第11話 夏祭り (後編)

 ーーー男という生き物は、どれだけ歳を重ねても、どれだけの人生経験を積んできても、少年時代のあどけない心は忘れられないものだ。

 大人になってもカブトムシ採りのあの高揚感は色褪せないし、プラモデル作りの緊張感もちゃんと心に残っている。


 世のお父さん方が良い例だ。

 結婚しても、子供を授かっても少年時代から続くフィギュア集めがどうしてもやめられず、リビングの一角、もしくは自室にフィギュア専用のショーケースが置かれている家庭もさぞ多いことだろう。

 それを見た奥さんがゴミとみなして、彼らが仕事に行っている間に全て、あるいは一部を捨ててしまうのがデフォだ。


 高校生が成熟した大人なのかどうかは甚だ疑問だけれど、僕だって今日日ホームセンターへ行けば、必ずと言っていいほど昆虫コーナーの前で足は止まるし、おもちゃ屋でプラモデルの箱を、時間も忘れて矯めつ眇めつ眺めてしまうことだってある。


 ホームセンターの昆虫は野生ではないという点で毛色が違うし、そもそも高校生がおもちゃ屋に何の用だと言われるかもしれないが、そこはさておくとしてだ。

 成長するにつれて理不尽や不条理を否応無しに味わされる、ほろ苦い人生の中で、童心に帰ることができる、内に眠る少年の心を呼び起こすことができる時間というのは貴重なものだということを僕は言いたいわけである。声を大にしたいわけである。


 そんなことを感慨深く思いながら僕らはーーーまぁ思っていたのは僕だけだろうがーーー金魚すくいの屋台の前で、2人して真剣な面持ちで、その剣呑な雰囲気にはそぐわないくらいの小ぶりで可愛らしいポイを構えていた。


 少年少女のあどけなさなんて関係ない、純朴さも純白さもありはしないオーラを周囲にばら撒きつつ、2人の高校生が、金魚すくいという小学生が喜びチャレンジしそうな屋台の前でである。


「ーーーわかっているわね、かず


「ーーーあぁ、もちろんだ」


 お互いを見ることなく、その目は眼前の水槽、その中を悠々自適に泳ぐ金魚たちに固定したままで、僕らは頷き合った。


 そのさらに奥で、この屋台の管理者であるところの、頭に鉢巻を巻いたおっちゃんが重々しく息を呑む音が聞こえた。


 ーーーー話は、数分前まで遡る。




*****




 ーーーー以下回想。

 いや、僕としては恥ずかしいというか可哀想というか、あわよくば火葬して消し去ってしまいたくなるくらいのしょうもない下層なことなので、別段思い出さなくてもいいような気がしないでもないのだけれど、まぁ、回想。


 買い過ぎた、もとい買い占めた屋台飯を見事にペロリと平らげた僕たちは、食休みもそこそこに、メインイベントまでの暇な時間を潰すべく爛々とした夜店を並んで練り歩いていた。


「私としては、このままあなたを嬲っているだけで充分暇潰しにはなるのだけれど」


「それだと暇の前に僕が潰れるからやめて」


「ん? 僕は穀潰し?」


「言ってねぇよ」


「それにしても、嬲るってよくよく見てみると凄い字よね。1人の女性が2人の男性に挟まれているんだから。……ねぇ一樹。これってもしかして、もしかしなくても3ピ」


「賛否両論分かれるところだな、お前の発言は!」


 まず最初に女1人と男2人が並んで歩く図だとかって見なせないのかお前は!

 まずい、これから読書中『嬲る』って字を見かけたら、常に淫靡な光景が頭に浮かんできてしまいそうだ。


「良かったじゃない。これでもう一生漢字テストで『嬲る』は間違えなくて済むわね」


「教え方からして既に間違いだらけだけどな」


 そんな小学生男子が喜びそうな覚え方なんて求めてねぇんだよ。

 いや、小学生にはかなり刺激の強い下ネタだし、何なら中学生に対しても……いや全年齢アウトだろこれ。

 世の教育者に対しては、『※絶対に真似しないでください』だとか、『※いち一樹は特別な訓練を受けています』だとか、そういう注意書きを施したいくらいである。


 そんな、女性ではなく軽口にしては重すぎる会話を挟みつつ、僕らは歩を進めていた。


 先も述べたことだが、この祭りは特別な地域独自の嗜好もなく、何処にでもある近所の夏祭り、といった雰囲気なので、食べ物の夜店に限らず、遊び関連の夜店も当たり障りのない至って普通のラインナップだ。


 金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的、スーパーボールすくい、輪投げ、エトセトラエトセトラ……。


 あとは、正式名称はわからないが、何か紐を引っ張るとそれに繋がっている景品をゲットできるやつなんかもある。

 何だっけ、宝釣り、みたいな名前だった気がする。

 大体の夜店では目玉商品として、大型ゲーム機やらがやたらめったら誇張して鎮座させられているけれど、それはここでも例外ではなく、僕の広げた腕よりも若干小さいくらいの大きさの家庭用ゲーム機に、1本の頼りない紐がくくりつけられている。

 それ以外にも多くのおもちゃや小型ゲーム機が並べられていて、それらに繋げられた紐が上下左右入り乱れ、ランダムに上部に突き出していた。

 

