8.銭湯

 腓返こむらがえり駅は南側と北側の二つの出入り口があり、大きい南側が"表口"小さい北側が"裏口"と呼ばれている、と雀は栄輔に言った。

 腓返駅の改札口前で裏口から売春窟へ向かうきね一行と別れ、栄輔と雀を含む列車長一行は表口から駅前の大通りへと出た。

 空が濃い紫色に染まっても尚大通りは電気灯で明るく、あちこちで藻類燃料そうるいねんりょうを使う発電機が騒々しい音を立てて特有の燃焼臭を撒き散らしていた。

 大通りには昼間轟号から見たような防水布の屋台が立ち並び、八裂市の市場街のように道を埋め尽くさんばかりの人が行き来し、屋台で様々な品物を売り買いしていた。

 歩く人々も姿は様々で、見た限りでは普通の姿をしている人も多かったが、防禦服を着ていたり、手や足を義肢ぎしに置き換えたり、奇抜な髪形や服や装飾品を身に付けていたり、また変化機構へんげきこうがやられているのか人と動物の中間のような姿をした調整人間だったりといった、八裂市ではあまり見かけなかった姿をした人間も多く歩いていた。

 また乗り物は人を轢かないように気を使っているのか通行人と比べるとあまり通らず、偶に通ったとしても人が歩くよりも遥かにゆっくりだった。

 そんな場所だったので栄輔は雀達を見失わないように歩くのが精一杯だったが、それでも視線を向けずには居られない人や物はあった。

 化学合成された砂糖と果汁を使った偽果物にせくだものの屋台に、前足を乗せて品定めをしていた律儀な大型犬は頭が人間だった。

 聞き覚えのある音を聴いて上を見上げると、数機の玉トンボが感知器を光らせながら電線をくぐり、人々の頭上すれすれをぶりぶり飛んで行った。

 また電光数珠玉でんこうじゅずだまを細い紐に沢山通した装飾品を売っている屋台の店主は、その装飾品をからだにぴったり張り付いた服や、頭を中心に放射状に固められた髪の房に大量にぶら下げていた。

 そういう物に目を奪われる度に雀達とはぐれそうになっては、慌てて先へ進むという事を繰り返しながら、栄輔は目的地の銭湯へと着いた。

 そこは大通りから幾つも伸びている細い道の一本に入ってすぐの所にあり、建物の屋上に伸びる煙突と出入り口に掛かっている『銭湯・食堂 垂目たれめの湯』と毛筆文字で書かれている表札が無ければ他の建物とほとんど変わらない形をした建物だった。

 中に入ると、すぐ突き当りの場所に番台ばんだいがあり、左側に女湯への入り口、右側に男湯への入り口があった。また、男湯の入り口の前を通り過ぎて更に行くとすぐに食堂が、女湯の入り口の前を通り過ぎて更に行くと完全自動かんぜんじどう洗濯乾燥機せんたくかんそうきが置かれた待合所があった。

 一行は建物に入った順から一人づつ、番台にいる寝ているのか起きているのか分からない小男に入湯料を払い、列車長と雀は女湯の暖簾のれんを、栄輔、鉄脚てつあし、ゴーグル、錆目さびめ飯炊めしたき九九きゅうきゅうが男湯の暖簾をくぐった。

 そこは脱衣所になっていて、鍵が掛かるロッカーが所狭しと並べられ、その奥に浴場への入り口と洗面台があった。

 随分金がかかっているなと一瞬思った栄輔だが、よく見るとロッカーは錠前機構じょうまえきこうが抜き取られて鍵が掛からない物が幾つも混ざっており、洗面台の鏡の一つはヒビが入ったまま放置されていた。

 どうにか錠前が着いていてかつ正常に作動するロッカーを見つけて背嚢はいのうや貴重品を預け、更に服を脱いでいると、飯炊がおもむろに布袋を栄輔達の前に出してきた。

「洗濯物があるなら、今預かるよ」

 飯炊は轟号から持ってきた大きな布袋を開けながら言った。栄輔も銭湯へ行くと決めた時点で飯炊に洗濯物があるなら持っていくよう言われていたので、八裂から腓返までの間で意外に溜まっていたそれらを全部背嚢に入れて持ち出していた。

 自分が入れる隙が空くまで待っていると皆洗濯物を特に小袋に分けたりせず直に飯炊の袋に入れているので驚いていると、錆目が横を空けてくれた。

「心配するなよ。飯炊はどれが誰の服なのか見分けるのが得意なんだ」

 錆目はそう言いながら一体何日着たのか分からない程汚れた服を布袋に入れた。

 栄輔も洗濯物を布袋に預け、まだ着ていた下着も脱いでそのまま布袋に投げ込んだ。これで銭湯に持ってきた着替えと轟号に置いてきた、洗濯してからまだ一度も着ていない服を除いて、全て布袋に入った。

 栄輔はロッカーから湯手ゆでを取り出し、鍵を掛けてほぼ同時に準備を終えた九九と共に浴場への引き戸をくぐった。

 そこにはまさしく大浴場があった。

 辺り一面薄い青のタイルが敷き詰められ、戦前の風景らしい雄大な青白い山の絵が描かれた奥の壁際には、大きな湯船が一つと水風呂らしい小さな湯船が一つあり、左側には二十人程が一度に体を洗えそうな洗い場が、また右側には蒸し風呂になっているらしい小部屋への扉があった。

 芥村あくたむらで栄輔が仲間達と共に寝起きしていた宿舎が、民宿として使われていた頃からあった浴場には蒸し風呂はなかったし、湯船も浴場自体もここほど大きくはなかった。また家に風呂がない村人が借りに来ることがあり、そうなるとすぐにぎゅうぎゅう詰めになってしまう程の広さだったが、ここは先に入っていた数人に加えて栄輔達が入ってもまだ余裕がある位だった。

「身体を流してから湯に浸かれよ」

 股間を湯手で隠しながら九九が言った。栄輔は芥村でもそうしていたように、風呂椅子の一つに腰掛け、身体を洗いにかかった。

 最後に風呂に入ったのは芥村を発つ前日の事だったが、それから今日までの三日間で戦闘や力仕事をこなしたためか、髪の毛は糊でも被ったかのようにべとつき、肌はシャワーを浴びながら擦っただけで面白いように垢が落ちた。

 備え付けの瓶に入っている髪用・身体用に分かれた液体石鹸を泡立てて髪や身体に広げて流すとかなりさっぱりした。

 身体をよく流したところで洗い場から立ち上がり、栄輔は湯船に身を沈めた。

「ふう……」

 腰を降ろした途端に全身を包んだ、湯に疲れが抜け出ていくような感覚に栄輔は思わず息を吐いた。

「どうだ、気持ちいいか?」

 先に湯船に浸かっていた錆目が言った。栄輔はあまり心地良さに錆目の問いに頷く事しかできなかった。

 その側では相変わらずベルトゴーグルをかけたままのゴーグルが大の字になって湯に半分浮かびながら、恐ろしく訛りがきつくてほとんど唸り声にしか聞こえない歌を歌っていた。

 栄輔が湯に浸かってすぐ九九も湯船に入ってきた。続いて洗濯物を出してきたらしい飯炊が、掛け湯を頭から被っただけで湯に浸かった。最後に入ってきたのは筋電義足きんでんぎそくを脱いで身長が半分程になった鉄脚で、両腕を使って力強く歩きながら・・・・・洗い場の方へ向かった。

 男性陣が全員浴場に揃ったのを確認した栄輔はもう一度息を吐き、湯船の縁に背中を預けた。


 最初に湯船から上がったのは元々逆上せやすい栄輔だった。浴場を出る前に洗い場で冷たいシャワーを浴びて体を冷やし、出入り口できつく絞った湯手で身体をよく拭いた。

 浴場の引き戸を開けようとすると飯炊がやってきて「話しは付けてあるから着替えたら食堂に行ってて」と言った。

 左手首に提げていた鍵で荷物を預けてあるロッカーを開けてすぐに新しい服を身に付けた。

 背嚢を手に引っ掛けて脱衣所を出ると、すぐ横にある食堂に入った。

 途端に奥が厨房になっている会計台の向こうから、白い前掛けを付けたいかにも料理屋の女主人といった風体の、恰幅のいい中年女が栄輔を見つけてすぐに駆け寄ってきた。

「あんた、轟号とどろきごうの新入りでしょ?席は取ってあるから座ってなさい」

 中年女に通された座敷席はテーブルの上に手書きで『矛約席』と明らかに字を間違えて書かれている表示札ひょうじふだが置かれていた。栄輔は履き物を脱ぎ、座敷に上がってすぐの所にあった座布団に座った。

 背嚢を下ろし、一息吐いたところでふとおかしなことに気付いた。

 通された座敷席には広い短足洋卓たんそくようたくが置かれていたが、どこにも献立表が見当たらなかった。栄輔の中では料理屋では席に着いたら備え付けの献立表を見て注文するのが当たり前だったので、これにはとても驚いた。

 どうすればいいのかと迷っていると、雀がさっきの中年女に案内されて栄輔のいる座敷席にやってきた。

「栄輔、もう注文はしたのか?」

「いや、注文したいんだけど献立表が見つからないんだ」

 栄輔が困り顔で言うと、雀はぽんと右の拳で左掌を叩いた。

「ああ、栄輔は食券を知らないのか!なら教えてやるよ。ついて来い」

 座敷席を下り、作業靴を履き直した栄輔が案内されたのは、食堂の入り口だった。

 入ったときはすぐに女主人が来たので気付かなかったが、そのすぐ側に薄汚れた縦長の箱のような装置があった。

 硬貨を入れる穴や注文するボタンがあるのは、八裂市やつざきしや腓返の街中で見かけた飲料や軽食の自動販売機と同じだったが、商品の窓が無い分食べ物の名前が書かれたボタンが沢山あった。

 雀は七分丈のどこからかIDカードを取り出すとまず読み取りスリットに通し、続いてポケットから出した数枚の硬貨を投入口に入れ、二つのボタンを押し『購入/返却』と書かれたボタンを押すと、栄輔の腰位の高さにある取り出し口に、押したボタンと同じ食べ物の名前が書かれた紙切れが二枚と釣り銭が落ちてきた。

「これは券売機と言って、出てきた食券をさっきの奴に出すとその料理を作ってもらえるのさ。栄輔もやってみな」

 雀と場所を入れ代わり、栄輔はズボンの隠しポケットの一つから、IDカードと硬貨を取り出して券売機に通したり入れたりした。暫く迷ったが、やがて好物のカツモドキの丼飯とソーダ水があるのを見つけ、ボタンを押した。

 カツモドキとは、翁捨山おうすてやまのような汚染された環境の水辺でも生きられる横這魚よこばいうおのすり身を板状に練り、衣をつけて油焼きにした物で、それをタレに付けて千切りにした山甘藍やまかんらんと一緒に雑飯ぞうはんに載せた丼飯は、山狩師やまがりしをしていた頃料理が得意だった仲間がよく作ってくれたものだった。

 雀と一緒に会計台で中年女に食券を渡し、座敷席に戻った。

 それから間もなくしてきびきびとした動作で食堂に入ってきた九九が自動券売機で何か食券を購入し、栄輔と雀のように会計台で渡して座敷席にやって来た。

 続いて手拭いでベルトゴーグルのレンズを拭きながらゴーグルが入ってきて、券売機では何も買わず会計台で女に金を直接渡して何かを注文していた。

 次に入ってきたのは錆目で、券売機の前をうろつきながら何を食べるのか決めるにしては長い間考えていたが、やがて券売機に貨幣を入れてボタンを二つ押し、やはり会計台で渡した。

 栄輔はその次に来るのは飯炊か列車長だろうと思っていたが、実際に入ってきたのは筋電義足をちきちき鳴らす鉄脚で、券売機で一枚だけ食券を買うと会計台でそれを渡し、同時に女と二言三言交わして紙幣を渡した。

 最後にしきりに髪を気にする飯炊と振り袖姿の列車長の二人が一緒に入ってきて、他の面々と同じように食券を購入しやはり会計台で渡し、飯炊の方は渡しただけで座敷席に向かい、列車長の方は世間話をしているのか長い事女と話し込んでから数枚の紙幣を渡し、座敷席に向かって来た。

 全員が座布団に座ったのを確認したところで列車長が「みんな揃ったようだね」と呟いた。

 それを待っていたかのように、栄輔や雀を案内したのとはまた違う眼鏡を掛けた若い女性が、明らかに料理を運ぶ目的で作られたものでない棚付き台車で、栄輔達が注文した物を持ってきた。

 まず栄輔が注文したカツモドキの丼飯とソーダ水の瓶が置かれた。カツモドキは油焼きではなく本当に揚げているのか綺麗な茶色だった。

 次に置かれたのは雀が注文したらしい練麺ねりめんと、色は美しいがおそらく本物の果汁は全く使われていない瓶入りの果汁飲料だった。練麺とは雑飯につなぎを混ぜて練り、細長く切っただけの質の悪い麺で、雀が注文したのはそれを透き通った出汁に入れただけの素っ気ないほど質素な物だった。

 続いて黒い大きな丼ぶりが置かれ、よく見えないので栄輔が洋卓の上に身を乗り出して覗いてみると、雑飯を魚や貝から取った出汁で細かく切った根菜類の具と煮立たせただけの、やはり質素な濃汁粥のうじるがゆだった。これを注文したのは九九だった。

 また次に出てきたゴーグルと錆目が注文した二つは定食で、主食も副菜も同じようなものだったが唯一違っていたのは主菜の皿に置かれていた唐揚げだった。ゴーグルが注文した方は形が不規則で、あちこちに小枝のように衣の一部が突き出ていた。一方錆目が注文した方は形がどれもほぼ球状で、衣には特に出っ張っているような部分はなかった。栄輔はゴーグルが注文した方が美味しそうだと思った。

 次も定食で、茶色い大きな丼ぶりに入った汁物が付いていた。具は普通の味噌汁より多いが、お馴染みの螺旋牛蒡らせんごぼう捻転芋ねんてんいも貧乏葱びんぼうねぎの他、明らかに人造物じんぞうものでない肉が入っているのが見えた。

 それを注文した鉄脚から栄輔が後で聞いた話だが、ここは密輸業者の卸し先になっている店の一つで、ゴーグルが注文した方の唐揚げに使われているような鶏肉や鉄脚の豚汁に入っている豚肉、昨日栄輔が食べたカレーライスに入っていた牛肉のような本物の肉が、常連になれば格安で食べられる食堂だった。

 棚付き台車に乗っている料理が残り少なくなり、眼鏡の女が二つ同時に出した一品物は雑豆味噌のタレを塗って焼いたらしい雑飯の焼き握り飯と、オリザ以外何の穀物も入っていない正真正銘の白飯だった。焼き握り飯を頼んだのは飯炊で、白飯を頼んだのは列車長だった。

 そして次に洋卓の上に置かれた物を見て、栄輔もそれ以外の轟号一行の全員も一斉に息を呑んだ。

 女がふらつきながら洋卓の上に出した大皿の上には、表面がこんがりとツヤのある狐色に焼けた栄輔の頭程はある肉塊が沼萵苣ぬまちしゃを添え物にして乗っていた。

飛竜ひりゅうの雛の丸焼きになります」

「ひ、飛竜だって!?」

 その料理の名を聞いて思わず栄輔は素っ頓狂な声を上げた。

 栄輔は飛竜を昔からよく見かけていたが、それでも遥か上空を悠々と飛んでいる所位だった。だが菌糸雲に棲みつく生物の中でも最大級となる異形変異生物で、向こうから襲ってくる事はまずないが一度怒らせれば小さな町が焼け野原になる程の戦闘力を発揮するという話や、その最大の武器となる口から吐く粒子力線の原理を応用して粒子力線銃が作られたという話を栄輔は聞いたことがあった。

 そんな生物が食べられるという事自体栄輔には初耳だったし、どんな味がするのかという事にも興味が湧いた。

 最後に酒の茶色い一升瓶が三本とガラスコップが八つ洋卓の上に上げられた所で、列車長が口を開いた。

「それじゃ、いただこうか」

 栄輔と雀は自分で頼んだ飲み物を自分に宛てられたコップに注ぎ、残る六人は一升瓶の中身の金色の液体を互いに注ぎ合った。

「もしかしたらこれが我々の最後の夕食になるかもしれない。今夜は楽しもうじゃないか。乾杯!」

 列車長の音頭で一行が其々のコップを高く上げて突き合わせた。栄輔も近くに座っていた雀と列車長のコップと突き合わせてから下ろし、ソーダ水を一口飲んだ。ソーダ水は甘味が付いていて、栄輔が今まで飲んだ事のあるただ炭酸ガスが入っているだけの真水のようなソーダ水も悪くはなかったが、これは何杯飲んでも飽きが来そうになかった。

 コップを置いて箸を手に取り、今度はカツモドキの丼飯に掛かった。

 雑飯を数口食べてみると、タレもまた甘みが効いている事が分かった。続いてカツモドキを箸で掴み、大きく口を開けて一口食べた。

「これは良いな……」

 思わずそんな言葉が栄輔の口から出た。衣はぱりっと割れるというよりはさくっと潰れるような食感で、続いてふわふわしたすり身の部分が舌の上にタレと魚肉の味を振り撒きながら蕩けていった。

 昨日食べたカレーライスの牛肉も悪くはなかったが、カツモドキもまた違った趣があるなと栄輔は再認識した。

 酔いが回っていくにつれ、次第に夕食は賑やかさを増していった。

「おめえも一杯どうだあ」

「飲んだのを公務局こうむきょくに見つかったら鼻削ぎの刑だろ。おれは嫌だよ」

「ここで一曲と行こうか」

「アンタの下手な歌なんざ聞きたかねぇやい」

「なんで螺旋牛蒡が入ってるんだ!」

「ぼくは知らないよ」

 栄輔はと言えば芥村を発つ前夜、村に残る仲間達が送別の宴を開いてくれたのを遠い昔のように思い出していた。

 栄輔の隣で飛竜の雛の丸焼きを小皿に切り分けていた列車長が口を開いた。

「すまないな、騒がしくて」

「良いんです。僕も騒がしいのは嫌いじゃありませんから」

 列車長が小皿の一つを栄輔の前に置いてくれた。

 栄輔は肉の一切れを沼萵苣に包んで食べた。さっぱりとした肉そのものの味と内臓をくり抜いた部分に詰まった具のこってりとした味が病みつきになりそうなほど美味だった。


 夕食を終え、洗濯が終わるのを待つ飯炊を置いて銭湯を後にした栄輔達は、轟号に戻る為に駅前の大通りに出た。

 もう間もなく日付が変わる時刻であったが、人通りは減るどころか寧ろ増え、大通りに出た途端栄輔は行きかう人々に揉みくちゃにされた。

「そろそろスリが活発になる時間だから、気を付けろよ」

 雀が栄輔の耳元で囁いた。栄輔は一定の手順を踏まないと取り出せないズボンの隠しポケットに、札束入れがまだ入っているのを確認した。その側からもぞもぞと何かがズボンをまさぐり、栄輔が立ち止って素早く捕まえようとすると、するりと抜けていった。

 後ろを振り向くと十歳前後の少年が人混みの中を駆け抜けて行くのがちらりと見えた。

「本当にそうだね」

 栄輔は小銭入れが抜き取られていない事を確認し、また歩き出した。

 次から次へと来るスリを軽く往なしながら歩いていると、銭湯に向かう道中に見かけたあの電光数珠玉の屋台で、よく見知った顔を見かけた。

うすニ四にーよん!」

「おっ、栄輔か!」

 声に気付いたニ四はすぐに顔を上げたが、臼の方は屈んだまま熱病患者のようにうんうん唸っており、ニ四が肩を叩かなければ気付かない程だった。

「杵はどうしたんだい?」

「まだ売春窟だ。この分だと夜明けまでしっぽりだろうさ」

 まだ上の空のままの臼が他人事のように言った。

「じゃあ、臼は何をやってるんだい?」

「何って、見りゃ分かるだろ。どの電光数珠玉が良いか選んでるのさ」

 臼は屋台の台の上に並べられたり、柱に何本も渡された紐のしの字フックに提げられた、色とりどりの電光数珠玉を手で示しながら言った。

 次々と色を変える電光数珠玉は確かにどれも綺麗だったが、栄輔には全部が全部同じにしか見えなかった。

「こんなの、どれもみんな同じじゃないか」

「同じじゃないんだ!色の現れる順番、色毎の濃淡、明るさ、粒の大きさ、表面の模様……どれも一つ一つ個性があるんだよ!」

 栄輔の言葉に臼は飛び起きたようにムキになって反論しだした。こんなに力説を始めるという事はおそらく自分の為でなく、他人の為に電光数珠玉を買おうとしているのだろうなと察しを付けていると、ニ四が栄輔にニヤつく声で耳打ちをした。

