ストーカー女とキス

 今朝、携帯を開いたらエージさんからメールが来ていた。ちょっと、いや、とても嬉しくて急いでメールを開いて……絶句した。『が』って一文字だけが画面に映し出されていたからだ。『が』ってなに?もっと下になんか書いてあるの?って思ったけれど何にも書いていなくて。昨日の夜は兄はバイトだったから解読してほしくても帰ってきていないし、私はエージさんにメールを返してみることにした。


『がってなんですか?』


 その返事は、お昼休みになってやっときた。


『がっ』


 小さい『つ』がついた!だけどまだまだ解読成功には程遠い。莉奈に見せても、もちろんわからなかった。んー?と首を傾げる私に、ようやく救いの手が差し伸べられた。


『学校終わったら英司に電話して。英司のメールそういう意味だから』


 楓さんからメールだ。あ、『学校』の『がっ』ね……て、そんなもんわかるかぁ!思わず携帯を床に投げつけてしまいそうになった。だけど私はちゃっかり二人からきたメールを保護した。記念すべき初メールだからだ。

 授業が終わると、私は従順な飼い犬のごとき速さですぐにエージさんに電話をかけた。


『……もしもし』


 受話器の向こうから聞こえた低い声に、心臓が高鳴る。……ああ、電話、いいかも……。


「は、陽乃ですっ」

『うん』


 エージさんはそれだけ言って他は何も言わない。……用事あるんじゃなかったの?


「あの……」

『なぁ。もう待ちくたびれた。早く降りてきて』

「へっ?」

『車で迎えに来てる。もう一人と一緒に早く降りてこい』


 莉奈ちゃんな、とエージさんに突っ込む楓さんの声が電話越しに聞こえた。


『30秒以内な』

「えっ!」


 そんな無茶な!そう思ったけれど、エージさんの中でもうカウントが始まっているらしい。じゃあなと言われて電話はすぐに切れた。私は急いで莉奈の席に向かう。


「り、莉奈!」

「ん?」

「車!30秒!始まってる!」


 私の言葉に莉奈はポカンとする。当然だ。この説明でわかる人がいるなら見てみたい。だけど今はそんなことに構っている暇はない。30秒以内に行けなかったら、皇帝エージ様のことだ。なにか意地悪されるに決まっている。私は戸惑っている莉奈の手を引いて走り出した。

 校門を出て辺りを見渡すと、黒い車が止まっていた。そしてその車にもたれて、嫌味なくらいに長い脚を伸ばしたエージさんが立っている。私はその車に向かってまた走り出した。エージさんは私と莉奈の姿を確認するとニヤリと笑った。


「5秒遅刻」

「えっ……!」

「とりあえず乗ろうか」


 運転席に座っていた楓さんが窓から顔を出す。私と莉奈は後部座席に乗り込んだ。


「ハルちゃん、意味不明なメール送ってごめんな」


 楓さんは車を発信させた後そう言った。どうして楓さんが謝るのだろう。チラッと前を見るとサイドミラーにふてくされたエージさんが映っていた。楓さんはくすくす笑いながらまた口を開く。


