過去に見た光景

 学校での皆の話題は相変わらず『EA』だった。カエデがこっちを見て笑った。ツバサに近寄ると真っ赤になって逃げられた。リツがハンカチを拾ってくれた。そんな、メンバーに関する情報や噂話。あの人たちはバンドをしているってだけで普通の人なのに、みんなはまるで芸能人のように語っていた。

 そんな『EA』の、しかもボーカルとキスしちゃった……。あの時は何も考えられなかったしむしろ、触れてほしいとさえ思っていた。けれど今思ったらこの恋、かなり無謀………ふっ。苦笑いのような自分を嘲笑するような、そんな笑みが漏れる。悩むと言うより何てことをしてしまったんだろうと言う憂いのほうが大きい。莉奈に相談しようか。でも『エージさんとキスした』なんて恥ずかしくて言えない。なんて、一人で赤していた時だった。


「片桐さん、ちょっといい?」


 突然話しかけられ、体がビクッと跳ねる。声の主を見ると、それは学年のリーダー的存在の山村さんとその一味だった。嫌な予感がした。背中を冷や汗が流れ落ちた。

今日用事あるから、とかちょっと急いでるから、とか断る理由はいっぱいあったのかもしれない。……けれど私にはできなかった。ただただ首をブンブン縦に振ることしか、できなかった。

 連れて来られた場所は屋上だった。莉奈に助けを求めることすらできなかった私は、山村一味に囲まれて怯える小動物のように小さくなっていた。


「片桐さん」


 山村さんが口を開く。私は小さな声ではい、と返事をした。


「あなた、『EA』のストーカーしてるんですって?」


 ……はい?理解できない言葉にポカンとする私に、山村さんは続ける。


「エージの家行ったり」


 ……スタジオあるからね。


「リツの家にも行って」


 リツの家=私の家なんですけどね。


「カエデの車にも乗ったんでしょ?」


 いやいや、その時点で知り合いだって気付こうよ!


「私らも皆、『EA』は大好きだから気持ちはわかるよ?だけど迷惑だってわかろうよ」


 『EA』に近付く女=ストーカーという極端な思考の持ち主に反論するのは勇気がいるけれど、何か言わないと本当にストーカーだと思われる。勇気を出して口を開く。声は震えていたけれど。


「あ、あの」

「なぁに?」

「ストーカーじゃ、ないんで……」

「じゃぁ何なの?」


 知り合いだって言っていいのかな。けれど、そう言わないと帰してくれそうにない。


「……知り合い、なんです」


 私がそう言った瞬間、山村一味はクスクス笑った。何がおかしいの?その理由に心の底では気付いている。悔しさに唇を噛んだ。


「あなたが『EA』と知り合い?すごい妄想ね」


 山村さんは笑いながらそう言った。どうして、『EA』と知り合いだってだけど笑われなきゃならないの?


「私、リツの妹だから」


 悔しかった。エージさんと釣り合わないって、言われている気がしたから。


「だから妄想は「ほんとだから」


 私の真剣な雰囲気が伝わったんだろう。山村一味は笑いを止めると、じっくり私を観察してきた。……そして。


「証拠は?」

「え……?」

「ここでリツに電話して」

「……」

「できないなら、あなたはストーカーだって学校中に広める」

「……」


 私はゆっくり、携帯を取り出した。そして兄に電話をかけた。コール音が鳴る度に焦りが募る。もし兄が出なかったら、私は……。10コールほど鳴った時だった。プツッと音がして、向こうの音が聞こえた。


