八 もう一人のあの人
気がつけば、幾度目かのまどろみに包まれていた。執拗だった脇腹の痛みはおさまり、代わりに全身が掻痒感に包まれている。よほど外を歩き回ったほうが気晴らしになるかもしれない。そんなことをすれば姉さんにこっぴどく叱られるだろうけれど。占木光はそっと微笑んだ。
(まあ、いっか)
こっぴどく叱られるようなことを、すでに自分はしている。多くの人を惑わせるようなことをしてしまっている。
(あんなの誰も気づくわけないし)
昨日の朝、トナミフーズ副社長夫人が銃撃された事件を姉の口から報された。人助けができたという束の間の喜びは泡のように消え失せた。相手は銃を持っていたのだから、姉を巻きこまないよう逃げた判断自体は間違っていなかった。だけど、砧秋保の無事をきちんと確認すべきだった。
瞼を見開く。肩に寒さを感じ、毛布をひっぱりあげる。格子窓から冬の空が覗いていた。たなびく雲は薄く、輪郭が曖昧で、凍りついたように動かない。みつめていると頭の中が真空になっていく。自分のしでかした馬鹿げた失敗が幻のように消え失せていく気がする。
ノックの音がした。午前中に来たばかりだから、姉ではないだろう。須藤医師が様子を見に来たのか。返事をすると、扉を開けたのは見覚えのない顔だった。
「ああ、寝たままでいいよ」
男だろうか、女だろうか。女性にしては背が高い。百七十センチ以上はありそうだ。ストレートの黒髪が鎖骨まで届き、メタルフレームの眼鏡には優美さを感じる。白いボタンダウンシャツと紺色のカーディガン、ネクタイの組み合わせは中性的な印象だ。
「初めまして。ボクの名前は」
「森澄紺」光が言葉を継いだ。「探偵さんですよね?」
「さん、は要らないよ」顔を斜めにし、鼻で笑う。「ただの探偵で充分さ。座っていいかな?」
光が了承するよりも早く、森澄は三面鏡の前にあった猫脚のスツールをベッドの脇へ引き寄せると腰を下ろした。
「ボクのことは、お姉さんからでも聞いた?」
無言で光はうなずいた。視線を宙にさまよわせ、ためらいがちに言い足す。
「ネットで名前をみかけたことがあって。船上刑務所の事件を解決したって、本当ですか?」
「個人的な頼まれ事を引き受けているだけだよ」
森澄は脚を組み、膝を両手で抱えた。いやいやをする幼児のように上半身を揺らす。
「小遣い稼ぎのアルバイトさ。須藤先生から頼まれたのも、ただの野暮用だしね」
けっきょく、さっきの質問に答えてませんよね。野暮用って、具体的にはどんな。躊躇したが、けっきょく光は口をつぐんだ。どの返事も、なんだか子供っぽい。
「実は、なにも起こらなくて退屈していてね。君とおしゃべりでもしようかって思いついたんだ。身体のほうは大丈夫?」
「はい。まだちょっと痛いけど、寝たまま話すくらいなら」
さっきより掻痒感が強まった気がする。性別のわからない、不思議な雰囲気の人がいるからか。ベッドに自分は横になって、見下ろされたまま会話をしている。うたた寝の合間にみている夢のようで、どこか現実感がない。
去年の夏、深夜のことだった。光は勉強の息抜きに匿名掲示板を覗いた。時事問題を扱うスレッドで、妙な噂が飛び交っていた。
神戸の造船所で火災があり、百三十人近くもの死体がみつかった。初めは事故として報道されていたが、
掲示板では、警察の捜査に協力した民間人がいるという噂が流れていた。いわく、この世の者とは思えないほどの美人だった。いわく、警察の捜査を大混乱に陥れた。寄せられる情報は人によって異なり、どこまで本当でどこから嘘なのか見当がつかなかった。
新興宗教団体の教祖と素人探偵との一騎打ち。できそこないのハリウッド映画じみた内容に光は失笑した。ただ、その民間人がこの市内に在住する高校生らしいという箇所が深く印象に残った。
