名探偵は、性別不明。
小田牧央
第一話 見敵必殺
一 夢の行き先
「
「
――平野耕太『HELLSING』3巻
ハイヒール、履いてみたいですね。ぽつりと彼女は言った。今にも泣き顔に転じそうな弱々しい笑みを浮かべている。
――でも、なんだか怖くて。
語尾を途切れさせ、口元を手で覆って黙りこむ。年寄りじみた鼈甲ぶちの眼鏡に表計算ソフトの画面が反射していた。見積の数字を直すのはこれでもう五度目だ。キーボードの手前に肘をつき、彼女は寒さをこらえるように両手を擦りあわせた。
(あの娘)
凍てついた風がうなじを撫でる。
ホームのベンチから駅舎を眺める。トタン屋根の古ぼけた駅舎は上京前となにも変わっていない。冷えた握り拳をコートのポケットに突っこみ、正輝は夢の記憶を反芻した。
(たしか、名前は)
思いだせない。インターンに応募してきた学生の一人だった。擦り切れたトートバッグが垢抜けなかった。左目の瞼の下に涙ほくろがある。
下り電車の到着を告げるアナウンスが流れた。正輝が乗るつもりだった列車はうたたねの間に去ってしまったらしい。上りなら鈍行でもなんでもよかったのだが。
どのくらい時間が過ぎたのだろう。手首を確かめようとして、やめた。限定モデルのダイバーズウォッチは換金しても五桁にさえ届かなかった。
北風が鉄路を駆け抜けていく。思わず首を竦める。マフラーはどこに置き忘れたのだろう。こんな吹きさらしのホームより待合室に行くべきか。自分を知っている誰かがいるかもしれないと思うと気が進まない。
もう誰か気づいただろうか。従業員十名足らずのベンチャー企業で休み明けにコアメンバーの一人が無断欠勤したと知られたら、勘の良い鼠は沈没間近の船から逃げだすかもしれない。
(どうしてるかな、あいつら)
同じ学部の気の合う友人同士。コンサルタントからデバッグまで、なんでもやった。情報産業は右肩上がりの時代だった。大手企業が安価なパッケージ製品や高度なセキュリティ技術で対抗してこなければ、もう少し持ち応えていただろう。
終電帰りが続いても、つらくはなかった。納期間際に顧客から当然のような顔で仕様変更を求められても冷静に対応できた。胸が痛んだのは仲間の無能を
向かいのホームに特急列車が到着した。平日の早朝、地方都市の駅に降りる客は少ない。跨線橋の階段に靴音が響く。正輝は目を伏せた。両足の間に置いたボストンバッグは母に押しつけられた三ヶ日みかんで膨らんでいる。
昨夜の記憶が蘇る。座敷に集まった面々に事業の再編計画を説明した。これからの五年間でレガシーシステムを見直す中小企業がどれだけあるか。そんなことに興味を抱いた者は恐らく一人もいなかっただろう。
老眼鏡をかけた父が幾度となく頭を下げていた。俺に足りなかったのはあの姿だと気づいたとき
尻拭いだけ果たしたなら勘弁してもらおう。辞表の書き方はネットで検索すればわかるだろうか。それとも検索すべきは、ここから近い自殺の名所か。
うなだれたまま正輝は自嘲の笑みを浮かべた。大学に進学したときも、この土地に戻ってくるつもりはなかった。それだけは今度も同じだ。瞼を閉じ、念じる。今度こそ、ここから逃げてやる。
跨線橋のほうから近づいてきた足音が、目の前で止まった。
「砧さん」
コンクリートの上で立ち尽くす、白いハイヒール。
「あの、私……」
正輝は顔を上げた。幸の薄そうな、けれど雪のように白い肌。なにか言いかけたまま彼女は口ごもり、涙ほくろのあたりを人差し指で掻く。落ち着きなく、薄汚れたトートバッグを肩にかけなおす。
家族から逃げた。故郷から逃げた。友人からも、人生からも逃げようとした。だが、なぜだろう。この女からは逃げられる気がしない。正輝は深々と息を吐いた。白く曇った息が風に散った。
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