七 狂っているのは

 つまみをひねる。抵抗する力が手首に溜まり、一気に解放される。青白い炎が点り、薄暗い台所の一隅を照らす。やかんをのせると朱路は火の大きさを調整した。食卓の椅子を手前に引き寄せ、腰を下ろす。自然と長い溜め息がでた。

 刑事、いや、元刑事と会う約束をしたのは今朝のことだった。十五年前、朱路はまだ四歳だったから、そのとき言葉を交わした記憶はもはや無い。中学のとき、母が箪笥たんすに保管していた名刺をみつけた。五味木ごみきという珍しい名字が印象的で覚えていた。警察署に電話すると、案外親切に取り次いでくれた。

 手を伸ばす。食卓の隅にあった新聞をつかんで広げる。色とりどりの折り込み広告をめくっていく。裏に印刷がないものを引き抜き、ボールペンを走らせる。

 十五年前。二月に東京の貸倉庫から古美術品が盗まれる。母の弟、叔父の天藤貴音が失踪し、全国に指名手配される。

 十二年前。三月に野久家が越してくる。叔父の無実が証明されたのはそれから二ヶ月後だった。

 八年前の夏。野久洋司が行方不明になる。赤尾家の納屋で人知れず命を落としていた。

(違うのか)

 ボールペンを転がす。チラシの裏に整理した時系列をみつめ、人差し指でトントンと卓を叩き続ける。野久洋司が隣家の納屋に無断で入った理由。それは天藤貴音が盗んだ品を探そうとしたからではないかと想像していた。だが、どうやら違うようだ。

 野久家が越してきて、その二ヶ月後に叔父の無実が判明した。当然、この辺りでは大きな話題となっただろう。盗みとはいっさい関わりがなかったことが強調されたはずだ。だとすれば納屋に盗品が隠されているなどと洋司が想像したはずがない。

 そういえば小学生のとき、あけびから訊かれたことがあった。朱路の叔父が〝高飛び〟したのは本当かと。アニメで覚えた言葉が、自分の身近なところで本当にあったと知って興味を覚えたのだろう。高飛びはしたが、無実だったと教えてやった記憶がある。

 沸騰する音に思考を妨げられた。温めなおすだけのつもりだったお茶が煮えたぎっている。慌てて火をとめた。取っ手のついた磁器製のカップに半分ほどまで熱いお茶を注ぎ、台所を後にした。

 湯気のあがるカップに息を吹きかけながら階段を上る。今日は五味木元刑事と昼過ぎまで会話し、それから友人宅へ向かった。夜まで飲み交わすつもりだったが「おまえ顔色が悪いぞ」と心配され、帰ることにした。たしかに気分が悪かった。自分の足元が小刻みに揺れているような、覚束なさが続いている。

 依頼人が納得できる話を作ればいい。喫茶店で森澄はそんなことを言っていた。あけびは、どんな真相なら納得するだろう。納屋へ無断で入ったのは、帰りが遅い娘を探したからだ。そう告げるべきだろうか。あいつはそれをどんな気持ちで受けとめるだろう。

(わからん)

 二階に着く。襖を開く。

 お茶を吹きだしそうになった。

 南側の壁を塞いでいる書棚。本の並びは見たところ昨夜と変わりない。ただひとつ、明白な違いがあった。メモ帳から破りとったのだろう、目線の高さに貼り紙がされている。

 お話しさせてください。納屋で待っています。ブルーインクで流麗な字が綴られていた。

「あの野郎……」

 いや、野郎かどうかはわからないが。


 陽が沈んだのだろう、すっかり暗くなっていた。納屋の木戸を閉ざし、手にした懐中電灯のスイッチを入れようとして苦笑した。

(電池、切れてるだろうが)

 自転車の間を通り過ぎる。板間に足をかけたところで、遠くから銃声が聞こえた。ハッとふりかえり、神経を研ぎ澄ます。ヘリコプターのローター音、英語の叫び声。父が観ている映画の音らしい。暗いせいか物音に敏感になっているようだ。

 朱路は息を潜めた。足音をさせないよう忍び歩く。三度目の侵入者と間違われ、父にぶん殴られるのは割に合わない。階段を見上げる。かすかな声がした。

「……んなわけで、いろいろ……ました」

 森澄だ。声の方角からすると、死体が発見された部屋にいるらしい。階段を三段目まで上がる。遠く、かすかに懐かしい音楽が聞こえ、朱路は足を止めた。

「……ちょうど時間ですね……かしましたか?」

 誰かが、なんでもないと答えた。母の声だ。二階にいるのは森澄だけではないのか。眠りへ誘うようなゆったりとしたメロディーに包まれながら、耳を澄ます。くぐもった話し声が聞こえる。聞きとれないほどの密やかな声で、たしかに、なにかを。

 階段の、次の段に足をのせる。慎重に体重を移動させる。聴覚が、かすかな違和感を捉えた。手にしている懐中電灯を、まじまじとみつめる。右へ傾け、左へ傾ける。小さな音がした。中に入っている電池同士がぶつかりあう音にしては、なにかが違う。

 握りの部分の終端にある、電池カバーを回す。カバーが外れる。覗きこむ。暗いせいで、よく見えない。懐中電灯を傾ける。手の平に、ぽたりと塊が落ちる。しっとりした重さと冷たい感触。

「さて」

 携帯電話のディスプレイを手の平に向ける。淡い灰色の小石が照らされる。朱路は目を凝らし、再び筒の中を覗きこんだ。みっちりと、電池の代わりに小石が詰めこまれている。

 私、頭がおかしいの。母の声が聞こえた。

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