5.旧市街

 早くも活動を弱めはじめた菌糸雲きんしうんの間から見事に丸い夕日が顔を出した頃、轟号とどろきごうはその速度を落としやがて線路上に現れた半円柱形の建物の中に巨体を押し込んで、一番中央の高床ホームの側でゆっくりと止まった。

 コンクリート製の高床ホームはあちこちにヒビが入っており、反対側の端には崩れ落ち大きく抉れてしまっている場所もあった。

 そのホームに土台が接合された傾きかけの駅名標には元々別な何かが書かれていたようだったが今は掠れて読めず、代わりにひどく乱暴な赤い字で『旧市街』と書かれていた。

 轟号が止まった時、乗降口の窓の側にいた栄輔は、その駅名標を見なくてもこの密林帯の中の荒れ果てた街が、列車長の言っていた旧市街だという事はすぐに見当がついた。

「今夜はここで野営だな」

 隣で一緒に様子を見ていたすずめが呟いた。

 夜の密林帯では、甲竜こうりゅうを初めとする凶暴な異形変異生物が獲物を求めて活発に活動する。そのためこの時代、陸上運輸に携わる者達の間では、街の外で夜を迎えた時は乗り物を停めて明かりを焚くことが鉄則となっている。

 轟号から一人、二人と乗員が下りてきて、すぐに実際の広さに対して立っていられる場所がそれほど広くはない高床ホームがごった返し始めた。その多くが軽装だったので、栄輔も防禦服ぼうぎょふくを脱ごうと二重ジッパーに手を掛けたところで、不意に飯炊めしたきに声を掛けられた。

「栄輔、防禦服を着てるなら丁度いいや。手伝ってくれよ」

 無言で自分を指さして問いかける栄輔に、頷きを返す飯炊の手には大きなナイフが握られていた。

 飯炊はすぐに床下の隠しスペースを開ける操作を始めた。引き戸が開けられ、床下に下半身を入れて手招きをした。

 まず入れられている密輸品の牛肉の塊を二人がかりで四つ全部取り出した。轟号に運び込まれた時よりも冷えていて確かに防禦服を着ていなければ、少なくとも手袋を嵌めていなければ手が悴んでしまいそうだった。

 何をする気なのか見ている前で、飯炊はいきなりビニールの包装を開いてナイフを突き立て、一塊あたりから三分の一程を切り取ってしまった。飯炊の言う手伝いとは密輸品の抜き取りだったのだ。

 驚いて栄輔が普通の品物でも抜き取りをやっているのかい、と聞くと、飯炊は正規の流通品でこういうことをするとバレた時他の輸送業者から総スカンを喰らって荷物を回してもらえなくなり、轟号程度の規模の貨物列車ならまず続けられなくなるから、いざという時も内輪で話しをつけられる、正式な許可を得ていない品物だけさ、と説明してくれた。

 四つとも肉を切り取った後は元通りに包装し直し、飯炊は栄輔と協力して再び床下に仕舞った。抜き取られることを見越して伝票には実際よりも少なく記載されていたから、バレることはまずないだろうと自信ありげに飯炊は言った。

 その後は夕食までは自由にしていていいと言うので、栄輔は今度こそ防禦服をロッカーに預けて轟号の外に出ることにした。

 引き戸を開けると、高床ホームは窓越しに軽く見た時よりも実際はヒビがより多く入っていることが分かった。

 今にも倒れてしまいそうな駅名標と相まって下りた瞬間崩れ落ちてしまうのではないかと栄輔は不安になったが、雀や鉄脚てつあしを始めとする轟号の乗員達は普通に歩き回っているので、少しだけ逡巡した後、ホームへ一歩を踏み出した。

 旧市街の高床ホームは栄輔が恐れていたようなことにはならず、意外な程しっかりとその足を受け止めた。

「よう栄輔、やっと出て来たか」

 雀は軽装姿で第一貨物車の前でストレッチをしていた。

「ああ、ちょっと飯炊に密輸品の抜き取りに付き合わされてね」

 栄輔はそう答えて雀に苦笑いしてみせた。

 轟号が今まで進んできた方向に目を向けると、第三貨物車の貨物用乗降口が大きく開いていて、飯炊が他の賄い役らしい人間に混ざり、栄輔達がいる場所からでもそうだと分かるほど巨大な鍋を五人がかりで、側に何も持たずに立っている一人の音頭おんどと共に運び出している所だった。

