二 幼なじみはなにを想う
物憂げなメロディーがして、朱路は坂道の途中でふりむいた。藍色に沈んだ集落に「遠き山に日は落ちて」が響いている。午後六時になると、たとえ休みの日でも近くの小学校から放送される。静かにしていれば家の中にいても聞こえてきて、もうそんな時刻になるのかと思わされたものだった。
我が家の前に差しかかる。自然と視線は二階にある自分の部屋へ向いたが、そこは内側から板を打ちつけたようになっていた。書棚の背板で窓が塞がれているせいだ。
玄関へ向かいかけて、足を止めた。やっぱり寄っていこう。そう思い直して隣家へ足を向ける。夕食時だが、しかたがない。明日は成人式だし、明後日は高校時代の友人と遊ぶ約束をしている。今日のうちに線香だけでもあげさせてもらおう。
勝手口に父の姿があった。オレンジ色のダウンジャケットを着ている。一階にある両親の寝室に、冬になるとハンガーにかけたままにしているやつだ。外出するつもりだろうか。この時間なら父はいつもテレビの部屋にいるはずだが。
テレビの部屋とは、聞こえのいい呼び方をすれば父専用のオーディオルームだ。母が夕飯の支度を終えるまで、父はいつもテレビの部屋でゴロゴロしている。レンタルした映画を鑑賞するなどしているらしい。
父は工務店で、主に施工管理の仕事をしている。職場が近いので、定時に退社できれば六時前には家へ帰れる。会社勤めをしていた頃の母は帰りが遅くなることが多く、必然的に夕飯も遅かった。結婚当初からの習慣らしく、だとすれば二十年以上も飽きずに続けていることになる。
(なんだ?)
勝手口からでてきた父は、いったん軒下で立ちどまった。暗い空を見上げている。不意に、左右の握り拳を腹の前に持ってきた。そのまま右手のほうは動かさず、左の握り拳だけをスーッと上へ滑らせる。
運動会の入場行進で優勝旗を運ぶ役のような姿勢だ。遠目の上に勝手口の明かりが逆光となり、父がなにを手にしているのかわからない。隣家のほうへ歩きながら眺めていたので、やがてその光景は生け垣に遮られ、見えなくなった。
合掌していた手を膝の上に置き、朱路はモノクロの遺影をみつめた。写真を撮られることを恥じるような笑顔の壮年男性。記憶の中にある、麦藁帽を被って庭で草むしりをする姿とうまく重ならない。
赤尾家は母屋の隣に古い納屋がある。小学校にあがったばかりの頃、朱路はよく納屋を探検した。二階から野久家の庭を見下ろすと、庭仕事をしている姿があった。試しに朱路が手をふると、麦藁帽のつばを上げ、気さくに手をふりかえしてくれた。進学塾の講師だったそうだが、レッドロビンの生け垣を
また、これ。声にふりむくと、座卓に置いた赤茶色の紙袋をあけびが覗きこんでいた。朱路は立ちあがろうとしたが、軽く足が痺れていたせいで、たたらを踏んだ。「あんよが上手」すかさず幼なじみが合いの手を入れる。
芥子色のニットにグレーのトレーナー、スウェットパンツ。あまった裾を素足の後ろにひきずっている。ショートボブの髪が左側だけぐちゃぐちゃになっていた。
「勉強してたのか」
人差し指でトントンと、朱路は自分の頭の左側をつついてみせた。あけびは考え事をするとき左手で髪をいじる癖がある。うっかり学校でもそれをして、本人だけ気づかないまま髪が乱れていることがよくあった。
「そりゃ、するよ」手櫛を入れながら、あけびは唇を尖らせた。「センター、来週だし」
「おつかれさん」
座卓の角っこを挟んで腰を下ろす。湯呑みを差しだされた。温めなおしただけの出涸らしのお茶だろう。
「おめっと」
「新年、あけましておめでとうございます」
「ジの字、呆けた?」
明日、成人式じゃん。ホントいつまでもバカなんだから。得意顔で幼なじみが言い募る間、朱路はムッツリ押し黙っていた。
ジの字、とは朱路の仇名だ。朱路とあけび、一文字違いということに由来している。
看護師の母は夜勤で帰らず、姉は友人たちと遊びにでかけているという。旧式のエアコンが唸りをあげ、冷え切っていた和室を少しずつ温めていく。やがて湯呑みが空になり、朱路は腰を上げた。
「おっと、これも」
玄関まで来て、ようやく思いだした。ブルゾンのポケットに入れていた、缶入りのココア粉末を取りだす。おお、ごくろうじゃった。あけびはそれを両手で押しいただいた。
靴を履こうと朱路は軽く身を屈めた。束の間、会話が途絶える。「これで一区切りだな」革靴の紐を結びながら、つぶやいた。
「そう?」
背後にあけびの足があった。火のついた煙草を踏み消すように、爪先を支点にして、かかとを揺らしている。
「どっちつかずよりは良かっただろ」
「事故だって思ってるんだ」
身を起こす。真正面から向きあった。
「なに言ってるんだ」
さあ、ね。くるりと、あけびが回れ右をする。背中で手を組み、廊下の奥へ去っていった。朱路は
あけびの父、野久
去年の十一月下旬、朱路の父は納屋を整理していた。納屋の二階は滅多に出入りせず、棚が倒れていることは数年前から気づいていたが放置していた。老朽化が進んだ納屋の建て替えを考えていた父が不用品を整理すべく倒れていた棚を起こすと、白骨化した野久洋司の死体が横たわっていた。
人の死体が白骨化するのに土中なら数年はかかるが、放置されているだけなら夏場だと十日ほどしかかからないそうだ。死体が身に着けていた衣服は薄手のスラックスに半袖シャツで、失踪当時の服装と一致した。なんらかの理由で赤尾家の納屋に入り、棚に触れたのではないか。棚には畳など重い品々が置かれ、壁に棚を固定するボルトは錆びついていた。バランスの崩れた棚が倒れ、上段に置かれていたなにかが頭にぶつかり意識を失うと同時に棚の下敷きになった。警察はそう結論づけたらしい。
(事故でなければ)
なんだというんだ。薄暗い道を歩きながら朱路は考えにふけっていた。外灯の下を通り過ぎる。自分自身の影が前へ長く伸びていく。
不意に、怒号が響いた。
ぎょっとなり、朱路は立ちすくんだ。我が家のほうから走る足音が近づいてくる。勝手口からの小道を、長身の人影が迫ってきた。
納屋から誰かが飛びだした。父だ。「泥棒!」と一喝する。腕をふり、懐中電灯の光が飛び交った。ロングコートを着た人影は構うことなく朱路の前を通り過ぎていく。一瞬、目と目があった。
(女?)
ビジュアル系ロックバンドのボーカリストのような、切れ長の瞳をした美人。視線を交わしたのは一瞬だった。全速力で長い坂を人影は駆けおり、紺色の闇に溶けていった。
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