「あれは『千本釣り』って言うらしいわよ」


 同じ屋台を眺める千歳ちとせが、別段ボケるでもなく普通に解説してくれた。


「そうなのか」


 へぇー、あれって千本釣りって言うのか。

 どう見ても紐は千本もない気がするけれど。


 ハリセンボンは実際は針を千本ではなく、せいぜい400本くらいしか持っていないみたいなのと同じことだろうか。

 ハリセンボン側からしてみれば、「針千本じゃねぇよ!」ってことになるんだよな。どうでもいいけど。


 野暮なことに突っ込んでいても仕方がないし、かと言ってあの手のくじ引きで当たりが出るとは到底思えないので、ここはスルーさせていただくとしよう。


 またの機会に、千人くらい集めて一斉に引いてみたいものである。


 邪な野望を抱きながら千本釣りから視線を外し、改めて屋台を眺めていると、何となく同じ種目で被っているところが多いことに気づいた。

 まぁ、押さえておかなければならないど定番どころを押さえた感じなのだろう。

 何だろう、こういう和気藹々としたお祭りムードの中でも、内容が被っているところでは売り上げ競争が勃発中なのだろうか。そう思うと、活気に溢れるおじさんたちの掛け声にも、何だか別の意味が含まれていそうな気がしてくる。


 食べ物関係の夜店に比べて幾分年齢層が下がり、そこかしこから子供たちの無邪気な笑い声が聞こえてくる中、特筆するほどもないお祭り風景を流し見ていた僕たちはここで互いに顔を見合わせた。


「さて、まずは何処に行くの?」


 千歳がそう質問してくる。

 どうやらエスコートは僕の仕事のようだ。

 お祭りにエスコートも何もあったもんじゃないけれど。


「そうだな……」


 頭をガシガシと掻きつつ、僕は周囲を見渡した。

 特にこれといってやりたいことはないのだけれど、何かをやっていないと先の発言通りに僕が千歳に嬲られるだけの時間になってしまう。それは是が非でも避けたいところだ。


 となると………


「無難にあれにするか」


 そう言って僕が指差したのは、手近にある、厳つい顔をしたおっちゃんが構える金魚すくいの屋台だった。数ある金魚すくいの1つであり、その店主の強面さからだろうか、あまり人が寄り付いていないので、人混みが苦手な僕らでも大丈夫そうだ。