「栄輔はこれから夕食までどうするんだい?」

 鍋が運ばれる様子を見ていた栄輔に唐突に雀が聞いた。

「どうするって、特にやることもないから、轟号の外を適当にぶらぶらしていようと思うよ」

「ならあまり轟号から離れすぎるなよ。この辺には大陸軍の機械兵器がまだうじゃうじゃしているはずだからな。この旧駅舎の中にいてもおかしくない」

「分かった。気を付けるよ」

 第一貨物車の側面に背を預け雀と雑談をしていると、朝食以来久々の男が近寄ってきた。

 焦げ茶色のロングコートに細面、切れ長の目、薄く引き締まった口元、軽く伸ばした癖のない髪のその男は轟号の運転手兼無線手の錆目さびめだった。

「栄輔、雀、暇ならちょっと俺と出かけないか。行きたいところがあるんだが、一人よりは二、三人で行った方がいいと思ってな」

 錆目は左肩に万能スコップを担ぎ、右手に菅屑半紙すげくずはんし製の手提げ袋を持っていた。

「決めるんなら早くしてくれ。暗くなる前に行きたいんだ」

「じゃあ行くよ。僕は特にやることもないし」

「おれは遠慮しておくよ。徘徊地雷はいかいじらいを踏んで鉄脚二号になるなんてごめんだからな」

 栄輔と雀がそれぞれ即答し、栄輔は錆目と一緒に旧駅舎の外に出かけ、雀は旧駅舎に残ることになった。

 錆目が防禦服を着ていないのでそう言うと錆目は「この辺は明るいうちは危険な生物は出ないから大丈夫だ」と言ったので、栄輔も防禦服は着ず、代わりに用心のために折りたたみ警杖けいじょうを持って錆目についていくことにした。

「雀はな、前に俺について行った時、徘徊地雷を踏んで死にかけたことがあるんだ」

 高床ホームから上の階へ上る階段の途中で、錆目は栄輔に耳打ちした。


 旧駅舎から外に出ると密林帯に飲まれかけながらも旧市街は未だその原型を留めていた。

 駅前のロータリーだったらしい場所には噴水付きの三角柱型をした時計台があり、止まった針は九時三十七分を指して根元に溜まった暗い緑色に濁った水に映えていた。

 周囲の建物は多くが窓ガラスが破れ、幾つかはあちこちから突き出た木々と一体化したようになって道路に迫っていた。その植物と同化しかけた街を貫くように走る太い道路の上だけが霞んで見えなくなる遥か遠くまでくっきりと何もなく、轟号が旧駅舎に入る前に見えていたあの巨大な建物は意外と遠くにあるのが見えた。

「舗装されている道路から出るんじゃないぞ。不発の薬球くすりだまが植物の運動で地上まで出てきてるかもしれないからね」

 錆目に注意された通り、栄輔は道路のなるべく中央を歩いた。

 栄輔は錆目があの巨大な建物に向かっているのだろうと勘ぐっていたが、その足は意外と近く、旧駅舎が木々の間からまだ見えている場所で止まった。

 そこにあったのは十五階建てのコンクリート造りの建物だった。

 他の建物と同じように窓ガラスは殆どが割れてむくろと化し、木々に貫かれてはいなかったが代わりに全体を覆う蔦植物が窓枠からまるで目玉のない眼窩がんかから零れる涙のように垂れ下がっていた。

 その正面には左右に開く大きな引き戸があった。一見木製のように見えたが、実際は金属の板を木目の模様に塗った物だという事は栄輔にもすぐ分かったが、手を掛けられる部分が無いのでどう入るのかと栄輔が思っていると、錆目に肩を指で突かれ「そこは電気が通ってないから開けられないよ」と言われた。

 錆目に案内されるまま裏手に回り、雑草に押されて今にも倒れそうなフェンスと乗り捨てられたガソリン自動車を乗り越え、正面よりも明らかに小さく粗末な作りのドアの前に来た。ドアの上には走っている人間が描かれた緑の表札のようなものが下がっていたが、栄輔にはそれが何なのかはよく分からなかった。

 手提げ袋から取り出したベークライト樹脂製のパイプをドアのすぐ横のそれと同じ材質の場所に耳を押し当て、壁の向こうの音を聴いているらしい錆目を尻目に栄輔がノブを回そうとするとその錆目に制止された。

