第20話 青春

千歳ちとせを誑かさないでくれるかしら」


 単刀直入とは、まさにこのことを指して言うのだろう。


 冷たい声色で、開口一番にそう言い放ったのは、30代前半くらいの女性だ。


 仕事ができるキャリアウーマンのような、毅然とした雰囲気を纏っている。


 目の前、僕を射抜くような鋭い眼光で睨め付けるのは、千歳の母親だった。


 幼稚園の頃から、おばさんと呼んで親しく接してもらっていた、僕にとって馴染みのある人物。


 ーーーそんなおばさんが、今、見たこともないような険しい瞳に僕を映していた。


 場所は僕の家の隣、千歳の家。


 放課後の公園遊びを始めてから数ヶ月が経過したある日、「話したいことがある」と呼び出された僕は、家に着き、ダイニングチェアに座らされるなり、そう彼女に切り出されていた。


「………は?」


 彼女の言葉に理解が追いつかず、僕は間抜けな声を漏らす。


 それは、馬鹿な僕には『誑かす』という言葉の意味がよくわかっていなかったからでもあるのだけれど、それだけが理由ではない。


 言葉の意味はわからずとも、それが良い意味の言葉でないことは、彼女の目を見ればわかった。


 ーーー幼子を容赦なく糾弾するその目を見れば。


「それって、どういう………というか、話したいことって………」


 震える声を吐き出す僕に、彼女は納得したように小さく頷くと、


「ああ、言い方が悪かったわね………用というのはね、かず君。今後、一樹君には千歳と関わるのをやめてもらいたいの」


「関わるのを、やめる………?」


「ええ、そうよ。あなたたち、最近帰りが遅いわよね」


「それは、ええと……」


 話の急な展開に、僕は口ごもる。


 公園で遊ぶようになって以来、僕たちは確かに家に帰るのが遅くなった。


 特にここ最近は、遊んだり話したりしているうちに、夜の7時くらいになっていたこともあるくらいだーーーー小学生の帰宅時刻としては遅過ぎる。


 僕の両親は基本的に放任主義なので、あまり口うるさく言われることはなかった。


 そこには、「千歳ちゃんが一緒にいるなら大丈夫」という安心感があったとも思うがーーーーしかし。


 千歳の側からしてみれば、「一樹君が一緒にいるなら大丈夫」とはならなかったのだろうか。


 だが、そんな僕の不安は、おばさんの次の一言で杞憂に終わることになる。


「まあ、それはいいわ。何事もなかったのだし………いや、そんなことはないか」


 1人で納得した様子のおばさんは、続けて重々しく口を開いた。


「………千歳ね、最近成績が落ちてきているの」


「………え?」


 おばさんの言葉は、僕の予想の遥か上を行くものだった。


 千歳の成績が落ちている。

 あのちーちゃんの成績が。


「テストの点数が下がっている」


「そんな………あのちーちゃんが……」


「知らなかったの?」


 おばさんはここにきて初めて、驚きに目を丸くした。


「……はい。知りませんでした」


 この時の僕にとって、ゆきみや千歳は完璧な人間だった。

 可愛くて、美しくて、頭が良くて、運動ができて。

 質問をすれば必ず答えが返ってきた。

 かけっこをすれば敵いっこなかった。


 だけれど、そうだーーーー言われてみれば。


「………僕、最近、ちーちゃんのテスト、見てません」


 小学校で定期的に実施されるテスト。

 その答案用紙を、小学5年生になってから、僕は千歳に見せてもらったことがない。


 今までの成績が良かったから、てっきり高学年になっても同じようにトップクラスにいるものだとばかり思っていたが。


「そう…………あの子も大概ね」


 僕の言葉を聞き、おばさんはポツリと呟く。


「………」


 その真意がわからず、何も言えない僕は、彼女の顔を見ることしかできなかった。


 そしてその顔には、僕への敵意の他に、我が子ーーーー千歳への失望も見て取れて。


「ーーーー」


 失望は期待の表れだ。