 千歳も異論なく了承し、僕らはその屋台に近づいていった。


「いらっしゃい」


 渋い声で挨拶をしてきた店主は、遠くから見ていた時も堅いオーラを放っていたが、近くで見るとさらに迫力があった。

 目下で悠々と泳ぐ小ぶりで可愛らしい金魚たちは、もしかしたらこのおっさんから必死に逃げようとしているのではと思ってしまうくらいである。


 とまぁ、そんな論評は置いといて。

 今は、金魚すくいである。


「………」


 ここで1つ、僕には思うことがある。

 果たして今、僕と千歳が和気藹々と仲良しこよし、睦まじく金魚をすくっている様子が求められている光景なのかどうかと。

 非日常の空気にあてられ、己が本分を忘れ、幼馴染よろしく幼く馴れ合い、お互いを暖かな色で染め合うことが、僕らの正しいあり方なのかどうかと。


 否ーーーーー断じて否。


 そんな奴は一之瀬一樹ではない。

 そんな奴はゆきみや千歳ではない。


 それに、そうだ。

 僕はこいつに借りがあるのだ。


 故にここはーーーー、


「ーーー千歳。僕から提案がある」


「何?」


 自分の分の代金を払い、先にポイを受け取っていた千歳は、僕の厳かな声音に振り返った。


「ここは、どっちがより多く金魚をすくえるか勝負しないか? そうだな……勝った方が負けた方に、1つだけ何でも命令できるっていう条件で」


 そう言って、あの日のリベンジマッチを申し出た僕に、


「何言ってるの、当たり前じゃない。そっちこそ早く準備しなさいよ、不戦敗にするわよ鈍足」


「………あ、うん」


 千歳はさも当然のように、元からそれが決定事項だと言わんばかりに強い口調で言ってきた。


 ーーーどうやら僕の幼馴染は、心配せずとも常時臨戦態勢の女子高生のようだった。




*****




 ーーーーそして話は再び、冒頭のシーンに回帰する。


 命令権を賭けて金魚すくい対決をすることになった僕たちは、温和なお祭りの雰囲気を殺伐としたオーラで染めていた。


 それぞれ、左手には水が少量入った容器、そして右手には、手のひらよりもさらに小さいサイズのポイを装備している。

 お互い、準備は万端といったところか。


「負けた方が勝った方の言うことを1つだけ何でも聞くーーーわかっているわね、一樹」


「ーーーあぁ、もちろんだ」


「それにしても、まさかあなたの方から勝負を仕掛けてくるとは驚いたわ。ゲームで惨敗したのを忘れたのかしら?」


 試合前の煽りのジャブを打ってくる千歳。

 大分仕上がっているようだ。


「いや、忘れちゃいないさ」


 忘れられるわけがない。

 あの日。

 僕が千歳に唯一勝てる部分だと思っていたゲームで惨敗し、苦汁を舐めさせられた日のことを、忘れたことなんてない。

 今はもう克服したが、負けた当時は何日間かゲームを視界に入れたくなかったほど落ち込んだものだ。


 でも、だからこそ。だからこそだ。

 今日僕は千歳に勝ってーーーー打ち勝って、あの日の雪辱を晴らす。

 無様に大敗を喫した、あの日の自分を超えてみせる。


 なぁに、今回はゲームの時とは違い、千歳に練習する時間はない。ぶっつけ本番だ。


「一樹、あなた金魚すくいってやったことある?」


 ふと、千歳が訊いてきた。

 それは、勝負前にしてはいささか気の抜けた質問だったが、僕は首を振って返す。


「いや、やったことはないな」


 そう、僕は別に金魚すくい経験者なわけではない。今日が生まれて初めてだし、何なら今までポイすら握ったことはなかった。

 だが、それは千歳も同じ。条件は五分五分だ。


「だけれど、僕、結構手先は器用な方だからさ」


 金魚すくい特有のテクニックなんかもあるらしいが、結局はこういうのは手先の器用さが物を言う遊びだろう。頭の回転は鈍い僕だが、それでも手先の感覚はそれなりに鋭いと自負している。

 一応ゲームの件でも、序盤は千歳に勝ってたしな。

 ただ、その後のあいつが化け物だったってだけで。


 思い出して憂鬱な気分になりかけるが、何とか持ち直す。いかんいかん、勝負を前に弱気になってどうする。


 すると千歳はなるほどといった感じで頷き、


「まぁ確かに。ていうか、あなたそもそも金魚すくい自体が得意そうよね。何たって、金魚に所縁があるのだし」


「? 金魚に所縁? 僕にか?」


 どういう意味だ。

 名前に金魚に纏わる言葉が入っているわけではない。もちろん苗字にも。

 家で金魚を飼っているわけでもないしーーーー本当にどういう意味だ?


 心当たりのなさに首を傾げていると、千歳はあっけらかんと、さも何てことのない世間話でもするかのように言った。


「あるわよ、所縁。だってあなた、クラスの人たちに、千ノ宮さんにいつも付いて回っている、金魚の糞だって言われているもの」


 …………は?


「え……えぇ!? 僕ってクラスメイトにそんな風に思われてたのか!?」


 初耳だぞ!?

 確かに不釣り合いだとか不似合いだとかは言われたことはあるけれど、まさか金魚の糞とまで!?


「お、おい千歳! 嘘だよな!? またお前得意の冗談だよな!?」


 すると千歳は痛ましげな表情で俯きながら、


「冗談……だったら良かったのにね」


「よし千歳。早くそれを言った奴らの名前と住所と電話番号、それに世間に公表したらまずい弱みを教えるんだ」


 具体的には、男子の場合は夜中の自室での映像、女子の場合は……女子の場合は……わからん。

 わからんが、これは然るべき制裁を加えなくては腹の虫が収まらん……。


 直前までの滾っていた闘争心から一転、今の僕にあるのは邪心のみだった。

 その僕の様子に並々ならぬ負の雰囲気を感じ取ったのか、それともからかってひとしきり満足したのか、


「なんちゃって」


 と、千歳はおどけた調子で微笑んでみせた。

 その様子に、やはり冗談だったのだとわかり、僕は安堵の息を吐く。


「良かった……そうだよな、流石にそこまで言われはしないよな」


「えぇ、ごめんなさい。金魚の糞ではなく、正しくは人魚とプランクトンだったわね」


「もっと酷くなった!?」


 しかもそれだと若干意味が変わってるし!

 『月とスッポン』の改変だろ、それ!


「あのー……そろそろ始めていいかい?」


 と、そこで、今まで僕らのやり取りをぼんやりと眺めていた、今回の審判を務めてくださるところの店のおっちゃんが口を挟んだ。

 それを聞いた千歳はさっと視線を前に戻し、淡々と言った。


「えぇ、いつでもどうぞ」


「ま、待て! まだ僕の話が終わってなーーー」


「よーい、スタート!」


 勝負の開始を告げる、おっちゃんのドスのきいた太い声が響き渡った。


 直前の会話で完全に集中力を失っていた僕には為す術もなくーーーーー




*****




 ーーー結果発表。

 千歳、10匹。僕、2匹。

 僕の圧倒的惨敗だった。


 1度失った集中力がすぐに戻るはずもなく、2匹をすくった時点でポイが破けてしまった。

 屋台のルール上、制限時間はなく、ポイが破れた時点で試合終了。

 ポイが破れ、勝負にも敗れたというわけだ。


 ちなみに、終わってから訊いた、もとい問い質したところによると、プランクトンがどーたらこーたらの話も千歳のジョークだったらしい。


 いやはや、全くもってお騒がせなお転婆娘である。


 とまぁ、ここまでの話の流れだと、またぞろ千歳の小狡い策略によって黒星をつけられたように見えてしまうのは致し方ないところだけれど、ここは彼女の名誉の為に明記しておくとしよう。


 千歳は、初めての金魚すくいにも臆することなく、ひょいひょいと手慣れた感じで次々と金魚をすくっていった。10匹で終了したのはポイが破れたからではなく、ただ単に僕との勝負が大差で決してしまったことによるものだ。

