四 素人の出る幕はない

 数人の男たちが小声で議論している。事件現場の写真や地図が貼られたホワイトボードを一瞥し、釈迦河は廊下へでた。ダルマストーブを焚いている講堂とは違い、肌寒い。

 そろそろ日付が変わる頃だろう。釈迦河が電話で起こされたのは午前三時だった。緊張感のせいか眠気はない。宙を飛び交う羽虫のような軽い頭痛だけがどうしても抜けない。

 硬貨を投入する。紙コップが落ちてくる乾いた音、コーヒーが注がれる音。プラスチックの扉を引くと胸が安らぐ香りがした。窓際まで歩きながら、ワイシャツの胸ポケットに入れた携帯電話を手にする。ジョグダイアルの操作に迷いながら内蔵電話帳から目的の名前を探した。記憶がおぼろになりかけているが、確かに登録したはずだ。

「おひさしぶりです、警部さん」

 先制パンチのように声が飛びこんできた。からかうような楽しげな声だ。

「警部補だよ」

「そうでしたっけ。まあ、似たようなものですね」

 だいぶ違いがあるが、まともに受け答えすると、どんどん相手の術中に嵌っていく。

「こんな時間に悪いな。なにをしていた?」

「勉強ですよ、もちろん」

「勉強? なにを?」

「国立大の前期日程が間近ですからね」

 そこまで若かったか。学生服姿は見た覚えがない。ファッションモデルのような体型から、社会人だと思いこんでいた。

「ちょうどよかった、気分転換したいところだったんです。おしゃべりならつきあいますよ」

「残念だが、無駄話をするつもりはないんだ」

「おや、残念」

「単刀直入に訊こう。今日の午後、汐小路町に来ていたな?」

「しおこうじですか。あれ、身体に良いみたいですね。分解酵素が肉や魚を柔らかくしてくれて、胃腸に優しいんだとか」

「砧正輝に手紙を渡しただろう」

 受話器から声が途絶えた。ややあって、演技過剰な溜め息が聞こえた。

「不公平ですよね。どうして世の中、目立つ人間と目立たない人間がいるんでしょう。ボクは目立たない顔に生まれたかったな」

 そういう、他人を自然と苛立たせる口調を改めれば少しは目立たなくなるんじゃないか。思い浮かんだ皮肉を、釈迦河はコーヒーで喉の奥へ流しこんだ。

「誰に頼まれた」

「なにをですか」

須藤勇太朗すどう ゆうたろうは任意出頭に応じた」

「すどうさん? どちら様ですか?」

 言葉を続けようとして、鼻の奥がひくついた。慌てて口元を覆うが、間に合わない。盛大にくしゃみをする。携帯電話を耳に戻すと、笑い声が聞こえてきた。

「なにがおかしいんだ」憮然として呼びかけた。

「じ、尋問する側が、このタイミングでくしゃみしないでくださいよ! 拍子抜けするじゃないですか!」

 もう、敵わないなあ。ひいひいと、息さえ苦しげに笑い続ける。悪かったな。釈迦河がそう告げると、なおさら笑いが大きくなった。

 午後九時七分、カフェ〈ドニエプル〉のカウンター席で待っていた砧正輝の隣に、初老の男性が座った。三つ揃えのスーツに丸眼鏡、白髪交じりの髪と顎鬚。やや緊張気味の表情だが、およそ妄想を抱えている風ではない。

 老紳士は須藤勇太朗と名乗った。汐小路町の隣町、鮎浦あゆうら町で個人医院を長らく続けており「看板は内科と小児科を掲げとりますが、町医者なもんでな。外科もやらんではない」と言った。高齢化により患者数が減り経営が芳しくないことを、世間話と受けとれる範疇で語った。

 おもむろに須藤は「二足す三はわかりましたか」と切りだした。正輝が答えあぐねていると、名刺を一枚カウンターに残して須藤は席を立った。わずか十五分足らずの会話だった。須藤勇太朗が自宅へ帰宅するまで尾行し、釈迦河の判断により刑事たちはインターフォンを鳴らした。古輪警察署にて一時間以上に渡り聴取を続けたが、須藤は黙秘を貫いた。

