第253話

宿を出発する際にやたら従業員が低姿勢だったのが印象的だった。亭主も金貨十枚を返そうとしてくるし。それは必要ないので断った。いい宿だったのでまた泊まることもあるだろう。


強いて言うなら昨夜のゴタゴタでスイートルームを堪能できなかったのは残念だ。まあまた来ればいい。


アレクも昼前にはちゃんと起きて支度を整えたので、十二時ちょうどぐらいに出発できた。


「さーて、少し散歩してから帰ろうか。お昼ご飯いる?」


「そうね。それがいいわ。私は食欲ないわよ。それにしても奇妙な宿だったわ。」


「奇妙? 何かあったの?」


「どこで寝ても気付いたらベッドにいるんだもの。お風呂に入ってたらベッド、カースの横に寝てたと思ったらベッドよ? 昼前は自分でベッドに寝たからいいんだけど。」


「あははは、それは奇妙だね。きっと小さい紳士が運んだんだよ。アレクは軽いから。」


「もーっ、やっぱりカースなのね。じゃ、じゃあ、やっぱり、その、見たの?」


「ふふ、それどころじゃなかったよ。アレクがお風呂で気を失ってたんだから。もう大慌てで湯船から出したんだよ。体を乾かしたり水を飲ませたり、大変だったんだから。」


バカ四男の件は内緒にしておこう。どうでもいいことだし。


「そ、そうなの? 逆上せちゃったのね……だから気付いたらベッドだったのね……ありがとう。」


「どういたしまして。実は大変でもなかったけどね。ほら、アレクって軽いからさ。ふわっと持ち上がったよ。羽のようだったよ。」


「もうっ、カースったら。それに自分だけ下で寝るなんて……」


「そりゃまあね。アレクが起きてたら一緒に寝てたとは思うけど。そうもいかないじゃない?」


「小さい紳士ね……自分で言うだけあるわね。ありがとう。」


こうして歩きながらお喋りをしていたわけだが、昨日の二人組に絡まれることもなく領都を後にした。


「来るときは驚きすぎて忘れてたけどバイオリンを弾いてあげるわ。ゆっくり飛んでね。」


「早く領都に行きたくて忘れてたね。ぜひお願い!」


風壁は広めに張っておこう。


それからの演奏は素晴らしかった。

優雅に空を飛ぶように、激しく雨が降るように。はたまた暖かい日差しのように旋律が紡がれていく。周囲の景色と相まって最高に趣きある風雅な時間を過ごしたと言える。


来た時の三倍ぐらいの時間をかけてクタナツに無事到着した。

音に惹かれて魔物が来なくてよかった。


日暮れまではまだ間があるので、最後にタエ・アンティでゆっくりすることになった。紅茶を飲みながらゆるりと過ごす。これこそが贅沢だ。


非常に有意義で楽しい週末だった。


もう夏が始まる。どんな夏になるのだろうか。

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