三 事故に決まってる

 赤味噌の香りが食欲をそそる。朱路は割り箸を握る指に力を込めた。残り少ない鍋から慎重にうどんを引きあげる。ひらたい麺が思いがけず長い。

「あれは、素人だな」お猪口を傾けている間だけ口を閉ざしていたが、すぐに父は話を続けた。「面白半分で見物に来たくちだ」

 泥棒と叫んでいたのは勢いだけで、なにか盗まれたわけではなかったらしい。野久洋司の事件は珍事として全国に報道されたので、興味本位のよそ者が無沙汰を働いてもおかしくはない。

 勝手口から五メートルほどの距離に納屋がある。野久洋司の死体がみつかったのは二階で、母屋ではテレビの部屋が直線距離でいちばん近い。物音を耳にして不審を覚え、父は納屋の様子を見に行った。それで勝手口をでてきたところを、隣家を訪ねようとした朱路がみかけることになったらしい。

「どうだった」

「なにが」

 隣だよ。父が、酔いでとろんとした目をしばたたく。朱路は缶ビールを傾けた。味噌煮込みうどんの濃厚な味が喉奥へ流されていく。

 昔から仲が良かったわけではない。夏休みに洋司が行方不明になり、二学期が始まった頃から一緒にいる時間が長くなった。めっきり口数が減り、虚ろな瞳でぼんやりとしている。保健室で過ごすあけびと、昼休みになると一緒に弁当を食べた時期もあった。中学生のときにはクラスで孤立し、なにやら問題行動で警察に補導されたらしいと人伝てに聞いたこともあった。

 一年遅れで同じ高校へ入学してきたときには雰囲気が明るくなっていた。憑き物が落ちたように快活になり、数は少ないが友達もできたらしい。朱路と会話する機会は自然と減ったが、メールのやりとりだけは続いている。

 誰に頼まれたでもないのに、あけびは庭に手を入れるようになった。小学生の頃は草むしりをしたり朝顔を育てたりする程度だった。ちょっとした家庭菜園を作り、中学と高校では園芸部に入った。柘植の木を剪定する姿をみかけたときには驚いた。

 去年のゴールデンウィークに、あけびが名古屋へ来たことがあった。高校の友達数人と進学希望先の大学を巡っているらしい。その友人たちを案内させられるのかと思っていたら、待ち合わせ場所へ来たのはあけびだけだった。友人が受験するのは別の大学で、一人だけ別行動をとったらしい。

 キャンパスの並木道を歩きながら、おまえはどこを受けるんだと訊いた。「朱路の大学って、ミステリ研あるの?」小学生の頃から、あけびは少年の姿をした名探偵が活躍するテレビアニメをよく観ていた。中学生のときには小さな活字の詰まった古い文庫本を読むようになった。どこの大学を希望しているのか答えははぐらかされたままになった。

 あけびは父親の死も、殺人だったら面白いくらいに考えているのだろうか。

「どうなんだ」

 父の声に、ぎくりとした。箸が止まっていたらしい。どうって、なにがだ。

「つきあってるんじゃなかったのか」

 お椀を持ちあげ、残っていたうどんを朱路は一気にかきこんだ。ごちそうさんと箸を置く。父は酔いで赤くなった顔をくしゃくしゃにして「ウチの仏壇もお参りしてこいよ」とだけ告げた。

「朱路」母が顔を上げた。「二階、掃除機ならかけといたけど」

「あ、そう? ありがとう」

 食卓に手をついたまま朱路はきょとんとした。どこかニュアンスの違いがあった。

「二階でドタバタ音がしてたから。自分で掃除するなんて殊勝だと思ったけど」

「いや、覚えがない」

 駅から車で送られたあと、あけびの顔を見るまで付近を散歩していた。荷物を置きに行ったくらいで、ほとんど部屋にはいなかった。

 あら、そう。なにかに気づいたように母は表情を変えたが、言葉を続けようとはしなかった。テレビをみつめながら箸を動かしている。心なしか顔が青冷めていた。


 頬をつたう雫が顎先から土間へ落ちる。ずぶ濡れの学生鞄が上がり框から逆さに落ちて中身をばらまいている。ひだスカートの裾から伸びるふくらはぎが透きとおるように白い。湿ったブラウスが肌にまとわりつく。両腕で自分自身を抱きしめても寒くて震えが止まらない。