 現に、千歳の右手には未だに何処も破れていないポイが握られている。


 対する僕はというと、事前にあれだけ手先が器用だと豪語しておきながら、いざ実際にやってみると勝手がわからず、1匹目から大分危ういプレーになってしまった。

 2匹ゲットできたのが奇跡と呼べるほどだ。

 どうやら僕は、手先は器用でもポイ先は不器用なようだった。


 だからまぁ、直前の動揺なしにいくら僕が集中していたところで僕は負け、あるいは良くても惜敗といったところだっただろう。


「それにしても、お前のセンスの良さはやっぱ半端ねぇな」


 勝負に負けた悔しさよりも彼女の凄さが先に立ち、僕は思わず感嘆の声を上げる。

 ほんと、こいつ絶対に初心者じゃねぇだろって勘繰りたくなるレベルの腕前だった。

 普段の言動が言動なのでついつい忘れてしまうが、こいつは初体験への適応のセンスが図抜けている。

 やったことのないスポーツでも、すぐにコツを掴んでそんじょそこらの経験者とは互角に渡り合えてしまうくらいだ。


 文武両道、才色兼備の完璧超人。

 パーフェクト・オールラウンダー。


「………」


 改めて幼馴染のハイスペックさを目の当たりにした僕は、ここである提案をする。


「なぁ千歳。勝負はもうお前の勝ちでいいから、そのポイが破れるまでは競ってもいいか?」


「別に私は構わないけれど」


 千歳の了承をもらい、僕はおっちゃんに追加料金を渡して、2本目のポイを受け取った。


 別にどうということはない。「3回勝負だから!」と小学生みたいなことを言っているわけではない。


 ただ単純に、常に前を行く彼女に少しでも追いつきたくなった。


 それだけだ。




*****




「ーーーねぇ一樹。そろそろ終わりにしない?」


「いいやまだだ! こっから5回勝負だから!」


 思いっきり言っていた。

 しかも2回増えていた。


 あれから僕の方もそこそこコツは掴んできたのだが、どう頑張っても千歳に追いつけず、もうかれこれ数十分は経過している。

 破れてはポイを替え、また破れてはポイを替えを繰り返しているうちにヒートアップしてしまった。

 いやはや、僕もまだまだ子供である。


 ちなみに千歳の方はまだ破れておらず、大量の金魚が左手に持つ器を鮮やかな橙に染め上げていた。


「くそっ……」


 それを横目にした僕は、またもや破れた自身のポイ、それに自身のゲットした、しかし千歳には到底及ばない数の金魚を見て、ぎりぎりと歯軋りをすることしかできない。


 と、ここでその様子を見るに見かねた店主が、


「おい、兄ちゃんたち。そろそろ終わりにしてくんねぇかな……」


 苦虫を噛み潰したような表情でそんなことを言ってきた。


「ちょっと待ってください」


 それを僕は制し、続けて破れたポイを捨て、ズボンのポケットに閉まってあったスマホを取り出す。


「……何してんだ、兄ちゃん?」


 訝しげな視線で訊いてきたおっちゃんに僕は、


「すいません。今、『金魚すくい 全部取る 方法』で調べてるんで」


「今すぐ帰れ!」


 とうとう我慢ならなくなった店主は、鬼の形相をさらに修羅に染め、僕に向かって怒鳴り散らした。




*****




 強面店主に屋台を追い出された僕たちは(千歳は完全にとばっちり)、急いでその場を離れて、未だ収まる気配のない喧騒の中をとぼとぼと歩いていた。


「何もあそこまで怒ることないじゃないか……」


「いや、あれは全面的にあなたが悪かったと思うけれど」


 あの面構えで直接言葉をぶつけられた僕は若干ブルりながら悪態をついたが、そんな僕を千歳は容赦のない冷ややかな目で見つめていた。


 自分が一緒くたにされたのが気に入らないのもあるだろうが、何よりも身内の不始末が情けないのだろう。

 それについては素直に申し訳ないと思ったので、「すまん」と一言謝っておく。


 すると千歳は深々と嘆息し、


「ほんと、あなたは救えないわね。金魚もすくえないし」


「それについてはほっとけ」


「そう言えば、取った金魚は持って帰らなくて良かったの? あのまま飛び出してきたけれど」


「……あぁ、それは問題ない。ちゃんとやる前に言っといたから」


 昔からそうだったかは記憶があやふやだが、最近の屋台の金魚すくいでは、やる前に店主に一言断っておけば、取った金魚を持ち帰らずに金魚すくいだけを楽しむことができると聞いたことがあった。


