第8話 オープンキャンパス
ーーー太陽照り注ぐ、とある土曜日の朝方。
カーテンの隙間から射し込む陽の光もお構いなしに自室で惰眠を貪っていた僕のスマホに、一通のLINEが届いた。
『今日空いてろ』
通知オンにしていた故の通知音で目を覚ました僕は、寝ぼけ眼を擦りながら、画面に表示されたその至って簡潔な文面を凝視する。
差出人の名前を見ると、言わずもがなそこには『
ーーーふむ。
寝起きでまだボヤけている脳を無理矢理に覚醒させ、僕は思考を開始した。
「『今日空いてろ』か……」
誤って既読をつけないように細心の注意を払いながら、映された文章を口に出し、反芻する。
「ぱっと見、いつもの命令っぽいな……」
口にした通り、一見は『今日は予定を空けておけ』という命令文として受け取れる。
……いやまぁ、いつもの命令というのもおかしな話ではあるけれど。
だが、もしそうだとしたら何処か日本語が不自然だ。あの千歳がそんなミスをするとはとてもじゃないが思えない。
「となると……」
次に考えられるのが、誤字の可能性だ。
『今日空いてる?』を打ち間違えて、『る?』の部分が『ろ』となってしまった可能性。
急いでいればクエスチョンマークを入れ忘れることだって往々にしてあるだろうし、まぁこれで正解だろう。
だがしかし、しばらくの間、具体的には約10分程度返信せずに、既読もつけずに待ってみたが、向こうの方から誤字の訂正が送られてくる気配はない。
つまりそれは、この言葉が、あいつが僕に伝えたかった何の誤りもないものであるということを意味する。
「うーん……」
あちらの意図が読めず、唸るように息を吐いた僕はそこで思考を放棄し、ついでにスマホもベッドに放った。そして、自らもそのままベッドに倒れ込む。
駄目だ、いまいち頭が働かない。
どうやら、起きたばかりの僕の脳味噌はこの程度の思索しかできなかったらしい。
……はいそこ、普段から別に何も考えてないだろとか言わない。
そうやって悶々としながらも、寝転がっていると再び眠気が僕を襲い、このまま二度寝と洒落込もうかという決意が頭をよぎった。
1度心に決めれば、後の行動は早い。
もう一度スマホを手に取ると、僕は千歳とのトーク画面を開き、一言『今から寝るから無理。おやすみ』とだけ送り、ベッドの隅に追いやられていたタオルケットを足で引き寄せて被り、再び目を瞑った。
もちろんタイマーでエアコンをつけるのも忘れない。
そうして微睡みの世界で意識を手放そうとした時、ふと思った。
先程の、千歳から送られてきたメッセージの意味。
『今日空いてろ』
ここには、もしかしたら『どうか一樹の今日の予定が空いていますように』という、千歳の願望が表れていたのではないかと。
「……ふふっ」
両の手でスマホを握り締めながらこの願いを打ち込んだ可愛らしい幼馴染の姿を想像すると、何だか朝から心温まる気分になり、思わず緩んだ笑いが込み上げてくる。
そうして満たされた気持ちになりながら、睡魔にその身を委ねようとしていた僕の耳元で、これまた再びスマホが鳴った。
相手は同じ、千歳である。だがしかし、今度はLINEではなく電話表示だ。
寝転がったままで通話ボタンをプッシュし、耳にスマホを当てると、
