第13話 妹
僕こと、
それは既存の事実であり、実存の事実であり、また、事実でしかない。
生きていれば心臓が動くように、鳥が空を飛ぶように、高所で物体を離せば落下していくように、僕には妹がいる。
今から約15年前。
僕が祝福されながらこの世に生を受け、元気よく産声を上げながら母胎から誕生した2年後、1人の乳児が、僕に続く形で同母親の胎内に宿った。
胎児の性別は完全に運任せであり、必ずしも自分の希望通りの子が生まれてきてくれるとは限らないけれど、一之瀬家の場合、先に生まれてきたのが男ということもあって、まぁ元気に生まれてきてくれれば性別なんてどっちでも良いなんて気持ちもあっただろうけれど、それでも強いて言うならーーーーー恣意て言うなら、「女の子だったら良いね」くらいの気ままな望みがあったとは思う。
そしてその望み通り、つわりが収まって安定期に入り、妊娠何週目かのエコー検査で、授かった2人目の赤ん坊が女の子だとわかると、僕ら3人は手を取り合って喜びを噛み締めた。
僕自身もまだ心身ともに未発達だったとはいえ、漠然と自分とは違う性というものに対する意識のようなものは無意識下にはあったし、『感動』という概念を知らないままに感動していた。
という経緯を経て、僕には2歳年下の妹がいる、という事実が形成されたわけだ。
だからまぁ、これは断じて後付けではない。
もう一度言う。断じて後付けではない。
え? 新キャラ会議? 何それ?
そんな意味不明なことを言われたんじゃあ、こちとら懐疑的な目を向けるしかないぜ(これが言いたかっただけ)。
なんなら僕のプロフィールに一言『妹がいる』と書くことだってやぶさかじゃあないし、事実これまで長所の欄に『妹がいること』と書いたりだってしてきたし、あわよくばこのまま履歴書やエントリーシートの自己PRの欄にも書く勢い。
とまぁ、その辺りは冗談で済ませるとして、さてさて、今回はそんな僕の妹の話をしよう。
満を持すならぬウーマンを持すならぬリトルウーマンを持して、他愛のない兄妹話を語るとしよう。
たまには万難ならぬ幼馴染を排して、ほっこりほのぼの、家族の団欒というのも悪くはあるまいーーーー
*****
「ただいまー」
夏休みも佳境に差し掛かった、ある日の夕方。
今日は、僕の幼馴染もとい専属家庭教師である
今日のノルマを達成し、満足感そのままに帰路に着きつつ、「今夜は家族で出かける予定があるから」と言って隣接する家に入っていった彼女を見送った後のことだった。
「お帰りー、お兄ちゃん。私にする? ご飯にする? それともお・風・呂?」
「クライマックスに風呂を持ってくるな。僕はし◯かちゃんかよ」
一日中フル稼働させた反動で疲れが溜まった頭のまま、ふらふらした足取りで自宅に入った僕を、そう1人の女子が出迎えた。
僕の突っ込みが御眼鏡にかなったのか、ニカッと満足げに快活に笑う可憐な少女。
彼女の名前は
先述した通り、正真正銘の僕の実妹である。
僕の2歳下の、現在中学3年生。
肩口で切り揃えられた黒髪のショートボブを、自宅仕様で前髪のみゴムで縛って上げている。
そのお陰でというのはおかしな言い方だけれど、髪を上げることで露わになった顔立ちは、全体的に見れば幼さを残しつつも、目鼻立ちなど細かい部分はしっかりと整っている美少女だ。
だが、同じ美少女でも、お馴染みにして幼馴染の千歳とは、一華の美貌はその系統を異にする。
わかりやすく言うなら、千歳を綺麗系な美少女と称するならば、一華は可愛い系。
それこそ、微笑苦笑冷笑嘲笑以外の笑顔を見せない千歳とは対照的に、一華はプラス面でよく笑う表情豊かな奴であり、その名に恥じぬ華やいだ笑顔は、その童顔さも相まって非常に魅力的である。
実の妹の容姿を事細かに描写するのは、幾らそれが語り部としての義務だとしても、いささか気恥ずかしいというか、正直なところ気持ち悪ささえ感じられかねないので、ここら辺で必要最低限に留めるのを許して欲しい。