「英司メールできないんだよ」


 え……そ、そうなんだ。私が驚いてると、エージさんは拗ねた子どものような口ぶりで


「できないんじゃない。携帯が悪い」


 と、やっぱり子どもみたいな口ぶりでそう言った。


「昨日の夜、急にメールのやり方教えろとか言われてさ。教えてやったんだけど、文章打ってる途中で送信されちゃうんだよな」


 あ、だから『がっ』だったんだ……。


「この携帯おかしい」

「いやいや、お前が送信ボタン押すから送信されるんだ」

「押してねぇ。てか、送信ボタンってどこだ」


 携帯とにらめっこするエージさんが可愛くて、思わず笑ってしまう。エージ様は何故かそんな私を見逃さない。


「おい、陽乃。お前何笑ってんだ」


 ……やってしまった。助手席に乗るエージさんは振り返って私を睨んできた。


「あ、あの……」

「今時、メールできない奴なんてあんまりいないから笑われてんだよ」


 ……うん、楓さん、それ全然違うけど。


「……だからだ」

「へっ?」


 エージさんは私から目を離して前を向いた。


「お前に笑われんの嫌だからメール覚えた」

「エージさん……」

「俺のメール無視したら許さねぇからな」


 絶対絶対、エージさんのメールはすぐに返そうと心に決めた。


「エージさん」


 私は助手席に近づいた。あと少し手を伸ばせば触れられるのにこの、本当に少しの距離がもどかしい。


「メールできないからじゃなくて、そんなエージさんを可愛いと思ったから笑ったんですよ」

「俺を可愛いと思うなんていい度胸だな」


 ……完全に墓穴掘った。だけど、気づいてしまった。もしかしてエージさん、照れてる……?耳が少しだけ赤い気が……。そんなエージさんを見て楓さんが爆笑する。ねぇ、エージさん、もしかしたら私……

 なんとなく気づき始めてはいた。エージさんが笑ってくれると嬉しいし、エージさんの匂い大好きだし、エージさんには逆らえないって思うし、エージさんたちの大学に行った時エージさんに気づいてもらえなかったらすごく胸が痛かったし、女の子がエージさんの名前呼ぶだけでちょっとやだって思うし、もしかして私、エージさんの『特別』になりたいんじゃないかって少しだけ気づいてた。

 だけど、私の中の何かがその気持ちを殺そうとする。好きになったのは、今地元で大大大人気なバンド『EA』のボーカルでした。……シャレにならない!!無理無理無理!あたしには無理!

 それに、私はエージさんのことを何も知らない。本名すら知らないことに今更気付いた。


「エージさんって本名ですか?」

「あ?当たり前だろ、俺は芸能人じゃねぇ」

「苗字はなんですか?」

「……滝沢」


 滝沢英司、か。……今ちょうど本名は知ったけれど。まだまだ知らないことばかり。ダメダメダメ!恋は慎重に!


「おい」

「……」

「……テメェ、俺を無視するとはいい度胸だな」


 ハッと顔を上げると、私を睨む皇帝エージ様がいた。口調はとても不機嫌なのに何故か顔は笑っている。


「ご、ごめんなさいっ!考え事してて……」

「なにを」

「へっ…」

「なに考えてた」

「……っ」


 エージさんのことです、なんて言えるわけない!どどどどうしよう……。エージさんは絶対に諦めてくれない。無理やりにでも聞きだそうとしそうだ。


「言わねぇつもりか。どうなるかわかってんだろうな」


 ひぃっ!!かなり挙動不審な私を見兼ねたのか、楓さんがクスクス笑いながらエージさんに言った。


「あんまりしつこいと嫌われるぞ」


 それからエージさんは素直に黙った。楓さんの言葉は効果抜群だったらしい。エージさんはとにかく素直だ。


「あのさ、ハルちゃん、莉奈ちゃん。今日これから飲み会すんだけど、もしかしたら今日中に帰れないかもしれない。だから明日の予定聞かせてくれる?」


 明日は土曜日。学校は休みで予定も特にない。


「わ、私は、何もないです…」

「私も」


 私たちが答えると、楓さんはふわっと笑った。


「そう、よかった。俺らみんな酒飲むから車で送れないんだよね」

「飲み会ってどこでするんですか?」

「翼の家」


 翼さんの家には当然だけれどお邪魔するのは初めてだ。


「なにかお土産とか…」

「あぁ、いらない。翼一人暮らしだし」


 翼さんも一人暮らしなんだ。大学生だったら普通のことなのだろう。でも、エージさんはあんな大きいお城みたいなお家でどうして一人で暮らしてるんだろう……?何度もあのお城には行っているけれど、エージさん以外の人をあのお城で見たことはなかった。

 私は、ふと助手席のエージさんをサイドミラー越しに見た。本当に、綺麗な人。エージさんのことをもっと知りたい。私がそう言ったら、エージさんはどうするんだろう。


『陽乃が聞きたいことは全部答えてやる』


 彼は前にそう言ったけれど、本当に全部答えてくれるんだろうか。その質問がもし、エージさんにとって聞かれたくないことだったとしても。そんなことを考えているうちに、車はあるアパートに入っていった。