「ーーーおう千歳。さっきのは」
『今日空いてろ』
プツッと。
それだけ告げられ、通話時間コンマ数秒で一方的に電話を切られた。
一瞬聞こえてきた彼女の声は、完璧なる命令口調で、背筋が凍るほど冷たいもので。お願いしているような雰囲気なんて、そんな殊勝な感じなんて微塵もしなくて。
「……完全に目が覚めたわ」
睡魔も悪魔には勝てないらしい。
1番初めに思い至った可能性が、ドンピシャに嵌まった瞬間だった。
*****
ーーーぞっとする電話から小1時間後、僕と悪魔ーーーもとい千歳は最寄り駅までの道程を並んで歩いていた。
「……それにしても千歳、お前誘い方が下手すぎるだろ」
先のやり取りを思い出して辟易しながらそう溢す僕に対し、千歳の反応は飄々としたものだった。
「下手も何も、私はただ今日あなたに予定があるのかどうか聞いただけなのだけれど」
「あのな千歳、普通はああいう時は『今日予定ある?』だとか『今日暇?』とか訊くもんなんだよ。何で相手に確認する前にお前が強制してんだよ」
「そもそもあなたに予定なんてあるわけがないのだから、そんなの聞くだけ無駄じゃない。フリック入力であまり私の指を煩わせないでもらえるかしら」
「どんだけ弱いんだよ、お前のその指」
そりゃあまぁ、細くしなやかに伸び、夏なのに日焼けの跡もなく白く透き通った指は、弱々しさというか儚さを醸し出していて、ピアノとか弾いていればさぞ絵になりそうなものだが。
ここまで言うと、何だか僕が重度に女性の手に対してフェティシズムを感じる奴に思われるかもしれないが、そんなことはない。
僕は絵画の手で興奮したりしない。
「予定がないってところは否定しないのね」
千歳はくすくす笑いながら小馬鹿にするように言ってきた。若干イラッとしたが、まぁ本当のことなので文句は言えない。
「だからって朝っぱらから謎の命令で眠りを邪魔された僕の気持ちも考えて欲しいな……」
「あら、私の命令には絶対服従、なんじゃなかった?」
「……そんなこともありましたね」
唇に指を当てて可愛らしくウィンクする千歳。
そんな姿を見せられては、幼馴染という間柄ではあるが一応男の子であるところの僕はそう言うしかないわけで。
普段笑うことが少ない分、たまに見せるこいつの微笑みは反則級なのである。
マウントを取った時のみ笑う女とかサディスティック過ぎて若干引くけれど。
……それにしても、ゲームの一件での罰ゲームってまだ有効なのかー。僕の中では第6話で終わったことになっていたんだが。何かこう、ほら、ギャグ漫画的な、次の回では前回の件が綺麗さっぱり清算されてる、みたいな。アレだ、オムニバス形式ってやつだ。多分使い方間違ってるけど。
オムニバス小説。
おぉ、何か高尚っぽい。
なんて中身のないアホなことを考えているうちに、僕ら2人は駅に到着していた。
「……なぁ千歳。今更なんだが、僕らって今どこに向かってんの?」
改札口を通りながら、前を行く千歳に声を掛けた。
すると、千歳は呆れたため息をつき、
「あなた、家を出る前、私の話を聞いてなかったの?」
「いや、聞いてたは聞いてたけど、よく覚えてないというか」
記憶を探っても思い当たる節がない僕を冷たい目で見据え、千歳は腕を組んだ。
「いい?
わざわざ聖徳太子ではなく厩戸王と言ってくるあたりに、こいつの僕に対する過小評価が滲み出ていた。
それくらい知ってるっつーの。
まぁ、そもそも聖徳太子は存在しなかったなんて説もあったような気がするけれど。
「というか、僕はそもそもお前1人の話すらちゃんと聞いてなかったんだから、その引用成立してないぞ」
「やっぱり聞いてなかったんじゃない」
しまった、墓穴をーーーボケを掘った。主に頭の。
「はぁ……まぁ別にいいけれど。今日はオープンキャンパスに行くのよ」
「おーぷんきゃんぱす?」
呆れながら今日の外出の目的を教えてくれたが、僕にはいまいちピンとこなかった。
あくまで予想だが、イントネーション的に今の台詞、平仮名で表記されてそう。
「何でまた急に……」
「急も何も、今日しかやってないんだから仕方ないじゃない。何か不満?」
若干無理矢理連れ出した感が否めないのは自覚しているのか、千歳は珍しく恐る恐るといった感じで聞いてきた。
「いや別に不満ではないんだが、何つーか、僕ってあんまりそういうのに興味がないからさ」
「それでも、なるべく早い内に1度は行っておいた方が良いと思うけれど。行くことで興味が湧いてくることもあるだろうし」
うーん、そういうもんなのかねぇ。
「今時、高校生で自分から行く人なんて少数だと思うけどなぁ」
「いや、高校生だからこそ、むしろ高校生しか行かないでしょう」
へぇ、今の高校生って結構大人びてるんだなぁ。
僕みたいな人間には、オープンキャンパスって、それこそ高尚で、こうやって気楽に無計画に行くものには思えないけれど。
それとも、最近は女子の間でそれが流行っているのだろうか。
こいつ友達いないくせに、だからといって流行に疎いわけではないからな。何処から情報を仕入れているのかは知らないが。
土曜の電車内はそれなりに混雑していて、仕方なく僕たちはドアの前でつり革につかまる。
電車に揺られ、流れゆく景色をぼーっと眺めながら、僕はふと思ったことを口にした。
「……それにしても、一応勉強会がメインのはずなのに、こうやって出かけたり遊んだりしていて良いんだろうか、僕たちは」
最後に勉強会の体で勉強してたのって、もう結構前のことのような気がする。何だか本筋から逸脱している感が否めない。
「オーキャンも勉強に含めていいんじゃないかしら。一応自分の進路のことなんだし」
そんな僕の心配を振り払うかのように、千歳も目の前の景色を見たままでそんなことを言ってきた。
「まぁ、確かに高校でも推奨してることだしな。といっても、3年生からはあんまり意味ないけど」
「……? いや、むしろ3年生になってからがより重要だと思うけれど」
「そうか?」
あー、まぁさっき千歳が言った通り、それで進路を決めることもあるだろうし、一概に意味がないとは言えないか。
そんな会話をしている内に、僕たちが乗る電車は1駅目に到着した。今日の目的地まではあと2駅くらいあったはずなので、暇を潰そうと電車内の広告に目をやっていた僕だったのだが。
ーーーどういうわけか、隣に立っている千歳が降りる準備を始めていた。
「おい千歳。降りる所ここじゃないだろ。まさか場所知らないのか?」
その様子を訝しく思い、首を巡らせて千歳に声を掛けた。すると、千歳は胡乱げな視線を僕に向け、
「まさかとは思うけれど、あなた、これから行く場所が何処かちゃんとわかってる?」
そう言う千歳の眼光には、凄みの他に微量の恐怖が混じっていた。それが何に由来するものなのかはよくわからなかったが、僕は答えた。
「ーーーは? 何処って、美術館だろ?」
*****
ーーーー衝撃的だったらしい僕の発言を聞いた後の千歳はというと、僕への罵詈雑言が湯水のように溢れかえる有様だった。
それらを全て記録すると、『千ノ宮千歳の罵倒用語ディクショナリー』とか、そんな感じで書籍化できてしまいそうな程だったので、ここでは割愛させていただく。
それはさておき、僕のこと。
僕のここまでの思考回路をここでは紹介しようと思う。