 僕も千歳も金魚を飼えるとは思えなかったので、事前にあのおっちゃんに僕の方から言っておいたのだ。

 あの人の風格から断られるかとも思ったが、そこは快く了承してくれていた。


「そう。なら心配はいらないわね」


「あぁ」


 懸念を潰した僕たちは、後腐れなく次の目的地を目指すことにする。といっても、いかんせん金魚すくいの終了が突然のことだったので、次の目的地も何も決めていないのだが。


「さてさて、次は何処に行こうかな……」


 顎に手をやって考え込む僕。

 まだ時間に余裕はある。これなら、あと2、3店くらいは回れるだろう。

 とは言うものの、近頃こういうイベントに参加してこなかったもんだから、何処をどう回ればいいのかやはりわからん……。

 とりあえず周囲をぐるりと見回し、目につく屋台を1つずつ吟味していく。


「ヨーヨー釣り……は、あまり気が進まないな」


 流石にヨーヨーではしゃげるほどの精神年齢ではないし、多分持っていても鬱陶しいと思ってしまう。


「え? でもあなた、中学2年生の頃、両手十指にハ◯パーヨーヨーをつけながら毎日登校していたじゃない」


「僕にそんな奇特な黒歴史はない」


 千歳の記憶が捻り曲がった指摘に間髪入れずに突っ込んだ。

 そもそも構造的に十指全てにヨーヨーつけられるとは思えないんだが。

 ていうか、何でお前ハ◯パーヨーヨー知ってんだよ。どう考えても、そういう類のおもちゃとは無縁の生活送ってきてるだろ、お前。


「それであなた、10個一斉に投げて見事に全部絡ませてたじゃない」


「いや、だから僕にそんな二重の意味で痛い過去はないって」


「それから、『ふっ……これが本当のスリープ(空回り)か』とか言ってたじゃない」


「もしそれが本当だとしたら、中2の僕大分ダサいな」


 それもう中二病通り越してただの奇人だろ。

 そりゃ友達もいなくなるわ。

 ……いや、だから事実無根なのだけれど。


「とにかく、ヨーヨー釣りはやめとこう」


 そう結論づけ、次なる吟味に入る。

 えーっと他には……。


 思案げに唸る僕の肩を、そこで千歳がとんとんと軽く叩いた。


「ん、どうした? 何か良いの見つけたのか?」


 訊くと千歳はこくりと頷き、


「輪投げなんてどうかしら。ほら、あなた中学2年生の頃、両手十指にな◯わを嵌めて毎日登校していたじゃない」


「さっきから、中2の僕の指をネタにするのやめてくんない?」


 ピンポイントで僕を貶めようとするな。


 な◯わとは、あの有名な輪っか状のスナック菓子の

ことである。確かに小さい頃はよく指に嵌めてから一気に頬張る、なんて贅沢な食べ方をした記憶はあるけれど、流石に中学生でそんなことはしていない。たとえしていたとしても、それで登校したりなんて絶対にしない。

 それは中二病を通り越して奇人を通り越して怪人である。


 ていうか、特に目立つこともなく平穏無事に学生生活を送ってきた僕に、目立った黒歴史なんてそもそも存在しない。


「何を言ってるの? 『自律思考型黒歴史製造機』でお馴染みの一樹君とはあなたのことでしょう?」


「僕にそんな酷いキャッチフレーズはねぇよ」


 その後いくつかこういう問答を繰り返し、最終的に千歳のリクエストで射的をすることになった。


 千歳の方から「また勝負する?」と吹っかけられたのだが、先の金魚すくいで心身ともに疲れてしまった僕はそれを固辞。

 必然、射的は千歳のみがやることになった。


 ……射的って、男女で来た場合は、女子のリクエストに応えて男子の方が格好良く景品を取ってあげるのが普通な気がするが、自然に立場が逆転しているのが実に僕たちらしい。


「ふぅん……銃って結構重いのね」


 店主に渡されたコルク銃の感触を確かめながら、千歳はそう呟く。

 その様子がやけに様になっているのが、男の子である僕からしてみれば何だか面白くない。


「お前、銃似合うな。イノシシくらい何匹か殺ってそう」


「一樹、発言には気をつけなさい。訴えるわよ」


「誰にだよ。警察?」


「動物愛護団体」


「リアルに怖いことを言うな」


 発言まで取り締まられるのだろうか。


 それから弾となるコルクを詰め終わった千歳は、ふっと軽く息を吐き、一転して真剣な面持ちで銃口を向けたーーーーーー僕の方へ。


 ……何をしてるんだこいつは。


「おい千歳ちゃんよ。君にはあの『銃を人に向けてはいけません』って注意書きが見えないのかい?」


「? もちろん見えているけれど。それが何か?」


「僕は人だ!」


 まさか人生の中で『僕は人だ』なんて突っ込みをすることになろうとは思ってもみなかった。

 おそらく人類史上初となる奇抜な突っ込みである。


 僕の反応に満足した千歳はクスっと微笑み、そして的の方に向き直る。この射的屋は景品がそのまま的として陳列されているタイプで、千歳は上中下ある中の上段、比較的難易度が高い列の的に狙いを定めた。


「ーーーー」


 引き金を引き、弾丸と化したコルクは一直線にーーーーー上段の、若干大きめのテディベアの横をかすめていった。


 ……千歳の性格上、難しめな景品を狙うことは予想がついたが、まさか最難関のぬいぐるみを狙ってくるとは。


 射的屋に置かれるぬいぐるみは見た目に反して結構な重量があるので、いくら銃で撃ったところで、コルクの衝撃では落とすのに限界がある。

 こういう店では、余程良い位置にない限りは大物は諦めて、大人しくお菓子などの小物を狙うのが定石だ。


「……チッ」


 狙ったところに弾がいかない歯痒さを身に沁みて感じた千歳は、小さく女の子らしからぬ舌打ちをする。


 千歳のセンスの良さは金魚すくいの件で折り紙つきだけれど、まぁ、射的はセンス云々よりも、しっかりと自分の上体を支える筋力とか、そういった基礎的なところが結構大事だからな。