今は薄手の部屋着の上にエプロンを装着し、かつ手におたまを握っているところを見るに、どうやら夕飯の支度の最中らしい。
僕たちの親は、夫婦揃って共働きなので帰りが遅く、母親の代わりにこうして一華が家事をこなしてくれる日が多い。というより、ほぼほぼ毎日と言ってもいい。
たまに僕も手伝ったりするのだけれど、やはりそこは男の限界とでも言うのだろうか、あまり細部にこだわることなくいい加減になってしまい、良い加減がわからない始末である。
炊事洗濯その他諸々、『生活できりゃいい』感覚なのだ。
流石に悪いと思って何とか手助けしようともするのだが、その度に「私がやるから、お兄ちゃんは黙って座ってて!」とキッチンから追いやられ(『座ってて』はまだしも『黙って』とはこれ如何に)、結局一華が1人で全て済ませてしまう。
妹が家事万能なのは兄として誇らしい限りだけれど、そのせいで兄の威厳が失われているのは度し難い。
ちなみに余談だが、(性格以外)完璧超人であらせられる千歳はもちろん家事も万能で、彼女が振る舞う料理はちょっとしたお店を開けるんじゃないかと本気で思うレベル。
僕の幼馴染である千歳は、必然的に一華とも幼馴染であるわけで、2人が一緒に料理を作る姿というのもよくある光景だ。
一華の奴、僕が手伝う時は嫌がるくせに、千歳が手伝う時は嬉しそうなんだよな……。
とまぁ、僕にとっては面白くも何ともない家庭環境の説明はこのくらいにして、そろそろ現実に戻ってくるとしよう。
一華は笑顔を浮かべたままで、
「それにしてもお兄ちゃん。確かにし◯かちゃんのお風呂好きは有名だけれど、今の時代、風呂と言ったらオフロ◯キーの方がメジャーだよ?」
「そんなわけねぇだろ。呼んでねぇよ」
大体、中学3年にもなるお前がどうして教育テレビを見ているんだよ。
初っ端から結構な衝撃なんだけど?
すると一華は幾らか照れた表情で、
「いやさ、夕方のふとした瞬間にテレビでかかってると、ついつい見ちゃうんだよね」
童心にかえるって言うかさー、と童顔で言われても、こちとら戸惑うしかないのだが、まぁこいつの言うことも一理ある。
「へー。あー、まぁ、わからんでもない。かく言う僕も、別に全然見たいなんて思ってないのに、日曜の朝はついつい早起きして、ついついチャンネルを合わせて、ついついスーパーのヒーローがタイムしちゃうし。プリティがキュアしちゃうし」
「お兄ちゃん、それがっつり見ちゃってるよ。ガン見だよ」
「ガン見なんてするか。せいぜいチラチラっと視界の端に捉えるレベルだ。さながら席替えの時に、好きな子が引いたくじの番号をこそっと確認するがごとく」
「お兄ちゃん、それガン見より気持ち悪いよ」
「いやいや一華。恋は盲目って言うだろ? 恋する男子は目が見え難くなるものなんだよ」
「それ、絶対そんな物理的な意味じゃない気がするんだけど……」
ふむ、自己評価では結構上手いこと言えたと思ったのだけれど。
どうやら今度はあまりお気に召さなかったようだ。
ジト目で僕を睨め付けていた一華は、そこでハッとした顔になり、
「そうだよお兄ちゃん! 何か有耶無耶になっちゃってたけど、結局、私とご飯とお風呂♡、どれにするの?」
と、再度訊いてきた。
「お風呂のところだけ萌え声を出すな。どんだけ風呂推しなんだよお前は」
何だか、ハートマークまで見えた気がしたぞ、今。
「そりゃあ、何だか疲れてそうなお兄ちゃんを、女子中学生の『お風呂』発言で元気づけてーーーー間違えた、精気づけてあげようっていう妹なりの配慮だよ?」
「訂正して間違えるな。もっと別のところに配慮しろ」
「で、興奮した? 口吻に興奮した?」
「今ので興醒めした」
女子中学生が『お風呂』と言ったくらいで恥ずかしがるようなウブな男子では僕はない。