いやまぁ、勘が良い聡明な人たちなら既にお気づきかとは思うが、というか先のやり取りの段階で僕らの食い違いにとっくに気づいていた可能性も大いにあるのだろうが、それでも僕は言わねばなるまい。
僕の名誉のためにも。言わねばなるまい。
そんなわけで、オープンキャンパス。
僕はこれを、高校生なら誰もが耳にしたことがあるであろうこの単語を、あろうことか美術展覧会と勘違いしていたのである。
美術用語で、油絵やアクリル絵を描く時に用いられる支持体をキャンパスというのは誰でも知っていることだろう。
それをオープンする、つまり大々的に発表するから、オープンキャンパス。
いや、何も僕はオープンキャンパスってワードを聞くのが今日が初めてだったわけではない。これでも高校生である身だ、日常生活の中でクラスメイトが夏休み前の教室で口にしていたし、思い返してみれば担任教師も、『2年生の内に積極的に参加しておくように』なんて言っていたような記憶がないでもない。
ないのだが、しかし僕はそのどれもを芸術美術関連のイベントだと勝手に解釈していたというわけだ。
ドアホな僕を散々詰った後でようやく冷静になった千歳にこの辺の話をかいつまんでしてやると、
「そもそも美術用語の方はキャンパスじゃなくてキャンバスだけどね」
なんて一言でものの見事に一蹴してくれたのだった。
勘違いの勘違い。
僕は全くの無知だということを思い知らされてしまった。
無知の知ならぬ無知の無知。……救えないなぁ。
いやでも、更にややこしくなる前にすれ違いを修正できたのは不幸中の幸いと言うべきだろう。
あのまま続いていたら、『へぇー、千歳に美術館に行く趣味があったなんて意外だなぁ。こいつも芸術が理解できるやつなのかすごいなぁ』なんて風に、いけ好かない幼馴染を余計に褒めてただろうからね、僕。
そんなこんながあり、僕らは駅を出て、本来の目的地ーーーー地元の国立大学に到着した。
なるほど、正門には『○△大学オープンキャンパス会場』と書かれた看板が立っている。
「なるほどな……大学の
駅からここまでの道すがら、オープンキャンパスが本当はどういうものなのか千歳から教えられていた僕は、それでも半信半疑だったのだが、ここでようやく納得を得た。
「納得も何も、そもそも高校生なら知ってて当たり前のことなのだけれど」
「まぁまぁ、ここは僕の知識がまた1つ増えたということで……すいません」
僕よりも身長が若干高い千歳が、屈んでこっちを上目遣いで思いっきり睨みつけてきたので、反射的に謝ってしまった。
おい、女子の上目遣いってもっとドキドキするもんなんじゃねぇの? 『殺られる!』的な意味ではドキドキしてるけど。
「と、とにかく、早く大学入ろうぜ。ここに来るだけの件で5000字以上使ってるし、いい加減にしないとブラウザバックされちまう」
「一体何に対して心配しているのかわからないけれど、そうしましょうか。……それと、一樹」
「ん? どした?」
正門付近で配られているチラシを受け取っていた僕は、千歳のその呼びかけに振り返った。
「……これからは、知らないことがあったらちゃんと私に訊きなさいよね」
そう言う千歳は結構本気で僕の、というより僕の頭を案じている様子だったので、僕は安心させるように笑いかけ、自分の胸を叩いた。
「……あぁ、しかと刻んだぜ。この心のキャンバスにな!」
「………」
……シカトで僕の心を切り刻むのはやめてください千歳さん。
チラシを配っている大学生と思しきお姉さんたちの呆けた視線が、僕の心を倍増しで摩耗させていた。
*****
ーーーオープンキャンパスは約1時間前には既に始まっていたようで、キャンパス内は僕たちと同じ高校生や、サークル活動に勤しんでいたり、その他案内役を務めている大学生たちでごった返していた。
その様子は、さながら祭りのようである。
「オーキャンってこんな血気……じゃなくて、活気盛んなイベントだったんだなぁ」
普段家から出ることのない僕は早々に人の多さに酔っており、ふらふらふらつきながら歩いていた。
人が多いという理由だけでショッピングモールに行くのも億劫に感じてしまう僕である。
そしてそれは隣を歩く千歳も例外ではなく、未だ収まることのない夏の暑さも相まって、何というか、僕よりもきつそうだった。
