八 家族を守る

 土埃に煙る窓ガラスは深い紺色に染まっている。暗闇の中、背の高い影法師が立っていた。ロングコートを着た長身の、血の気の薄い顔が細いペンライトに照らされている。薄い唇を結び、穏やかな微笑をたたえたまま、相手の言葉を待ち続けている。

「私は――」

 夕夏は唇を開いた。物憂げなメロディーは二番の終わりまで来ている――さあ、楽しい夢をみよう。

「多分、病気なの。心の。きっと私、頭がおかしいの」

「具体的には、どんな?」

「雷の音にショックを受けるみたい」

 中学生のとき、ロシアのチェルノブイリ原子力発電所がメルトダウンする事故があった。当時はソビエト社会主義共和国連邦という国名だった。日本でも放射性物質が混じった雨が降り、騒ぎになった。

「帰り道で雨に降られると、癌になるかもしれないって走りだしたりして……友達とふざけてたつもりだったけど、心の底では不安だったのかもね」

 うつむき、暗い床をみつめる。話しながら、父に相談したときの記憶を夕夏は反芻した。

「気がつくと、家にいたの。中学を卒業するまでに三回あった。一度は学校の授業中で、私はちゃんと先生に、気分が悪くなったから帰りますって告げたらしいわ」

 記憶の中にある、父のとまどった顔。あのときと同じように口が勝手に動く。学校や帰宅途中の記憶が途絶えていること。濡れた制服を洗濯籠へ放りこみ、着替えて家の中で呆然としていたときの不安な心持ち。

「突然、気づくの。あれ、どうして家にいるんだろって。不思議な気持ちだった。ずっと落ち着いていたけど、八年前にひさしぶりに起きて」

「なるほど、そうでしたか」

 探偵はペンライトを指先で弄んでいた。小さな光がメトロノームのように室内を左右に飛び交う。「でも、夕夏さん……それ、作り話ですよね?」

 こんなことを言われたとき、普通はどんな反応を返すものなのか。夕夏はわからなかった。わからないから、返す言葉がない。

「いえ、根拠はないんです。たとえば、さっき夕夏さんは自分の頭がおかしいと言いましたけど、そんな強い表現を自分に対して使うのは普通ならためらうでしょう。あと、夕夏さんのお父さんは医者なのに、どうして中学生のうちに相談しなかったのか、とかね」

「それは」

「最大の理由は、表情です。夕夏さん、必死な顔になってますよ。絶対に家族を守りたい。そんな顔をしています」

 突風でも吹いてきたかのように、夕夏は一歩後ずさった。口元をおさえ、吐き気をこらえるように背中を丸める。

「もうバレちゃったと思いますけど、依頼人は天藤富士夫ふじおさんです」

「どうして父が」

「心配されたからですよ。八年前に夕夏さんが富士夫さんに相談したその悩み、ボクは富士夫さんから教えてもらいました。納屋から白骨死体が発見されて、娘のあなたにまた精神的な問題が起きていないか心配したんです」

 野久洋司の事件を口実に、森澄は夕夏の元職場の同僚や知人たちから話を聞いた。そのうえで赤尾家を訪問した。家の前へ来たところで、二階の窓が目に入った。

「どうして本棚で窓を塞いでるのか不思議に思いました。そのとき、学校放送を止めさせようとしたエピソードを思いだしたんです。ひょっとして、これはなにか関係があるんじゃないか」

「それだけの理由で勝手に二階へ上がったの?」

「性分なんですよ」森澄の声には照れくささが混じっていた。「整理してみましょうか」

 夕夏は八年前、雷の音をきっかけに一種の夢遊状態で行動してしまうことがあると父親に相談した。だが森澄が聞いてまわっても、それを裏づける証言はでてこなかった。

 学校放送を止めさせようとしたこと、日射を犠牲にしてまで書棚を置いたこと。森澄はこれらを結びつけ、心の病を抱えているのは夕夏本人ではなく他の誰かであり、書棚は夢遊行動のきっかけになる音を遮るためだという仮説を立てた。

「ほらね? その気になれば、誰でも思いつくことなんです」

「でも普通の人は、見知らぬ他人の家で勝手に本棚を触ったりなんかしない」

「本人である夕夏さんに許可をとるわけにいかなかったり、ちょうど学校放送の時間が近づいていたりといった言い訳はできるんですが……ごもっともです」

 だけど推理って、実証しなきゃ意味がないですからね。そう言って森澄は、口の端からペロリと舌先を覗かせた。

「そんなわけでボクはもう、夕夏さんがなにを隠そうとしていたのか秘密を知っているんです。一昨日と昨日、二回も実験しましたからね。赤尾努さんは午後六時に流れる学校放送を耳にすると、納屋に何者かが侵入したと思いこんで確認しに行く。本当は存在しない侵入者を懐中電灯で殴り、その後は自分のしたことを忘れてしまう……」

 森澄の声に耳を傾けながら、夕夏は瞼を細めて八年間の歳月を思い起こした。

 初めはどういうことなのかわからなかった。保険会社を退職し、家にいる時間帯が長くなった。夕方になると、決まって夫が納屋へ行くことに気づいた。数分で戻ってきては何事もなかったように映画の続きを観ている。不審に思い訊いてみても、まるでとぼけているかのように答えない。

 軽い気持ちで後をつけた。暗い納屋の二階で、恐ろしい形相をした夫がなにもない空中に懐中電灯をふりおろしている。その姿を目にしたとき、世の中すべてが崩れ落ちてしまったかのようなショックを受けた。部屋の中へ飛びこんで夫の手を止める勇気はどうしても湧かなかった。