残念だったな、こちとらあの幼馴染の扱いで、そういう手合いには慣れっこなのだ。
千歳に懐いている一華なのだけれど、それは裏を返せばあの壊滅的な性格の幼馴染の影響をダイレクトに受けているというわけでもあり、まだあいつのような直截的な物言いこそないものの、それでもこのように、大分危うい発言をすることが多々ある。
成長という面において、モデリングは結構なことだけれど、人間、真似しなくていいところほど何故か真似しちゃうんだよな……まぁこいつの場合、真似をしているというよりも、単純に一緒にいる時間が長いから、自然と似てきてしまった部分が大きいとは思うが。
意図的に真似してたのなら、初期段階で僕が全力で止めていただろうし。
「ていうか、お風呂のせいで、お風呂だけに何となく流しちゃっていたけれど、『私』が選択肢に含まれているのも大分危ういぞ」
まぁまずあり得ないが、万が一お前を選んじゃったらどうするんだよ。
そんな僕の心配も、一華は実にあっけらかんと一蹴する。
「その時は、潔くタイトルを『青春一華物語』に変えるから大丈夫だよ!」
「お前がメインになってんじゃねぇか」
潔く、いっそ清々しく略奪を目論む一華。
良く言えば小悪魔、悪く言えばただのゲスアマだった。
すると一華はやれやれ風に大袈裟なため息を吐き、
「しょうがないなぁ。じゃあ、一樹の『一』と一華の『一』で、『青春一一物語』にしてあげるよ」
「ダッシュみたいになってんじゃねぇか」
「じゃあ間に『十』足しちゃう? 一十一で『王』になっちゃう? 時止めちゃう?」
「足さないし王にもならないしス◯ックも持たん」
「ね、ね。で、どうするのお兄ちゃん。どれを選ぶの?」
いい加減焦れてきたのか、一華は若干の不機嫌さを滲ませつつ再三訊いてきた。
長年共に暮らしているからわかる。これは、ちゃんと答えないといつまで経っても繰り返し続け、先に進めないパターンのやつだ。
はぁ……全く。
今まで、帰宅して早々こんなバカップルみたいなやり取りなんてしたことはなかったのに、何で今日に限ってこうも面倒くさいことをしなければならないんだ。
僕はこんなこと、全く望んじゃあいないのに(すっとぼけ)。
でもまぁ、ここは兄として、そして男として、ビシッと言ってやらねばなるまい。
RPGよろしく同じ言葉を繰り返し続ける愚妹に、はっきりと言ってやらねばなるまい。
「お兄ちゃーん、早く決めてよー」
今なお目の前で、大きな瞳を期待に輝かせながら、こっちを笑顔で見つめて急かす一華。
そんな彼女に対し、僕は、
「はぁ……わかった。決めるのはいいけどさ、でも、その前に」
その前に。
「ーーーーとりあえず、家に上がらせてくれない?」
玄関のドアを開けてからこっち、未だ1ミリも動いていない僕なのだった。
*****
『ただいま』『お帰り』
このたった二言で、およそ1秒で済みそうなところを、たっぷり10分程かけなければ家に上がることもできない家庭なんて、世界中探してもおそらくこの一之瀬家だけだろうけれど、ともかく僕は、家に上がった。
鬱陶しさとウザさ以外には何も生まれなかった、無益で無体で無駄なトークを打ち切って、家に上がった。
いやはや全く、長い合言葉もあったもんだ。
いや、言葉というより、寧ろ会話なんだが。
合会話。
合うために、会って、話す。
こんなことを言えば、おそらく一華は「いやいやお兄ちゃん、合会話じゃなくて、愛会話だよ!」なんてまたもや馬鹿なことを言い出しかねないので、こんなくだらない考えは、頭の中に閉まっておく。
と、いうわけで。
兎にも角にも、自分の家に入ることに(予定より)かなりの時間をかけつつも成功した僕だったのだが、しかしだからといって、あの七面倒くさい一華の問いが、有耶無耶になって雲散霧消したわけじゃあなかった。
私オアご飯オアお風呂(萌え声)?