 そして、親が自分の子供に期待をするのは道理である。


 僕の場合、両親は早々に折り合いをつけてしまったけれどーーーーでも。


 彼女は、千ノ宮千歳は違う。


 千歳は、真に神童と呼ばれるべき存在だ。


 優れた容姿を抜きにしても、成績は常にトップクラス、芸術方面にも秀でた才を発揮する、文武両道、才色兼備、完璧で完全で完成された超人。


 両親が多大なる期待をかけるのも当然である。


 そして、そんな彼女の成績が下降しているとなると、親にしてみれば一大事だろう。


 原因を血眼になって探し、潰そうと思っても何ら不思議はない。


 だから彼女は探した。

 完璧な我が子の旅路、それを邪魔する不届き者は何なのかを。


 そして辿り着いたのだーーーー僕という邪魔者に。


 いち一樹という障害に。


「前々から少しずつ下がってはいたのだけれど」


 彼女は、重苦しい雰囲気を纏ったまま言葉を紡ぐ。


「繰り返しになるけれど、あなたたち、最近帰りが遅いじゃない?」


「………はい」


 まるで警鐘を鳴らすかのように心臓の鼓動が早まり、身体中を蹂躙していく。


「そうなってから、さらに悪くなっているのよ」


「………」


 もはや、相槌すらも打てなかった。


 小学校に入学してからの4年間は、ちゃんとやってこられていたのだ。


 それは、これまでの千歳の成績が証明している。


 でも、学年が上がれば、それも高学年になれば、勉強の難易度は当然のように高くなる。


 朝は自分の時間そっちのけで、僕を起こしにきてくれる千歳。

 昼は自分の勉強そっちのけで、僕の勉強に構ってくれる千歳。


 僕のために己が時間を費やしていた千歳は、しかし、それゆえに勉強についていけなくなった。


 そして駄目押しの放課後だ。


 放課後、今までは真っ直ぐ家に帰って勉強に費やしていたであろう時間が、公園で遊ぶための時間に変わった。


 だから彼女の成績は、現在進行形で悪化の一途を辿っている。


「本当は、私もこんなことを言いたくはないんだけどね、一樹君。ーーーこれは、あなたのせいなのよ」


 おばさんは言う。


「そうとしか考えられない」


 馬鹿な子供を諭すように言う。


「あなたがいなければ、千歳がこんなになることはなかったの」


 僕に向かって言う。


「ーーーあなたといると、千歳が駄目になる」


「ーーーーっ!」


 その一言が、決定的だった。


 僕は千歳がいないと駄目な人間。

 そしてーーー千歳は僕がいると駄目な人間なのだ。


 俯いて何も言わない僕に、最後におばさんは、


「もう一度言うわーーーーお願い、一樹君。今後、千歳と関わるのをやめてちょうだい」


 それは、お願いと優しく形を偽った、紛れもない脅迫に等しかった。


「…………はい」


 長い長い沈黙の後、僕は絞り出すように返事をした。


 その返事に、おばさんは満足そうに頷くと、「話は終わりよ」と言って席を立った。


 同じタイミングで僕も席を立ち、ゾンビのような重い足取りで玄関へと向かう。


「………」


 上手く視点が定まらない。

 見慣れた家がぼやけ、歪み、何もかもがわからなくなる。


 途中、頭上から視線を感じて、玄関横、2階へと続く階段の上に振り返った。


 そこには、壁から半身だけを覗かせた千歳がいて。


「ーーーー」


 ーーー彼女は、可憐な顔を絶望に塗り潰して、僕を見つめていた。




*****




 ーーーおばさんの忠告に従い、その日を境に僕と千歳は関わるのをやめた。


 一緒に過ごすのをやめた。


 登校時、千歳が家に迎えに来ることはなくなり、尻を叩く存在がいなくなった僕は、毎日のように寝坊や遅刻を繰り返すようになった。


 同じ教室の中にいても2人で話すことはなく、かと言って他の友達がいない僕たちは、自分の席で、独りで、俯いて、ただ時が過ぎるのを待つだけの学校生活を送るようになった。


 もちろん千歳に勉強を教えてもらいにいくこともなくなり、僕は皆がそうしているように、わからないところがあれば先生に聞きにいった。


 クラスメイトや先生は、最初こそ驚いていたけれど、何も言ってこなかったところを見るに、「喧嘩でもしたのだろう」くらいに思っていたのかもしれない。


 とにかく、僕たちは関係を絶った。


 絶交なんて生温い、同じ空間にいるのに同じ場所にいないその空気は、もはや絶縁と言って差し支えない。


「…………」


 ある日の授業中。


 先生の話を聞く気にもなれず、窓側の席でぼんやり外を眺めていると、これまでの日々が思い出された。


 千歳と一緒に過ごしていた時間。

 今はもう、失ってしまった時間。


 記憶の中の千歳は、僕の阿呆さに呆れ顔が多かったけれど、それ以上に華やぐ笑顔が脳裏をよぎる。


 そしてそれと同時に、今まで自分がどれだけ千歳に甘えていたのかを自覚した。


「………いや、違う」


 そう、違う。

 本当はとっくに自覚していたのだ。

 無意識のうちに、自分がどんなに千歳をあてにして生きてきたのか。


 自覚していたからこそ、自責していたからこそ、あの日、僕はおばさんに反論できなかったのだ。


 彼女の指摘に対して、「そんなことない」の一言ぐらい、強がりでも虚勢でも言うことはできただろう。


 それなのに僕は言わなかった。


 言えなかった。黙ることしかできなかった。


 そしてこうして、律儀にも彼女の忠告を守り、親の目が届かない学校という空間でさえ、千歳との関わりを絶っている。


 いくら幼かろうと、大人の言うことは絶対、なんて勘違いをしているわけでもないのに。


「………でも、それでちーちゃんのためになるなら………」


 弱い自分を肯定するように、惨めに呟く僕。


 僕が側にいなくなることで、千歳が再び母親の期待に応えられるようになるのなら。


「………ちーちゃん」


 そう思い、教室の後方、千歳の席に視線を向ける。


 ちょうど彼女もこっちを見つめていて、お互いの視線が交錯した。


「ーーーー」


 千歳の顔は、今も深い絶望に染まったままで。


 ーーーあの日以来、彼女の笑顔は見ていない。




*****




 僕たちが関係を絶ってから、およそ1ヶ月が経過したある日のこと。


 放課後、僕はいつも通り、1人で家路についていた。


 隣を歩くのが当たり前だった彼女がいないだけで、周囲の風景が色をなくしているように感じる。


 価値のない灰色の世界。

 規則的な自分の足音以外には、何も聞こえない。


「………あ」


 下を見ながら歩く途中、気がつくと僕は、あの公園の前にいた。


 千歳と一緒に遊んだ公園。

 千歳と一緒に駄弁った公園。


 相変わらず公園の中に人影はなく、錆びれた遊具が点在するだけだ。


 その閑散とした風景を眺めていると、幼馴染2人が遊びに来るのを、遊具たちが今か今かと待っているような錯覚を覚える。


 だが、所詮は錯覚だ。


 この公園は、もはや誰の遊び場でもない。


「………帰ろう」


 吐き捨て、眩い光から目を背けるように、僕は公園から離れた。


「ただいま」


「おかえりー」


 トボトボと歩いて自宅に着くと、一足先に帰っていた小学3年生の妹、ひとが出迎えてくれた。


 と、一華は玄関先で僕の顔を見るなり、


「どうしたのお兄ちゃん。そんな深刻そうな顔して」


「……何でもない」


 上目遣いで心配そうな顔を向ける一華にそう告げて、手洗いうがいをしてから2階の自室へと引っ込んだ。


 そして、機械的な動きで机上に教科書とノートを広げ、今日の分の宿題を片付け始める。


 家に帰って早々に勉強するなんて、これまでの僕からは考えられなかった行動だ。


 けれど、千歳と一緒に帰らなくなって以来、これが僕の放課後のルーチンワークと化していた。


 自分でもわけのわからぬまま、ただ我武者羅に鉛筆を走らせる。


 何かから逃れるように、嫌な現実から目を背けるように、必死にノートを埋めていく。


「ーーーーあ」


 すると、圧力に耐えられなくなった黒い芯が、嫌な音を立てて折れた。


「…………はは」


 乱れた文字を見ていると、自然と乾いた笑いが漏れ出る。


「…………はあ」


 続いて出てくるのは重いため息。


 ああ、本当に嫌気がさす。


 鉛筆すらまともに扱えない自分に、ではない。


 ーーー彼女との繋がりを現実逃避の手段としている自分にだ。


「……ちーちゃん」


 千歳は今頃何をしているだろうか。


 ふと気になって、窓の外を眺める。


 そこからは、隣の家ーーー千ノ宮家が見えた。


 ちょうど目の前、僕の自室の真向かいが千歳の自室である。


「………懐かしいな」


 ついこの間までは、こうして互いの部屋の窓から、今日のご飯は何だったとか、今何していたのかとか、そんなどうでもいい話をしていたものだ。


 携帯電話がなくても、幼馴染だからこそできるコミュニケーション。


 それが今は、遠い昔のことのように思える。


「………ちーちゃん」


 再び呟き、過去を掴もうとするかのように、窓越しに千歳の部屋を見る。


「………?」


 すると、違和感が僕を襲った。


 部屋の中、千歳はテーブルの前に座り、黙々とノートに鉛筆を走らせていた。


 時折横の教科書を見ながら、再びノートに視線を戻し、機械的に文字を綴っていく。


 それだけ見れば、何の変哲もない光景だ。


 小学生が自室で勉強をしているだけの、いたって普通の光景。


 ーーーーその子の顔が、涙でぐちゃぐちゃになってさえいなければ。


「ーーーー」


 千歳は泣いていた。


 初めて出会ってからこのかた、僕の前で泣いたことのなかった千歳が。


 大きな瞳から大粒の涙を流し、潸然として泣いていた。


 滂沱と落ちる涙はとどまることを知らず、彼女の白く柔らかな頰を容赦なく濡らしていく。


 落ちた涙の雫がノートに広がり、綴った文字をゆっくりと滲ませていく。


 それでも彼女は我武者羅に、ひたむきに、一心不乱に、丸くなった鉛筆を走らせる。


「ーーーー」


 流れる涙は止まらない。


 堪えようと鼻をすすっても、堰き止めようと両目を拭っても、次々と溢れてくる。


 その横顔からは、まるで聞こえもしない嗚咽が聞こえてくるようで。


 彼女の心の叫びが、僕の心の臓まで届いてくるようで。


「ーーーーッ!」


 ーーー気づいたら、身体が動いていた。


 窓を開け、ヘリに立った僕は、そのままの勢いで真正面ーーーー千歳の部屋、そのベランダへと跳んだ。


「ちーちゃん!」


 距離にして約2メートル強、跳んだ僕の手は、勢いそのままにベランダの手すりをーーーーーー、


「ーーーーあ」


 ーーーー掴むことはできなかった。


 空を切った僕の手は、否、僕の身体は、重力に従って落下していく。


「ーーーー」


 落ちていく。こぼれ落ちていく。


 たかだか一軒家2階分のはずなのに、それはまるで永遠の時間のように感じた。


 でも、そんな時間にもいずれは終わりがきて。


「ーーーーぁ」


 刹那の衝撃。


 短い呻き声を搔き消す激しい音を立てて、僕の身体が地面に叩きつけられた。


 不思議と痛みはなかった。

 あるのは、心を突き刺す悲しい疼痛だけだ。


「ーーーー」


 視界が黒く塗り潰されていく。

 灰色の世界が、形をなくしていく。


 喪失感と寂寥感を残して、世界から自分が切り離されるーーーーそして。


「ーーーーずくん!?」


 最後に聞いたのは、空から降ってくるそんな声。


 久方ぶりに聞いた、彼女の美しい声だった。




*****




 ーーー目が覚めると、僕は病院のベッドの上にいた。


 シーツの柔らかい感触を名残惜しく思いつつ、むくりと体を起こす。


「………?」


 何故自分がこんなところにいるのか、直前の記憶がない。


 そんな空白の頭に入り込んでくるのは、全身を軋ませる鈍痛、そしてーーーーー、


「………足、が」


 包帯でぐるぐる巻きにされた、自身の右足だった。


「………かずくん?」


 衝撃的な光景に困惑していると、すぐ隣で声がした。


 聞き慣れたはずの声。でも、何故か懐かしい声。


 反射的に振り向くと、そこにいたのはーーーー、


「かずくん!」


 千歳は、高い声を上げて、僕に抱きついてきた。


「何でちーちゃんがって痛い痛い痛い!」


「あ、ごめん」


 瞬間、増す痛みに悲鳴を上げる僕から、千歳は慌てて離れた。


 そんな彼女を見ていたら、失っていた像が徐々に形を結んでいく。


 千歳、全身の痛み、声ーーーーー。


「……そっか。僕、窓から落っこちて……」


「うん、そう。本当にびっくりしたんだから」


 僕の呟きを、千歳が肯定する。


「部屋で勉強してたら、急に外で大きい音がして……何かと思って見てみたら、かずくんが倒れてて」


「てことは、ちーちゃんがここまで連れてきてくれたの?」


「ううん、一華ちゃんも一緒。救急車はあの子が呼んでくれたの」


「そっか、一華が……」


 だとしたら、彼女にはかなりの心配と不安を与えてしまった。

 今度、何でも1つ言うことを聞いてあげよう。


 と、そこまで状況が整理できたところで、ふと大事なことに気づく。


「……ていうか、ちーちゃん、僕と一緒にいていいの?」


「え?…………あ」


 キョトンと小首を傾げていた千歳は、程なくして己の失態に気づいた様子だ。


 その抜けた面もまた、僕が見たことがない表情だった。


「き、緊急事態だからいいの!」


「あ、そう……」


 顔を赤くして言い繕う千歳が珍しく、その年相応の女の子らしい仕草に、僕は妙な感覚に捉われる。


「………」


「………」


 それから数分間、無言の時間が続いた。


 如何せん喋るのが久しぶりなので、お互い何を話したら良いのかわからないのだ。


 会話の接ぎ穂を探して視線を巡らせると、包帯が巻かれた右足が目に入った。


「ちーちゃん、この右足のことって聞いてる?」


 千歳も同じ場所を痛ましげに見つめる。


「………骨折だって、お医者さんが言ってた。治るには3週間くらいかかるって」


「………そっか」


 不思議と動揺はなかった。

 まだ何もかもが未発達の身体で、家の2階から落っこちたのだ。

 骨が折れるのも頷ける。

 むしろ命に別状がなかっただけ、不幸中の幸いと言えるだろう。


「……ごめんなさい」


 ふと、千歳が弱々しい声で謝罪の言葉を口にした。


 その表情は、俯いてしまっていてよく見えない。


「別に、ちーちゃんのせいじゃないよ。僕が勝手にやったことだし」


 この怪我に千歳は関係ない。


 ただ間抜けな僕が、その名に恥じぬ間抜けを晒した結果だ。


 それなのに、千歳はゆるゆると首を振る。


「違う、違うの……そうじゃなくて……いや、それもあるんだけど、でも、そうじゃなくて……」


 下を向く唇から出てくるのは、そんな煮え切らない否定の言葉だけだ。


 普段からはっきりとモノを言う彼女からは考えられない態度に、僕はただ戸惑うしかない。


「ちーちゃん?」


「……本当に、ごめん………ッ!」


 途端、弱々しい声が上ずり、太腿に添えられていた彼女の手に大粒の涙がこぼれ落ちた。


 温かい涙の雨が、手の甲に小さな水たまりを作っていく。


「うぅ……くっ……」


 意識を失う前に見た、いや、それ以上の哀しさをもって、千歳の目から涙が溢れ出る。


「え……ち、ちーちゃん……?」


「ほんと、ごめんね………ッ!」


 堰を切ったように涙は流れ、千歳は「ごめん、ごめん」と謝罪の言葉を繰り返す。 


 彼女のただならぬ様子に戸惑いつつも、僕は必死に言葉を紡いだ。


「泣かないで……泣かないでよ、ちーちゃん……」


 その顔が見たくなくて、そんな顔をさせたくなくて、僕はあの時跳んだのだ。


「だって……だって……ッ!」


 顔を上げた千歳は、今にも号哭しそうな勢いだ。


 それを遮らんとして、僕は彼女の手を握った。


 両手で優しく、彼女の全身を包み込むように。


「ーーー泣かないで、ちーちゃん」


「ーーーー」


 柔らかく微笑む僕と啜り泣く千歳、2人の視線が交錯する。


 思えば1ヶ月前も、こんな風にお互い見つめ合った。


 けれどあの時とは、お互いの距離も、抱く感情も違っていて。


「僕の方こそ、ごめん」


 そう言って、僕はそっと頭を下げた。


 頭上、千歳が息を呑んだのが見なくてもわかる。


「僕のせいで、ちーちゃんに迷惑をかけた………いや、かけてた。ずっとかけてた」


「違う……迷惑なんて……」


「おばさんの言う通りだ。僕がいると、ちーちゃんは駄目になる」


「ーーーー」


「だから、これでいいんだよ。これで、もう……」


「ーーーそんなことないっ!」


 感情が爆発した大声に、僕はハッとして顔を上げる。


 目の前、千歳の涙はもう止まっていたけれど、未だくっきりと跡は残したまま、彼女は強い光を瞳に宿していた。


「そんなことない」


 もう一度、今度は優しく諭すように彼女は言う。


「ちーちゃん……」


「迷惑だなんて、私まったく思ってない」


 千歳は続ける。


「むしろ楽しかった。本当に楽しかった。かずくんと遊ぶことも、お喋りすることもーーーかずくんと過ごす時間は、本当に、心の底から楽しかった」


「ーーーー」


「だからかずくんのせいじゃない。これは私の責任」


 これだけは絶対と、そう断言するだけの力が、彼女の言葉にはあった。


「かずくんと話さなくなっても、私、何も良くならなかった……むしろ悪くなってった」


 それは事の発端、成績に限った話じゃない。


 何も手につかなくて。何も考えられなくて。


 そう彼女は言った。


「でもお母さんは、それでもいずれ成果が出てくるからって決めつけてて………だから」


 だから。


「必死になって勉強したの。私が頑張ってテストの点数を上げることができたら、またかずくんと一緒にいられると思ったから………でも、全然駄目だったーーー完璧には、なれなかった」


「完璧?」


 急に出てきた耳慣れない単語に眉を顰めると、千歳は小さく顎を引いた。


 そして、恥ずかしい身の上話をするように、躊躇いがちに口を開く。


「………私ね、かずくんの前では完璧な子でいたかったの。頭が良くて、運動ができて、優しくて。ーーーそんな自分を見せていたかった」


 それは、僕が抱いていた彼女への印象そのものだ。


 何でもできる、完璧超人。


 それこそが、僕が千歳に甘えてしまっていた原因でもあるのだけれどーーーーしかし。


 今にして思えば、僕は無意識のうちに、彼女に対してそんな身勝手な幻想を押し付けていたのではないだろうか。


 ーーー『千ノ宮千歳は完璧でなければならない』なんて、そんな気持ちの悪い幻想を。


 そして彼女もまた、それを受け入れてしまったのだ。

 受け入れて、そして実際、そうするだけの才覚が彼女にはあった。


「……ああ、そうか」


 だから千歳は、小学5年生になって以来、つまりは成績が落ちて以来、テストの答案を僕に見せなくなったのか。


 完璧じゃない自分を僕に見せたくなくて。


「ーーーー」


 ふと、自室で泣きながら勉強していた彼女の姿が思い出される。


 あの涙はきっと、2人一緒にいられないことへの悲しみや寂しさだけじゃあなくて、僕にとっての完璧な自分が遠のいていくことへの焦りや苦悩でもあったのだろう。


「でも、それももうやめる」


 千歳は僕を真っ直ぐに見据えて、強く言い放った。


「やめるって……」


「ーーー勉強会をしよう、かずくん」


「は?」


 唐突な話の展開に、間抜けな声を漏らす僕。


「これからは2人で一緒に勉強するの。そうすれば一石二鳥でしょ?」


 そう言って、千歳は可愛らしくウインクをした。


 そんなことを急に言われても、僕には何が何だかさっぱりだったのだがーーーー、


「………そうか」


 馬鹿な僕にも、そこでようやく理解できた。


 今までの僕たちは、あくまで教える側と教えられる側ーーーー言わば教師と生徒の関係だった。


 僕が教えてもらうことは千歳にはすでにわかっていることで、だからこそ僕の遅いペースに千歳は巻き込まれたのだ。


 しかし、勉強会ならーーーー2人が一緒なら。


 あわよくば、教え合うことができる。

 教え、自らも学ぶことができる。


 相互扶助。あるいは協同作業。


 これにより、相乗効果が生まれる。


 ーーーそれに何よりも、また千歳と一緒にいられる。


 そこまでわかれば、僕の答は1つだった。


「わかった、そうしようーーーー2人で、賢くなろう」


 もう施されるだけじゃない。僕も変わらなくちゃならない。


 果たして僕が千歳の助けになるのかはわからないけれど。


 彼女は僕を置いて、どんどん先に進んでいってしまうのかもしれないけれど。


 ーーーただそこにいるだけで心救われる存在になりたいと思うのは、僕の勝手な願いだろうか。


「ーーーうん!」


 僕の返事を聞き、千歳は笑顔の花を咲かせる。


 それは、僕が求めてやまなかった彼女の姿だった。



 こうして僕たちの関係に、再び変化が訪れた。


 1人は依存対象から普通の女の子へ。

 1人は虚栄対象から普通の男の子へ。


 その後の僕たちがどうなったのかは、わざわざ記す必要もあるまい。


 それは、これまでの夏の日々が雄弁に、語り過ぎるほどに語っている。


 だからこれは言わば、愚かな僕たちの馴れ初めーーーーいや、幼馴染風に言うなら、馴れ染めだろうか。



 ーーー捻れ濁った幼い僕たちが、初めて『馴染』んだ物語。




*****




「ーーーそんなこともあったわね、かすくん」


「期せずして昔の呼び名で呼んでくれたと思ったら、おい、悪口が含まれてるぞ」


「じゃあ、カス」


「もはや悪口でしかない!」


 8月31日。夏休み最終日。


 夜も幾分更けてきた頃、僕と千歳は、実力テスト前の決起集会と銘打って集まったのだけれど、気がつけば昔話に花を咲かせていた。


 それは、僕らが集まった場所が原因だ。


 舞台は僕の部屋でも千歳の部屋でも、ましてや図書館でもない。


 あの思い出の場所、小学校の通学路の途中にあった公園である。


 高校に進学した今となっては、一緒に遊ぶどころか、もはや立ち寄ることもなくなった公園。


 あれから6年もの月日が経った今、公園内にも変化の兆しがあった。


「………何にもないな」


 狭い公園を眺めながら、そう独りごちる僕。


 記憶を辿れば、ここにはジャングルジムやシーソーくらいの遊具はあったような気がするけれど、それもこれも全てが取り壊され、公園内は、昔にも増して閑散としている。


 まあ、最近は遊具の規制も厳しいと聞く。


 老朽化とともに、子供が怪我をしそうな遊具は軒並み撤去されたということなのだろう。


 今はもう、遊具は僕らが座っているブランコしかない。


 このブランコも、いずれはなくなる日が来るのだ。


「それにしても、昔の私、超可愛くない?」


「急なJK口調で何言ってんだお前」


「健気な感じがたまらないわ」


「感動話をぶち壊されたこっちがたまらないよ」


 良い流れをぶった斬る千歳の自画自賛に、僕は呆れたため息を吐いた。


 吐息は小さな音となって、閑静な公園に消えていく。


 元々利用者が少なかった公園は、遊具がなくなったことでさらにその数を減らし、僕たち以外に人は見当たらない。


 まあそもそもの話、深夜の公園を訪れる酔狂な輩なんて、僕たちくらいのものだろうが。


 良い子はもう寝ている時間だ。

 人の姿どころか人の気配、もっと言えば、物音すら何も感じない。


 静寂に包まれた深夜の住宅街。


「……こうしてると、世界に僕とお前しかいないみたいだな」


 同意を求めて横を向くと、千歳の心底嫌そうな顔と目が合った。


「世界にあなたと2人きりなんて怖気が走るわね。あなたを殺した方がマシだわ」


「掻い摘むと、2人きりでいたくないから死んでくれってことだよな、それ」


 マシというか、若干彼女の顔が真剣マジだったのが割とショックだ。


「ていうかさっきの話、何か最後は良い感じにほのぼのと締めていたけれど、あなた普通に大怪我していたわよね」


「ん? ああ、骨折の話か」


「随分さらりと語っていたけれど」


「そうは言っても、今は全然痛くないしな。まあ、当時はめちゃくちゃ痛かったけど」


「またまた大袈裟な」


「全治3週間だぞ? それなりに痛いっての」


「骨折なんて唾をつけておけば治るでしょう」


「唾で骨折が治るか!」


 それは擦過傷とか切り傷で使われる治療法だろうが!


