二 銃撃事件
高校に通っていた三年間、
通路を挟んだ向かいの席に見慣れた顔の中年男がいた。くたびれたコートに禿げあがった額。やや斜めに崩れたような座り方をし、半分に折った新聞を顔の前に立てる。毎日のように顔を合わせるうち、存在を意識するようになった。
駅に停車するたび寒風が吹きこむ。それを嫌い、乗降口から遠い席を選ぶ。自然と二人とも座る位置が似てくる。通路を挟んで春樹と中年男は毎朝のようにお見合いをした。視線を逸らし、おたがいを無視する。階段の手すりが垢汚れするように正面やや斜め左の方向が霞んでいく気がした。
「昨日は車、どこに駐めた?」
「どこって、前と同じだよ。
箕輪は横浜で不動産会社を営んでいる人物らしい。昨日、春樹は啓太の家を訪れた。そのとき二百メートルほど離れた場所に車を駐めた。箕輪家の別荘の敷地だが、別荘を留守にしているときなら借りて良い約束をしていると啓太から聞いていた。
仰向けになると春樹は掛け布団を首元まで引きあげた。今日は土曜、講義はない。空いているほうの手で卓袱台をまさぐる。指先がつかんだのは期待したエアコンのリモコンではなかった。条件反射的にリモコンでテレビの電源を入れる。
「どうかした? 俺、どっかぶつけてた?」
「いや、そうじゃない。え、なんですか?」
声が遠ざかった。誰か他にいるらしい。敬語になったということは同じ学部の先輩だろうか。
「帰ったの何時頃だったか、覚えてるかってさ」
「昨日? ウーン……」
椚啓太と藤沼春樹は大学二年生、経済学部に所属している。教養課程で何度も顔を合わせるうちに自然と雑談を交わす仲になった。啓太は地元民だが、他県出身の春樹は六畳一間のアパートで一人暮らしをしている。
昨日は午後の講義が休講になった。講義室に残った顔馴染たちと会話するうち、啓太が新しいパソコンを欲しいと言いだした。ネットで買うのもいいけどよ、届くのに何日もかかるのが嫌なんだよな。なんか気持ちが醒めるだろ?
だったら、クルマ貸そうか。午後なら俺、暇だから付きあうよ。春樹の提案に、啓太は面食らった顔をした。考えを巡らせるようにあらぬ方向を見やり「じゃあ、頼む」と言った。
大学から月極駐車場まで十五分かけて歩き、春樹の運転で県庁所在地の駅前にある大型家電量販店に向かった。購入したパソコンを荷台に積み、
レンタカー代と称して夕飯をご馳走になった。夕食後も啓太の私室でパソコンの設置を手伝うなどした。
「思いだせないな。どうかしたの?」
「知らないのか。銃撃だよ、銃撃」
西部劇のワンシーンが脳裏をかすめた。二丁拳銃のガンマンが瞬く間に蜂の巣にされる。日本で? 春樹のつぶやきに、いいかげん起きろと啓太が怒鳴った。
「昨日の夜、トナミフーズって会社の副社長の奥さんが撃たれたんだよ。意識不明の重体だってさ」
「へえ。最近、多いな」
去年の暮れにも似た事件があったはずだ。記憶をたどろうとすると雑音がした。啓太が送話口を手の平で覆ったらしい。誰かとやりとりする気配がした。
「ケイジさん、話を聞きたいってよ。今から来れるか?」
「誰さ、ケイジさんって」そんな名前の先輩、いただろうか。
「まだ寝ぼけてるな。警察だよ、警察」
どうして俺が、と言い返そうとして、無意識に視線をテレビへ向けた。ようやく春樹は事情を察した。ヘリコプターからの空撮だろうか。昨日、春樹が車を駐めた場所。一三インチのモニタに箕輪家の別荘が映っていた。
昨夜の長かった雨が嘘のように、気持ちの良い青空が広がっていた。生活道路に沿って白い砂利が敷かれている。行儀よく一列に並べれば普通乗用車を七台は駐めることができるだろう。
乾いた砂利の上に、今は三台の車が並んでいる。ワインレッドのセダン、黄色いミニバン、水色の軽トラック。信号機と同じ色だな、と春樹は思った。立入禁止を意味する黄色いテープ、数字が描かれた板。刑事ドラマで見覚えのある光景が広がっている。