「……それにしても、大学のキャンパスって結構広いんだなぁ。それにこの人の多さだ。下手したら迷子になるぞ」
「そうね。一樹、はぐれないように私の服の裾を掴むことを許可するわ。絶対に手は握らないでね。というか触れないでね」
「優しいのか優しくないのかわかんねぇよ」
服の裾って。掴むというより、摘む方が正しいだろ、それ。
高校生同士が迷子にならないためにお互い手を繋ぐというのもなかなかどうして滑稽な絵面なので、そんなのはこちらから願い下げだった。
正門を入ってすぐの開けた場所で2人してきょろきょろと視線を彷徨わす。何だか生まれて初めて東京に来た田舎者みたいだった。ここ、ばちこり地元なんですけれど。
そうして360度首を巡らせた千歳は感心した風に嘆息し、
「本当に大学って広いわね。東京ドーム何個分あるのかしら」
「いや、流石に東京ドーム単位で測れるほど大きくはないと思うぞ」
東京ドームが具体的にどのくらいの大きさなのかは知らないし、何なら東京ドームの外観すら知らないので、真偽の程は定かではないが。
皆が皆東京ドームを知っていると思うなよ。
「というか、いい加減ここから動こうぜ。入ってくる人の邪魔になる」
「え? 両手万歳して叫ばなくていいの?」
「お前はアキバに行ってろ」
何処で知ったんだそのネタ。
だからここ思いっきり地元だっつーの。
「じゃああなたは1人で美術館に行ってなさい」
それを言われると弱い。僕の黒歴史確定である。
「……と、とりあえず、何処に行こうか。何か色々やってるっぽいんだけど」
移動しながら、入る前にもらったチラシ類の中にあったパンフレットを広げ、僕は千歳に提案する。
そこには、キャンパスの地図はもちろんのこと、説明会や相談会、その他学生主体による企画、さらにはサークルのパフォーマンスや学食のあれこれまでもが記載されていた。
2人でパンフレットを見ながら思案していると、近くで一際大きい歓声が上がった。
「な、何だ?」
そちらを向くと、1つのテントの周りを大勢の高校生たちが取り囲んでいた。
「ちょっとあそこ行ってみようぜ、千歳」
隣の千歳に声を掛け、僕らはその人混みの中に入っていった。
「ーーー『マジックサークル』ね……」
テント脇に立て掛けられている看板を見た千歳がそう呟いた。
「どうやら手品のサークルみたいだな」
そこでは、3人の大学生がそれぞれ椅子に座りながら、目の前に腰掛けた高校生に手品を披露していた。
それぞれ、コインを使ったマジック、トランプを使ったマジック、そして何かよくわからん道具を使ったマジックだ。
なるほど、これがさっき見たパンフレットに載っていた、サークルパフォーマンスってやつか。
「へぇー、何か面白そうだし、僕らも間近で見ようぜ」
目の前でマジックを体験したい人たちはそれぞれ3つのレーンどれかに並ぶことになっているらしく、僕らは1番左、コインのマジックのレーンに並ぶことにした。
マジック自体はさほど時間はかからないようで、数分程度で僕たちの番が回ってきた。
大学生のお兄さんに促され、僕たちはそれぞれ椅子に腰掛ける。
それから、このコインはどーたらこーたらと手短な説明を受け、お兄さんが右の掌に乗せていたコインを握り締めた途端ーーーー、
「ーーーえ!?」
次の瞬間、お兄さんが両手を開いた瞬間、そのコインは右手から消え、左の掌に出現していた。
いや、出現というか、これは移動したと言うべきか。
「どうなってんだ……?」
渡されたコインを確かめてみるが、確かに手品の前に見せられたコインと同じものだ。
それからお兄さんは、同じ手際で、今度は左手から右手にコインを移動させた。2回同じ手品を見せられたが、僕は魅せられただけで、どうなっているのか全く想像することができなかった。
「おい見たか千歳、すげぇな……」
興奮のままに隣に座る千歳に目を向けると、千歳は顎に手をやり、何かブツブツと独り言を呟きながら、お兄さんが手に持つコインを注視していた。
……何やってんだこいつ。