「というか、その治療法も眉唾物だろ。唾だけに」


「あら、そうでもないわよ。確か唾液に含まれる成分が皮膚の成分に作用して傷口を塞ぐとか何とか」


「何か具体的に言っているようで、具体的な固有名詞が1つも出てきてねえぞ」


「詳しくは、Webで」


「横着するな!」


「詳しくは、フィブリン」


「確かに血液凝固の話だったけど!」


 語呂が良いだけで中身のない不毛なやり取り。


 突っ込むだけでも一苦労である。


「はあ………流石に深夜テンションが過ぎるぞ。いくら何でも、もう少し頭回そうぜ」


「別に頭を回さなくても、こうして世界は回っているじゃない」


「意味不明な発言に、僕は目が回りそうだよ」


「ところで」


 そこで突然、千歳が話を強引に打ち切った。

 頭や世界よりもまず、会話回しが下手だった。


「何だよ?」


「すっかり本来の目的を忘れていたけれど、一応私たち、実力テストの決起集会ってことで外に出てきたのではなかったかしら?」


「ああ、そう言えばそうだったな」


 昔話に熱中するあまり、そこのところを完全に失念していた。


「まあ、ここまで付き合った私が言うのも何だけれど、この状況、決起集会なんてやってないでテスト勉強をするか、さっさと寝て明日に備えろよって話よね」


「ぐうの音も出ないとはこのことだな。そもそも何で僕たち、こんな深夜に外に出てんだ?」


「私が知りたいわよ」


「そもそもテスト前の決起集会って何だ?」


「私が知りたいわよ」


「そもそもテストって何だ?」


「それはただの現実逃避」


「そもそも現実逃避って………ごめんなさい」


 熱帯夜にも負けないくらいの凍てつく眼光を目の前に、早々に頭を垂れる僕だった。


 流石に悪ふざけが過ぎたようだ。


 と、そこで千歳は軽く手を叩くと、


「さ、そういうわけだから、もう帰りましょうか」


 そう言ってブランコから立ち上がった。


 錆びたブランコチェーンが、高いような低いような、変な音を立てる。


「あ、おい」


 慌てて、颯爽と出口へと向かう彼女の背中を追いかける。


 思い出を残して公園から出た僕たちが、家への道を歩いていると、


「……1つだけ」


 ふと、千歳が前を向いたままで囁いた。


「ん?」


「世の中に不変はないとあなたは言っていたけれど、1つだけ、今も昔も変わらないことがあるわ」


「……何だよ?」


 若干嫌な予感がしながらも訊いた僕に、果たして千歳は。


「ーーーーあなたが馬鹿だということは、出逢った時からずっと変わっていない」


 そう、思わず見惚れるほどの絶美な笑顔で宣った。


 ーーーああ、こいつは本当に。


 そんな顔で言われたんじゃあ、何も言えなくなるじゃないか。


 2人の間に吹いた一陣の夜風が、彼女の長い髪を揺らしていく。


 ふわりと舞ったシャンプーの香りが、僕の鼻孔をくすぐった。


「ーーーー」


 千歳はクスッと微笑むと、呆然とする僕を置き去りに、さっさと前を歩いていってしまう。


 その綺麗な後ろ姿を眺めて、ふと思った。


 変わらないものなどないのなら、きっと、いつか。


 ーーー僕のこの心も、変わる日が来るのだろうかと。


 そして仮にもし、この曖昧な感情にちゃんと名前がついた、その時には。


「……って、何考えてんだ、僕」


 深夜テンションもここまでくると重症だ。


「………ふう」


 深呼吸1つ、甘い思考を振り払い、早足で彼女の隣に並ぶ。


「……まったく、お前は僕を傷つけないと生きられないのか」


「失礼ね、あなたに構わないと生きられないのよ。構わないでしょう?」


「構うわ!」


 多分の本音と、ほんの少しの照れ隠しを含んだ僕の突っ込みが、夏の夜空に木霊していく。


 今日は8月31日。夏休み最終日。


 もうすぐ高校2年の夏も終わりーーーー明日からは新学期だ。


 夏が終われば秋が色づき、冬に染まり、やがて春が芽吹く。


 もたもたしていたら、青春時代なんて一閃ーーーーーあっという間だ。


 だけれどそんな時分に、甘酸っぱさなんてどこ吹く風、今日も僕らは四方山話に花を咲かせる。


 だって、そうだろう。


 青春の形は千差万別。


 人の数だけ出逢いがあり、出逢いの数だけ青春が生まれ。


 学生の本分は勉強、それに間違いはないけれど。



 ーーーそんな青春を物語ることもまた、僕らの立派な特権である。

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青春一千物語 水巷 @katari-ya08

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