五 真相は知っていた
玄関の明かりを目にすると同時に、頬に冷たさを感じた。暗い夜道に小雨の降り始める音がかすかに響く。朱路は小走りに玄関へ駆けこんだ。
ただいま。小さくつぶやき靴を脱いでいると、トイレから水を流す音がした。「よお、おかえり」父が、人をからかうような笑みを浮かべている。廊下に立ち尽くし、しばらく言葉を交わした。
「あの野郎、また来やがったぞ」まずいものでも食べたような顔をして父が言った。
「森澄?」
「そう名乗ってたな。おまえの友達だとか言ってたが、本当か?」
「まあ、知り合いかな」朱路は苦笑いした。
「ならいいが」
「なにか訊かれた?」
「いや、また納屋に忍びこんで……そういや、なにしてたんだろうな」
首を傾げながら父は廊下を去っていった。ブルゾンを脱ぎつつ朱路は階段に足をかける。文化センターで森澄と別れた後、バスで公民館へ移動した。小学五年と六年のときの担任に、期待はしていなかったが駄目で元々と思い話しかけてみた。
森澄の言葉は事実だった。母は、午後六時に放送される「遠き山に日は落ちて」を止めさせようとしたことがあった。会社を辞めた母はPTAの役員を二年間だけ務めた。担任は二学期初めの懇親会で、放送を止めるか、他の曲に変えることはできないか相談された。理由を尋ねると「夫が嫌いな曲のようなので」と答えたという。
喫茶店で会計を済ませながら、森澄は説明した。放送を止めさせようとしたことは母の知人から聞き知ったという。懇親会で母が担任に相談をしている場面をたまたま見かけた。母に対して口数の少ない大人しい人という印象を抱いていたので、突拍子もない申し出が印象に残ったらしい。
(それがどうしたんだ)
恐らく父は映画を観賞しているときにあのメロディーが聞こえてくるのを耳障りに感じていたのだろう。愚痴を聞かされた母は試しに相談してみたのではないか。
わからないのは森澄の意図だ。母の知人は、雑談のつもりで母の人となりについて逸話を披露しただけだろう。野久洋司の事件に関係するとは思えない。なぜ、わざわざ朱路に話す必要があったのか。
二階に着く。ネクタイを緩めながら板張りの廊下を進み、襖を開ける。暗がりの中、畳の上を歩いて照明スイッチの紐を引く。壁いっぱいの書棚が目に入った。
(ん?)
なにかが、おかしい。
無数に並ぶ本の背を眺めるうち、朱路は違和感の正体に気づいた。順番が違う。少なくとも京極夏彦の百鬼夜行シリーズは今朝まで最上段にあったはずだ。落ちてきたら危ないと心配した覚えがある。
外を見ようとしたのだろうか。この裏には窓がある。本をすべて下ろし書棚をどかせば、表を通る道路を眺めることができる。だが、それをしてなんの意味があるのか。そもそも誰の仕業なのか。母が気まぐれに整理したのだろうか。それにしては並びが雑然としている。森澄は納屋だけでなく、この部屋にも忍びこんだのか。だとしたら、なんのために。
気配を感じ、ハッと向き直る。そこには誰もいなかった。東側の暗い窓に自分の姿が鏡のように映っていた。心臓を怪物に握りしめられたような顔をした、背広姿の若者が立っていた。
擦りガラスの向こうから雨の音がする。勝手口には男性用の古びたサンダルがあった。片方だけサンダルに足の甲を通しつつ壁を手探りし、朱路は苦笑いした。
かつてはここに傘があった。プラスチック製のフックに黒い紳士傘がかけられていたが、重みに耐えかねたのかフックが剥がれ落ちた。数年前のことなのに手は習慣を覚えているものらしい。
壁の反対側へ目をやると、ビニール傘が立てかけてあった。それほど強い降りでもなさそうだ。下足入れの上に置いてあった懐中電灯だけ手にして外にでた。暗闇を小走りしながら納屋を見上げる。土壁が部分的に剥落し、下地の格子が剥き出しになっている。
犬走りに敷き詰められた小石をまたぎ越える。両手をかけ、がたつく木戸を開ける。暗闇が詰まっていた。懐中電灯のスイッチを入れたが、点かない。電池が切れたのか。二つ折りの携帯電話を開き、光源代わりにディスプレイをかざした。
土間に自転車が二台並んでいる。埃をかぶった金属バットが隅っこに立てかけてあった。板間へ土足のままあがる。携帯電話の光を右から左へ向ける。狭く急な階段があった。足をかけると踏み板がぎしりと鳴った。
グローブはどこへやっただろう。朱路が通う小学校では、四年生になると部活動へ強制参加させられた。たいして好きでもなかったが、親しい友達がいたことから野球部に入った。父にスポーツ店へ連れていかれ、バットとグローブを買ってもらった。
進路のことで父と衝突した兄とは対照的に、朱路はまわりに流されやすい子供だった。補欠部員なら叱られることはないと知っていても、積極的に練習をサボろうとはしなかった。あの日、朱路はいつもどおり野球部の練習のため、納屋から自転車を押し学校へ向かおうとした。
――どっか行くの?