雑木林の向こうに覗くスレート屋根は、箕輪家の別荘だ。駐車スペースから斜めに小道が林の奥へ伸びている。その道の脇に、刑事が立っていた。ファーが付いたダウンジャケットを背広の上に羽織っている。痩せているが脆弱な印象はなく、ボクサーのように目つきが鋭い。
小一時間前、啓太と電話を代わった刑事は
反町が右手を上げた。ここにいるぞとばかりに手をふる。
「ここらなんですけどね」
昨日の夕方、車を駐めた場所に春樹は立っていた。反町がいる地点まで十メートルはあるだろうか。銃撃された被害者はそこに倒れていたという。
昨日の出来事をふりかえる。家電量販店を出発した春樹たちはまず椚家に向かった。パソコンが入ったダンボール箱を二人で運び入れた。啓太の父親が車で帰ってくると邪魔になるため、椚家の庭からここへ春樹の車を移動させた。弱い雨が降っていたが陽は落ちておらず、信号機カラー三台の隣に並べて駐めたことを春樹は覚えていた。
「ほら、これ倒されてるけど、見覚えは?」
反町がひょいっとどいて、足下を指す。春樹は目を細めた。一抱えほどの大きさの石が横倒しになっている。五キロの米袋より一回り小さいほどか。
距離があるため視認しにくいが、泥が付着したり、周囲の苔が乱れている状態からすると、長年そこに置かれていた庭石だったのだろう。
「すみません、やっぱり憶えてません」
うめき声は? 隣にいた
「いや、記憶にないです」
耳を澄ませてみる。かすかに波の音が聞こえた。汐小路町は海に面している。去年の夏、教養課程で知りあった一年生同士で海水浴をした。春樹を含む数人は椚家に泊めてもらった。そのとき初めて春樹は車をここに駐めさせてもらった。
箕輪家にとって別荘は節税が目的であり、誰か滞在することは少ないという。当然、箕輪家の誰かが駐車するときには場所を譲らなければならない。そういったことを啓太から説明された。
こんなに広い場所が駐車場で、しかも自分ではろくに使わないのか。春樹がつぶやくと、啓太は「ここら全部、箕輪さんの土地さ。うちの家もな」と言った。あきらめのような、自嘲するような、どちらとも判断のつかない薄い笑みを浮かべていた。
「あの、こいつが帰った時間なんすけど」
こちらへ戻ってきた反町に、啓太が話しかけた。
ジャージ姿にどてらを羽織り、足元は素足にサンダル。ぼさぼさの髪は寝癖だらけで、無精髭が伸びている。下瞼の縁に沿ったニキビの跡が目立つ。
啓太にしてみれば近所の土地とはいえ、人の目を気にしなさすぎる。最低記録更新だ。上背があり、なにかスポーツでもしているのか体格も良い。もう少し身なりに気を遣えばモテるだろうにと春樹はこれまで何度も思った。
「思いだしましたか」
「いや、これ」
スマートフォンの画面を見せる。見覚えのあるデザインからしてツイッターの画面らしい。アバター画像がすべて同じだからタイムラインではなく啓太のツイートだけを表示しているのだろう。ツイートのひとつを指差した。
「これつぶやいたの、アイツがいなくなった後なんで」
だとすると、十時くらいだと思うんですけどね。スマートフォンを持ったまま空いているほうの手で啓太は後頭部を掻き、頭を下げた。へこへこと卑屈に何度も頭を下げかねない勢いだ。
「十時前? 十時過ぎ?」
「さあ、そんな離れてないだろうけど」
十時前後ね。どうも、ありがとう。反町の返答はどことなく気のない調子だった。当然だろう。昨晩、この駐車場に春樹が来た正確な時刻がわかったところで、肝心の春樹がなにも目撃していないのでは意味がない。
「ここ、夜は暗いんですよねえ」
生白い顔の日吉が、恵比須様のように微笑みながら顔を上げた。つられて春樹も見上げる。道路の向こうに外灯があった。それを除けば光源になりそうなものが見当たらない。
雨の中、外灯の光を見上げた記憶が蘇る。啓太の母親に貸してもらった紳士傘を差し、凍える指に息を吐きかけながら歩いた。
