5章、夏の始まり

21話.噂

 真田優が日本術者統合アカデミーに通ってから、もう2ヶ月くらいの時間が経った。

 春は早くも終わって、もう夏に突入した。どんどん暑くなっている空気がその事実を教えてくれている。優は実家から送ってくれた夏用の服に着替えて、迫ってくる暑さに対抗した。

 幸いなことにアカデミーの内部は快適は温度を維持していた。優からみればちょっと冷房が強すぎるほどだ。


「早く夏休みが来ないかな……」


 瑞穂が机に伏せて呟く。もちろん彼女が夏休みを待っているのは暑いからではない。遊びたいだけだ。


「祭り……海……スイカ……」


 瑞穂は早く夏休みが来ないと死んでしまいそうな顔だ。優と健は苦笑しか出なかった。


「夏休みになると合宿に行かなければならない。遊んでばかりではないんだよ」

「うん、分かっている。でも……」


 健と瑞穂の会話を聞いていた優が首を傾げる。


「合宿……?」

「ああ、アカデミーの生徒たちは全員、8月の合宿に参加して集中訓練を受ける。毎年恒例だよ」

「全然知らなかった……」


 アカデミーに2ヶ月も通っているのに、優にはまだ知らないことが多い。おかげでいつも健から教えてもらっている。


「あ、先生」


 教室の扉が開いて、詩織が入ってきた。彼女もすっかり夏服だ。青くて可愛いワンピースがとても似合っていて、活気のある夏の少女に見える。しかし表情はいつも通りに冷たいから、何かちょっとアンバランスだ。


