六 副社長夫人は語る
腕にかけたダウンジャケットをずらし、反町は腕時計に視線を走らせた。面会は十五分間だけと担当医師から言い渡されている。制服警察官が敬礼をした。廊下を先導してくれた看護師が軽く扉をノックする。引き戸が音もなくレールを滑っていく。
ベッドがひとつのみにもかかわらず空間にゆとりがある。テレビ、冷蔵庫、丸テーブルと籐椅子。内装こそ味気ないが設備はホテル並みだ。室内を一通り観察した釈迦河が足を踏み入れる。その背中を反町が追った。
電動リクライニングらしくベッドの上半身側が三十度ほど起こされている。髪が少し乱れ、目つきが
明け方、砧秋保が意識を取り戻した。病院からの連絡を反町が伝えると、釈迦川は眉根を緩めていた。無理もない、もし犯人が秋保の顔見知りなら電撃逮捕さえありうるのだから。
反町が砧秋保と直接対面するのはこれが初めてだ。ブログで公開されていた写真からは控えめな性格という印象を受けた。こうして間近で眺めてみると眉や鼻筋が整いすぎているように感じる。下手な整形手術でも受けたような不自然さがある。
釈迦河が頭を下げ、捜査に協力いただきたい旨を述べた。事件の概略は医師のほうから説明がされているはずだ。
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。そう言いながらベッドの上で秋保は頭を下げかけたが、傷が痛みでもしたのか顔をしかめた。
「申し訳ないんですが、犯人の顔は見てないんです」
その言葉を初めから想定していたかのように釈迦河は表情を変えなかった。軽くうなずき、服装などは覚えているかと質問を重ねた。
事件当夜は雨だった。犯人は半透明の雨合羽を着ていたという。体格からして男だと思うが、確信はできない。そういったことを秋保は途切れがちに語った。
「庭石を倒したのは覚えてますか」
反町の問いに、秋保は顔を斜めに傾け、とまどいの表情を浮かべた。
「参りましたね」
小声で語りかける。努めて気安い口調にしたが、釈迦河は思案気な顔のまま無言で階数表示のランプを見上げていた。
一階に到着。密閉した空間から引き潮のように人が流れていく。
「なんでまた、移動させたのやら」
廊下を歩きだすや否や、反町は準備していた疑問をぶつけた。エレベーター内ほどではないにせよ人の密度が高いため、小声にせざるを得ない。
「血をごまかそうとしたのかもしれんな」
「やはり、目撃者ですか。須藤勇太朗つながりの」
「だろうな」
秋保の証言は警察側の見解とおおむね一致していた。コンビニエンスストアへ行くため宿をでて間もなく、午後九時過ぎから九時半までの間に生活道路を通ったとき撃たれたという。問題は、場所だった。秋保が発見された位置よりも、さらに道路を数メートル進んだ地点で撃たれたという。
雨の中、傘を差した秋保はコンビニ目指して道路を歩いていた。若い男性の声が聞こえた気がして、ふりかえった。黒い服の上に半透明なビニール製の雨合羽を着た男が立っていたという。二メートルと離れておらず、両手で小型の銃を構えていた。
反射的に逃げだし、やがて背後から一発の銃声が聞こえた。道路に沿って十数メートル走ったところで、二発目の銃声と同時に太腿の裏に鋭い痛みを覚えた。思わず傘を手放し、アスファルトに手をつきながら倒れこんだ。犯人が駆け寄ってくる足音が聞こえ、背中を撃たれた。恐怖と痛みをこらえるうちに意識が薄れていった。その間ずっと犯人が無言で傍らに立ち尽くす気配を感じたという。
秋保は目にしていないが、そこには第三の人物がいたのではないか。その人物は秋保の後ろを歩いていた。秋保を銃で狙う犯人を目撃し、声をあげた。初めの弾丸は秋保ではなく、その目撃者に向けて発砲された。箕輪家の日本庭園からみつかった弾丸がそれだろう。撃たれた目撃者は傷を負い、現場から逃げた後、須藤勇太朗の治療を受けたのではないか。
犯人が秋保の身体を移動させた理由は、釈迦河の言うとおり血痕をごまかすためだろう。一発目の弾丸が発見されれば、なぜ見当違いの方向に撃ったのか疑問を抱かれる。庭石が倒れていた地点は土だから、雨が降り続いても血液が残存する恐れがあった。最初に撃たれた目撃者の血痕が残った地点へ秋保を運ぶことで、目撃者の存在を隠そうとした。
ほとんどの話がつながったが、まだわからないこともある。目撃者を手当てした須藤医師は、なぜ砧正輝にあんな手紙を渡したのか。あの足し算はなにを意味しているのか。カフェ〈ドニエプル〉での会話内容からすると、正輝を犯人と疑い、沈黙と引き換えに金銭を脅しとろうとしたかのように感じた。しかし正輝は宿の主人がアリバイを証言しており、犯行は不可能だ。
「問題はアリバイですね。奴には」
「しっ」
釈迦河が肩を竦め、気持ちを切り替えるように頭をふった。玄関ロビーの方角からレザーコートを着た男が歩いてくる。「先にお会いさせていただきました」釈迦河が軽く頭を下げると、砧正輝はぎこちない笑みを浮かべた。
「秋保は……元気そうでしたか」
不自然な間を空けて、正輝はありふれた言葉を発した。落ち着きのない視線が二人の刑事の顔を往復する。
「ええ、受け答えもしっかりされてました。残念ながら犯人の顔は見えなかったようですが」
「そうですか。あの、失礼ですが私はこれで」
顔の前に衝立をするように手の平をかざし、正輝は二人の横をすり抜けた。
足元が揺らぐような不安が反町の胸に湧いた。この男は、妻が余計な証言をしなかったかと怯えているのだろうか。それとも純粋に、妻が意識を回復したことに安堵し、早く顔を見たいと急いでいるのか。これまでの正輝にはふてぶてしさがあった。刑事を相手にしようとも揺るがない、強い自信が感じられた。それが今、消え失せている。小人物じみた焦りが感じられる。いったい、どんな心境の変化があったのか。
気づけば釈迦河が歩きだしていた。慌てて追うと「なあ、反町」と呼びかけられた。
「現場に、数字の二を連想させるものはなにかあったか?」
「例の足し算ですか」
「にわいし……輝くか……まさかな、バカバカしい」
なんのことだろう。それよりも、正輝だ。奴が素の表情でいるところをもう一度見ておきたい。
ふりかえる。十メートルほど先、エレベーターに乗りこもうとする副社長の姿があった。おや、と反町は首を傾げた。ぴったりと正輝の背後に立つ男がいた。灰色のコート、下には背広を着ているらしい。正輝の部下だろうか。だが、どこかで見た顔だ。
どこが不自然なのだろう。そうだ、室内にもかかわらずコートのポケットに手を突っこんでいる。右手がポケットの中で膨らんでいる。
まるで小型拳銃を握りしめ、正輝の背中に突きつけているかのように。反町がそう気づくのと、エレベーターの扉が閉まるのが同時だった。
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