無性に腹が立つこの問いが、霧消したわけじゃあなかった。
答えなければ家に上げてくれないなんて理不尽なことは流石に言わなかったけれど、それでも僕が靴を脱いだ後も、なお食い下がってくる一華に対し、僕が出した結論は簡単明瞭なものだった。
「じゃあ、ご飯で」
お風呂を選ぶのは、お風呂をこれでもかと推してくる一華に根負けしたようで、兄という立場を抜きにしても何だか癪だし、かといって一華本人を選ぶのは、あいつがどんな反応をするのか見てみたい気がしないでもなかったのだけれど、世間の目を気にする理性を何とか働かせて却下した。
必然、残ったご飯を選ばざるを得なかったというわけだ。
……いやまぁ、こんな熟慮を重ねなくとも、普通にスッと選べるだろ馬鹿かって話なのだが。
第一、まず前提として、僕はお風呂よりも先にご飯を食べる派だし。
果たして。
そんな経緯があり、最終的に、何の面白みもないご飯を選んだ僕に対して、当の一華の返答は、「はいよー」という、これまた何の面白みもないものだった。
兄妹揃って面白みがないなんて、費やした数千文字、じゃなくて数十分が勿体ない限りだけれど、だがまぁ、その後は少しだけ面白かった。
さっきまでのニコニコ笑顔は何処へやら、途端に興味を失ったような真顔で「はいよー」とご飯を受け入れた一華は、しかしそこで、今の自分の状態に気づいたらしい。
「………あ」
今自分が着ているエプロン、そして手に持つおたまに目をやった一華は。
「……まだ晩御飯できてないんだった!」
愕然とした顔でそう叫び、急いでキッチンに戻っていった。
*****
晩御飯の支度の最中だということは、家に入った時点で既にわかっていたことだけれど、どうやらまだ作り始めだったらしい。
というか、エプロンを着て、おたまを握った段階で僕が帰ってきたので、お出迎えをしてくれたようだ。
調理始めにまずおたまを握るのはどういうことだと突っ込みたい気持ちはあるが、要するにまだ何の料理も出来上がっていないのにもかかわらず、この愚妹は僕に『ご飯』という選択肢を与えていたわけである。
はぁ……全く、その場のノリで生きるにも程がある。
あまり僕が言えた口じゃあないけれど、もう少し後先考えて行動できないのだろうか、あの2人は。
キッチンに戻った一華は、急いで晩御飯の準備を始めた。まだ18時前だし、そんなに焦らなくてもいい気がするけれど、まぁ料理素人にはわからない下拵え的なものがあるのだろう。
おたま云々の過程はどうあれ、一華の作る料理は、千歳には劣るものの、それでも一中学生が作るには十分なものだ。
そんな彼女に対し、作って貰っている側である僕が口を出すべきじゃあないし、文句なんて以ての外なので、それこそ黙ってリビングでテレビを観つつ、夕飯が出来上がるのを待つことにする。
程なくして、食欲を刺激する良い匂いが、キッチンから漂ってくるのだった。
*****
ーーーー数時間後。
一華が拵えた料理に舌鼓を打った後、僕は自室で机に向かい合っていた。
昼間、図書館で千歳と行った勉強会で今日のノルマは達成しているが、今やっているのはそれとは別個の勉強だ。
最近は千歳の指導にも熱が入っており、こうしてプラスアルファの課題を出してくることがよくある。
一昔前の僕からは考えられないような進歩だし、実際に歩を進められているのかどうかは甚だ怪しいところだけれど、僕の方も、こうして夜寝る前の、まぁ言ってしまえばおまけみたいな勉強は決して苦じゃない。
寧ろ最近は、あれだけ頭を悩ませていた勉強が、だんだんと楽しくなってきているくらいだ。
……まぁ、相変わらず数学は苦手なのだけれど。
そんな高いモチベーションを保ったまま、千歳から渡された英語の単語帳をインプットしていた僕の部屋のドアが、ノックもなしにいきなり開けられた。
「お兄ちゃーん、入るよー」
そう言って部屋に入ってきたのは、先程一緒に食卓を囲んだばかりの一華だった。
「いや、お前、ノックくらいしろよ」
いくら兄妹という気の置けない間柄とはいえ、そこは親しき仲にも礼儀あり、最低限のマナーはあるだろう。もし僕がお取り込み中だったらどうするんだよ、物凄く居た堪れなくなるだろうが。
渋い顔をする僕だが、しかし当の一華はあっさりと、
「あぁ、ごめん……癖になってるの、音殺してノックするの」
「音を殺したらそれはもはやノックじゃないけどな」
たかだかノックくらいで殺し屋スキルを発揮するな。
一応注釈を加えておくと、一之瀬家は断じて暗殺一家ではない。
「それにしてもお兄ちゃん、『ノックくらいで』と『アイネクライネ』ってちょっと語感が似てない?」
「死ぬほどどうでもいいな……で、何の用だ?」
半ばうんざりしながら訊くと、一華は、
「いや、お風呂空いたから、次入っていいよって言いにきただけ」
と言ってきた。
……ふむ。
言われて見れば、一華の頬は軽く上気しており、髪もしっとりと濡れていて、艶やかな光沢がある。
さらには、さっきまで着ていた薄い部屋着から、寝間着に衣装チェンジしていた。
上はだぼっとした大きめのTシャツ1枚、下は何も履いていない。
……いや、厳密に言うと何も履いていないわけではなく、ちょこちょこ動く度にTシャツの裾からパンツが見え隠れしているのだけれど、いかんせんシャツの方がかなりの大きさのため、真正面から、というかどの角度から見ても、何も履いていないように見えるのだ。
「……ていうか、それ、僕のTシャツじゃね?」
下着とは違った意味のパンツを履いていないのは、まぁ夏だからという理由でさて置くとして、一華が寝間着として着ていたのは、僕がつい最近買ったTシャツだった。
買ったのはいいのだが、間違えて結構大きめのサイズを選んでしまったため、いつか自分の体格が、このTシャツを着こなせるくらい成長する時まで大事にとっておこうと思っていたのに、いつのまにか一華に奪われていた。
僕ですら大きめなのだから、僕よりも身体の成長が乏しい一華が着たなら、かなりのアンバランスさを発揮するはずなのだけれど、Tシャツではなく一華自身の元の素材が良いからだろうか、大分着こなしている感じがする。
まぁ、ただの寝間着に着こなすも何もないのだけれど。
一華はTシャツの裾を伸ばしつつ、
「あー、これねー。この前部屋に入った時に見つけて、何か寝間着にちょうど良さそうだったからもらっちゃった」
と、悪びれる様子もなく、たははーと笑いながら宣った。
兄妹間で物の貸し借りをすることはあるだろうけれど、服の貸し借りーーーー否、服の強奪をすることはあまりないのではないだろうか。
人の物を勝手に使うのはあまり褒められた行いじゃあないが、まぁそこは兄妹だし、大目に見てあげるとしよう。
それが兄貴というものだ。
「……まぁ、どうせ間違えて買っちゃったやつだし、別にいいか。やるよ」
「おー、ありがとー」
そう言って笑う一華。
と、そこで本来の目的を思い出したらしく、
「そうだよお兄ちゃん。お風呂空いたから、早く入っちゃって」
と、再び催促してきた。
「わかったわかった。まぁ、今日はシャワーだけにするつもりだし、ちゃちゃっと入るわ」
僕がそう告げると、一華はめっとした表情で、
「夏だからって駄目だよお兄ちゃん。ちゃんと湯船に頭まで浸かって100数えてから上がらないと」
「遠回しに僕を殺そうとするな」
肩まで浸かって100数えるんだ。
まぁ、別にそれもしないけれど。
小学生じゃあるまいし。
すると、そこで一華は、
「そう言えば、お兄ちゃんは何やってるの?」
と、さも机に向かっている僕に今初めて気づいた様子で訊いてきた。
「あー、寝る前にちょっと勉強してたんだよ」
勉強。
当たり前のように発したその単語を、勿論一華はしっかりと耳にしただろう。
しかし、何故か一華はこてんと可愛らしく小首を傾げた。
そして、その仕草とは不似合いな難しい顔で、
「………え、お兄ちゃん、今なんて言ったの?」
「は? だから、勉強してたんだよ」
「………宣教?」
「生憎、僕は無宗教だ」
「………頓狂?」
「それは今のお前だ」
勉強だよ、と呆れながら繰り返し、ついさっきまで眺めていた単語帳を目の前で掲げると、今度は一転、みるみるうちに一華の目が見開かれていく。
「え………お、お兄ちゃんが……あのお兄ちゃんが、勉強……!?」
可愛らしい顔を驚愕に歪ませて、一華は叫んだ。
「だ、大丈夫お兄ちゃん!?」
「大丈夫って、何が?」
慌てて声を荒らげる一華に、訝る僕。
一華は僕の方に駆け寄ってきて、自分の額と僕の額を突っつき合わせた。
「熱でもあるんじゃないの!?」
「ねぇよ。強いて言うなら、たった今体温が上がったかもしれん」
「その発言は気持ち悪いけど……って、そうじゃなくて!」
若干傷つくことを言いつつ、一華は気を取り直して、だが動転はさせて、わなわなと震える。
「あのお兄ちゃんが……ポンコツで間抜けで、『馬鹿はステータスだから!』なんてアホなこと言っていた大馬鹿なお兄ちゃんが、まさか勉強なんて!」
「おい、結構な言い草じゃないか。あと僕はそんなことを言ったことはない」
千歳との勉強会を開くことなく、一昔前の僕のままここまできていたら、まぁおそらく言っていたのかもしれないが、今の僕は千歳の、時に厳しく、時に厳しい指導のおかげで、勉強に対して意識改革が為されている。
だがまぁ、一華の驚きも無理はない。
夏休み中、僕が千歳に師事していることは、詳しい経緯は教えていないが一応伝えてはいたし、何なら今日の朝だって「行ってらっしゃい」と送り出してくれたのだけれど、それも一華の側からしてみれば、馬鹿な僕を見かねた千歳が、仕方なく勉強を見てあげているように映ったことだろう。
ましてやここまで、夜に自主的に勉強するまで意欲的になっているなんて、想像つくまい。
今までの僕なら、夜に限らず、家で勉強することなんてほとんどなかったしな。
そこのところを掻い摘んで説明してやると、一華は何処となく釈然としない様子ながらも、一応は納得したようだった。
「はぇー、なるほど、あのお兄ちゃんがそこまで……流石千歳ちゃん……」
尊敬する千歳の偉業に、感嘆の息を漏らす一華。
「そっか、千歳ちゃんのおかげなのか……良かったー、最初聞いた時は、誰か悪い人に騙されてるのかと思ったよー」
「その人多分悪い人じゃないだろ」
人を騙して勉強させるとかどんな奴だよ。
僕の突っ込みをさらっと流し、一華は出てもいない涙を拭う仕草をし、しみじみと呟く。
「でも私は、お兄ちゃんがやっとまともになってくれて嬉しいよ。妹冥利に尽きるよ」
「いや、お前は別に何もしてないし、そこまで言われるほどのことではないと思うが……」
まるで今までの僕がまともじゃなかったみたいな言い方だ。否定はしないけれど。
「いやー、お母さんもお父さんも、大分諦めてたからね。お兄ちゃんがいないところで、『一華、あんただけが頼りなんだからね』って言われたことも何度もあったし」