『ハルちゃん?』


 その声は、兄のものではなかった。けれど、よく知っている声だった。


「楓、さん……?」


 私の声は笑えるくらい震えていた。けれど私の言葉を聞いて、山村一味は明らかに動揺する。


『あぁ。律今トイレ行ってんだ。どうしたの?』


 よかった。楓さんが兄と一緒にいてくれて、よかった。


「あ、あの……」

『あ、律帰ってきた。代わるわ』

『ハル?どした?』


 兄の声を聞いて、安心感から涙が出そうになる。


「あ、あのね、兄……」

『ハル?大丈夫か?どうした?』


 兄は泣きそうな私に気付いて、慌てている。山村さんは私の耳元に近寄ってきて、そして


『EA』に会いたいな


 そう言った。どうしよう、兄。『EA』のメンバーと過ごした場所はどこも大切な場所なのに、私と莉奈だから入れてくれた特別な場所なのに


「兄……」

『ん?』

「スタジオに友達、連れて行っていい……?」

『莉奈ちゃん、以外の?』

「うん……」


 ごめんなさい『EA』のメンバーにとってもすごく大事な場所なのに。私が弱いばっかりに、ごめんなさい。


『ハル』

「……」

『俺はお前のこと何でも知ってる。もちろん過去もな』

「……っ」

『だから俺は、連れて来るななんて言えねぇ』

「兄……」

『だけどここは大切な場所だ。だから俺以外は怒るかもしれない』

「うん……」

『たぶん、英司は一番怒る。それは覚悟しとけ』


 本当は胸が痛かった。エージさんが嫌がることは目に見えてたから。だけど、私には無理。逆らうなんて、無理。


「大丈夫……」


 だから、嘘をついた。


『そっか、じゃぁおいで』


 兄はそう言って電話を切った。兄はたぶん、私以上に怒られる。ごめんね、兄……。


「なんて?」


 山村さんの期待に満ちた瞳がすごく嫌だった。


「来ていいって……」


 私が明らかに泣きそうなのにも、気付かないフリするこの人が嫌だった。それから私は山村さんと二人でスタジオに向かった。一味の人たちも行きたそうだったけれど、山村さんが


「あまり大人数で行ったら迷惑」


 って言ったから来なかった。


「ねぇ、ハルちゃん。エージってどんな人?」


 今まで『片桐さん』って呼んでたくせに急に馴れ馴れしくなる山村さんに目眩がした。


「エージさん、は……」

「私、みんな好きだけどエージが一番好きなんだよねっ。でも冷たいって聞くなぁ。話しかけても反応ないって」


 確かに反応がない時はある。そんな時はきっと、話聞いてない。聞いてたらちゃんと、「あ」とか「う」とか「ん」とかなぜか一文字だけど返してくれるから。けれど、そんなエージさんをこの人に知られたくなかった。『私だけが知っているエージさん』それが欲しかった。だから、


「エージさんのことは、わかんないや」


 嘘をついた。その後、自分の卑怯さに落ち込んだけれど。


「そうなんだぁ。エージさんって近寄りがたいんだね」


 けれど、全部が嘘ってわけじゃなかった。そりゃあ、普通の人に比べたら知ってるとは思う。だけど『よく知っている』ってレベルでもない。好きだけれど、大好きだけれど私は。エージさんのことを、あまりよく知らない。

 ゆっくり歩いたはずなのに、お城はとても近く感じた。着かないでほしいと願ったのは初めてだ。そして私は、スタジオに足を踏み入れた……。


「おかえり、ハルちゃん」


 楓さんは、いつもの王子スマイルだった。特に怒ってるようには見えない。兄は私に背を向けて座っている。


「兄……」


 私が呼ぶと、兄はゆっくり振り返った。不安だったのに、怖かったのに、その不安はいい意味で裏切られた。二人とも、ものすごく『普通』だった。


「おう、ハル。久しぶり」


 兄はそう言ってあたしの髪をグシャグシャした。


「兄……」


 そして、泣きそうな私の頭を撫でた。


「君がハルちゃんの友達?」


 楓さんが山村さんに目を向ける。山村さんは目を輝かせて微笑んだ。


「はい、ハルちゃんの友達の山村京香です。ファンだったから会えてすごく嬉しいです!」

「そっか、ありがとう。まぁ座りなよ」


 楓さんは山村さんにも王子スマイルを見せた。けれど、どこか雰囲気が刺々しい気がする。やっぱりスタジオに連れて来たこと怒ってるのかな……?

 その時、扉を開けて莉奈が入ってきた。


「おう、莉奈ちゃん」


 莉奈は兄の言葉に答えて、そして楓さんの隣に座る山村さんに気付いて動きを止めた。


「あれー?なんで早坂さんがいるの?」


 山村さんはバカにしたように言う。私は受け入れられた、だけどあんたはここにいていい人間じゃないでしょ。そんな雰囲気で。


「私は、律とハルの幼なじみで……」

「幼なじみだからって入っていいのぉ?」


 じゃぁ山村さんは何なの?あんたは私の友達でもないじゃない。そう思った時だった。


「あんま調子に乗らないほうがいいよ。山村さん、だっけ?」


 兄の穏やかな、けれど低い声が山村さんを黙らせた。


「部外者なのはどっちかって言うと莉奈ちゃんじゃなくてあんただから」


 山村さんは目を丸くして動かなかった。


「ここに来ていいって言ったのもあんたのためじゃない、ハルのためだ」


 兄の言葉に私の目からは涙がこぼれ落ちた。誰にも涙に気づかれないように、私は下を向いた。


「ハルと莉奈ちゃんにナメた口きいてっと痛い目見んぞ」

「あと」


 兄の言葉の後に楓さんが続く。楓さんはいつもみたいに、飄々と言い放った。


「英司の前じゃ存在消しといたほうがいいと思うよ」


 山村さんがゴクリと唾を呑み込むのが聞こえた。


「翼は……まぁ、アイツは関係ねぇ」


 翼さん……、どんまい。



「莉奈ちゃん、こっち座りなよ」


 兄が莉奈を呼ぶ。


「ハルちゃん、英司起こしてきてくれる?」


 そして楓さんは、いつもみたいに優しく私に微笑みかけた。楓さんは、知ってるのかもしれない。……私の、あの過去を。私はコクンと頷くとバナナを持ってスタジオを出た。

 エージさんの部屋に入ると、エージさんはいつものようにベッドで寝ていた。気持ちよさそうな、綺麗な寝顔。どうして男の人なのにこんなに綺麗なのか。少し悔しくなって、バナナで頬をツンツンしてみた。エージさんは「んー…」と唸って寝返りをうった。

