三 あいつには関わるな

 収穫ゼロ。胸にその四文字を刻みながら反町は助手席に乗りこんだ。薄曇りだが、空模様から日没前後なのは感じる。遅れて日吉も乗車し、エンジンをかけた。

「でませんね」

 ハンドルを握る日吉がつぶやく。目撃者、証言、手掛かり。主語はどれでもいい。どれも当て嵌まる。箕輪家から別荘の駐車スペースを借りている者たちを訪ねた。昨夜は車を置きっ放しのまま一度も現場に近づかなかった。示し合わせたかのように全員が同じことを証言した。

「そうだな」

「海岸通りをドライブして帰りますか」

「アホ」

 藍色に染まる集落を車窓から眺める。ぽつんと小さな野良着姿が遠くの畦道を歩いている。家々に明かりはあるが、対向車線をすれ違う車はまばらだ。

 トナミフーズは冷凍食品の製造販売を手掛ける従業員四百名弱の食品会社だ。近年は外食産業にも参入し、関東だけではなく東北地方にも販路を広げつつある。

 副社長の砧正輝と妻の秋保あきほは昨夕、汐小路町を訪れた。海岸通り沿いの民宿〈やすゑ〉に到着したのは午後六時ごろだったという。

 午後九時過ぎ、砧正輝は煙草を切らしたことに気づいた。代わりに秋保が最寄りのコンビニエンスストアへ足を運ぶこととなった。砧夫妻はこの民宿を毎年のように利用しており、近くの自動販売機には好みの銘柄がないと知っていた。

 宿の主人と将棋を打つなどしていた正輝は、午後十時半になっても妻が戻っていないことに気づいた。携帯電話は持っていかなかったらしく、部屋に残っていた。道に迷っているのかもしれないと宿の主人に相談し、近隣を探すことになった。雨の中、傘を差し懐中電灯を手にした二人は箕輪家の別荘に付随する駐車スペースで被害者を発見した。記録によれば一一九番通報があったのは午後十一時二分だった。

竜二りゅうじさんは、どちらだと思います?」

 反町は、下の名前を竜二という。親しみを込めているつもりなのか、二人きりになると日吉は反町のことをそう呼ぶ。

「プロか、アマチュアかってか」

「とどめを刺さなかったのは、素人くさいですよねえ」

「さあ、どうだろうな」

 砧秋保は背後から、左足の太腿と右胸を撃たれていた。それぞれの傷口から手術で二五口径の弾丸が摘出されている。傘は畳んだ状態で傍らに放置され、雨で全身が濡れていた。内蔵や神経を逸れていたおかげで致命傷ではなかったが、体温が低い状態で失血し続けたことが身体を衰弱させたのだろう。発見から十五時間以上が経過したが依然として意識を回復していない。

 降り続く雨に流されたのか、被害者が倒れていた地点以外からは血痕がみつかっていない。凶器として使用された銃もみつかっていない。手術で摘出されたものと同じ線状痕の弾丸を、鑑識班が別荘の庭園からひとつ発見した。射線は駐車スペースから別荘へと向かっていた。

 犯人と被害者の行動は次のように推察された。犯人は道路側の暗がりに隠れていた。そこへ通りがかった被害者に銃を向けた。二五口径の銃は手の平で覆い隠せるほど小型だ。命中精度を高めるには至近距離に近づかなければならない。

 恐らく秋保は不審者に気づき、とっさに背を向け別荘の方向へ逃げだした。来た道を戻らず別荘へ向かったのは、所有者が留守だとは知らなかったのか。あるいは相手が銃のため、遮蔽物がある林へ逃げこむべきと判断したのか。犯人は三発を撃ち、二発が足と胸に命中、一発は外れた。被害者の絶命を確かめないまま犯人は現場から逃走した。

 犯行時刻はいつか。砧秋保が宿をでた午後九時過ぎから、正輝らによって発見される午後十一時までなのは間違いない。犯行現場脇の生活道路は宿からコンビニエンスストアへの最短経路だ。コンビニの店員は、被害者が来店した記憶はないと証言し、それは監視カメラの映像によって裏づけられた。

 したがって秋保が宿をでた直後、午後九時から九時半の間に事件が起きた可能性が高い。椚啓太の家から帰ろうとした藤沼春樹が駐車スペースへ来たのが午後十時前後だったとすれば、すでに被害者は撃たれて虫の息だったことになる。

 発見が更に遅れていれば被害者は死亡しただろう。だが、それは運の問題に過ぎない。日吉が指摘したとおり、犯人はあえてとどめを刺さなかったとしか思えない。

(それよりも問題は)

「なにか考えがある、て顔してますね」

 視線を走らせる。暗がりに、つぶれた大福みたいな顔がニタニタ笑っている。

「運転してろ」

 たいした考えではない。恐らく日吉も薄々察しているだろう。たかが雑談とはいえ、明確な根拠なしには口にできないこともあるというだけだ。

「東京のほう、どうですかね」

「もう、結果はでてるだろうな」

 トナミフーズが関わる事件はこれが初めてではなかった。十二月二十日の早朝、東京都豊島区にある藤枝衛ふじえだまもる宅の表札に、一発の銃弾が撃ちこまれているのを新聞配達員が発見した。藤枝はトナミフーズの代表取締役社長を務めている。