 セーラー服姿で三和土に腰を落としたまま、玄関から家の中をみつめている。暗い廊下の奥に母が背中を向けて立っている。和服姿なのはまた生け花教室にでも行くのだろう。早くここをどかないと母はでかけることができない。それなのに全身ずぶ濡れで寒くてしかたなくて、どうしても足に力が入らない。

 貴音たかねはどうしたの、おまえ知らないのかい。お父さんも帰ってこないし。人様に迷惑をかける子じゃないよ。なんとか言ったらどうだい、本当に薄情な子だね。お父さんは帰ってこないし、貴音はどこにいるんだろうね。

 母はずっと同じようなことをくりかえし話している。耳を塞いで聞こえないようにする自分のことがだんだんひどい娘に思えてくる。

(ほら、黙ってばかりいないで、なんとか言いなさい)

 帰ってきてしまった。また帰ってきてしまった。早く学校へ戻らないといけない。まだ授業中なのだから、早く授業に戻らないと結婚を許してもらえない。ガラス格子の引き戸にすがりつく。擦りガラス越しに雨が降っているのがわかる。戸が細く開く。外は仄かな青い燐光に満たされている。灰色の空から雨が降ってくる。一粒ひとつぶが青く光っている。見渡す限りの水田にざあざあと雨が降り注ぐ。遠雷が不穏に轟いている。原子力発電所が事故を起こしたのだろう。放射能が混じり青白く光る雨が寺墨てらすみ町の集落を包んでいる。濡れて黒ずんだ瓦屋根が夜の海の色をしている。

 嘘だ。こんなものは嘘の光景だ。朱路はどこだろう。家の中にいてくれるといいけれど。二階の部屋を掃除しているのだろうか。さっきから物音が聞こえてくる。

(お父さん?)

 赤尾夕夏ゆうかは目を覚ました。悪夢の終りに目にしたのは、納屋の二階へ階段を上っていく夫の後ろ姿だった。布団から半身を起こす。夫のつとむは隣で寝息を立てていた。

(夢だ)

 胸に手をあてる。心臓の鼓動が速い。

(ただの夢だ)

 夕方、一人の客があった。柔和な笑みを浮かべた長髪の青年だった。依頼を受けて野久洋司の事件を調べている探偵だと言っていたが、名前はなんだったか。森で始まる名字だったけれど。

 お茶を淹れて戻ってくると、青年の姿は消えていた。朱路ではなかったのなら、あの青年が二階へ忍びこんだとしか考えられない。なにをしていたのか。なにを知っているのか。そもそも本当に男性だったろうか。

(今度こそ)

 楽しい夢をみよう。手を伸ばし、夫の布団の乱れを直す。身を横たえると夕夏は瞼を閉じた。


 細く瞼を開けると、視界が本の背で埋め尽くされていた。危機感を覚え、横たわった姿勢のまま朱路は後ろへ退がった。眠っているうちに布団から盛大にはみでて書棚の手前まで転がってきたらしい。

 夜が明けているのだろう、障子紙が発光するかのように鈍く輝いている。肩が寒い。掛け布団と毛布を強く引く。天井を見上げ、書棚を眺めた。天井まで届く背の高い棚だ。天板の位置を調整し、天井へ突っ張っているから、めったなことでは転倒しない。とはいえ、これが初めて置かれたときは本に生き埋めにされる悪夢を何度もみた。

 そういえば、これが部屋に置かれたのは野久洋司が行方不明になった年だ。秋の頃だったか、壁一面をほとんど書棚が埋めてしまい驚いた。窓は東側にもあるので明るさに不都合はないが、もう少し他にやり方がありそうなものだ。