「確認だけど」森澄はカーディガンの胸ポケットに指を差しこんだ。「ブログは見た?」
ポケットから二つの包み紙をとりだす。大粒のキャンディだろうか、エナメルピンクのセロファンにくるまれている。
「砧さんのブログですか? はい、ネットで検索して、みつけました」
ありがとうございます。包み紙を受けとり、蝶のように広がる両端を引く。くるくると回転し、チョコレートが現れた。
「うん、そうだろうね。ボクらの世代なら当然の感覚だけど。警察みたいにオジサンたちばかりだとピンと来ないかもしれない」
森澄も同時に包み紙を開いていた。人差し指と中指でチョコレートを挟み、口元へ運ぶ。甘いものが好きなのか、嬉しそうに口元をほころばせる。
「光くんは金曜日の昼休み、明日香ちゃんから人探しの依頼を受けた。放課後には円さんに車を運転してもらうよう頼んでいる。そんなわずかな時間で普通の中学生が、何年も音信不通だった人物を探しあてられるわけないよね。ボクならともかく」
気のせいだろうか。今、なにか凄く自信過剰なセリフを耳にしたような。
正確には「依頼を受けた」なんて、カッコイイものではなかった。昼休みに光が弁当を食べていると、おかずのウィンナーが話題になったのが発端だった。「あら、生意気。シャウエッセンなのね」と明日香が唇を尖らせ、ウチなんかポークビッツ入りの玉子焼きよと大げさに嘆いてみせた。そこから、頼んでもいないのに須藤家の経済事情について長々と聞かされた。
放課後、光は試しにスマートフォンでネットを検索してみた。思いがけずトナミフーズ副社長のブログがみつかった。砧正輝とその妻の写真があり、汐小路町への旅行予定も記されていた。
明日香には事情を説明せず、須藤勇太朗の連絡先だけ教えてもらった。少しカッコつけてみせたかった。どうやってみつけだしたのか、明日香にしてみれば不思議だろう。たまには幼馴染の驚く顔を見てみたい。ちょっとした悪戯心だった。まさか、あんな恐ろしい目に遭うとは思ってもみなかった。
「ネットで検索しただけだから別人かもしれないし、須藤先生は大阪でしたから。だから姉さんに頼んで、会いに行ったんです。須藤先生の甥御さんなのか確かめに」
説明を終え、光はチョコレートを口に放りこんだ。姿勢が仰向けだから、口の中で溶けた甘ったるいチョコが意思に反して喉の奥へ流れ落ちそうになる。
「サーチ・アンド・デストロイか」
「え?」
いや、なんでもないよ。森澄が答えるのと同時だった。喉が灼け、光は激しく咳きこんだ。思わず起きあがり、口元を手で覆う。ひさしぶりに起きあがったせいか軽く目眩がした。
背中になにかが触れた。やさしく撫でさすられる。息がかかりそうなほど近くに森澄の顔があった。レンズの奥、切れ長一重の瞳が憂えるように細められている。
「だ、大丈夫です。むせただけで」
森澄はベッドサイドのテーブルから水差しを手にとった。空になっていたグラスに水を注ぎ、光に手渡す。礼を言いながら受けとり、光はグラスを傾けた。室温に温められた水が喉に流れこんでいく。少し熱が上がったのだろうか、頬が熱い。
話を続けてもいいかな。スツールに笑顔で座りなおした森澄に、光はうなずいてみせた。
「被害者の名は砧秋保。トナミフーズの副社長、砧正輝の妻。事件現場は不動産会社を経営する人物が所有する別荘の庭だけど、今はオフシーズンで誰もいなかった。庭と駐車スペースの境界に秋保さんは倒れていた。なぜか庭石のひとつを倒してね」
まるで見えない文章を読みあげるかのように、森澄は朗々と言葉を連ねていく。