「では授業を始めます」


 季節と服装が変わっても詩織自体はそのままだ。生徒たちはそんな詩織の真面目な態度に感化され、季節感も忘れて授業に集中した。


---


 授業の後、友達と別れた優は一人で移動して、バーであり狩りの仲介所である『ルシードドリーム』に入った。


「いらっしゃいませ」

「俺だよ」


 このバーの暖かい雰囲気も季節とは関係ない。3月に初めて訪ねた時とまったく同じだ。たぶんバーテンダーのお気に入りなんだろう。


「今日はお前一人か。お嬢さんはどうした?」

「詩織は教師の仕事が残っているから、ちょっと遅れる」

「そうか」


 無表情のバーテンダーを見つめながら、優はちょっとためらった。しかし今こそが絶好のチャンスだ。逃すわけにはいかない。


「あ、あの……」

「何だ」


 やっぱり恥ずかしい。でも言わなければ……。


「……ありがとう」

「いきなり何言ってんだ」

「詩織から聞いたよ。あんたが俺のことを心配して、いろいろ配慮してくれたって。もうちょっと早くお礼を言いたかったけど……」

「さあな」


 バーテンダーは知らん顔で肩をすくめる。


「この辺で働いている戦闘術者の中でお前が一番弱いから、一番易しい仕事を回しただけだ。まさかそれを配慮だと思ったのか?」

「……どいつもこいつも素直じゃないな」

「そんなことよりお嬢さんに感謝しろ」


 確かにそれもそうだ。この2ヶ月の間、優は何度も強敵と戦った。しかし傍に詩織がいてくれたから無事に済んだ。一人だったら何度も無様に倒れたはずだ。

 それだけではない。優を無理矢理ルシードドリームに配属させた『見えない悪意』が、それ以上優に手を出さないのもたぶん詩織が傍にいてくれたおかげだ。


「……あいつもあんたと同じく、お礼を言っても嘲笑うだけだよ。まったく……ちょっと素直になればいいのに、詩織のやつ」

「私がどうかしたんですか?」


 後ろから冷たい声が聞こえた。驚いて振り向くともちろん詩織がこっちを睨んでいる。


「お前……ちょっと遅れるって言わなかった?」

「はい、だからちょっとだけ遅れました」

「早すぎるよ」


 詩織は優を無視してバーテンダーに近づく。


「優さんは放っておいて、さっさと仕事を始めましょう」

「いい心構えだ」


 バーテンダーが満足げに頷く。


「しかし注意した方がいい。ここんところ、ちょっと妙な噂が流れているんだ」

「妙な噂……ですか?」

「ああ、魔物たちが術者たちを逆に狩っているって噂だ」


 それを聞いた優が首を傾げながら口を挟む。


「魔物たちが……?」

「魔物たちにもちょっとしたコミュニティーみたいなものがあるんだ。それくらいはお前も知っているだろう?」

「ああ」


 知性のある魔物たちの中では、集団を作って暮らすやつらもいる。動物とか人間と同じだ。


「その魔物たちのコミュニティーのいくつが力を合わせて、組織的に術者たちを狙っている……そんな噂が流れているんだ」

「それが本当なら大変だけど……何か根拠でもあるのか?」

「いや、今の段階ではただの噂にすぎない。しかし現に襲撃された戦闘術者が数人いる。それでアカデミーの調査班が状況を調べているのも事実だ」

「なるほど」


 優はちらっと詩織の方を見た。しかし詩織もこの件については何も知らないようだ。


「噂の真相が明らかになるまでは、仕事を休むって宣言した術者もいるくらいだ。まあ、噂に惑わされるのはよくないけど……一応お前たちも注意した方がいい」

「分かった。なるべく慎重に行動するよ」


 優が答えると、バーテンダーと詩織が同時にふっと笑う。


「お前が慎重とか言ってもな」

「優さんには一番似合わない言葉ですね」


 くっそ、俺をそんな目で見るな……と優は心の中で叫んだ。


---


 簡単に夕食を済ませてから、優と詩織は東京郊外の山道を登った。時間はもう8時近くだから夏の熱い太陽も見えなくなっていた。


「今回の獲物は火鼠(ひねずみ)という魔物です。火鼠については授業で学びましたね」

「ああ」

「じゃ、簡単に説明してください」

「分かりましたよ、先生」


 優は授業で勉強したことを思い出して口にする。


「火鼠は中国から由来した魔物で、名前通り大きい鼠のような姿をしている。洞窟とか大きな岩の狭間に巣を作る習性を持ち、全身に火がついている特徴から鬼火と間違われることも多い。攻撃性は高くなく、むやみに近づきさえしなければ民間人が襲われることはない。戦闘では火の玉による攻撃が脅威だけど、耐久力が低いから一気に仕留めた方がいい。もちろん火炎術は通じなく、電撃術などにも耐性を持っている。氷結術もしくは物理的な攻撃が有効……といったところか」

「合格です」


 詩織がちょっと満足げな顔になる。


「意外ですね。でも教え甲斐があって満足です」

「意外って何だよ」


 優はちょっと不満げな顔になる。


「それにしても……電撃術に耐性を持っているってことは、お前にはちょっと不利な相手なんじゃない?」

「それはそうですね」

「でも俺がいるから安心しろ」


 優が冗談めいた言葉を口にすると、詩織は口元で笑いながら「まあ、頑張ってください」と答えた。

 それから二人は15分くらい歩いた。山の奥に進めば進むほど暗くなり、街の騒めきもどんどん聞こえなくなった。そしてその代わりに虫の鳴き声が強くなる。

 詩織は電気の球体を召喚した。すると青白い光が周りを照らして、視野が確保される。


「優さん」


 ふと詩織が口を開く。


「あの噂、どう思いますか?」

「噂って……魔物たちの襲撃の噂? さあな」


 優が肩をすくめた。判断を下そうとしても情報が少なすぎる。


「ただの噂かもしれないけど……あいつの言った通り一応気をつけた方がいいだろうな」

「同感です。この世界で生き残るためには、病的な用心深さとそれ以上の臆病さが必要ですから」

「……それ、何かとても有名な漫画の台詞じゃない?」

「はい、一度言ってみたかったんです」


 冷静な顔でそう言った詩織は、頭を下げて地面に手をつけた。すると地面の上に複雑な模様が浮かび上がる。いわゆる結界だ。

 詩織は封印術者ではないから、彼女の張った結界はあまり強くない。しかしそれでも結界は結界だ。もし魔物たちが現れてこの結界の近くを通ると、詩織はその動きを探知できる。