「まあ待て、こういう所の戸は安易に開けるものじゃないよ」

 そう言って錆目は栄輔を下がらせると万能スコップを振り上げ、その背でドアを壊すのかという勢いで叩き始めた。

 暫くの間乾いた音を響かせた後、もう一度パイプをドアに押し当て中の音を聴いた錆目が栄輔に「いいよ」と合図を送った。促されるまま栄輔は今度こそドアを開けた。隙間から差し込んできた光に反応して入り口付近にたむろしていた小虫達がわッと散り散りに奥へ逃げていくのが見えた。

「さっき音を聴いてたらもっと大きな虫がドアの近くをうろついている音が聞こえたから止めたのさ」

 錆目は万能スコップの取っ手を持った右手を腰に当てながら言った。

 ドアから入ってすぐの薄暗い廊下は窓が無く、代わりに番号が書かれた沢山のドアが並んでいた。

 錆目が手提げ袋から腐蝕ふしょくガスを使う手持ちランプを点けて先に立ち、栄輔はその後に続いて建物の中に入っていった。

 ドアに入ってすぐ右側にある階段を使い、錆目はずんずん上の階へと上っていった。

 階段は意外と急で、昔はさぞ大変だったんだろうと栄輔が言うと、錆目は「昔はこういう建物ではエレベーターと言って電気で上下に行き来する機械を使っていたんだよ」と言った。

 栄輔はエレベーターは楽そうだが電気がないと動かないなら、階段とどちらが良いかはよく分からなくなるな、と思った。

 踊り場を経由してぐるぐると回りながら上へ上っていくうち、栄輔が今一体何階にいるのか分からなくなり目を回しそうになった頃、錆目はようやく廊下に入った。すぐ上は屋上かと思ったが壁に『7』と書かれていて、中程の高さにいる事が分かった。

 手持ちランプの光の円の中にに虫や陸棲りくせい甲殻類や小型の哺乳類が飛び込んでは暗闇に消えていくのが見えた。

 ドアはどれも閉じられていたが、一番奥のドアだけが開け放たれ、暗い廊下に光が差し込んでいた。

 二人はそのドアが開いている部屋に履物を脱がずに上り込んだ。

 部屋は更に幾つかの小部屋に分かれていて、小部屋は入り口から大きな窓のある奥まで見渡せるような構造で並んでいて、廊下まで差していた光の正体は窓から差し込む大きな夕日だった。

 その一番奥の小部屋の窓辺に何かが置かれているのが見えた。

 古びているが荷物が小綺麗に整頓されている手前の部屋を通って近付いていくと、そこには萎れた一本の花が差してある瓶と何か飲み物が入っている缶が置かれた台があった。

「この部屋は俺が片付けたけれど、他の部屋はほぼ住人が出ていった時のままになっているはずだよ」

 錆目が独り言のように言った。

「錆目、ここは一体……」

「この建物は昔、人が集まって寝起きしていた場所さ。俺も四つの時までここに住んでいたんだ」

 栄輔の問いに、錆目は水筒から水を花の瓶に注ぎ足したり、手提げ袋から取り出した新しい花に差し替えたりしながら答えた。

「なあ栄輔、この辺りがなんで旧市街なんて呼ばれているか知ってるか?」

 古い缶の中身をベランダから窓の外に捨て、新しい缶を開けて台に置きながら錆目が聞いた。

「いや、分からない」

「それはな、ここが元々は八裂市やつざきしと呼ばれていたからなんだ」

「じゃあ、今の八裂市は……」

「ここから逃げてきた人達が作った新しい八裂市さ」

 錆目がただでさえ細い目を更に細めながら続けた。

「俺が四つの時だ。戦争が始まってから、最初に大規模攻撃を受けたのがここだった。大陸軍の渡洋とよう毒ガス攻撃で大勢の住人が死んだ」

 錆目はおそろしく低い声で言った。栄輔は錆目に初めて会った時、毒ガスが目に入ったせいで白目の部分が赤くなってしまったと言っていたのを思い出していた。

「この部屋ってまさか……」

「ああ、昔俺が住んでいた部屋さ。轟号が立ち寄る度にこうして供え物を交換してるんだ」

 しかしそれでも、栄輔には錆目の悲しみはそれほど深くないように思えた。

「錆目、辛くはないのかい?もし僕なら芥村が人の住めない場所になったら、きっと悲しくて何もできなくなると思う」

「辛くないと言ったら嘘になる。けれどもくよくよしてたってこの街が元通りになるわけじゃないし、死んだ奴らが生き返るわけでもない。それに今の俺には轟号の仲間達がいる。そんな事をいつまでも引きずるくらいなら、俺は仲間と一緒に先に進むよ」