「あの爺さんは、この事件にどう関わってるんだ」笑い声が収まるのを待って、釈迦河は切りだした。

「弾丸に付着した血液は検査しましたか」

 なんの話をしている。そう言いかけて、思わず口ごもる。

 秋保の身体から手術で摘出した弾丸に、秋保の血液が付着していることは自明だ。森澄が訊いているのは、箕輪家の庭園から発見された弾丸のことだろう。だが、そのことは犯人しか知りえない情報として報道機関には伏せている。なぜ森澄が知っているのか。

「そういうことか」

「まあ、雨で流れ落ちたかもしれませんね」

 窓は闇で塗りつぶされている。県道を行き交う車のライトしか見えない。ヘッドライトが右から左へ、テールライトが左から右へ。冷めかけたコーヒーを口に含み、苦みを味わいながら釈迦河は計算した。

「少し、独り言をつぶやかせてくれ」

 警視庁組織犯罪対策部は、トナミフーズと暴力団とのつながりを洗っている。そこへ浮かんできたのが、七年前に発覚した個人情報流出事件だった。ギフト商品の有名ブランドを掲げる某食肉加工品メーカーから顧客情報が大量に漏洩し、健康食品の送り付け商法といった不正商法に利用された。

 直接的に加担していたと目される情報システム部の若手社員は、自宅マンションで首吊り死体となって発見された。他殺の疑いもあったが不起訴処分となり、上司二名が業務上横領罪で逮捕された。トナミフーズはこの事件をきっかけに分社化された。

「砧正輝は親会社から出向、後に転籍し、異例のスピード出世で副社長にまで昇り詰めた。砧は、個人情報流出を起こした情報システム部の部門長だった」

「実は漏洩事件に裏で関わっていて、そのときの人脈で凶器を入手したり、危険手当の高そうな職業の方を雇えたかもということですか」

「ただの独り言だから返事はできんな。だが、俺の言いたいことはそこじゃない」

 砧正輝はあくまで銃を入手できた可能性がある人物のひとりに過ぎない。事件の表層を素直に解釈すれば、妻を殺されかけた同情すべき被害者だろう。不確かな予断を抱くことは事件解決を遅らせかねない。

 昨夜午後九時過ぎ、民宿〈やすゑ〉の近辺で見慣れぬ軽自動車が目撃された。カップルらしき若い男女が乗っていたとのことだから、恐らく事件とは無関係な通りすがりだろう。他に不審な人物や車の目撃情報は寄せられていない。

 県内の主要幹線道路で検問を実施しているが、こちらも怪しい車両はみつかっていない。一ヶ月前、社長宅に銃弾が撃ちこまれた事件も目撃者は皆無だ。早朝とはいえ都内の住宅街、犯人はよほど運が良かったのか、捜査陣にツキがないのか。

 この事件は長期戦になる。会議でもそんな雰囲気が漂い始めていた。砧秋保の意識が戻り、犯人の容姿について証言してくれれば望みがあるかもしれない。だが現実はそう甘くないだろう。人脈、金の流れ、銃の入手経路。膨大な人数の警察関係者が靴底をすり減らす日々が始まる。

「素人の出る幕はない。そういうことだ」

 飲み干した紙コップを握りつぶす。耳に当て続けた受話器が熱を持ち、じっとりと汗ばんでいる。

「たしかに長引かせたくはないですね。そこは同じ意見です」

 言わずもがなですが、ひとつだけアドバイスを。穏やかに微笑む顔が見えた気がした。

「副社長夫人の護衛、しっかりやってくださいね。殺しに失敗した犯人が、また襲ってくるかもしれませんから」

「森澄くん、二足す三とはなんだ」

 一瞬、判断を躊躇するような間があった。

「小石が三つ、置いてあったりはしませんでした? あるいはそうですね、木の棒で地面をひっかいて線を三本描くとか」

「なんのことだ?」

「ああ、わからないなら気にしないでください」

 一方的に通話が切れた。

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