 ……可愛い………。調子に乗って何度もツンツンした。その度に寝返りを打って悩ましげな声を出すエージさんに悶絶する。けれどそんな私の悪戯は、皇帝の一言で終止符が打たれた。


「楽しいか」


 低い声だった。明らかにずっと起きていた声だった。私は面白いくらいピシリと固まった。その間に皇帝は起き上がり私からバナナを奪って食べ始めた。私は未だに動けない。そんな私に気付いた皇帝はフッと笑った。


「ボケっとしてっとチューすんぞ」

「……っ」


 私は真っ赤になって2、3歩下がる。そんな私に、皇帝は不機嫌な声を出した。


「……俺さ、……俺にチューされたくねぇのか」


 今絶対、俺の後に『様』付けようとしてやめたよね?絶対『俺様』って言おうとしたよね?!


「どうなんだよ」

「嫌、ではないですけど……」

「けどなんだ」

「なんでキスすんのかわかんないです……」


 あのキスから、ずっと気になっていたことを言ってみた。だって普通、キスって恋人同士がするものじゃないの?何て返ってくるんだろう。少し不安になったけれど、皇帝の反応は予想外のものだった。


「キスしたいからすんじゃねぇの?」


 そう言ったエージ様はそれ以外に何があると自信満々の顔をしていた。た、確かにそうなのかもしれないけど……!そういう答えを求めていたんじゃない……。

 はぁ、とため息を吐いて、私は諦めることにした。エージさんにこんなことを聞いても、話が通じるわけなかった。

 しばらくして、バナナを食べ終わったエージさんが立ち上がって服を着始める。そこで思い出した。スタジオには山村さんがいる。楓さんは怒っていなかったけれど、エージさんは怒るかもしれない。どう、しよう……


「陽乃?」


 扉の前に立ったエージさんが不思議そうに私を見る。けれど私は動けなかった。体がガタガタ震えて、言うことを聞かなかった。


「陽乃……」


 エージさんが私に近づいてくる。けれど息苦しくなってきて、体が硬直してきて。


「陽乃!」


 大好きなエージさんの声ですら、聞こえなくなっていた。あぁ、この感覚久しぶり。苦しいのになぜか冷静な頭の中で私はそんなことを思っていた。倒れかける私の体をエージさんが支えて抱きしめてしてくれたのもわかった。けれど止まらなかった。苦しかった。

どれくらい時間が経ったのかわからない。どんどん固まっていく体が怖くて、目の端に涙が滲んだ。その時だった。


「ハル!」


 私を呼ぶ声が聞こえて、私はエージさんじゃない匂いに包まれた。


「大丈夫、俺がそばにいるから大丈夫」


 優しくて、大好きな声だった。


「ごめ、んね…あ、に」


 私は必死で兄にそう伝えた。


「うん……いいんだよ、全然いいんだ。俺はハルの全てを受け入れるからな」


 懐かしい言葉だった。兄は昔、私がこうなる度にその言葉を言った。


『俺だけはお前の全てを受け入れる』


 泣きながら謝る私を、兄はいつも抱きしめてくれた。そして兄は、その言葉通りどんな私も受け入れてくれた。兄の存在に私は落ち着きを取り戻してきた。そしてまだハッキリしない意識の中、兄を見た。兄はあの頃と同じ、優しい笑顔だった。

 起き上がることができるほど復活した時、エージさんがいないことに気付いた。


「英司スタジオに降りたよ。律だけのほうが安心できんだろって」

「……っ」

「俺を呼んだのもアイツだ。あとで礼言っとけよ」

「……うん、わかった」


 エージさん、ごめんなさい。そう思うけど私は


「エージさん、ありがとう」


 そう言うことにした。


「あっ」

「ん?」

「エージさん、山村さんと大丈夫かな……?」

「さぁなぁ?だけど、安心しろ」


 兄は私の頭に手を置いた。


「英司はお前を傷つけるようなことはしないし、お前を嫌いになることも絶対にない。わかった?」


 兄には全部お見通しだった。私が恐れていたこと、全部。そして


「英司に惚れてんだろ」


 ……そこまでバレていた。真っ赤になる私を見て兄はフッと笑った。


「やっぱりなぁ。兄ちゃんは全部お見通しだ」

「……」

「お前の今日の下着の色も……」

「キモイ」

「全部……」

「ほんとにキモイ。兄最低」


 私は兄を置いてスタジオに向かった。ちょっと、いや、相当キモイけど。私は兄が、大好き。

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