「着いたよ」


 駐車場に車を停めた楓さんは免許を持っていない私から見てもすごく運転がうまいってわかった。うちのお父さんよりも全然うまい。


「エージさんは免許持ってるんですか?」

「うん。車も持ってる」

「じゃあ、今度どこか連れていってください」

「あぁ。どこ行きたいか考えとけ」


 こんな些細な約束がものすごく嬉しかったりする。そんな気持ちがバレているのか、楓さんは私を見て微笑んでいた。

 車を降りて楓さんとエージさんについていく。翼さんのアパートはごく普通のアパートだった。3階建てで、1フロアーに部屋は10ぐらい。外観はオレンジですごく可愛くて、翼さんがこんなに可愛いところに住んでると思うと失礼だけれど少し笑えた。

 翼さんの部屋は3階の一番端だった。楓さんがインターホンを鳴らすと、中から「りっくん出てー!」って言う翼さんの声が聞こえた。兄はもういるみたいだ。翼さんが兄のことをりっくんと呼んでいるのを初めて知った。


「おう、お疲れ」


 中から出てきた兄は、なぜかとても疲れた顔をしていた。そして、


「英司、テメェ…」


 エージさんを睨んだ。どうしたんだろう。


「どうかした?」


 楓さんが兄に聞く。けれど兄はそれに答えずに、エージさんに言った。


「なんであの女呼んだ」


 女……?エージさんが、女の人を呼んだの?胸がズキッと痛む。エージさんを見ると、エージさんは表情を変えずに言った。


「……別に。行きたいって言ったから」


 そして、スタスタと家の中に入っていく。


「あ、英司くん!」


 中から聞こえたのは、あの声だった。あの日、大学に行った時に見た、綺麗なアノ人。エージさんの名前を呼んで、エージさんとのことを応援してって翼さんに言っていた、あの声。帰りたくなった。エージさんとアノ人が同じ空間にいるのをまた見るのが怖かった。


「ハルちゃん、大丈夫?」


 楓さんが心配そうに私の顔を覗き込む。


「全然大丈夫です!」


 私の明らかな強がりに、楓さんの形のいい眉がハの字に変わった。けれど私はそれを見ないようにして、「お邪魔しまーす」と元気に言って中に入った。

 翼さんの部屋はワンルームで、部屋に入った途端アノ人の鋭い視線を浴びた私に逃げ場はなかった。


「英司くん、誰?」


 アノ人はいつもの甘えたような声ではなく、低くて棘のある声で言った。エージさんはソファに座って、私を見る。そして


「陽乃、ここおいで」


 アノ人を無視して、エージさんの隣をポンと叩いた。アノ人の視線が更に突き刺さる。


「あの……、」

「あなた、高校生?」


 明らかに見下した声だった。なに?高校生がダメなの?少なくともあなたよりは若くてピチピチですけど!もちろん、それは心の中で叫んだ。そこに、兄と楓さんと莉奈が入ってきた。