「できればプロの封印術者に頼みたいところですが……」


 詩織は山道の所々に結界を張りながら進んだ。そして更に10分後、二人は暗い洞窟の前に辿り着く。


「ここか……」


 洞窟の中から微かな魔物の気配が感じられる。獲物はこの中にいるに違いない。


「しかし狭いな」


 洞窟の入口は、人狼に変身した優がやっと通れるほどだ。ざっと見たところ内部もあまり広くない。これでは詩織と二人で進入して戦うのは難しい。


「俺が入る。お前はここで見張りをしてくれ」

「役割を逆にした方がいいと思いますが」

「何言ってんだ。火鼠はお前に不利な相手だろう?」

「不利なだけで勝てない相手ではありません。私は氷結術も少し使えますから」

「いや、俺が入る」


 優は人狼に変身し、不満そうな詩織を後ろにして洞窟に進入する。

 もちろん詩織の実力を疑っているわけではない。彼女は優自身よりずっと強い。だが万が一、詩織が不利な相手と戦って危ない目にあうかもしれない。優は人狼だからたとえ傷を負ってもすぐ回復できるけど、詩織はそうではない。だから危険な役目はなるべく俺が担う……と優は思った。

 洞窟の内部は同然ながら暗かった。しかし野獣の目と感覚を持っている人狼には関係ない。本当の問題は予想通り洞窟があまり広くないということだ。完全に身動きが取れないほどではないけど、相手の攻撃を左右に避けながら戦ったりすることはできない。

 3分くらい進んだ時、いきなり目の前が明るくなった。前方から発光体が現れたのだ。優は素早く戦闘態勢に入って、その発光体を睨んだ。全身に火がついた大きな鼠のような魔物……火鼠という名前そのままだ。

 優と火鼠の視線が交差した瞬間、火鼠の全身から火が放たれた。そしてその火はバスケットボールくらいの大きさの丸い塊となって、凄まじい速さで優に飛んできた。


「うっ!」


 優は防御術を使って火の玉を防ぐ。人狼の姿が精霊術以外の術を使うは相当効率の悪い行動だけど、この2ヶ月間の鍛錬で防御術の熟練度がかなり上がった。そのおかげで実戦でも防御術をある程度活用できるようになったのだ。

 火鼠の火の玉は高熱と物理的な衝撃力を持っていた。でもこの程度なら何とか耐えられる。防御を固めて、確実に仕留められる距離まで少しずつ進めば勝てる……と優は判断した。

 しかし火鼠は後ろに下がりながら、火の玉を連続で飛ばしてくる。


「くっそ!」


 その連続攻撃は相当な威力だった。やっと防ぎ切ったものの、優は思わず一歩後退った。火鼠は優が近づく隙を与えないつもりだ。それに、このままだといずれ火の玉を防ぎ切れなくなる。

 結局授業で学んだ通り、被害を覚悟してでも一気に仕留めるしかない。


「くっそが!」


 優は両手で頭を防御して、火の玉の直撃を食らいながらも突進する。熱と衝撃が激痛となって全身に広がったが、それでも止まらない。そして最後の火の玉が優の頭を強打すると同時に、人狼の爪が火鼠の全身を真っ二つに切り裂く。


「ふぅ……」


 火鼠の消滅を確認した優は、人間の姿に戻ってため息をついた。そんなに強い魔物ではなかったが、攻撃力だけは脅威だった。


「優さん!」


 いきなり詩織の声が聞こえてきた。洞窟の入口の方からだ。


「早く戻ってください!」


 詩織はいつもとは違う緊迫した声だった。何か異変が起きたに違いない。優は再び人狼に変身して、洞窟の入口に向かって走った。


「これは……」


 そして洞窟を出た時、優は異変の正体が分かった。ついさっき消滅させた火鼠と同じ気配の魔物が……数十匹以上こっちに近づいてきていた。

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