第二話 我が家に死体はありません(仮)
一 死体がありました
「人の噂だからよくは知んねえけどもよ、赤い色を見るとカーッとなっちまって、前後の見境いなしに狂いだすちう話だからね」
――鮎川哲也「赤は死の色」
列車を降りて閑散としたホームに立つと、胸元に振動を感じた。右手の紙袋を左へ持ち替え、ブルゾンのジッパーを少し下げて携帯電話をとりだす。件名は〈ついたか〉で、本文はなし。
改札を通ったところで、手にしたままだった携帯が震えた。〈おつかれ〉というメールにノータイムで〈疲れた〉と返事する。肩から提げていたスポーツバッグを床へ置き、朱路はしばらく待った。もう一通くらい来るだろう。〈ココアかってこい〉〈パシんな〉バッグを肩へ掛けなおし、歩きだす。
ロータリーを見渡すと、路肩に青い軽ワゴン車が駐まっていた。髪をベリーショートにした母がハンドルから手をあげる。朱路はスライドドアを開けると、後部座席にスポーツバッグと赤茶色の紙袋を放りこんだ。「おめでと」助手席の扉を開けるや否や、声をかけられた。
「ありがとう」
「なにが?」母が眉根を寄せた。
「息子が成人だから、だろ」
「あけまして、おめでとう」
松の内を過ぎてるんだが。口にしかけた言葉を朱路は呑みこんだ。
県道を東へ走る。全国にチェーン店があるファミリーレストランや、だだっ広い駐車場のコンビニエンスストアが車窓を通り過ぎていく。
スーパーマーケットに寄った。朱路が押すカートに、母が長ネギや油揚げを放りこんでいく。すれ違いざま中年女性に母が軽く一礼した。保険会社に勤めていた母にはよくこういうことがある。朱路もそろって頭を下げた。母が玄米茶をカートへ入れ、その隣で朱路がココア粉末の缶を手にとった。
ビニール袋を二つ、後部座席に揺らしながら走る。住宅街を抜け、風景は水の枯れた田んぼばかりになった。山裾にへばりつくようにして瓦屋根の民家が並んでいる。文字が銀メッキされた「
「後でいいから、あけびちゃんの顔、見てきて」
セメントへ朱路が足を下ろしかけたところへ、背中から声をかけられた。「へえい」生返事をしながら助手席のドアを閉ざす。母は今の言葉をかけるタイミングをずっと図っていたのかもしれない。
無理もない。我が家に死体があったなんて、親子の間では話しにくい。
隣家から車の音が聞こえた気がした。
ほうじ茶を啜りながら縁側で足を止め、ガラス戸越しに空を見上げた。昼は晴れ渡っていたのに薄く曇り空が広がっている。物干し場にちらほらと雑草が生えていた。なんだか手がムズムズしてくる。
父の好きだった
あの日は小雨が降っていた。小学校からの帰り、いつもどおり隣家の前を通り過ぎようとした。側溝になにかが横たわっていた。浅い水の流れを遮ろうとするように、濡れそぼった猫が動かずにいた。瞼を閉じ、息をしていない。
朱路に声をかけられるまで、どのくらいの時間そうしていただろう。黒いランドセルを置き去りにして、裸足になった朱路が川底へ下り立った。死骸を胸に抱えて、お墓を作ろうと言った。土が剝き出しの地面が赤尾家には見当たらず、ウチの庭へ埋めることになった。
(いいのか、ここで)
朱路が縁側のほうを気にしていた。母や姉にみつかるのを心配しているのかと思った。今にして思えば、こうして縁側から猫を埋めた場所が目に入るのを心配したのだろう。
あけびは瞼を細めた。小学五年生の夏の終わりに降った、聞こえないはずの雨音に包まれる。暗い雲の下、幼い少年と少女が並んでしゃがみ、小さな手を合わせている。その足元、土の中には見知らぬ死体が埋まっている。後頭部の傷から滲みでる血が土に染みこんでいく。誰のものともつかない顔はみるみるうちに肉が腐り落ち、骨が覗く。白い骨にひびが入り無数の破片となって剥がれ落ちる。しゃれこうべの下から蒼白い父の顔が現れる。
湯気のあがる茶を口に含んだ。苦みと温かさが舌を滑り、喉へ流れ落ちる。わかってる。これは幻だ。猫を埋めてから、くりかえし想った架空の光景。いったいどれだけ思い浮かべただろう。
朱路に心配されたとおりだ。猫の墓なんて作らなければよかった。死体なんて見捨てればよかった。海に流れていくまで知らないふりをすればよかった。
わかってる。こんなところになんか父は埋まってない。父の死体は、隣の家にあったのだから。
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