 ましてや初めてで慣れていない状況で、高難易度の的を狙う理由も必要性もないだろう。


「おい千歳。気持ちはわかるが、ああいう大きい景品は取れないようになってるもんだから、もっと簡単なやつ狙おうぜ。あのお菓子なんかどうだ?」


 店側からしてみれば営業妨害ともとれることを囁きつつ中段を指差す。

 だがしかし、僕の幼馴染はここで素直に「はい」と言うほどの女子ではない。

 ついでに駄菓子菓子に目移りするほど子供でもなかった。


「気遣いなんて不要よ。この平成の◯◯◯に任せておきなさい」


「いや、何にびびってるのか知らないけど、流石に全部伏せられたらわからないから。伝わらないから」


「この平成ののぴ太に任せておきなさい」


「どんな伏せ方だ」


 濁点を半濁点で伏せるな。斬新過ぎるだろ。

 第一、平成も何もの◯太君はまだご存命だ。

 キャラクターに対してご存命という言い方も何だかおかしいけれど。


「何を隠そう、の◯太君のモデルはこの私なのよ」


「一致する要素が1つも見当たらないんだが……」


 しいて挙げれば、同じ人間ってところだろうか。


「懐かしいわね。その昔、先生が取材に来た時のことを思い出すわ」


「時系列どうなってんだよ」


 お前いったい何歳いくつだ。


「まぁ、来た時に私はぐっすり昼寝をしていたから、結局取材はできなかったのだけれど」


「の◯太君だった!」


 その後、火がついた千歳は何回かチャレンジしたものの、ぬいぐるみは全く落ちる気配がなかった。




*****




 ーーー数分後。


「あのクマさん、絶対に固定されてたわよ。あの射的屋訴えてやろうかしら」


「僕の幼馴染が害悪過ぎる……」


 資金の方が足りなくなったので、最後に妥協して手に入れたチューインガムを口に運びつつ、千歳は忌々しげに呟いていた。

 あのクマを、と言うよりも、狙った獲物を手に入れられなかったのがよほど堪えているらしい。

 お前はハイエナかっつーの。

 だがまぁ、物理的に不可能なことは、いくらセンスや勘が良くてもどうにもならない。


「今度やる時は、絶対に仕留めてみせるわ」


「あの、あくまでクマのぬいぐるみだからな?」


 鋭く言う彼女の双眸は何となく妖しい赤光を放っているようで、隣を歩く僕は軽く身震いする。


 ……僕よりもこいつを通報した方がいいんじゃないだろうか。今目の前にリアルな熊が現れたら、八つ当たり気味にぶっ飛ばしてしまいそうである。


 それからもぶーたれる千歳を宥めながら、目的もなしにぶらぶらしていた時だった。


『ーーー夏祭りにお越しの皆さーん! 只今からお待ちかね、大ビンゴ大会を開催しまーす! 参加される方々は、広場北のステージまでお集まりくださーい!』


 拡声器で張り上げられた若い女性の声で、僕たちの今回の目的ーーーーービンゴ大会の開始を告げるアナウンスが聞こえてきた。




*****




 北のステージに行くと、そこには既に幾百人もの人数が集まっていた。付近では、祭りの主催メンバーと思われる方々がビンゴカードを配っている。

 それをもらい、僕たちは人混みを外れて、ギリギリステージが見え、なおかつ拡声器の声が届く位置まで移動した。


 ーーーそう、これが今日の僕らのメインイベント。

 ビンゴ大会。

 昼に家でチラシを見た時、『今年初! 豪華景品が当たるビンゴ大会!』的な文言を発見したことで、重い腰を上げてリア充の巣窟となるイベントに僕らは参加した。


 何でも、ビンゴが揃った人から順にステージに上がり、そこに置かれた様々な景品の中から好きなものを選んで持っていけるという夢の企画である。


 今まではそんな羽振りのいい企画なんて全くなかったのに、一体どこから資金を調達したんだとか、そんな疑問がないわけではないが、そこはまぁ置いておくとして。


 この人数のビンゴ大会とか絶対収拾つかなくなるだろとか、そんな懸念もないわけではないが、そこもまぁあくまで祭りの雰囲気を楽しむということでひとまず置いておくとして。


 ステージ上には、子供が喜びそうなおもちゃ類の他、ゲーム機や本格的な自転車、果てには大型液晶テレビなどの家電製品までもが揃っている。


 上手くいけば、あの豪華な景品を無償でゲットできるチャンスだ。この機会を見逃すなんて選択肢は、校則でバイトが禁止されている上、お互いに月一の小遣い制である一介の高校生の僕たちにはなかった。