「よし一華。早く玄関の鍵を閉めてチェーンをかけろ。あいつら、絶対に許さん……徹底的に闘ってやる!」
「主人公みたいな瞳で何馬鹿なこと言ってるの、お兄ちゃん……」
親に全く期待されていないのは、思春期の高校生からしてみれば複雑なところだ。
それで気が楽になったり、逆にコンプレックスになったりもする。
両親が楽しみにしている録画番組を消去してやろうかなどと、我ながら下衆な考えが頭をよぎるが、一華に宥められた、というか窘められた僕は、渋々矛を収めた。
「あー、まぁ、そういうわけだ。
そう言って退出を促そうとした僕だったのだが、そこで一華は何を思ったのか、
「お兄ちゃんが勉強かぁ………よし、じゃあ私も今から勉強しましょうかね!」
と、唐突に、謎の口調で宣言してきた。
「あぁ、そうか。別に構わないけど、遅くなるなよ」
別に一華が夜勉をしようがしなかろうがどうでも良かったのでそう言うと、一華はニコニコ愛想良く笑いながら、
「違うよ、お兄ちゃん。私はここで勉強するんだよ」
言って一華は、自分の足下を指差した。
「………は?」
*****
ーーー僕の部屋の向かいにある自室から、勉強道具一式を持ってきた一華は、僕にテーブルで続きをするように促し、自分はその対面に座った。
鼻歌を口ずさみ、上機嫌でワークノートを広げる一華だったが、それを見つめる僕の目は大分冷たいものであった。
「何で急にお前が僕の部屋で勉強を始めるんだ……」
「んー、やりたいって思っちゃったから」
あっけらかんとした理由に、僕はため息を禁じ得ない。
こいつは昔からそうだ。
自分がやりたいと思ったことに一直線。
それがたとえ一瞬よぎっただけの考えだったとしても、ただ『やりたいと思ったから』という理由だけで行動に移す。
その場のノリ。一之瀬一華の原動力はそれだ。
好奇心旺盛とはまた違う、得体の知れない幼さ、無鉄砲さ。
精神年齢が低いんじゃないかと疑いたくなるのだがーーーー
「ーーーだってのに、お前、普通に成績は良いんだもんなぁ」
「どしたの、お兄ちゃん」
急な僕の褒め言葉に、不思議そうな顔をする一華。
その反応に、僕はまたもや深いため息を吐く。
ーーーーそう。
一華は、これまでの言動からは想像がつかないけれど、学校の成績はそこそこ優秀なのだ。
流石に千歳ほどじゃあないけれど、まぁ中の上、あるいはもう少し上の方に入るのではなかろうか。
ぶっちゃけ、僕が中3だった頃よりは確実に頭が良い。
はぁ………全く。
千歳もそうだけれど、普段の言動は馬鹿なくせに、学業面では優秀な奴って何なの?
学力って普段の行いに比例するものなんじゃないの?
「はぁ……ほんと、お前ら2人が妬ましいよ、僕は」
苦労させられる幼馴染に、苦労させられる妹。
妬ましくてーーーーそして、羨ましい。
テーブルに突っ伏し、一華にジト目を向ける僕。
それを見た一華は、これでもかというくらいの会心のドヤ顔を決め、薄い胸を張りつつ言った。
「お兄ちゃん、馬鹿と天才は紙一重なんだよ?」
「やっぱお前馬鹿だ」
「えへっ」
呆れて苦笑する僕に対し、一華は花が咲くような笑顔でもって応える。
そんな感じで、午後10時過ぎ。
『ただいま』を言い、『お帰り』を返し、甲斐無く会話し、ご飯を食べ、そしてーーーー夜は一緒にお勉強。
時に戯れ、時に叫び、時に呆れ。
六畳の部屋は、1つの兄妹の他愛のない、その場のノリだけの微笑ましい温かさで満たされていくのだった。
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