やがて千歳は、まるで『あー、なるほどそういうことね。わかったわかった』とでも言いたげにぽんっと手を打つと、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて僕の方を向いた。
……あっ、この笑顔はまずい。
「ねぇ一樹、これってタネや仕掛けがわかったら大声で、周りの皆に聞こえるように暴露してもいいってルールだったわよね?」
「いや全く全然これっぽっちも違うし、頼むからやめてさしあげろ」
「なら、そのコインを使って私も今から同じことをやってもいいのかしら」
「お願いだからやめてさしあげろ」
眼前で引きつった笑みを浮かべたまま固まってしまったお兄さんに丁寧に謝罪し、器用で聡明な幼馴染の手を引いて、僕はすたこらさっさとその場を後にした。
*****
「ーーー千歳ちゃんよ、無闇矢鱈に他人を傷つけるのはやめようね。……それと、後でさっきの手品のタネ教えて」
手品サークルのテントから足早に去った僕たちは、キャンパス内にある噴水の前に腰を下ろし、一時の休憩を取っていた。
苦いものを食べたような、そんな渋い顔で苦言を呈する僕。だがしかし、
「別に傷つけるつもりはなかったのだけれど……」
なんて千歳は言うもんだから取り付く島もない。
優秀な人間は、通常運転をしているだけで無自覚に周りの人間を貶めるんだからタチが悪い。
限りなく悪い意味でKYな千歳に、深々とため息を吐く僕だった。
「……さて、休憩も済んだことだし、次のとこ回ろうぜ」
勢いをつけて立ち上がると同時、活動再開を提案すると、千歳は「あっ」っと手を挙げることでそれを制する。
「ちょっと待って一樹。私、次はここに行きたいのだけれど」
そう言う千歳がパンフレットで指し示したのは、
「ーーーげっ」
僕が見て見ぬ振りをしていたページ。
『模擬授業』の欄だった。
*****
ーーー学生の本分は勉強である。
学生諸君であれば1度は耳にしたことのある格言というか、校長先生のお言葉だと思うが、大学に進学しようとこの例から漏れることはない。
大学生という名が示す通り、教室という箱庭から解放され、生活の自由度が格段に高くなる大学生もまだまだ学生の身分であり、勉強は背中どころか身体中に付いてーーー憑いて回るのである。
……まぁ、お世辞にも成績が良いとは言えないこの僕が、この事実に対してマイナスの感想を持っていることは至極当然のことで、今日のオープンキャンパス、パンフレットを見た時点で、模擬授業には行くまいと決めていたのだが。
だがしかし、せっかく千歳から誘ってくれたのだし、千歳もこれを結構楽しみにしていたようなので、僕の一存で拒否するのは何だか申し訳ない気持ちになり、2人で模擬授業を受けるべく講義棟という場所に向かった。
千歳だけに限らず、高校生にとって大学の授業というのは結構気になるものであるらしい。
千歳の要望で僕らが受けに行った授業は、かなりの高校生がおり、講義室内はすし詰め状態だった。
運良く僕らが入った段階で予約なしの当日参加勢の列が締め切られ、余っていた後方の席に座ると、程なくしてこの授業を担当する教授が室内に入ってきた。
プロジェクターを起動し、授業が始まると、右隣に座る千歳が静かに、でも確かに興奮していくのが感じられた。
……頭の良い奴の考えることはよくわからん。
わからないのだが。
まぁこの歳になってこの例えは如何なものかと思うけれど、新しいおもちゃを目の前にした子供のような目をしている幼馴染の様子を見て、
「……じゃま、僕も今日くらいは頑張りましょうかね」
聞かれていたら突っ込まれること間違いなしの呟きを、口の中だけでしたのだった。
ーーーーそれから、どれだけの時間が経っただろうか。30分か、1時間か、でもどうだろう、もう2時間くらいは経っている気がする。
その辺は確証が持てないので後で時計を確認するとして、確証が持てていることからお伝えすると、模擬授業は既に終了し、次の授業を希望する者たちが続々と集まってきていた。
ぼやけた頭が1秒1秒時が進むにつれて次第に覚醒していき、眼前の光景をそんな具合に理解していく。
…………ぼやけた頭?
