れてた。動機の問題がある」
「いまさらダメだって。説明の順番、完璧に間違えたね。努さんが貴音さんを殺してしまった。その死体はどこに消えたのだろう。そういえば十五年前なら野久家はまだ越してきてなかった。ここらは更地だった。だったら、この土地のどっかに貴音さんの死体を埋めたのではなかろーか」
十五年前、天藤貴音が殺された事件に恐らく母は関わっていないだろう。父は祖母と相談し、死体を埋めて事件を闇に葬ることを決意したのではないか。母は、弟の貴音と顔がよく似ていたという。貴音を殺してしまった父はまるで母を殺してしまったかのような錯覚を覚えたのかもしれない。それが夢遊状態という異常な行動を招いたのか。
「ウチのお父さん、庭に池が欲しくて地面を掘ろうとしてた。峰子さんはおしゃべりしてて、そのことを耳にしてしまった」
「つまり、動機がある。婆ちゃんは過去の事件が明るみにでるのを避けたかった。けれど寝たきりで身体が動かない。だから親父の病気を利用した」
こんな馬鹿げたことがあるものか。十五年前、無実の罪を着せられた叔父。それが巡りめぐって理不尽さを押しつけあうかのように二人の人間が命を落とし、呪いのように二つの家族を苦しめてきたというのか。
まるで名探偵のように、森澄が母を許した? 違う、あいつは厄介事に関わるのを避けただけだ。実の弟が夫に殺されたかもしれないのにそれを明かさなかった。殊勝な顔で謝罪までして、不条理な苦しみを受けている母を見捨てた。ふざけるな、母の人生をなんだと思っているんだ。
「だから、ちがうんだってば」
「ちがうって、なにが」
「死体を埋めたなんてジの字の妄想じゃん。貴音さん、ホントは軽傷で済んで、どっかよその土地で生きてるかもしれないよ? 努さんは意外とナイーブで心の病気になっちゃった。ほら、これでも理屈は通るでしょ?」
「そうだ、そうなんだ。だから俺はここへ来たんだ」
帰省は明日の朝までだ。もちろん、そのうち連休にでも戻ってくる手もある。だが朱路は決着をつけずにはいられなかった。野久家の庭は広く、十五年も前に埋められた死体をみつけるのは難しい。それをわかっていても動かずにいられなかった。
森澄の言うとおりだ。推理は、実証しなければ意味がない。朱路はあけびの顔を見上げた。拳を膝に打ちつける。
「掘るぞ。あの庭、本当に死体なんて無いって納得できるまで、ぜんぶ掘ってやる。おまえは俺のこと馬鹿だと思うかもしれんがな、でも俺だって」
ホント、バカだねジの字は。眠そうに瞼を細め、あけびは膝に頬を埋めた。
「棚が倒れたこと、忘れてない? 峰子さんは起きあがれなかったんだし、努さんは夢遊状態だったんだから、それはわざとやったわけじゃないってことになるよね。棚が倒れたせいで、お父さんはずっとみつからなかった。そんな偶然って起こると思う? ひょっとしたら警察の見解どおり、棚が倒れてくる事故が起きたからお父さんは死んだだけで、努さんの病気はぜんぜん関係してない可能性だってあるんだよ。それに、それに……」
小声で、あけびはつぶやいた。
「そんなん、私、小五のときからやってるっつうの」
腕を伸ばし、あけびはカップを手にとるとココアを飲み干した。椅子から足の爪先を下ろし、立ちあがる。両腕を天井に突きあげ、思いっきり伸びをした。カーディガンが肩から滑り落ち、畳の上へ落ちる。
朱路は口を半開きにしていた。「ちょっと待て」幼なじみの言葉が、何度も頭の中を駆け巡る。
「おまえ、なんて言った? 小五から、なにをしてるって?」
「私、もう眠いから帰ってくれる?」
「そこで話を逸らすな!」
あけびが不意に腰を落とす。「だからさ、」朱路の目の前に、小さな顔が下りてきた。
「ずっと想像してたの。お父さん、きっと朱路の家の誰かに殺されたんだって。貴音さんの事件のことも知ってたし……小学生の考えそうなことでしょ?」
庭のどこかにある猫の墓。赤尾家には死体を埋めることができる、土が剥き出しの場所がない。かつて盗難事件の犯人と目された男が、今も行方不明のままみつからない。庭に池を造ることを隣人に話していたら行方不明になった父親。
簡単な足し算だ。ミステリの好きな女の子の、ちょっとした思いつき。こわい妄想。
「苦労したんだからね。朝顔から始めてさ。なんだかんだ理由つけて紫陽花の植え替えして。私がどんだけあの庭、ほじくりかえしたと思ってんのよ。あの頃ね、よくジの字にくっついて離れなかったの、そのせいもあったの。なにか真相を知るヒントをぽろっと言うんじゃないかって」
まあ、そんな空想、中二で卒業したけどさ。おまけのように言い足す。
「おまえ……どうして話してくれなかったんだ」
「だって朱路は敵じゃん。あ、空想の中の、敵の役って意味ね」
「それって、寂しくなかったか」
真上から拳骨が落ちてきた。あけびの頬が、かすかに赤くなっている。
「あー、もう、やめやめ! こんな変な話、これでおしまい!」
喉の奥から、ぐっと熱いものが込みあげる。身を乗りだし、朱路はまっすぐにあけびの瞳を見据えた。
「やっぱり決着つけよう。男の俺なら、もっと早く掘れる。どれだけかかるかわからんが、夏休みにでも帰ってきて頑張れば――」
「ほら、ジの字は頭悪いんだから、ちゃんと勉強しなさい」
なだめるように、あけびが朱路の両肩をポンポンと叩く。
はい、この話はこれでおしまい。私のウチに、死体なんてありません。
「ね?」
数センチ先に懐かしい顔があった。
なんの苦労も知らなさそうに屈託なく笑う、無邪気な女の子の笑顔だった。
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