 ーーー全身全霊で、運を勝ち取りにいこうではないか。


『さぁ、準備はできましたかー? それでは早速、1発目いってみましょー!』


 お姉さんの甲高い声が響き渡り、会場のボルテージは最高潮に達そうとしていた。




*****




 ーーー結論から言おう。


 現在、僕の手元に景品は何もなく、数ヶ所穴が空いた無残なビンゴカードがあるだけである。


 いや、現在と言うと今以てビンゴ大会が継続中であるという誤解を与えてしまいかねないので、ちゃんと言い直そう。


 ーーービンゴ大会が終わり、ある者は獲得した景品を持ってホクホク顔で、またある者は何も持たずに悔しげな表情で、さらにある者は何も持たないが、それでもどこか特殊な空気を楽しんだとでも言いたげな表情でそれぞれ四散五裂していく中、会場に残された僕の手元には景品は何もなく、数ヶ所穴が空いた無残なビンゴカードがあるだけだった。


「………」


 終わってみれば、呆気なかった。

 わざわざ回想する気も起きないくらい、呆気なかった。


「まさか1ビンゴも達成できないとは……」


 ビンゴカードを取り落とし、ガクッと項垂れる。


 ここにきて、僕には運がないということが新たに発見された。どうやら、僕は神様に嫌われているらしい。


 周りの人間が次々と「ビンゴ! ビンゴ!」と叫びながらステージに駆けていくのを傍観しつつ、お姉さんの数字コールが響く度に、「次は僕だ次は僕だ」と一喜一憂していた自分が恥ずかしい。


 気がつけば狙っていたゲーム機や家電もなくなり、あっという間に全ての景品が吐き出されてしまった。


 それに、それ以上に何よりも憎々しいのがーーーー


「………ふふっ」


 隣で愉快そうに微笑を湛える千歳だった。

 その腕には、ついさっきビンゴの景品としてもらった、彼女の身長の半分くらいの大きさのテディベアが抱かれている。


 つまり、先述の周りの人間の中には、彼女も含まれていたというわけだ。流石に「ビンゴ! ビンゴ!」と叫んだりはしていなかったが。


「残念ね、ゲーム機が手に入らなくて。まぁ、後日ママに泣きながらおねだりでもしなさいな」


「一瞬の迷いもなくぬいぐるみを選んだ奴に言われたくねぇよ……」


 千歳が上がった地点では、まだそこそこの豪華な景品が残っていたのだけれど、舞台に登った千歳が真っ先に選んだのはこのクマのぬいぐるみだった。

 まぁ実用品の類は、現在に満足していれば選ぶ必要はないのかもしれないけれど、それでももっと建設的な選択もあっただろうに。


 先程の射的屋で取り損ねたテディベアとは種類も大きさも異なっているところを見ると、あの時も千歳は気位の高さからわざわざ高難易度を選択したわけではなく、ただ単純に、思春期の女子らしくぬいぐるみが欲しくて狙っていたのか。


 可愛いぬいぐるみが好きという、常に傲岸不遜で冷徹な千歳の知られざる嗜好が明らかになったけれど、そのギャップはビンゴカードよろしく僕の心に空いた穴を埋めてくれるには至らなかった。