「おい。俺の妹に偉そうな口きいてんじゃねぇぞ」


 兄のそんな声も言葉も初めて聞いた。兄は誰かを攻撃するような人じゃないから。たぶん翼さんと同じように兄も……コノ人を、よく思ってないんだと思う。


「なぁんだ、律くんの妹か」


 じゃぁ、私のライバルじゃないわ。そんな意味を含んでいると思うような、バカにした言い方をした。あぁ、嫌だ。私もたぶん、コノ人とはうまくやっていけない。


「そっちの彼女も律くんの妹?」


 コノ人の標的は莉奈に変わった。莉奈はフンと笑って言い返す。


「いいえ、私は律の幼馴染です。それと、私の名前は莉奈、です。そっちじゃないんで」


 ……さすが莉奈。強気に言い返されて少し驚いた顔をしたコノ人を見て楓さんは爆笑していた。


「さすが莉奈ちゃん。茜ちゃんと張り合うなんて」


 コノ人の名前は『茜』と言うらしい。茜さんはフンと言って顔を逸らした。そして、エージさんに最高の笑顔を見せる。


「英司くん、そっち行っていい?」

「ダメ。ここ陽乃の席」


 エージさんはそう言って私においでおいでって手招きをする。とても嬉しいし、本当は行きたいんだけど、茜さんの視線が痛すぎて。


「わ、私翼さんに挨拶しなきゃ。兄、翼さんどこ?」


 ……逃げた。キッチンにいる、と兄が教えてくれたから、エージさんが何か言ってるのも無視して私はキッチンに向かった。


「翼さん、こんばんは」


 翼さんは「おう」と言って笑顔を見せた。


「なに作ってるんですか?」


 キッチンからはとてもいい匂いがする。


「グラタン」

「すごーい!!私グラタン大好きです!」

「あいつらもみんなグラタン好きだからさ」


 夏にグラタンはどうなの?って思ったけど。翼さんはそう言って笑った。


「お料理うまいんですね」

「うん、まぁ。母さんの影響でよく作るかな」

「お母様も料理うまいんですか?」

「うん。洋食屋やってるから」

「へぇ。今度行ってみたいな」

「行ったことあるよ。俺の母さん、『翔』の店長だから」

「へっ?」


 『翔』って、あの、いつも行ってる『翔』?ってことは、


「美沙子さん?!」

「正解」


 そ、そうだったんだ!あの美沙子さんが翼さんのお母様だったんだ。


「いいですね。いつまでも仲のいいご両親で」

「うん、まあ、正さんは母さんの再婚相手だから本当の親父は別にいるんだけどね」

「そうなんですか」


 翼さんと正さんは確かに容姿は全く似ていない。お母様似だなと思っていたけれどそんな事情があったのか。翼さんの顔が一瞬強張った気がして慌てて謝った。


「あの、あまり聞かれたくないことだったらすみませんでした」

「ん?ああ、全然。正さんには本当の親子みたいに可愛がってもらってるし俺、正さんのこと尊敬してるし」

「そうですか」

「それに……、俺の母親は母さん一人だから」


 背筋が凍るって、こういうことを言うのかもしれない。あたしはその時、翼さんの『陰』を見た。


「あ、あの女に何か言われなかった?」


 普段の翼さんに戻って、安堵する。きっと、翼さんにとってのタブーは『母親』。


「ちょっと怖くて……、逃げてきちゃいました」


 私は莉奈のように、茜さんに立ち向かえない。


「アイツ、男の前と女の前じゃ全然態度違うんだよな。すべての女を敵って思ってる感じ。俺らはみんなアイツのこと嫌い。…まぁ、英司はどう思ってんのかよくわかんねぇけど」

「嫌いなんかじゃないですよ。飲み会に呼ぶくらいだもん」


 私は多分、拗ねているんだと思う。私の名前だけは覚えてくれてるエージさん。私を目覚ましにしてくれたエージさん。私のために苦手なメール覚えてくれたエージさん。そんなエージさんが、茜さんを飲み会に呼んだ。だから私は、エージさんの『特別』なんかじゃないんだって……


「なぁ」

「……はい」

「ハルって、やっぱり英司のこと好きなの?」

「……っ」


 翼さんからのこの質問は二度目。だけど、あの時と明らかに私の気持ちは違う。自分の気持ち殺そうとしてるけど、自覚し始めてるのは確かだし……


「えっと、あの……」


 翼さんは、穴が開くほど私の顔を見つめてくる。


「す、好きでは、ないです!」

「ほんとに?」


 た、たぶん……。その時、チーンと音がした。グラタンが出来上がったみたい。翼さんの意識がそっちに向く。……よかった。


「みんなのとこ行こうか」

「はいっ」


 翼さんがオーブンから取り出したグラタンはいい匂いがして、本当においしそうだ。グラタンを見てわくわくする私を翼さんが呼ぶ。顔を上げて余りにも優しい目と目が合ったから息を呑んだ。


