22話.予兆

 数十匹以上の火鼠……それが何を意味しているのか、優は早速理解した。


「詩織!」


 戦いは数だ。数十匹の火鼠が火の玉の雨を降らせたら、優はもちろん詩織すら対抗できない。


「俺の背中に乗れ!」


 優は詩織の返答を待たずに、人狼の巨大な手で彼女の肩を掴んで自分の背中に乗せる。


「しっかり捕まっていろ!」


 詩織を乗せたまま、優は山道を走り出した。しかし全力で走っても、火鼠の群れの気配はむしろどんどん近くなっていく。


「優さん、止まってください!」


 頭の上から詩織の声に聞こえてきて、優はその場に立ち止まった。すると詩織が優の背中から降りる。


「このまま走っても逃げ切れません」

「じゃ、どうするんだ!?」

「……ちょっと大きな術を使います。だから……少し時間を稼いでください」


 詩織が珍しく心配そうな顔でそう言った。火鼠の群れを相手に1人で時間を稼ぐ……危険極まりない役目だ。


「分かった、やってみる!」


 しかし優は迷いなく火鼠の群れに向かって走った。そして数秒後、優の目の前が眩しいほど明るくなる。ざっと見て30匹くらいの火鼠が、明らかな殺意を持ってこっちに向かってきているのだ。

 そして優の姿を確認した火鼠の群れは、一斉に火の玉を飛ばす。それはまるで爆撃でも始まったかのような光景だった。轟音と共に木々が倒れ、周りが一瞬で更地と化す。

 優は全力で体を動かしてその爆撃の矛先を回避する。幸いここは洞窟の内部ではない。十分に空間を活用できる。

 しかしいくら人狼が素早くても、2メートル以上の巨体が雨のように飛んでくる火の玉を全部回避するのは不可能だ。数十秒後、数発の火の玉が優の体に当たる。


「うっ!」


 優は防御術はもちろん、精霊術まで使って衝撃に耐える。しかしその必死の抵抗すら十数秒で限界を向ける。


「くっそ……」


 ダメージで優の足が遅くなると、更に多くの火の玉が優に当たる。それで足が更に遅くなる。こうなったらもう何もかも終わりだ。

 体が裂けるような激痛の中で、優は詩織のことを心配した。どうにかあいつはだけは生き延びて欲しい。俺はここで死んでもいいから、どうにかあいつだけは……!

 いきなり目の前が真っ白くなる。しかしそれは死の訪れではない。火の玉なんかは比べものにならないほどの凄まじい轟音と共に、優を狙っていた火鼠たちが灰と化す。


「優さん!」


 後ろから聞こえてきた詩織の声で、優は状況を把握する。空から雷が落ちてきたのだ。


「招雷!」


 電撃を全身に纏った詩織が右手を振る。すると何もない虚空から凄まじい雷が落ちてきて、火鼠たちを焼き尽くす。火鼠は電撃術に耐性を持っているけど、雷の威力はそんな耐性くらいで耐えられるものではない。

 もう数匹しか残っていない火鼠たちは、恐怖に染まって逃げ出す。しかしそんな魔物たちに3発目の雷が落ちて、1匹も残さず全滅させる。

 火鼠が消えると火鼠によってついた火もまた消えて、周りが一気に暗くて静かになる。


「優さん!」


 詩織が急いで優に近寄った。優は人間の姿に戻って地面に倒れていた。


「大丈夫ですか!?」

「ああ、心配するな。ただのかすり傷だ」

「何言っているんですか? ふざけないでください!」

「一度言ってみたかったんだ」


 優の体はもう回復を始めていた。あっちこっちに傷が残っているけど、それも急速に消えていく。驚異的な人狼の回復力に詩織は内心驚いた。


「それより、お前こそ大丈夫か? あんな術を使って……反動激しいだろう」

「心配する必要はありません」


 冷静を取り戻した詩織は冷たく答えたけど、言葉とは裏腹に彼女の顔色は悪い。相当無理をしたに違いなく、もう体を動くことすら厳しいだろう。

 優は地面から立ち上がって服の砂を払った後、詩織に背中を向ける。


「背中に乗れ、背負ってやるから」

「嫌です」

「意地張っている場合かよ。それにさっきも乗ったじゃないか」


 詩織はちょっとためらったけど、結局優の背中に乗る。余計に意地を張ればもっと迷惑をかけることになると判断したのだ。


「……優さんは本当に大丈夫ですか?」

「まだあっちこっち痛いけど問題ない」


 確かに優の体から感じられる術力は衰弱していない。この2ヶ月で結構強くなったんだ……と詩織はちょっと複雑な気持ちで考えた。


「それにしてもお前、軽すぎるぞ。もっと食べろよ、本当」

「余計なお世話です」


 そのやりとりを最後に、二人は沈黙の中で山道を降りた。


---


 次の日、優は午後までゆっくりと休んだ。詩織の前ではちょっと強がったけど、流石に一晩で全快するほどの軽い疲労ではなかったのだ。

 詩織からの連絡はなかった。たぶん彼女もゆっくり休んでいるんだろう。

 いや、もしかしたら詩織は今日の授業も休むかもしれない。あんな大きな術を使ったんだから、何日か休んでもおかしくない。

 ちょっと心配になって、詩織に『お前大丈夫か?』とメールをしてみた。すると『大丈夫です』と返事がきた。しかし大丈夫じゃなくても大丈夫だと答えるやつだから信じられない……と優は思った。