 暴力団関係者による脅迫行為の疑いが濃いとして、警視庁組織犯罪対策部が捜査を進めていた。社長宅に撃ちこまれた銃弾と同じ銃から発射されたことが確認されれば、今回の事件もまた組織的犯行の一環とみなすことができるだろう。

(だが――)

 そもそも豊島区の事件も個人の犯行だったとしたら。社長宅に銃弾を撃ちこんだ人物が、初めから砧秋保の殺害を計画し、組織犯罪にみせかけようとしているならば。

 視線が車窓へ吸い寄せられる。藍色に沈む夜景に、見覚えのある顔があった。車道の端、ガードレールと白線の間を長髪の人影が歩いている。ロシアの軍人が着ていそうな、ウール製のロングコートだ。

「顔見知りですか?」

 後方へ首を捻った反町に、日吉が声をかけた。

「……もりすみ」

森澄紺もりすみこんですか、あの?」

 日吉も後ろへ顔を向けかけた。しかし反町が眉をひそめたことに気づくと、肩を竦めた。

「車、駐めましょうか」

 やめておけ。そう告げながら反町はヘッドレストに後頭部を強く押しつけた。


 堤防沿いの駐車場に車を駐め、海岸通りを横断する。ここだったよな、と反町は看板を見上げた。左上隅に赤字で「汐小路港直産海鮮」の文字、そして墨字で「民宿やすゑ」の文字が綴られている。客室は二階の二部屋のみ、どちらにも明かりはない。

 ガラス戸の前に二つの人影があった。逆光に翳り、誰なのか見分けがたい。「シャカさん」と反町は声をかけた。おう、と釈迦河しゃかがわが返事をする。トレンチコートの襟を立て、顔をしかめている。

「寒いな」

「年のせいですよ」

 おどけ半分で反町は応じた。釈迦河と年齢は十才ほどしか離れていないが、どことなく父親の面影がある。反町の父は豪胆だったが、酒が過ぎるとだらしなくなり、妻に諌められるたび気弱さを垣間みせた。

 背を向けていた男がふりむいた。反町に軽く一礼する。被害者の夫にしてトナミフーズの副社長、砧正輝だ。革のコートに厚手のセーターを着ている。眉が濃く、意志の強さを感じる。三十代後半、スポーツジムにでも通っているのか均整のとれた身体だ。

 反町は、数時間前に日吉の携帯電話で目にした正輝のブログを思いだした。いわゆる「社長ブログ」だ。実名を公開し、世事に絡めて経営理念を語ったり、経済書の感想を述べたりしている。

 そういった文章を除けば大半は一般的なブログと変わらない。休暇には国内を旅行することが趣味らしく、金沢の兼六園で妻の秋保と二人、仲睦まじく肩を並べた写真があった。若さをアピールするかのように唇から健康的な白い歯を覗かせている。

 年末年始に休めなかったため息抜きをしたいと、汐小路町への小旅行の予定もブログでは触れられていた。この記事さえ読んでいれば誰でも標的の顔を知り、待ち伏せできたことになる。

 それすら、この男の冷徹な計算のひとつに過ぎないのか。犯人は偶然から秋保の姿をみかけ、跡をつけたと仮定してもおかしくはない。だが、できれば人寂しい場所へおびき寄せたいと考えたはずだ。

 砧秋保があの道路を通るよう、誰かが仕向けたのだとしたら。それが可能だった人物には宿の主人と一緒だったというアリバイがある。

「疲れているところを悪いが」手にした紙に、釈迦河が視線を落とす。「またでかけてもらうことになりそうだ」

「なんです、それ」

「さあな」

 反町たちの車に同乗するため、釈迦河は民宿〈やすゑ〉の玄関で待っていた。ガラス戸越しに、タクシーを降りる砧正輝の姿に気づいた。そこへ髪の長い人物が近づき、正輝にこの紙片を手渡したという。興味を抱いた釈迦河がガラス戸をでたときには、紙を渡した人物はすでに立ち去っていた。

 風が吹き、釈迦河の手にする紙が震えた。三つ折りにされた無地の便箋用紙。罫線を無視するかのように大きめの文字が綴られている。午後九時、古輪ふるわ駅前のカフェ〈ドニエプル〉にて会いたい。砧秋保を襲った人物に心当たりがある。

「この文面どおりなら、情報提供者だな」

 ただ、最後の一文だけがわからない。別の意味では小学生でもわかる文章だろう。しかし、そんな記号の連なりをここに記す意図がわからない。

「あるいは恐喝者か」

 瞼を細め、釈迦河がそっと視線を送る。ろくに関心のない素振りで、正輝はただ紙片を見下ろしている。

「それとも、ただの妄想狂か」

 最後の一行。そこには〝2+3=?〟と綴られていた。

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