 錆目がどういう意味で"先に進む"という言葉を使ったのか栄輔にはよく分からなかったが、自らの経験を踏まえた上で未来の為に動こうとしている錆目は素直に強いと思えた。

「錆目は……強いんだね……」

 栄輔は思ったままの事を口に出した。

「それ程でもないさ。俺が一番強いと思うのは、先代から受け継いだ轟号を一人で切り盛りしなきゃならないのに、戦争で傷ついた俺達に居場所をくれた列車長だよ」

「そうだろうな。きっとそうだろうね」

 栄輔と錆目は暫くの間、窓の遥か向こう側、密林帯の作るぎざぎざの地平線の向こうに沈む夕日を眺めていた。


 栄輔と錆目が轟号への道を急いでいるその途中のことだった。

 駅舎前のロータリーに差し掛かった時、栄輔の足元で不意に乾いたかちっという音がした。非常に小さく、注意して聞かなければ聞き逃してしまいそうなほどの音だったが、その不吉さになぜだかこれ以上歩いてはいけないという予感に囚われ、その場で足を止めた。

 栄輔が立ち止まった事に気付いた錆目が振り向いて聞いた。

「栄輔、どうした?」

「今、足元で何か音が……」

 恐ろしくて下を向けない栄輔の元に錆目がすぐに駆け寄ってきた。その顔がみるみる険しくなっていき、栄輔は危険な物を踏んでしまったことを理解した。

「まずいぞ、徘徊地雷だ。俺達が帰ってくるのを待ち伏せしていたらしい!」

 踏んだ物体の正体を教えられ、ようやく栄輔は壊れかけの自動人形のように視線を下に向けた。右足が何か平べったい物体を踏んでいる事が分かった。

 形は円形、直径は栄輔の靴底より少し大きい位で、上部に同心円状の模様が刻まれ、四方に細長い脚が生え、前方に付いた虫の眼のような赤い感知器が二つ明滅していた。

「錆目、どうしたらいい?」

「待ってろ、すぐに鉄脚を呼んでくる。絶対に動くんじゃないぞ」

 不安げに見つめる栄輔に目配せし、錆目は駅舎の中へと駆け込んでいった。栄輔はそのまま錆目が戻ってくるのを待った。

 殆ど日が沈んで辺りは薄暗くなり、どこからか思わずついていきたくなるようなマダラフエフキの澄んだ声や、ほぎゃあ、ほぎゃあという夜泣婆娑羅蔦よなきばさらづたの獲物を探す声が聞こえた。

 次第に増えていく動植物の鳴き声に混ざって、そう遠くはない場所から突然、がらがらと何かが崩れ落ちる騒々しい音が聞こえてきた。

 思わず後ろを振り向くと、木々と同化した建物の一つがそれ諸共に崩れ落ち、そこだけ隙間が歯抜けのように綺麗にぽっかり出来上がっているのが小さく見えた。

 その周りには全くと言っていい程影響を与えないまま積み上がった瓦礫の山の下から、一体の生物が姿を現した。

 半球を描くずんぐりとした体を四本の小さな足で支えながら、地面を嗅ぎ回る生物は自動車一台通らない道路を斜めに横切り、十字路からどこかへと消えていった。

 栄輔は背筋に寒気を感じながら視線を前に戻した。そいつが一体何なのかは確認できなかったが、距離の割にはっきり見えたのが恐ろしく巨大だったからだという事に気付いたからだった。

 錆目が鉄脚を連れて戻ってきたのはそれからすぐだった。

 鉄脚は栄輔の元まで青い三角の工具箱を持ってどすどす走り寄ってきた。

「徘徊地雷ってのはこいつか」

「そうなんだ。早いとこ助けてやってくれ」

 錆目の話を聞きながら鉄脚は「今助けてやる」と栄輔に低く耳打ちし、足元に腹這いになった。

 錆目に離れるよう指示し、作業に取り掛かった。工具箱から箆頭へらあたまの軸回しとギムレットピックを取り出し、徘徊地雷の側面をこじ開けて中を覗いていたようだったが、やがて重たげに口を開いた。

「踏んだ時に気付いて良かったなあ。こいつぁ戦闘車両用の徘徊地雷だ。人の体なんか木端微塵だよ。長い事ほったらかしにされて感知器が過敏になってたんだな」

「ほ、本当に良かったよ……」

 栄輔は足元の小さな機械に戦闘車両を行動不能にする程の威力があるという鉄脚の言葉と、自分が一歩違えばその場で命を落としていた事の二つに戦慄した。

 鉄脚はそれからも暫く二つの道具を徘徊地雷の中に入れてがちゃがちゃ弄繰り回していたが、やがて赤い被覆の導線をギムレットピックに引っ掛けて取り出すと、腰のナイフで一気に切断してしまった。

 途端に徘徊地雷は脚をだらりと力なく伸ばし、感知器は黒く光を失くして止まってしまった。

「もう足をどかしていいぞ」という鉄脚の言葉に、栄輔はゆっくりと徘徊地雷から足を下ろした。徘徊地雷はうんともすんとも言わなかった。何の動きも起こさない事を確認して、栄輔はようやく一息つくことができた。

「鉄脚、助かったよ」

「礼には及ばねえさ。両足をやられてから、徘徊地雷について色々研究してたのさ。鉄脚なんて呼ばれるのは、俺一人でいいからよう」

 そう言って鉄脚は筋電義足きんでんぎそくの足首をきりきり鳴らして豪快に笑った。栄輔が鉄脚を待っている時見た巨大な生物の話をすると、鉄脚はそれは戦争中こちら側の戦力として使われた動物兵器岩吸いわすいが野生化した物だろうと言った。また、そんな奴がここらにもまだいるんだなあと古い友人を懐かしむように言った。


 駅舎内の高床ホームへの階段を下っていると、階下から栄輔が初めて嗅ぐ匂いが漂ってきた。

「急ごう。早くしないと美味しい所を持ってかれそうだ」

 錆目が少し足を速めた。

 高床ホームに出ると、出掛ける前に見かけたあの巨大な鍋が第三貨物車の前でコンクリートブロックを組んでできた焜炉こんろにかけられ、中で何かが煮立っていた。

 側では賄い役らしい男が巨大な木べらで中身を掻き混ぜ、更にその隣では飯炊が手に持っていたズタ袋からなにか黄色い粉を鍋に入れていた。

「よう飯炊、晩飯はできたのかい?」

「おかえり鉄脚、錆目、栄輔。今仕上げに入ったところさ。うん、これくらいでいいな」

 鉄脚の言葉に応えながら飯炊は玉杓子たまじゃくしで味見をした。

 栄輔が鍋を覗いてみると、そこでは何か茶色いどろどろした汁物が沼地の泥のようにぽこぽこ泡を吹いていた。

 匂いは階段で嗅いだ時よりも遥かに強く、芥村にいた頃、行商人が一度だけ村の誰もが手出しできないような値段で売っていた、"香辛料"という物の匂いをさらに十倍程に濃縮したような匂いだった。だが不思議と不快感はなく、むしろ胃が準備運動を始め、空腹を訴えだす匂いだった。

 賄い役の男が暫く掻き混ぜたところで、飯炊が間仕切りを外したアルミ箱を手に取り、まずあらかじめ火にかけられた後らしい飯盒はんごうから雑飯ぞうはんをアルミ箱の半分程に盛った。続いて鍋の汁物を玉杓子でよそって空いている所に一気にかけ、木匙と一緒に栄輔に渡してくれた。

「ほら、新入りにはサービスだ」

「朝といい、悪いね」

 それがきっかけになったかのように、高床ホームのあちこちに散らばっていた乗員たちが鍋の周りに集まってきた。

 皆礼儀正しく受け持ちの賄い役の前に並び、汁かけ飯を受け取ってまたあちこちに散らばっていった。

 轟号の面々はそれぞれ思い思いの位置に座って汁かけ飯を食べ始めた。持ち場の車両に上がって食べる人、高床ホームに直に座り込んで食べる人、一人で食べている人、何人かで車座になって食べている人――様々な表情、様々な姿をした乗員達は、列車長と雀を除いて男ばかりおよそ五十人で全員のようだった。

 栄輔の場合は雀に手招きされるまま、前部機関車の乗降口に居た列車長・錆目・九九きゅうきゅうニ四にーよん・雀・きねうす・飯炊の前部機関車要員と第一貨物車要員からなる車座に入った。

 改めて汁かけ飯を見ると食べたくなるような匂いとは裏腹に、汁と言うにはどろどろしていて輪切りにされた螺旋牛蒡らせんごぼうや、角切りにされた牛肉や捻転芋ねんてんいものせいで、芥村の外れにあった発酵肥料の貯蔵池を連想してしまう見た目だった。

「栄輔、食わないのか?美味いぞ」

 雀が汁で口の周りを茶色くしながら言った。車座の皆が美味しそうに食べているのを見て、栄輔は遂に覚悟を決めた。

 汁と雑飯の間辺りに木匙を入れ、恐るおそる掬い取って口に運んだ。次の瞬間、栄輔の口の中に今まで経験したことのないような、不思議な味が広がった。

 まず感じたのは"辛み"だった。だが舌を小さな槍で連続して突かれるような痛い辛みではなく、辛味を含んだエキスがじんわりと浸透していくような深みのある辛みだった。栄輔は今までも辛い食べ物は沢山食べてきたが、それらのような暴力的な辛さとは違った優しい辛さだった。

 汁が絡んだ雑飯を噛み締めていくにつれ"旨み"がやってきた。こってりとした汁の味が唾液の分泌を促し、雑飯特有の甘みと混ざり合って何にも例えようがない味が出来上がっていった。

「……美味い。本当に美味い」

 今度は汁だけの部分にゆっくり木匙を入れ、螺旋牛蒡と捻転芋を掬って口に入れた。具は柔らかく煮られていて、味を口の中に残しながら溶けるように消えていった。どちらも味噌汁や煮物で食べた事はあるが、汁の辛みと旨みはそれらとは一線を画す刺激的な味わいに変えていた。

 続いて汁の中で茶色くなっていた牛肉に匙を運んだ。密輸取引や抜き取りの時に見た姿とは遥かにかけ離れているのにそうだと分かったのは、端に残った白い部分が熱を通される前とよく似ていたからだった。これは一気に口にした。

「美味い……美味い……」

 螺旋牛蒡や捻転芋同様、よく煮られた牛肉は噛んだ途端口の中に汁をぶち撒けた。よく出汁やたれを吸った代用肉から出てくるそれとは違い、汁自体に味があり、汁飯そのものの汁と絡み合って旨みを倍増させていた。また肉自体も代用肉特有の青臭さが無く、とろけるような食感と相まって幾らでも食べられそうだった。

 初めて食べる本物の肉は涙が出そうになるほど美味く、栄輔は暫く『美味い』という言葉しか言えなくなるほど牛肉の味に魅入られていた。

「雀、これは何という食べ物なんだい?」

 栄輔は隣にいる雀に訊いた。

「それは"カレーライス"という食べ物なんだ。昔はどんな家でも作って食べられてたらしい」

 雀は手拭いで口をもごもご拭きながら応えた。手拭いには汁の色なのか黄色い染みができていた。

「戦前は"ニンジン"や"ジャガイモ"とかいう今はまず手に入らない野菜を使っていたらしいぜ。これに螺旋牛蒡や捻転芋を入れているのはそういう野菜に近いからだとさ。……おい飯炊、なんで俺の分に螺旋牛蒡を入れるんだよ!」

 九九が螺旋牛蒡をアルミ箱の隅に追いやりながら補足してくれた。栄輔はこういう美味しい物を食べられるなら密輸の片棒を担ぐのも悪くないと思えた。


 栄輔は意外な程食が進み、食べ始めたのは後の方だったが、車座の中で最初にカレーライスを食べ切ってしまった。

 アルミ箱を片付けようと立ち上がると、列車長に呼び止められた。

「お前のアルミ箱は片付けておくから、冷める前に夕飯をゴーグルに届けてくれ。『気になるものがある』ってまだ戻ってこないんだ」

 そう言って列車長は傍らに置いてあった、蓋をしたアルミ箱と木匙を栄輔に手渡した。ずっしりと重いアルミ箱はまだ仄かに温かった。確かに車座の中に特徴的なゴーグルを掛けた男の姿がなかった。