俺が車に乗ったとき、人が死にかけていたんだろうか。撃たれた傷から血を流しながら、かぼそい声で救けを乞うていたんだろうか。春樹はもう一度、反町が立っていた地点をみつめた。しかし雨の中、その方向に視線を向けたかどうかすら思いだせなかった。
送りますよ、という刑事たちの誘いを春樹は断った。啓太と二人、肩を並べて椚家の方向へ歩く。乾いたアスファルトの道が大きく弓なりに右へとカーブしていた。左右を雑木林に囲まれ見通しが悪い。
「怖かったね、あの刑事」
声が返ってこない。
「啓太、びびってる?」
無理もない。銃を手にした男が、まだこの近辺をうろついているかもしれないのだから。住人たちには脅威だろう。だが、啓太はきょとんとした顔で春樹の顔をみつめた。
「いや、ちょっと考えててな」
手の平で、顎の無精髭を一撫でする。
「なにを」
「どうして石を倒したんだろうな」
刑事の骨ばった手が脳裏に浮かんだ。その指差す先、転がる庭石。
「それはまあ……撃たれて、地面に倒れて」なにもない宙を掻きむしるジェスチャーをしてみせる。「苦しみながら起きあがろうとして、手近なものをつかんだんじゃないかな」
なんだ、そんなことか。心配して損したとばかりに啓太は胸を撫でおろした。
「というか、怖くないの」
「ヤクザなら、関係ない奴は襲わないだろ」
「暴力団のしわざとは限らないよ。銃くらい、ネットで手に入るかもしれないし」
「そうだな」
まったくそのとおりだ、と啓太はうなずいた。いつか見た、自嘲とあきらめの混じった笑みを浮かべている。
雑木林を抜けると水の枯れた田んぼが広がっていた。薄く雲がかかっているが、おおむね晴れている。民家が間隔を空けて散らばり、人の姿はない。道路に沿った側溝から水の流れる音が聞こえる。まだまだ寒いが、雨が降ったせいか昨日よりは暖かい。
「怖いな」ぽつりと春樹はつぶやいた。
「そりゃ、銃だからな」
「うん、それもあるけど。そうじゃなくて」
高校のとき、冬は電車通学でね。春樹はそう語り始めた。毎朝、同じ車両の同じ席に座ったこと。向かい側にいつも同じ中年男性がいたこと。それがずっと続いたこと。
「そのオヤジはおまえのストーカーだった、なんてオチでもつくのか」
「ううん、いなくなっただけ」首を左右に軽くふりながら、春樹は目を伏せた。
「他の車両に乗るようにしたんだろうね」
「それがどうしたってんだ」
後になって気づいたんだ。あの人も同じ気持ちだったんだなって。毎朝、向かい側に同じ顔があって。なんだか気になって、嫌になって、それでも気にしていないフリをして。
「俺よりも先に、あの人のほうが行動したんだなって」
大学に入学して二年目。流されていると思うことが多くなった。大学やスーパーまでなら徒歩で問題ない。父にはそう言ったが、車を買うよう強く勧められた。母さんと結婚できたのもクルマがあったからだぞ。日焼け顔の父に強く背中を叩かれた。毎月のガソリン代や駐車場代を家計簿につけるたび、自分はなにをしたいのか、なにをしなければならないのか、よくわからなくなる。
啓太はパソコンで資産運用について勉強するつもりだという。デイトレーダーになって、億万長者になるかもな。そんな軽口に頷きを返しながら部屋を見渡しても、四季報さえ無かった。「煙草はやめたんだ。中学のとき、健康に悪いって気づいてな」「金の指輪、二つもしてやがってよ。もう半荘だけって頭下げるから続けて、二十万だぜ、二十万」本当のことなのか戯言に過ぎないのか確かめようもない啓太の言葉に耳を傾けるうち、漠然とした不安が少しだけ薄れていくように感じた。
「こわいよ」
自分は当たり前に暮らしているだけなのに、ある日突然、どうしてお前はなにもしなかったんだって言われるのは。
春樹の言葉に返事はなかった。視線を向けると、啓太は睨みつけるような眼で空を見上げていた。薄い雲がゆっくりと漂い、冬の太陽を遮ろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます