第9話 夏祭り (前編)
『明日やろうは馬鹿野郎』
誰が初めに言い出したのかは定かではないけれど、一昔前に、一世は言い過ぎかもしれないが、まぁ一時は風靡したであろうこの文言は、その語呂の良さも相まって、学生に限らず多くの人間にとって印象付きやすいフレーズだ。
人生において様々な場面で適用できる万能さも併せ持つこの文言は、ごく個人的な意見を言わせてもらえるならば、やはり学業面において使われることが多いように思う。
高校に来れば、流石にそんな格言というか、一種の教養ならぬ強要さも含むこの言は見られはしなくなったのだけれど、僕が過去に、といっても数年ほど前に通っていた中学校では、至る所にこの言を書き入れた貼り紙が存在していたものだ。
まぁ、学生としての意識を高めるためならば必要なことだったのかもしれないが、同時に執拗さもあったことは否めない。
宿題課題は後回し。明日まとめてやれば良い。
そんなことを思う学生たちは、時代を問わず、昔も今も枚挙に暇がないだろうしーーーー何を隠そう、僕もそうやって学生生活の大半を過ごしてきた人間である。
今日できなくたって、明日終わらせれば大丈夫。
今日はやる気が出ないけれど、明日になれば大丈夫。
そんな根拠なんて全くない『大丈夫』を積み重ねて、積み重ね続けてここまで生きてきた。
『明日やろうは馬鹿野郎』
この名言も、僕は鼻で笑って足蹴にしていたものだ。名言ならぬ迷言としてな。
結果的にはどうせやることになるのだから、やらなくてはいけないことなのだから、それが別に今日じゃなくったってーーーー今じゃなくったって構わないじゃあないか。そう思っていた。
だがしかし。しかしである。
先日、僕の中である変化があった。
それはもう、生まれ変わったと表現してもいいくらいの、劇的な変化が。
事の発端は、あの日ーーーー
イベント内のプログラムとして行われた模擬授業に参加した僕たちは、そこで大学の授業の異質さというか、これまでとの明確な違いを体感し、実感し、そして痛感した。
一応注釈を加えておくと、痛みを感じたのは僕のみであり、僕の身であり、千歳は不安に思っている様子など微塵もなかったのだが。
まぁそんなことがあり、今までは落ちこぼれていようとも大して気に留めていなかった僕なのだが、自分の現状が『やばい』ということを思い知った。
まぁ僕1人のことであればここまで気負う必要もないのだけれどーーーーそこに、あの幼馴染が絡んでくるとなると、話は別だ。
これまでは何となく、なあなあな曖昧模糊とした雰囲気で、流れに任せて同じ道を共に歩んで来た僕らだったが、今現在は、明確な意思がある。否、意志ができた。
ーーー共にあのキャンパスに通うために。あいつの願いに応えるために。
だから、変わった。受動から能動へと。
明日からなんて言わない。そんな奴は馬鹿野郎だ。
今日から、今という日から始めるのだ。
僕らの
*****
「今日はお祭りに行きます」
ある休日のお昼時。
千歳の家で昼食に冷たいそうめんを啜っていた僕らだったが、千歳があるチラシを見せびらかしながら、ビラだけに見せびらかしながら無表情で言ってきた。
まぁ夏休み中だから休日だろうが平日だろうがあまり関係ないのだが。
毎日がホリデー。なんて素晴らしい響きだろう。
確かそんな感じを歌った歌が何年か前にあった気がするけれど、思い出せないし、まぁいいか。
千歳が僕に見せてきたチラシは、一目見てそれだとわかる、夏祭りのチラシだった。
打ち上げ花火のイラストがでかでかと描かれ、日時と場所、その他注意事項が記載されている。
僕らが住む地域では、毎年ここから1駅先の結構大きな広場で、地域住民の多くが参加する夏祭りが開催されている。
まぁ祭りとはいっても、広場中央に櫓を建て、その周辺に多くの出店が立ち並び、最後には打ち上げ花火でフィナーレという、地域独自の文化もなければ特にひねった企画もない、当たり障りのない至って普通の夏祭りなのだが。
ほんと、これぞ夏祭りって感じ。
ザ・サマーフェスティバル。
当たり前のことだが、今年もやるんだなぁと思った僕だったが、しかしこのタイミングで、
「待て待て待て待て!」
と、流れのおかしさを敏感に感じとって待ったをかけた。
流れに棹をさした。
ちなみにこの場合、流れに棹さすというのは誤用であり、本来は全くの真逆の意味を持つ言葉なのだそうだ。
僕も千歳に教えてもらって最近初めて知った。
受験生諸君は是非とも覚えておこう。
千歳は明らかに気分を害した様子で眉尻を上げると、
「私の進行を妨げるなんて、あなたも立派になったものね。いい度胸だわ。度を越した胸だわ」
「それはただの巨乳だ」
前回は鳴りを潜めていて、あぁ僕らも健全な会話ができるようになったんだなぁなんて思っていたのに、初っ端から下ネタを飛ばす千歳。
……あぁいや、こいつの謂に乗っかるなら、下ネタじゃなくて上ネタなのか。寿司屋かよ。
今日は良いおっぱい入ってるよ! ……どんな寿司屋だ。もはや寿司屋ですらないが。
どちらかというと、これは完全に偏見なので申し訳ないのだけれど、何というか、水商売って感じだ。
まぁ水商売って言葉も、厳密に言うとただ夜のお仕事だけを指すものではないことは知っているが、現在ではその意味だけで使われていることが多いよな。
さっきの『流れに棹さす』の例もそうだが、誤用が正用として受け入れられているケースというのは往々にしてある。
あぁまぁ、水商売に関しては、まるっきりの誤用ってわけでもないのかな?
堂々巡りの議論を頭の中でしていても仕方がないので、僕は本題に戻ることにした。
「いやお前、冒頭からの流れをちゃんと意識しろよ。今回の導入部分、思いっきり勉強会ならぬ勉強回の雰囲気だったじゃん」
だってのに、場面が切り替わった途端にお祭りへのお誘いである。待ったもかけたくなるというものだ。
だが千歳は軽くこちらを蔑んだ顔で、つまり軽蔑した顔で、
「は? 導入も何も、私の立場から地の文がわかるわけないじゃない」
「お前今まで当たり前のように地の文読んでただろ!」
あまりに自然過ぎたので指摘してこなかったが、かなりの割合でこいつは地の文に反応していた。
だがまぁ、僕が言いたいのはそれだけではない。
「そもそも前回のラスト、『これから勉強頑張っていこう!』的な感じで終わっただろうが」
千歳曰くわからなかった冒頭でもちょろっと記述したことではあるが、先日のオーキャンの帰り道、何か結構シリアスな雰囲気で、僕が千歳の真意を汲んだみたいな感じで、受験合格に向けてこれから気持ちも新たに突っ走っていこうってオチだったじゃん。
合格なのにオチって矛盾はさておくとしても、そういうラストだったじゃん。
今が大事だとか、それこそ今考えてみれば何当たり前のこと言ってんだとでも言いたくなるようなことを恥ずかしげもなく堂々と言ってたじゃねぇか。
すると千歳は頭上に疑問符を浮かべて、これまた堂々と言った。
「そんな薄ら寒いこと忘れたわ」
「お前の前世は鶏か何かだったのか……?」
あとこいつ、自分たちの真面目な空気感を薄ら寒いとか抜かしやがった。
「前回の私のことを、今回の私が覚えているわけがないじゃない」
記憶は引き継いでいないのよ、と千歳は言った。
いやいや、その理屈はおかしいだろ。
「前回と今回の私は別なの。別人なの。千歳8号のことなんて知らないわ」
「お前はアンドロイドか何かなのか!?」
1話ごとに同一キャラを入れ替えてんじゃねぇよ!
てことは何か? 僕は今まで、合計8人の千歳と日常を送ってきたってことなのか!?
……まぁもちろんそんなわけはないが。
何だか、前も同じような突っ込みをしたような気がするなぁ。
「……てことは、今のお前は千歳9号なのか」
冗談だと知りつつも、何となく面白そうだったので乗っかると、千歳はふるふると首を横に振った。
「いえ、9号はないわ。だって『ないん』だから」
「お前はアイフォンか!」
ドヤ顔で使い古されたボケを言ってんじゃねぇよ!
アンドロイドだったりアイフォンだったり、忙しい奴だな!
それにしても、iPhoneってカタカナ表記にするとすげぇださいな。アンドロイドはそれ程でもないんだけど。
「ちなみに、今回の私は主人公にデレまくりのデレインって設定だから、そこのところよろしくね、かずきゅん」
「………」
デレインって何だよ。ホテルかよ。
あぁ、デレて火照るとかけてんの?
だがしかし特に照れている様子もなく、至って普段の表情でそんな恥ずかしいことを言う千歳に、僕は何か粋な返しをしようと思ったけれど、結局黙ってしまった。
いや、絶句したと言った方が正確かもしれない。
言い方は悪いがーーーー正直、吐き気がした。
吐瀉物がーーーーついさっき食べたそうめんが込み上げてくる感覚がした。
「……何か、今ものすごく失礼なこと考えてない?」
「考えてない。仮に考えてたとしても、それはお前が悪い」
訝しげな視線を向けてくる千歳に対し、僕は肩を竦めてそう答えた。
それから、自分でも不思議に思う。
可愛い女の子からかずきゅんなんて今まで誰にも呼ばれたことがないような愛称で呼ばれたのに、どうしてこんなにも胸がどきどきしないのだろうか。
度を越した胸だからだろうか。
度を越して、胸がどきどきならぬぼきぼきしてしまったのだろうか。
それとも、相性の問題とか?
無表情の鉄仮面で言われても、全然全くこれっぽっちも萌えなかった。
「さてさて、食休みも済んだところで、勉強に戻りましょうかね」
「待って」
午前中に進めていた問題集が途中だったので、さっさと片付けてしまおうと立ち上がると、テーブルについた手を千歳に掴まれた。
「……何をしている千歳。この手を離せ」
「いいえ離さない。あなたが話さないなら離さない」
「意味もなく言葉で遊ぶな。そして、そんな浮気を隠してる夫婦みたいな感じで僕の手を掴むな」
「行きましょう、夏祭り」
僕の突っ込みをスルーして、千歳は言ってきた。
その眼差しには、有無を言わさぬ迫力がある。
間違っても人にお願いをする時の態度ではないのだが……。
「あのさ、一応、お前が僕に勉強を教えているーーー教えてくれている立場なんだけど……」
第1話を読み返せ。
完全に今と立場が180度真逆になってるから。
初期の頃なら、どちらかというと僕の方から千歳を祭りに誘っていたと思う。勉強から免れる手段として。
まぁ『初期の頃なら』とは言ったものの、まだそう言える程続いているとはとてもじゃないが言えないけれど。
「勉強なんていつでもできるじゃない。でも祭りは今日しかないのよーーーー今しかないのよ」
そう言って、したり顔でニヤリと笑う千歳。
まぁ確かに、真に勉強ができる奴っていうのは、たとえ勉強机に向かわなくとも、何処でも勉強場所にしてしまえるという話は、テレビかなんかで聞いたことがあるが……。
だがしかし、お生憎様僕は勉強ができる奴ではないので、そのしたり顔を眺める僕の心は、底から冷え切っていた。
「………」
……こいつうぜぇ。
千歳9号か何か知らないがーーーーあぁ、9号はないんだっけーーーーキャラが変わり過ぎだろ。
何となく、デレると甘えるを履き違えている気がするし。
いつものサディスティックで性悪な感じも接していて気が滅入るが、こっちはこっちで面倒くさいなぁ。
別の意味で性悪だ。
せっかくこっちからやる気を出しているのにーーーーこいつは、僕の勉強の面倒を見るためにいるんじゃなかったのか。面倒を見るどころか、面倒をかけられている。
否、迷惑をかけられていた。
「行こうって言ってもな……」
腕を組んで、うーんうーんと唸りながら渋る僕。
人間不思議なもので、強引な物言いをされると、ついついそれとは逆の行動をとりたくなってしまう。
この場合、「はい、行きます」と、二つ返事でOKすることが、僕の中では難しくなっているのだ。
こういうの、何て言うんだったかな……駄目だ、わからない。
己の知識のなさを不甲斐なく思う僕である。
「悪いけど、あなたに拒否権と人権はないのよ」
「いや、人権はあるだろ」
というか、拒否権もあるだろ。
「ほらほら、もう行く雰囲気になっているのだし、どうせ数百字後には行くことになっているのだし」
「数百字後って言い方をするな」
「行きましょう。ね? かずきゅんはーと」
「気持ち悪いからそのかずきゅん呼びをやめろ。はーとって自分で言っちゃってるし」
「何よ、ちょっと変換し忘れただけじゃない」
「普通はありえないんだよな……」
もうちょっと現実に即した会話をしようぜ。
日常会話で『変換し忘れた』なんてフレーズ使わねぇからな。
「ていうかさ、そもそもの話、お前は何でそんなに夏祭りに行きたいんだ?」
こう言っちゃあ何だが、こいつはこういった所謂リア充(笑)が喜び勇んで参加し、わいわいきゃあきゃあはしゃぎそうなイベントには嫌悪感を抱いているような人種だったはずなのだが。あちこち人ばっかでくっそ混んでいる上にそういう煩わしい連中を目にすることでさえ、こいつは良しとはしないだろう。
いやそれは僕にも当てはまることなのであまりとやかくは言えないのだけれど、まぁ僕も千歳も、リアルが充実しているとは言えないからな……。
ただ、最近では『リア充』も死語になってきているきらいがあるのも確かなんだよな。まぁ僕にとってはきらいがあるというか、普通に嫌いだったのでその風化や廃れはむしろ喜ばしきことではある。
新しい呼び名はもう決まっているのだろうか。
あぁでも、SNSなんかでは陽キャとか陰キャとか、そういう区別があるんだっけか。
陽気なキャラと陰気なキャラ。
陽と陰とか聞くと、僕としては陰陽師や陰陽道ってワードが先行し、そこはかとなく中二病感がもろに出ていると思うのだが。
大体……その道の人に失礼にあたりそうなので、これ以上言うのは止そうか。
まぁそれはなくとも、陰キャとか、知らない人からしてみれば淫キャと聞き違える可能性もなきにしもあらずなので、それもちょっとどうなのかなって話ではある。
淫乱キャラ。
『俺(私)淫キャだから……』なんて聞いたら、へぇあいつエロい奴なんだと勘違いしてしまうかもしれない。
……まぁこの場合、聞き取り手の方が大分エロいというのは言うまでもないが。
これは、何か別の表現を僕が考えるべきなのでは?
「私が今回夏祭りに行きたい理由はねーーーー」
時代の先駆者としての夢を頭の中で思い描いていた僕を、千歳のその言葉が遮った。
そうだった、僕が質問したんだった。
まぁ僕としては、単純に気になって訊いただけの、何の深い理由もない素朴な疑問だったのだがーーーー
ーーー思えば、この時に、この質問をしたことが僕の過ちだったのかもしれない。
本当に心を入れ替えて、心機一転して、勉強に全力投球するつもりだったのなら、ここで訊くべきではなかった。
ーーーーいや、訊いて正解だったのかな?
「これよ」
千歳はそう言って、先程僕に見せたチラシの、その一部分を指し示した。
「……?」
毎年見ているビラなので、僕は流し目で、特に注意を向けることもしていなかったため、それに気がつくことができなかったのだ。
日時、場所、その他注意事項の他にーーーーー今年限りの、『スペシャル』な文言を。
見逃していたのだ。
「………千歳」
自分の口角が、自然と吊り上がっていくのを感じる。
そして、目の前で、これまた嫌な笑みをたたえる幼馴染の名を呼んだ。
「何? かずきゅん」
気に入ってしまったのか、さっきやめろと言ったはずの小っ恥ずかしい愛称で呼ばれたが、それも今は気にならなかった。
愛称も相性もどうでも良い。
ーーーー勉強? 勉めて強くなる?
否ーーーーー免れる力で強くなるのだ。
「今夜は祭りじゃああああああああああああああ!」
夏休み。休日の中の休日のお昼時。
近所の迷惑も憚らず、両の拳を天に掲げ、歓喜の雄叫びを上げている男子高校生の姿が、そこにはあった。
ーーーというわけで。
前回は前回。今回は今回。
今日は今日とてお祭り騒ぎ。
どうやら人間、そう易々とは変われないようである。
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