目にいっぱいの涙を溜めたあけびが立っていた。夏休みなのにどこにも行けない。クラスの友達は家族で旅行するのに、ウチはプールくらいしか行けない。いかにも小学生らしい、つまらない悩みだった。
海くらいなら連れてってやるぞ。慰めのつもりでそう言った。古輪市の東端は海に面しており、男友達で遊びに行ったことがあった。朱路は夏休み中にくらいの気持ちで口にしたが、あけびは今すぐだと解釈した。
階段を上りきる。短い廊下の突き当り、引き戸が開け放たれたままになっていた。部屋の真ん中へ進み、携帯電話のディスプレイを四方へ向ける。不用品を捨てたのか閑散としている。縛られた本が隅のほうに積まれていた。紐が緩んだのか、部分的に崩れている。床に染みでも残っているかと思っていたが、汚れすぎていて見分けがつかない。
朱路は携帯電話を閉じた。瞼を塞がれたように、真の闇に包まれる。
ここで一人の大人が死んだ。倒れてきた棚に頭を打たれ、なんの意味もなく死んだ。棚が倒れたときには大きな音がしただろう。腐ってゆく死体には虫がたかり、強い臭いを放っただろう。それでも誰も気づかなかった。静寂と闇の中を、何年も人知れず過ごした。
あの夏の日、幼なじみとの小冒険はつつがなく進んだ。波打ち際を走り、砂山を作った。あの頃のあけびはわかりやすかった。猪突猛進で、ワガママで、ろくに人の言うことを聞かない。かき氷をおごってやると満面の笑顔で頬張った。心になんの曇りもない、幸せそうな笑顔。高校生になってからは明るくなったが、その笑顔はどこかひねたところがあるように感じる。
なんとか暗くなる前に海から帰ってこれた。夕立があり、危うく濡れ鼠になるところだった。小学四年生だったあけびはいつもより帰宅が遅れただろう。でも大丈夫、これくらいならバレるはずもない。そう思っていた。翌日、大人たちが大騒ぎしていた光景の意味を、自分の行為と結びつけることができたのはずっと後のことだった。
ほんの少し、不安に思ったのだろう。幼い娘の帰宅が遅いことを父親は心配した。近所に住む年上の遊び相手と一緒かもしれないと思った。朱路は何度か、納屋の二階から手をふったことがある。一緒に納屋で遊んでいるのかもしれない。娘の姿を探させてもらうだけだ。軽い気持ちで、父親は隣家の納屋へ無断で入った。
ずっと前から朱路は知っていた。
真相を、唯一の真実を。
野久洋司を殺したのは、自分だ。
(馬鹿だな、本当に)
あの日、本当に洋司が娘の姿を探していたという確証はない。可能性だけで、真実だという保証はない。だが、それを否定する証拠もない。昨日の夕方、名古屋土産の紙袋をぶらさげ、ココア粉末の缶をポケットに入れて表にでた。それなのに、たかが隣の家へ足を向けることができなかった。重力に引かれるように長い坂を下り、たそがれてゆく集落をうろつきまわった。罪の意識から目を逸らし、なにもかも終わったことにしたかった。
「……かっこわり」
明日、なにができるだろう。たった一日でも自分にできることがあるだろうか。折り畳んでいた携帯電話を開く。ディスプレイの明かりが、崩れていた本の一角を捉えた。ハードカバーの本がある。落書きめいた表紙イラスト。どこか憂鬱そうな表情の女性だが、猫のような黒い三角形の耳が生えている。
手を伸ばし、拾いあげた。ページをパラパラとめくる。紙が変色し、小口には薄茶色の斑点が散っている。本を閉じ、再び表紙に視線を落とした。ディスプレイの光に、夜中の薔薇というタイトルが照らされていた。
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