ボケた頭はいつものことなのでまぁ良いとして(良くない)、このぼやけた頭は一体……それに、何故だか瞼が異様に重たい気がする。
自分の身に起こった異変をしばらく吟味した後、僕は「あぁ」と、納得の吐息をこぼした。
「そうかーーーー眠ってしまったのか、僕は」
「たかが『授業中に寝た』ことの描写にどれだけ時間と労力をかけるのよ」
極めて冷静かつ冷淡な突っ込みが、眠りから覚めて感覚を取り戻した僕の耳に届いた。
視線を横に向けると、これまた声音と同じ表情をした千歳がいる。
「やっぱりというか案の定というか、もういっそ清々しいくらいに爆睡だったな、我ながら良い睡眠っぷりだ」
開き直って自画自賛。痛々しいことこの上ない。
「……まさか、あなた講義の内容1つも聞いてなかったなんて言わないでしょうね?」
……図星。
ドンピシャの指摘に一瞬狼狽えた僕だったが、でも待てよ? 授業中の睡眠で授業内容がすっからかんになるなんて、学生にとっては結構なあるあるだと僕は思います!
今風に言うと、『睡眠中に授業するな』ってやつである。違うか? 違うな。
なおも眼光を緩めない千歳に、僕は必死に言葉を紡いだ。
「いやさ、多分アレだよ。あの教授、スライドの中に要所要所、めちゃめちゃ気持ち良さそうに眠る子猫の画像とか挟んでたんだよ」
サブリミナル効果である。
ある画像や映像の中に瞬間的に別の、メッセージ性のある画像を挟み込むことによって、人間の潜在意識に働きかけるとかなんとか。
つまり僕のこの居眠りは人為的に生み出されたものであ
「なわけないでしょう」
「地の文の途中で突っ込むなよ」
それほど馬鹿な発言だったってことだが。
でもさ、プロジェクターを使うことで必然的に室内は暗くなるわけだから、先により良い睡眠環境を整えてくれたのはあちら側とも言える。
効率を求めた結果居眠りを誘発してしまうパラドックス。
状況が揃えば、教授の講義も何だか子守唄に聞こえてきてしまうから不思議だ。
そこのところは千歳もわかっていて言っていたようで、諦め混じりに嘆息した。
「はぁ……まぁ、あなたが真剣に聞くとは思っていなかったから別にいいけれど。でも一樹、今からそんなで、いざ大学に入ったらやっていけるの?」
「いや、形態は違うだろうけど授業は授業だろ? そんなに急激に変わるってわけでもあるまいし……」
中身は覚えていないので何とも言えないが、さっき時計を確認したところ、時間自体は高校の時と同じ50分だったし、そう急いで意識改革する必要もあるまい。
ーーーーと、思っていたのだが。
この時の僕は、大学という組織に対してあまりにも無知だった。
まぁ精々内容がより専門的に、深く密になるくらいだろうという浅い考えだった。
いや、確かにそれはそれで本当のことで、結構大事なことなんだろうけれど、しかしもっと基本的なことを僕は知らなかったのだ。
ーーーー僕のような人間にとっては真っ先に知っておくべき、心構えをしておくべきことを。
千歳は言った。
「あのね、一樹。今日は模擬授業だから50分で終了だったけれどーーーー大学の授業って、本来は90分やるものなのよ」
「ーーー。ーーーー。ーーーーーえ?」
震える数字が、僕の鼓膜を震わせた。
それから、数分前にせっかく覚醒した意識が、遠のいていくのを切に感じたのだった。
*****
その後、講義室を出た僕たちは、説明会やその他企画に参加しつつ、さっきやっていたマジックサークル以外にもその日に活動していたいくつかの団体を巡り、日程終了のアナウンスと共に正門から構外に出た。
それは帰路の途中、参加者へのプレゼントとして大学生からいただいたペットボトルのジュースを口に運びながらのことである。