 父と母はそろって本の扱いに無頓着だった。適当に横積みし、文庫本はカバーが消え、ページが湿度でしわしわになる。まったく記憶にないが、本が可哀想だと幼い頃の朱路が訴えたらしい。母はそれを律儀に覚えていて、不意にその気になったという。

 家族共用なら客間にでも置けばいいだろうに。いつでも本が読めていいじゃないかと父は勝手なことを言っていた。考えてみれば隣はテレビの部屋だ。書棚があると防音の役目を果たすから、映画鑑賞に都合が良いのかもしれない。

 家族の優しさはどうしてこう理不尽なのだろう。優しくしようとして、おたがいに空回りする。そんなことがウチでは多い気がする。気にかけているのに素直な想いを口にしないままこじらせる。不器用な性格が家族全員に共通している。

 ひとつ年上の兄は、大学進学にともない東京で一人暮らしをしている。進学のことで、ずいぶん父とやりあった。若い頃は腕のいい大工だったという父は、酒が入ると喧嘩っ早くなる。仲良く晩酌していた二人がいつの間にか胸ぐらをつかみあうような剣幕になっていて驚いた。

 朱路も例外ではない。中学と高校で剣道部に所属し、それなりに体力には自信がある。普通列車に乗り換えて最寄りの無人駅までいけば三十分ほどで歩いて帰れる。成人式を前に少しは大人びたところを見せてやろうと思っていたが、車で送るという母に押し切られてしまった。

 ――ウチの仏壇もお参りしてこいよ。

 昨夜の父の言葉が胸を過ぎる。祖母の峰子みねこが亡くなったのは七年前、まだ七十代半ばだった。帯状疱疹をきっかけに腰痛がひどくなり、野久洋司が行方不明になったときには寝たきりだった。良い話し相手を失ったことが祖母の寿命を縮めたのかもしれない。

 寝たきりになる前は、家から十分ほど離れたところにある土地を借りて畑作りをしていた。洋司は野菜作りにも興味があったらしく、寝たきりになった祖母の話し相手になっていた。「今度は池を造ってみようかと思いましてね」縁側に座った洋司がそんな話をしているのを耳にした記憶がある。隣の家で釣りができるようになるのかと子供心に空想したが、それが実現する前に洋司は消えた。

 床に伏したままの祖母に頼まれ、小学生だった朱路は何度も本を探した。たいがいはこの本棚にあるはずだが、一冊だけみつからなかった本があった。向田邦子のエッセイ集で、タイトルは『夜中の薔薇』だったと思う。シューベルトの曲の、歌詞の一部にある「野中の薔薇」という言葉を知人が聞き違え「夜中の薔薇」と覚えてしまった。夜中の薔薇という言葉にあえて意味を持たせるならなんだろう、と友人たちと話しあう一節があったはずだ。

 ひょっとすると祖母はあのことを洋司に話したのだろうか。母と祖母は、折り合いが良いとは言えなかった。母は保険会社の仕事を続けたがり、代わって祖母が孫たちの面倒をみた。祖母が寝たきりになったのを機に、ようやく母は会社を辞めた。

 結婚当時にもいざこざがあったらしい。母の出身は横浜だ。母方の祖父母は娘の嫁ぎ先に不満を覚えた。祖父は大病院の勤務医で、癌治療の名医として知られているという。その娘の惚れた相手が、学歴は高校までというのがお気に召さなかったらしい。父と同じ短気な性分も手伝って、祖母はつまらないことでよく母のことを愚痴っていた。

 だから、洋司に話したとしてもおかしくはない。身内の恥とはいえ、叔父がしでかしたことを明かしたとしてもおかしくはない。もしそうなら、洋司が隣家の納屋へ無断で侵入したことも説明がつくかもしれない。

 会社勤めの母が帰宅する時刻は遅かった。祖母は立ちあがることすらできなかった。小学生だった兄が大人を殴るのは無理だろう。それができるのは一人しかいない。昨夜のように父が納屋の物音に気づいたとすれば。

(馬鹿ばかしい)

 事故に決まっているじゃないか。敷布団に手をつき、朱路は身を起こした。頭の中でモーターが唸るような鈍い音がしていた。

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