「でも、ゴーグルはどこにいるんでしょうか……旧市街に止まってからずっと姿を見ていないし」

「大丈夫だ。階段を登ればすぐに分かる」

 列車長はそう言って栄輔と錆目が駅舎から外に出る時使った階段を指さした。

 栄輔は言われるままゴーグルがいる所に行くことにした。

 階段の上は轟号が停まっている建物の端から端まである長い通路になっていて、錆目と駅舎の外に出た時は階段から見て右側の通路を通っていた。

 栄輔が階段を上りきると、階段から見て左側、錆目と通った方とは逆の方向に向かって青白く光る物体が点々と並べられていた。

 それは内容液を透析とうせきすることで繰り返し使えるタイプのケミカルライトで、眼で辿っていくとその列の向こうが少しだけ広くなっているのが見えた。

「なるほど、階段を登れば分かるというのはこういうことだったのか」

 栄輔は一人で納得したように呟くと、今度はケミカルライトを足で辿りながら歩き出した。

 通路の右は旧駅舎の出入り口がある大きな空間に続いていたが、通路の左は旧駅舎のすぐ隣にある建物に繋がっていた。

 ケミカルライトの光は頼りなかったが、足元を照らし何かにつまずいて転ぶような事はない程度の光量は確保されていた。

 建物に入るとすぐに階段があった。ケミカルライトは上に向かって続いていたが、栄輔は上る前にこの階を軽く覗いてみることにした。

 だが、階段から建物に入って少しの場所にシャッターが立ち塞がってそれ以上は進めず、それと壁の間の細長い空間は、椅子や洋卓ようたくがぎゅうぎゅうに積み上がって窓からの星明かりに照らされていた。

 栄輔はケミカルライトに従って再び歩き出した。

 階段はやはり踊り場を経由しながらぐるぐると上に向かっていく構造で、どこまで行っても景色は変わらず、踊り場ごとに壁に書かれている数字が増えていくのを見逃していたら、同じ所を何度も行き来しているように錯覚してしまいそうな程だった。

 ケミカルライトは尚も階段を上るよう指し示し、数字は『10』を過ぎとうとう階段の終点まで来てしまった。

 塔屋の戸は開けっ放しになっていて、月明かりで菌糸雲が歪な影を落としている屋上がよく見えた。

 その隅に何かもぞもぞと作業をしている人影があった。月明かりは屋上を広く照らしていたが、ケミカルライトよりも遥かに暗く、栄輔は用心して壁とフェンス伝いに影の所まで行ったので、思ったよりも時間がかかってしまった。

 影の側まで近づいて「ゴーグル」と声をかけると、影がビクッと反応した。

「夕飯を届けに来たよ」

「栄輔か。ちょっと待ってくれ。今明かりをつけるから」

 人影が頭の何かを下ろす動作をした後、足元にある何かの装置を操作した。途端に一番近くにある屋上備え付けの照明が灯り、栄輔の目の前に赤い髪を頭頂部の一房を残して剃り上げ、双眼式のベルトゴーグルを掛けた男が座っていた。

 側のフェンスには銃身に電動鎖鋸くさりのこが取り付けられた長銃が立て掛けられていた。銃身後部と銃床の間に箱型の充電池が付いていることから電気式の弾丸銃だんがんじゅうのようだった。

「はいこれ。カレーライスだってさ」

「有難い。オレの好物だよ」

 栄輔から木匙と共にアルミ箱を受け取ると、膝の上で蓋を開け、左手で首に掛けた双眼鏡を持ち覗きながら右手に持った木匙でカレーライスを器用に食べ始めた。

 暫くの間中央のダイアルで視界を試すように色々調整しながら屋上の外にある暗闇に視線を向けていたが、やがて殆ど落とすように双眼鏡を乱暴に下ろし、アルミ箱を持ったまま立ち上がって側に合った長い三脚の上の測距儀そっきょぎを覗き込んだ。

「何か見えるのかい?」

 望遠鏡と測距儀を交互に覗きながらカレーライスを食べるゴーグルに訊いた。

電装義眼でんそうぎがんを入れてないアンタには見えないだろうが、向こうに何か轟号を追いかけてるヤツが居るんだ。オレ達が密輸トラックと別れて少し経った頃に出てきた。今は止まってるけれど、このイカレ電装義眼のせいで測的が上手くいかなくてね。おかげで調査隊も出せない……あっ!上手い事安定してきたぞ。この位でいいか」

 そう言ってゴーグルは鎖鋸付き電気銃の隣にあった物理鍵ぶつりかぎと数字暗号で厳重にロックされたトロリーケースを引き寄せてくると、鍵を入れ暗証番号を打ち込んでケースを開いた。

 その中には栄輔の握り拳より二回り程大きく、駅舎前で見た徘徊地雷のそれとよく似た感知器を一つ付けた球体が六つ、丸くくり抜かれたベークライト樹脂製の枠の中にぴったり収まっていた。