「こうなったのも、あなたの頭の出来と日頃の行いと人付き合いと肝臓が悪いからでしょう」


「何で最後、僕を病人扱いしたの?」


 独特なノリについていけず、あとはまぁ気分が落ち込んでいたことも相まって、僕としたことがパンチの弱い突っ込みをしてしまった。

 念のため言っておくが、僕は別に肝炎ではない。

 至って健康体である。


「あと、日頃の行いと人付き合いに関しては、お前に言われたくはない」


 頭の出来は比べるべくもないけれど、後の2つは僕らはイーブンだと個人的には思っている。


 神様は面食いなのだろうか。だとしたら不公平極まりないが。世界を創造した神様が面食いとかどんなパラドックスだよ。


 愕然と、世の不条理を嘆く僕。


 と、その時。


 本来のメインイベントーーーー夏祭りの終焉を飾る花火大会の開幕を告げるアナウンスが流れた。


 先程のビンゴゲームの時とは打って変わり、落ち着いた声音のアナウンスである。

 それにつられ、広場からはぱちぱちと疎らな拍手が聞こえてきた。


「さて、いつまでもウジウジいじけてないで、私たちも花火が見える場所まで移動しましょうか」


「……だな」


 とは言っても、花火自体はここから幾分離れている開けた場所で打ち上がるので、この広場内なら基本何処にいても鑑賞できる。


 わざわざ歩いて人混みの中に入っていく必要もないと判断し、僕らは手近に座れる場所がないかを探す。


 普段着の僕は別に構わないのだが、千歳の方は浴衣なので、地べたに座らせるわけにはいかない。


 辺りを見回すと、数メートル先にちょうど人2人が座れそうな大きさのベンチがあった。


「あそこにするか」


 千歳を誘い、2人並んで腰掛ける。

 それからしばらくの間花火の打ち上げ場所の方角を眺めていると、ついに1発目が打ち上がった。


 一筋の頼りない光が、街を闇で覆う夜の空に向かって伸びていって、消える。

 そして、一瞬の静寂の後、けたたましい轟音とともに、夜空に一輪の花が開いた。


 それを皮切りに、次々と花火が打ち上がっては、激しい炸裂音を残して儚くも消えていく。


「おぉ……」


「凄いわね」


 僕と千歳は、ほとんど同時に感嘆の息を漏らした。


 ……正直、今回の僕の個人的なメインはビンゴ大会であり、最後の花火は、不躾にもある種のおまけと見なしていたところがあったのだが。

 そんな浅はかな自分を、遅ればせながら恥ずかしく思う。


 赤、黄、橙ーーーー目も眩むような明光が、夏の夜空に、文字通り百花を添えていく。

 一瞬の輝きが、刹那の轟きが、闇に可憐な花を咲かせていく。


 デネブ、アルタイル、ベガ。

 夏の大三角を筆頭に、夜空に輝く満天の星々に呼応するかのように、満点の花はその花弁を開かせ、そして瞬く間に散ってしまう。


 その短命さを目に焼き付けた僕は、ビンゴ大会で摩耗し、荒んでいた心が浄化され、急速に癒されていくのを感じていた。


 黒に何色を混ぜても黒にしかならないとはよく言われることだけれど、僕らの頭上の『黒』の中にはれっきとした『彩』が交ざっている。

 交ざって、交わって、花になって、華になる。

 まさに、芸術は爆発ーーーーー否。芸術は、爆裂。


 おまけなんてとんでもないーーーー花火は、昔も今も変わることのない、夏の風物詩そのものだ。


 ……そりゃ、こんなことも忘れていたんじゃあ神様も味方してくれるわけないよな。


「綺麗ね……」


 己を戒める僕の傍らで、ポツリと呟いたその声に横を向く。


 ーーーそして、僕は呼吸を忘れた。

 夏夜を彩る花火を眺める千歳の姿はあまりにも幻想的で、艶美な雰囲気を纏っていた。

 夜闇と見紛うほどの濃紺色に包まれた、きめ細やかな白い柔肌。アップにされた艶やかな黒髪に、興奮からか若干の朱色を含んだ美しいうなじ。長い睫毛に縁取られた瞳はしっとりと濡れ、そこには今、目の前の大輪の花が映し出されているのだろう。

 しっかりと通った鼻筋から下へいけば、桜色の唇からは、ほうっと熱い吐息が漏れていた。


 遠くで花火が炸裂する度に、暖かな光が彼女を照らし出す。

 それはまるで、スポットライトのようで。

 千ノ宮千歳という見目麗しき女性が確かにここにーーーー僕の隣に存在することを、世界が祝福しているように思えて。


 ーーーー不覚にも、見惚れてしまった。


「……ねぇ、一樹」


 と、ここで。

 視線は前に向けたまま、僕の方を見ずに千歳は言ってきた。


「……あ、な、何だ?」


 見惚れていたせいで、つい反応が遅れてしまった。

 千歳は僕の視線に気づいていないのか、それともあえて気づいていないふりをしているのか、そこには言及せずに続けた。


「金魚すくいの時の件、覚えてる?」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 だが、遅れて思い当たる。


「……あぁ、勝負に負けた方が、勝った方の言うことを何でも1つ聞くってやつだろ」


 確かに数時間前にやった金魚すくいで、そんな約束をしたな。その後のゴタゴタで有耶無耶になり、今まですっかり忘れていた。

 ……いや、忘れていたんじゃなく、忘れていたかったのかもしれない。

 だってその勝負は、結局千歳が勝ったのだから。


 迂闊に勝負を申し込んだ僕の自業自得という感は否めないけれど、それでもこいつからの命令だ。忘れたくなっても不思議ではないだろう。

 だがまぁ、話題を持ち込まれてしまった以上、もう腹を括るしかない。


「ーーーいいぜ。1つだけ、何でも言うことを聞くよ。僕は何をすればいい?」


 千歳は相変わらず前を向いたまま。


「さっきまでは、何かぬいぐるみを買ってもらおうと思っていたのだけれど」


「……なんか、凄い勢いでキャラ崩壊が進んでないか? 千歳さん」


 あくまでギャップ萌えの範疇でお願いしたい。

 それに、こういう類で金銭が絡む命令はちょっと禁忌タブーなんじゃないだろうか。


「それもそうだし、まぁ、ビンゴ大会でゲットできたからそれはもういいわ」


 おい、微量に僕に対する皮肉が混ざってるぞ。


「じゃあ何だよ。お前は僕に何をして欲しいんだよ」


 ついぶっきらぼうな言い方になってしまう僕。

 まぁ、どうせまたろくでもない要求に違いないだろう。


「だからーーーー」


 千歳は、ここでようやっと僕の方を見た。

 そして一呼吸置いて、僕を真っ直ぐに見つめ、言った。



「だから、そうね。ーーーーーこれからも、金魚の糞でいてくれたら、それでいいわ」


「………何だそりゃ」


 真摯な態度には全くもってそぐわない千歳の要求。

 そのちぐはぐさに、僕は苦笑する。

 だが、この残念なアンバランスさもまた、彼女が持つ魅力の1つなのだろうと、そう思う。

 そして、そのことに安心感を覚えてしまっている僕もまた、やはりどこか残念な奴なのだろう。


 僕の何とも言えない微妙な表情を受け、千歳もまた、その端正な顔に微笑を浮かべた。


 苦笑と微笑。


 合わせて、微苦笑。


 2人して、笑みを交換し合う。



 僕たちの夏祭りは、こんな風に何とも締まらない感じで、花火とともに僕たちらしいフィナーレを迎えた。




 ーーーだが、常夏は未だ終わらない。

 桜舞う春も、僕たちの青い春も、まだまだ先のことである。

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