「臼は野衾のぶすまの売春窟にお気に入りの女がいてな、いつか身請けするんだって金を溜めてるんだぜ」

 栄輔は駅でニ四から聞いた杵と臼の女を見る目が無いという話を思い出し、加えて臼のお気に入りだという女も、胸以外はきっと酷いんだろうなと思うと自然と笑みが零れた。

「おい二四、また何か吹き込みやがったな!?」

 栄輔の表情で事情を察した臼がぼんやりを完全に脱し、怒りだした。

「轟号の奴らは皆知ってるぜ?野衾の売春窟にある"カレイニナ"とかいう店に君が惚れてる女が居るってのは」

「うるせえ!お、俺はそんな名前の店行った事も無きゃ、聞いたこともないやい!」

「じゃあ、この前野衾で朝帰りになった時持ってた、あのロマネスコ柄の紙袋は何だったんだい?」

「そ、それは、あの、その……行きつけの店の子にお土産で貰った物が入ってて……」

 そこで臼は急に頬を赤らめてもじもじと狼狽えだした。

 その様子があまりに臼らしくなかったので、栄輔はニ四と顔を見合わせ半分困ったように、半分可笑むように笑った。

「おうい、栄輔!置いてっちまうぞ!」

 屋台三軒分先にあった鐚蛾びたがの炒め物の屋台の辺りから、雀が呼ぶ声が聞こえた。


 深夜の腓返駅は静まり返り、貨物車用の線路には轟号のようにここで夜を過ごすらしい貨物列車が数台停車されていた。

 駅員は宿直を残して帰ってしまったようで、高床ホームには栄輔達以外誰もおらず、騒がしかった駅前通りと比べるとまるで別世界のようだった。

 栄輔は上りからも下りからも列車が来る様子が無い事を確かめ、高床ホームを下りて線路を横切り、第一貨物車に帰ってきた。

 錆目と少し世間話をするという雀を置いて、乗員用乗降口から中に入り自分のロッカーに背嚢を預けたところで、隠しポケットの中身を確かめた。

 山狩師の勘のおかげか、懐をまさぐられる度にすぐに気付いたが、それでもスリはあまりに多く、二十人を超えたところで栄輔は数えるのを止めていた。

 一番守りが硬く取り出しにくいクラインポケットに隠してあった札束入れからは一枚も抜き取られていなかったが、取り出しやすいがその分取られやすい騙し絵ポケットの小銭入れからは一体どうやったのか硬貨が数枚抜き取られていた。

 あのスリ達の誰かが盗ったのか或いは栄輔も気付かなかったスリが盗ったのかすらも見当が付かず、また硬貨を数枚盗まれた程度では公務局はまともに取り合ってくれない事はよく分かっていたので、金を盗られたのは残念だったが、運が悪かったと割り切ることはできた。

 二つの財布を隠しポケットに入れ直し、どうせもうやる事もないので栄輔は寝ようと思ったが、そこでふと喉が渇いている事に気付いた。

 ロッカーの背嚢から水筒を取り出し、一口だけ飲んだ。水が口内で乾いた土に染み入るように広がり、問題なく眠れる程度に渇きを癒してくれた。

 栄輔は欠伸を一つして水筒をロッカーに戻し、今度こそ梯子を上って寝台に潜り込むと毛布に包まって目を閉じた。

 しかし、その時になってふと脳裏に、八裂市で聞いた異形変異生物との戦いより略奪者との戦いの方が死人が出やすいという雀の話と、夕刻に聞いた有脚ゆうきゃく作業車さぎょうしゃに乗った略奪者が襲ってくるかもしれないという列車長の話が蘇った。

 眠ろうとすればする程、頭の中を空っぽにしようとすればする程、その事は頭の中をぐるぐると回り余計に目を冴えさせた。親方が死ぬ前、山狩師をしていた頃は全く無かった事だった。

 思うように眠れず悶々としていると、乗降口の引き戸が開いて誰かがどかどか貨物車に乗り込んで来る音が聞こえた。

 屏風びょうぶカーテンを開けると、それは雀だった。

「雀……」

「なんだ栄輔、まだ寝てなかったのか」

「寝てないというよりは眠れないんだ。明日略奪者と戦う事になるかもしれないと思うと、不安で仕方ないんだ」

「なるほどな」

 雀は栄輔の言葉を頷きながら聞いていたが、すぐに口を開いた。

「そういう事なら大丈夫だ。確かに死人が出るかもしれないが、少なくともお前やおれじゃない」

 雀の目は確信の色を帯びていた。

「お前の銃の腕は確かだし、粒子力線銃がある。それに轟号で一番略奪者を殺してるのは多分おれだ。死ぬ方がおかしいさ」

 その言葉に栄輔はどういう理屈かは分からなかったが、すっと胸に引っかかっていた物が抜けていく気分がした。

「ありがとう。少し楽になったよ」

「そりゃ良かった。じゃ、おやすみ。明日は頑張ろうぜ」

 そう言って雀は栄輔に初めて会った日と同じあの屈託のない笑みを返すと、梯子を上って自分の寝台に潜り込んだ。

 それを見届けて屏風カーテンを閉め、防虫剤の匂いが残る毛布に包まり直すとすぐに栄輔も眠気が襲ってきた。

 発動機が起こす心地よい振動が止まり、電気灯がふっと消えると同時に栄輔の意識も途切れた。


(つづく)

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