「キツくなったら、逃げていいから」

「……っ」


 きっと、茜さんのことだろう。翼さんの優しさに涙が出そうになった。頑張ろう。翼さんにも楓さんにも、たぶん兄にも心配かけちゃってるし。ちょっとのことでは負けないようにしよう。

 部屋に戻ると、私は兄と翼さんの間に座った。エージさんの隣は空いていたけど、そこに行く勇気はなかった。そして皇帝の機嫌は、すこぶる悪かった。みんなカーペットの上に座っているのに、一人だけソファに座っているエージさんは下々の民を見降ろす、本物の皇帝みたいだった。そして、その視線は明らかに私に向けられていた。……エージさんの機嫌が悪い原因は、多分、いや絶対私だ。エージさんの隣に座らなかったり、エージさん無視して翼さんのところ行ったり。わかるんだけどね?茜さん怖いんだもん……!!

茜さんの攻撃対象は完全に私だった。さっき莉奈が強気に言い返したのは結構効いてるらしい。でも、私は莉奈みたいにはできないし……


「ハル、グラタン取ってやろうか?」


 翼さんが気を使って、私のお皿にグラタンをよそってくれた。それを見ていた茜さんが口を開く。


「翼くんとあなた、付き合ってるみたいね」


 その場が一気に凍りついた。私の隣では兄が「空気読めよ……」と呆れている。


「でも翼くん彼女いるか。あ、もしかしてあの日抱き合ってたのあなた?!」


 どこかで見たことあると思ったのよね~でも高校生がなんで大学にいたんだろう。この空気でベラベラ独り言を続けられる茜さんはかなりの強者だと思う。エージさんと茜さん以外は硬直状態。

 そんな中、エージさんがスッと立ち上がった。そして窓を開けて、ベランダに出た。私たちはみんな、ふぅとため息をついた。エージさんはタバコを吸いに外に出たみたい。茜さんは立ち上がって、エージさんの隣に行こうとした。それを楓さんが止める。


「そろそろ空気読んだほうがいいんじゃない?」

「は?」


 楓さんはいつもの王子スマイルで私を見た。


「ここで行くべきなのは茜ちゃんじゃない。わかるよな?」

「意味わかんない。そんなの「ハルちゃん」


 茜さんの言葉を遮って楓さんが紡いだのは


「誰のせいで英司の機嫌悪いの?」


 ……完全な脅しだった。私は恐る恐る立ち上がり、ベランダに向かう。茜さんの鬼のような顔を見ないようにして。そしてゆっくりと、窓に手をかけた。

 ベランダはアパートにしては広いほうで、椅子が2つと灰皿が置いてあった。エージさんは奥の椅子に座り、私がベランダに出てもこっちを見なかった。


「エージさん」

「……」

「ここいいですか?」


 エージさんの隣の椅子を指差すと、エージさんは微かに頷いた。私は座って、エージさんをチラリと見た。

 タバコってあまり好きじゃないけど、エージさんが吸うと様になる。タバコを持つ細長い指が綺麗だった。エージさんは機嫌が悪くてそっぽ向いてるのかと思ったけど、私に煙が来ないように向こうを向いてるって気付いた。エージさん、思った以上に機嫌悪くないみたい。雰囲気でわかるようになった。


「エージさん」

「……」

「ごめんなさい」

「なにが」

「隣行かなかったり、無視したり……」

「……」

「嫌な思いさせてごめんなさい」


 エージさんは持っていたタバコを消すと、2本目に手をかけた。だけど、箱に戻した。そして私に目を向ける。


「お前、あの女嫌い?」

「茜さんのことですか?」

「名前知らねぇ」


 ……。え?名前?知らないの?少し呆れながら私はエージさんの質問に対する答えを返す。


「嫌いっていうか、怖いです」

「なんで」


 ……エージさんはちょっと、いや、かなりの鈍感らしい。答えに困る私と、じっと私を見つめてくるエージさん。何て答えようと悩んでいたら、先に言葉を紡いだのはエージさんだった。