 かつて結婚を反対された父に、ありのままを打ち明けることはできなかった。自分のこととして「雷の音にショックを受ける」という話をでっちあげたが、精神科を受診するよう勧められただけだった。やがて午後六時の学校放送がきっかけになっていると気づいた。PTAの懇親会で朱路の担任に相談してみたが、周囲の人たちが怪訝な顔をしているのを悟ってやめた。

「そして最後に、本棚で音を遮るという回避手段を思いついた」

 うっとりと切れ長の瞳を細め、森澄は優しい子守唄を口ずさむように告げた。

「野久洋司さんの死体が、棚の下敷きになっていることは気づきませんでしたか」

「知らなかった」浅く息を吐く。胸に鈍い痛みが走った。

「私が知っているのは、これだけ。本当にあの人が洋司さんを殺してしまったのか……私には、わからない」

「そうですか。じゃあ、そこは伏せて、富士夫さんにはあなたが大丈夫そうなことだけ伝えておきましょう」

 虚を突かれた思いで、夕夏はじっと森澄の顔をみつめた。


 開け放したままの引き戸の向こう、暗闇にぼんやりと母の横顔が見えた。両親の寝室に常備している、細身の懐中電灯を手にしている。朱路はすでに携帯電話を閉ざし、闇の向こうから響いてくる森澄の声に耳を傾けていた。

「ありのままを報告しても意味がないですからね。ボクが依頼されたのは夕夏さんが元気かどうか確かめることだけで、野久洋司さんの事件は範囲外です」

「でも、」

「物的証拠もありませんし。精神科医なら、努さんを診察して夢遊行動をとることまでは認めるかもしれません。ですが、それが野久洋司さんを殺害したことに起因する症状とまでは断定できないでしょう」

 母が、またなにか言いかけた。「それに」森澄が強い調子の声で遮る。

「素人考えですけど、洋司さんになにか恨みがあって殺したなら、あんな夢遊行動はしないと思いますよ。不審人物だと勘違いして死なせてしまったからこそ、後悔だとか、ただの悪夢だと信じたい気持ちが混じり、ああいう症状になったんじゃないでしょうか」

「ありがとうございます」

「いいえ、ごめんなさい。謝るべきなのはボクのほうです」

 声の位置が低くなった。森澄が頭を下げているのだろう。

「依頼されてないことまで首を突っこんで、夕夏さんを不安にさせた。本末転倒ですよ」

 話が終わりかけている雰囲気を察し、朱路は身を翻した。手前の部屋の戸口へ身を隠すと同時に、背後から物音がした。母の足音がゆっくりと階段を下りていく。ややあって、もう一人が戸口に立ち尽くしているのを感じた。ハア、と短い溜め息が聞こえた。

「うまくいかないな」

「なにがだ?」

 部屋からでると同時に二つ折りの携帯電話を開く。ディスプレイの明かりに、目を丸くした森澄の顔が照らされた。こいつでも驚く顔ができるのか。

「びっくりしました。今日は夜まで、友達の家で遊んでるはずでは?」

 本棚の貼り紙は朱路に宛てたものではなかった。母と会話するため森澄が貼ったのだろう。二度あることは三度ある。また書棚から本を抜かれるかもと、母が二階へ確かめに来ることを森澄は期待したのか。

「ちょっと気分が悪くなってな」

「今は?」

「最悪だ」

 父親は殺人犯かもしれず、母親はそれを知りながら八年も黙っていて。なのに、なぜだろう。口元が緩むのは。この不思議な安堵感はいったいなんだろう。

「念のため忠告しときますけど、他言無用ですよ」

「わかってる」

「あけびさんにもです」

「それは、考えさせてくれ」

 こんな話をすれば、赤尾家は野久家から憎悪の目を向けられるだろう。悪くすれば裁判沙汰だ。だが、それでいいと朱路は思った。ツケを払うべきだ。

「おまえ、意外と良い奴だったんだな」

 なにか森澄は反射的に言い返そうとした。しかし急にそっぽを向いた。ペンライトの明かりも届かず、その表情は闇に消えた。

 成人式の後、喫茶店で交わした会話を思いだす。野久洋司の事件を調べるふりをして、森澄は母の精神状態を確かめようとしていたのか。

「……笑わないでくださいよ」しばらく森澄は、うつむいてペンライトを点けたり消したりしていたが、やがて言葉を続けた。

「推理小説の中の名探偵みたいにやりたいんですけど。でも、なかなかね」

「できてたさ。たしかにさっきのは推測が多かったけどな。あまりミステリーを読んだことはないが、真実を知って、それでも罪を許すなんて名探偵らしかったぞ」

 俺もこいつに礼を言うべきだな。そう思いかけたとき、森澄がふりむいた。

「あのダウンジャケット、良い色でしたね」

 唇を片方だけ歪め、森澄はなにか含みのある感じで微笑んでいる。艶っぽい表情は、これまで朱路が目にした森澄の顔の中で、もっとも女性らしかった。

 ダウンジャケットって、親父が着ていたやつか。問い返そうとしたが、森澄は階段を下りていくところだった。「なあ、ひとつだけ教えてくれ」背中に朱路が声をかける。

「洋司さん、どうしてウチの納屋へ勝手に入ったんだ」

 さあ、ボクの知ったことじゃないですからね。声だけを残し、背の高い影法師は闇へ沈んでいった。

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