「……で、一樹。オープンキャンパスはどうだった?」
千歳が、いくらか上機嫌な様子でそんなことを訊いてきた。そこには微量の皮肉が込められていたようだが、
「……いやまぁ、普通に楽しかったよ」
と、僕は反応することなく普通に答えた。
「そう」
千歳もそう短く答え、そこで会話は途切れた。
楽しんだ。精一杯楽しんだ。我を忘れるくらい楽しんだ。ーーーー現実から逃げ、避けるくらい楽しんだ。
いや、楽しかったのは嘘偽りない本音だ。今日までは目の前の成績に追われていてあまり真剣に考えてはこなかったのだが、今日ここに来てみて、実際、大学に入るのが楽しみになった気持ちもあるにはある。
だがまぁ。
知ってしまった気が遠のく程の事実を、何とか別の何かに熱中することで紛らわそうとしていた気がするのもまた事実でーーーーー終わりが近づくにつれて、終焉を迎えるにつれて、否が応でも意識せざるを得なくなる。
「……何か、くだらないことでも考えてる?」
普段からずけずけとものを言うタイプの千歳にしては珍しく、遠慮がちに訊いてきた。
くだらないこと、と表現するところが如何にもこいつらしい。
だから、僕も素直に答えることができた。
「……いや、今の僕は、高校の授業ですら手一杯頭一杯なんだよなって……」
だってのに、今日大学における学問という分野を、その高校までとの圧倒的な違いを知ってしまったことで、何だか怖気付いてしまった。
普段あまり悩むことがない僕なのだが、この時ばかりは結構本気で悩んでいた。ここに来る前、駅で千歳がオーキャンに行くことで見えてくるものがあるとか何とか言っていたような気がするが……なるほど。それはつまり、こういうことを言っていたのか。
これからのこと、この先のことを意識するだけではなくーーーー今のこと、現在のこと。現時点での自分のことを、自覚する。
「……まぁ、私は何もそこまで深刻に悩んでもらうためにあなたを連れ出したわけではないのだけれど」
何かシリアスな展開になっているところ申し訳ない、という風に千歳は言った。
そして、それに、と付け足す。
「それにーーーーそのために、私がいるのだし」
それは、下手したら聞き逃してしまいそうなくらい小さな呟きだったが、僕は聞き逃さなかった。
「ーーーあ」
そこで僕は、僕にしては珍しく、脳内に電撃が走ったかのごとく、はたと気づいた。
そうかーーーーそうだったのか。
なぜ千歳が今日、僕をこのイベントに誘ったのか。
思い出したーーーーあの時は直前の酷い勘違いのせいで気がつかなかったが、今日行ったあの大学ーーーーあれは確か、千歳が志望している大学だった。
それはつまりーーーー、
「……? 何?」
自分をまじまじと見つめる僕を訝しみ、千歳が言ってくるが、僕はそれにかぶりを振った。
「……いや、何でもない」
本当は何でもあるのだが。
まぁ言ったところでこの幼馴染は決して素直に認めようとはしないだろうし、それなら別に今ここで明かす必要はない。
ただ、一言。決意を口にする。
「僕も大学入るために、頑張らないとな……とりあえずは、休み明けのテストに向けて」
そうーーーー今のこと、である。
そして、約8ヶ月後。この先。
あのキャンパスに共に通うために、受験をパスできるように。
ーーーー1度心に決めれば、後の行動は早い。
すると、それを聞いた千歳はふっと微笑み。
「そうねーーーでは、明日からは1日中みっちり、これまで以上に厳しく勉強を見てあげるから」
「悪いけどそれはパスで」
なんていつも通り、適当な会話を
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