 栄輔はゴーグルが測距儀を覗きながらメモ帳で何か計算をしているのを横目に見ながら、トロリーケースを更に注視した。球体が収まっている枠の蝶番がある方を上として、右上の部分に電子算盤でんしさんばんのようなキーとデジタル表示器が埋め込まれていた。更にその隣には赤と緑の二つのランプが埋め込まれていて、今は赤いランプだけが無機質に灯っていた。

「栄輔はコイツを見るのは初めてか?」

 栄輔が何なのか訊こうとした矢先、ゴーグルに逆に尋ねられた。

「うん、そうだよ」

「コイツは"玉トンボ"って言ってな、公務局こうむきょくが市街地の警備に使ってる機械なんだ。八裂は治安が良いからめったにお目に掛かれないが、もっと治安が悪い所なら嫌になる位会える。"調査隊"ってのはコイツらの事さ」

 ゴーグルはそう言いながらメモ帳を見ながらキーを叩いて何か数字を入力しだした。

「新しいのは大まかな指示を出せば後は自分の判断で勝手にやってくれるらしいんだが、コイツは公務局からの放出品でね、こうやって目標地点までの正確な方位と距離を入力してやらなきゃならないんだ。まあ、送り出した後はケースがどこにあってもそこまで戻ってきてくれるから楽だけどな」

 入力を終えて『RUN』と書かれたキーを押すと、ランプが緑に切り替わり玉トンボの感知器が鮮やかに発光した。

 唐突に玉トンボの左右から糸状羽いとじょうばねが飛び出すと、それを羽搏かせて六個の玉トンボは一斉にトロリーケースの中から浮き上がった。

 玉トンボは照明の傘がある辺りまで上昇すると、一旦向きを変え、ぶりぶりという羽音を残して暗闇の中に消えていった。

 栄輔は人の代わりに調査をしてくれる機械があるとは便利なものだなと思った。

「すごいんだね、玉トンボって」

「型落ちの安物だけどな」

 ゴーグルは不満げに言った。


 ゴーグルが機材を片付けるのを手伝った後、更に頼まれて道標のケミカルランプを大きな肩掛け鞄に仕舞いながら轟号まで戻ってくると、第一貨物車の屋根に飯炊が居た。

 高床ホームに出ている乗員は夕飯の時と比べて明らかに少なくなり、その出ている乗員も飯炊のように作業をしている者よりも特に理由もなくうろついて暇を潰している者の方が多かった。

 栄輔が自分はもう貨物車に上がるべきか否か迷っていると、前部乗降口から雀が顔を出した。

「もうすぐ発動機を止めちまうから、寝るなら早くした方がいいぞ。貨物車の中は暗くなるからな」

「分かったよ」

 雀にそう言われた側で、飯炊が屋根から引きずり出した物が固定されたらしい、ジーンというけたたましい音がした。

 続いて飯炊が何かのスイッチを入れると、初めて屋根に上がった時見かけた、あの用途不明の丸い輪の付いた円形の出っ張りの辺りから左右に向かって棒状の光が壁を貫かんばかりに放たれ、ゆっくりと横回転しだした。

 栄輔が後から聞いた話だが、あの出っ張りは強い光を嫌う異形変異生物を近付かせないための蓄電池付き探照灯で、普段は攻撃などで割れるのを防ぐために屋根の中に引き込んでおき、必要な時引き出して使う物だった。

 本来は轟号が旧駅舎に止まった時点で機関車の発動機を止めて点けるはずだったのだが、一晩中点けていられる程充電ができておらず、今になってしまったのだった。

 飯炊が後部の丸蓋から貨物車内に降りたのを見届けたところで栄輔も第一貨物車に入った。

 シャツとズボンをロッカーに放り込み、水筒の水を軽く飲んだところで列車長の「車内消灯」の号令がかかり、電気灯が消えて第一貨物車の中は真っ暗になった。それに一拍遅れて発動機音が止み、足元からの微振動も消えた。

 梯子をよじ登り、寝台に転がり込んだ所で壁に立て掛けてあるはずの連装ばら撒き銃が無い事に気付き、同時に雀に貸したままだという事も思い出した。

 だがもう寝息を立て始めた雀を起こす訳にもいかず、また自分もどっと湧き出てきた疲れからは逃れられず、屏風びょうぶカーテンの隙間から入ってくる探照灯の光を爪先に感じながら栄輔は意識を手放した。


(つづく)

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