 午後4時を過ぎると、優はいつも通りアカデミーの教室に入って瑞穂と健の隣に座った。


「真田君、何か心配ことでもあるの?」


 ふと瑞穂にそう聞かれて、優は慌てる。


「いや……そんなことないよ」


 詩織のことが心配だ。術力の反動は精神力とか気合でどうにかなるものではない。無理矢理体を動かすと命まで危なくなる。


「先生」


 瑞穂の声に優は後ろを振り向く。そこには教室に入ってくる詩織の姿があった。

 詩織は明らかに疲れている様子だ。しかし教壇に向かう彼女の足取りには揺るぎがない。


「授業を始める前に、皆さんに伝えておきたいことがあります」


 詩織の声にも揺るぎがなかった。


「3日前から、魔物たちによる戦闘術者への襲撃事件が発生しています」


 その説明に生徒たちがざわめく。


「アカデミーの調査班と研究員たちが事件の経緯を調べたところ、どうやら魔物たちのコミュニティーが組織的に術者たちを狙っているようです」


 優が心の中で同意した。昨日の戦いで火鼠たちが見せたくれた動きは、どう考えても組織的かつ計画的だった。

 1匹が囮になって、術者たちを洞窟の内部に誘い込む。そしてその間に数十匹の群れが接近して襲撃する。簡単だけど効率的な戦術だ。もし詩織が洞窟の外で見張りをしていなかったら、優も詩織もその場で命を落としたに違いない。


「しかも術者を襲撃した魔物の中では、あまり攻撃性が高くないと知られていた魔物も含まれています。この事実から、調査班は魔物たちの攻撃性が全般的に上昇した可能性があると推測しています」


 魔物たちの危険度の測る時は、戦闘力の高低、そして攻撃性の高低を考慮する。人間に対して高い攻撃性を見せる魔物は優先して消滅させる必要があるからだ。

 しかし本当に魔物たちの攻撃性が全般的に上昇したとすると……民間人の被害が出る可能性も高くなったということになる。


「……これが一時的な現象なのか、それとも恒久的な変化なのかはまだ分かりません。しかしどんな状況下でも人々の盾となって戦うのが戦闘術者です。皆さんもそのことを心掛けてください」


 生徒たちの顔に緊張が走る。


「では授業を始めます」


 詩織はいつも通りの声で授業を宣言した。


---


 授業の後、優は友達と共にアカデミーのレストランで食事を始めた。いつもなら楽しい夕食の時間のはずだが……その日は瑞穂すらあまり食欲がない様子だ。


「私、考えてみたんだけど……」


 ふとスプーンを手放して、瑞穂が話し出す。


「魔物たちの攻撃性が高くなったってことは……人々が魔物に襲われる可能性も高くなったってことでしょう? それ……本当に大変だよね」

「ああ、そうだな」


 優が頷く。


「ふん、こうなって当然だよ」


 そう言ったのは猫のコマちゃんだった。


「お前たちは魔物を容赦なく消滅させてきた。だから魔物が反撃を開始するのは当然な話だ」

「でも……それは人々を守るために……」

「へっ、綺麗事言うな。別に害のない魔物まで一緒くたにしたんだろうが。しかも私にまでこんなくだらない封印なんか付けやがって……」


 コマちゃんは前足で自分の首輪を触る。


「じゃ、コマちゃんは私たちがどうすればいいと思うの?」


 瑞穂がちょっと不満そうな顔で聞く。


「どうするもこうするもない。お前たちにできることは、頑張って目の前の敵と戦うことしかないからな。問題の根本的な解決なんて所詮誰にもできはしない」


 コマちゃんは冷笑しながら答えたけど、次の瞬間、何かを思い出したような顔で呟く。


「いや、もしかして……あの女を見つけ出したら……」

「ん? コマちゃん、何言ってるの?」

「……何でもない」

「何か知っているんなら教えて!」


 それから瑞穂がしつこく聞いたけど、コマちゃんは口を閉じたまま何も言わなかった。

 優はふと自分の中に不安が生じることを感じた。もしかしたら昨日の襲撃事件は、もっと大きな戦いの前触れなのかもしれない……そんな予感がしたからだ。

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