「金曜の夜、民宿の裏手で君は秋保さんの姿を見かけた。砧正輝さんに会わせてもらうよう頼むため、円さんの車から降りると一人で後を追った。ところが、待ち構えていたのは恐ろしい光景だった。誰かが銃を手にして、秋保さんを狙っている――君はどうしたのかな?」
「危ないって、声をかけた気がします。アイツがふりかえって、銃口を向けられて」
「撃たれた?」
「その前に僕、逃げようとしたんです。回れ右して、走りだして」
林に逃げこめば木が邪魔になり、狙われなくなると判断した。だが、駐車スペースの端まで走ったところで背後から銃声が聞こえた。脇腹が熱くなった。アッと思った瞬間に足がもつれ、そのまま倒れ伏した。
「それから姉さんが来て」
「おっと急がないで。話し忘れていることはない?」
「いいえ、別に」
「石を倒したのは光くん、君だね?」
ヒュッと息を呑む。暗闇に倒れていたときの感覚が蘇った。不思議と恐怖はなく、それよりも頭の中は義務感でいっぱいだった。殺される前になんとかして犯人の名前を伝えなければならない。
「言われてみればそうでした。その、よく覚えてないけど、慌てて倒しちゃったんだと思います」
「ハハ」
森澄は両手を左右に広げると、胸の前で打ちあわせた。パン、と乾いた音がした。
「いいんだよ、謙遜しなくても。最初は偶然かと思った。でも、偶然にしてはできすぎてる。驚いたよ、そんな発想ができるなんてね。いや、中学生だからこその柔軟な発想かな」
腕が伸びてくる。森澄の手が、光の頭を撫でた。軽く、優しく、いたわるように何度も。
「昨日の夜、現場に行ってみたんだ。警察官がいて、長居はできなかったけどね。車が三台あった。赤、黄、青。信号機みたいだったな。そして倒された庭石、君の名前は占木光で、仇名はウラミツ」
再びカーディガンの胸ポケットに指を伸ばす。ほっそりとした指がつまむものは、今度はチョコレートではなかった。悠然とした手つきで一枚の紙をとりだす。メモ帳から破りとったものらしい。二つ折りの用紙が広げられると、まるで数式のような文字が並んでいた。
(三台の車)+(庭石)+(占木光)
=(三+車)+(ニ+ワ+石)+(占+光)
=(石+占)+(二+三)+(光+ワ+車)
=砧正輝
「面白いよね。庭石を倒したのが秋保さんだと思いこんでいると、この謎は決して解けない。被害者が自分の名前をメッセージの一部に利用した。その後で被害者が別人と入れ替わったから、意図が伝わらなくなった」
うんうんと首を上下に揺らしながら、独り言のような口調で森澄は言った。
「須藤先生は、よく気づいたよね。円さんから話を聞いただけなのに。手紙に、二足す三だけ書いたのも上出来」
「手紙?」
「ああ、気にしないで。こっちのことだから」顔の前で、森澄は手の平をひらひらとふった。
「犯人に撃たれた光くんは、薄れゆく意識の中で懸命に考え、砧正輝という名前を意味するメッセージを残した。では、犯人は副社長なのか。警察に仲の良い人がいてね。どうも砧正輝さんは、少なくとも実行犯ではないらしい。しっかりしたアリバイがあるんだろうね。だったら、ありえる論理的可能性はたったひとつじゃないか」
声を潜める。瞼を細め、軽くうなずき、森澄はようやく次の言葉を口にした。
「犯人はもう一人の砧正輝だよ。須藤先生の甥と、副社長は同姓同名の別人だった。甥御さんのほうの砧正輝が、秋保さんを銃撃したんだ」
シーツの上に、水滴が落ちた。
「ちがう。ちがうんです」
瞼に涙をいっぱいに溜めた光が、顔を上げる。
「ごめんなさい、森澄さん」
僕、犯人の顔を見てないんです。かすれた声で光は言った。
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