「どうやったら笑う?」

「へっ?」

「今日、お前ずっと無理して笑ってる」


 なんで、なんでそんなことに気づくんだろう。茜さんに攻撃されていることには気付かないくせに。なんでそんな、私の変化に気付くんだろう。


「理由わかんねぇから、あの女のせいかと思って」


 確かに、確かに茜さんが怖いからって言うのもある。だけど、私が一番引っかかってるのはそこじゃなくて。エージさんが茜さんを誘ったって事実。名前は知らないって言ってたけど、飲み会に誘うなんて……。


「エージさんは……、エージさんはどうなんですか?」

「なにが」

「エージさんは茜さんのこと好きですか?」

「好きも何も知らねぇし」

「じゃぁ、なんで……」

「あ?」

「なんで今日、誘ったんですか?」


 ……言ってしまった。エージさんは少しだけ目を大きくして、すぐに細めた。そして


「誘ったっていうか、聞いてなかった」


 そんな、意味不明な言葉を言った。思わず「は?」って言ってしまった。けれどエージさんは気にすることなく続きを話す。


「なんかアイツ、俺が出る授業全部いるんだよな」


 ……それって、ストーカーなんじゃ。


「それで今日も授業行ったらなんか話しかけてきて。でも面白くないから聞いてなかった」


 面白くないからって、あなたは子どもですか。


「どこから聞いたのか知らねぇけど、飲み会あるってアイツ知ってた」


 ……完全にストーカーだね。


「適当に返事してたら『私も飲み会行っていい?』って質問に『うん』って答えてたらしい」


 ……。


「授業終わった後に『じゃぁ、飲み会で』って言われた時はさすがにちょっと焦った。だけどめんどくせぇしそのままにした」


 ……私は、そんなことで落ち込んでたのね。


「だけど」


 エージさんが私の頬に触れた。熱い体温に体が硬直する。


「そんなにお前が嫌がるなら、ちゃんと断ればよかった」

「……っ」


 気持ちはもう、抑えられないところまで来ていて。エージさんが『EA』のボーカルだとか、恋をするのが怖いとか、そういうのも全部超えて。私はこの人を、この『英司さん』という人を、誰よりも好きだと思った。私はエージさんの手に自分の手を重ねた。


「エージさん、じゃあ、私の話は面白いですか?」

「別に面白くねぇ」


 ……調子に乗ってしまったようだ。落ち込む私を見てふっと笑ったエージさんは、とても優しい瞳で私を見ていた。


「でも」

「……?」

「お前と話すのは面白い」

「……っ」


 エージさんの殺し文句にまんまとやられた私は、


「キスしていい?」


 と、私の返事も聞かずに顔を近付けてくるエージさんを拒まなかった。

 ねぇ、エージさん。私はエージさんの隣にいてもいい?私はエージさんの特別?ずっともどかしかった距離は0になって。そっと、唇が重なった。

 部屋に戻ると、翼さんはすでに酔いつぶれていた。


「弱いのに飲むからだ」


 ってゲラゲラ笑う兄の近くにはビールの空き缶が5、6本転がっていた。初めて知ったけれど、兄はかなりお酒が強いらしい。


「律が飲ましたんじゃん」


 そう言う楓さんの近くにも兄と同じくらいの空き缶が転がっていた。……翼さんかわいそう。

 茜さんはキッと私を睨んできた。そんな茜さんにエージさんは真顔で言った。


「あんた俺のストーカーなの?」


 ……はい?ここにいる誰もが頭にハテナを浮かべたと思う。た、確かに私茜さんってストーカー?って思ったけど!まさかエージさんの前で口に出したりはしてない……よね?


「な、なんで……?」


 茜さんの声は震えていた。そりゃそうだよね。好きな人にそんなこと言われたら……。


「別にいいんだけどさ。コイツに当たるのはやめて」


 そう言ってエージさんは私の頭に手を置いた。今の意味不明な言葉は私のためだった。キスしたからって、自分は特別って思ってるわけじゃない。そ、そりゃほんのちょっとは思うけど……。だけどエージさんのすべての言動が、私を自惚れさせる。溺れさせる。私に向けられたエージさんの笑顔を見て、私はもっと溺れたいと、強く思った。

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