20話.信頼と責任
真田優は朝早くからアカデミーの空き教室で勉強を始めた。昨日と同じだ。
しかし昨日と同じく見えても、実は何もかも変わった。少なくとも優はそう感じている。
8年前から、優は自分から他人に近づくことを避けていた。どうせいつか捨てられるのなら、他人と深く交流する必要なんてない……そう思っていたのだ。しかし昨日の出来事で何もかも変わってしまった。
「おはようございます、優さん」
「あ、詩織。おはよう」
詩織が空き教室に入ってきた。そして彼女はまっすぐ優に近づく。
「……ん? 何だ、何か用でもあるのか?」
「はい、ちょっと話したいことがあります」
詩織は優の真正面に座って、優の顔を凝視しながら話を始める。
「実は……全部見ましたよ」
「何を?」
「昨日の夜、優さんのアパートに静原さんと樫山さんが訪ねたこと……そして3人が大事な会話をしたこと……全部見ました」
「……何!?」
優は驚いて目を大きく開く。
「お前がどうやって……まさか俺のことを監視していたのか!?」
「監視って……誤解されるような発言は止めてください。あれはただの偶然でしたよ」
「偶然?」
「はい。昨日優さんの様子がおかしかったから、ちょっとアパートに寄ってみたんです。それで偶然目撃してしまった……というわけです」
「……そうだったのか」
まさかあの時、詩織が近くにいたとは思ってもみなかった。しかもそれだと優が泣いていたところも全部見られたってことになる。優の顔が恥ずかしさで赤く染まった。
「でもまさかそんなことがあったとは……本当にすみません」
「は? 何でお前が謝るんだ?」
「優さんが静原さんのお父さんからそんなことを言われたのは、私が優さんをアカデミーに通わせたからなんでしょう?」
「いや、それは考えすぎだよ」
優が笑った。
「そんな風だと、俺が静原と樫山に出会ったのもお前のおかげだ。だから俺はお前のことをちっとも恨んでいない」
「……そう言ってくれると助かります」
詩織が小さく微笑んだ。
「話したいことってそれだけか?」
「いいえ。もう一つ、もっと大事な話があります。それは……優さんの仕事に関してです」
「俺の仕事?」
「はい、優さんは今年の3月からルシードドリームに配属されて働いているんですよね?」
「そうだけど。それに何か問題でもあるのか?」
「その配属、一見何の問題もないように見えるけど……実は問題だらけなんですよ」
詩織が冷静な顔で説明を続ける。
「ルシードドリームは東京の仲介所の中でもレベルの高いところです。新米の術者、しかもC+の術者がそこに配属されるなんて……統合会議の人事部がそんな判断を下すわけがありません」
「そんなのはただのミスだろう。その、何だ……行政のミスってやつ」
「いいえ……」
詩織が首を横に振る。
「人事部はそんなに馬鹿ではありませんよ。彼らは術者たちの実力を正確に把握して、適した場所に配属させてきました。そんな彼らが、危険な任務を遂行する戦闘術者の配属に関してくだらないミスをするわけがありません」
「じゃ、何で俺はルシードドリームに配属されたんだ?」
優が眉をひそめる。
「実はルシードドリームのバーテンダーさんも優さんの配属を疑問に思って、人事部はもちろん監察部にも何度も抗議しましたが……その抗議は全て黙殺されました。つまり優さんの配属には明らかに裏があるってことです」
優は驚いた。まさか水面下でそんなことが起きていたとは想像もしていなかった。
「その裏の正体が何なのか、私もそこまでは知りませんが……人事部を動かせるほどの影響力を持っている人に違いありません。そしてその人の狙いはおそらく……」
「……俺を追い出すためか」
「そう考えるのが妥当でしょう」
優の背筋に寒気が走る。
「新米の戦闘術者がレベルの高い場所で働き続けると、しくじって危険な目にあう可能性が高い……運が悪かったら死ぬこともあり得る。運よく死ななかったとしても、失敗を追及されて仕事を辞めることになるでしょう。つまり合法的な抹殺です」
「そんな……」
「どうやらルシードドリームのバーテンダーさんもそのことを察して、優さんにわざと易しい仕事を回したらしいですが……それでも優さんは何度も危険な目にあいました。完全に人事部の狙い通りですね」
しばらく沈黙が流れた。そしてその沈黙の中で、優は自分の愚かさを痛感した。見えない悪意が近くまで来て、自分の命を狙っていたのに全然気付かなかったのだ。
「これは私の推測ですが……」
詩織が沈黙を破る。
「私の父が私と優さんを婚約させたのは……そういった陰険な企みから優さんを守るためなんじゃないでしょうか」
確かに権力者の娘と結ばれたら、そう簡単には手出しできなくなるだろう。
「今までは黙って優さんの周りの様子を伺うつもりでしたが……昨日のようなことがまた起こるかもしれないし、これからは優さんと直接相談しながら対処した方がいいと判断しました」
「だから俺に真実を教えてくれたのか」
「はい。一層の事、私たちの婚約を公表して優さんを守るという選択肢も考えましたけど……」
「いや、それはいろいろと問題が……しかも逆に反感を買う可能性が高いだろう」
「私もそう思います」
優と詩織の婚約は、二人だけの問題ではない。もし真田一族と藤間一族の関係が悪化したらこの婚約は破棄されるだろう。そういう場合に備えるためにも、公表は慎重に行わなければならない。
しかも婚約を公表する場合、術者界で話題になって人々の反感を買ってしまう可能性も高い。優はただでさえ嫌われている人狼一族の後継者だ。話題になっていいことがあるはずがない。
優は視線を落として、いろいろと考えてみた。そして自分がどんなに井の中の蛙だったのか、それをもう一度自覚した。
「……ありがとうな、詩織」
「何がですか?」
「お前がいつも俺と一緒に行動していたのも、俺をアカデミーに通わせて鍛錬させたのも……全部俺を守るためだったんだな」
出会ったその日から詩織はなるべく優と一緒にいようとした。優はそんな詩織のことをちょっと面倒くさく思ったが、実はずっと彼女に守られていたのだ。深く感謝するべきだろう。
しかしせっかく真面目に感謝している優を見て、詩織はふっと笑い出す。
「お礼を言うのは優さんの勝手ですが、私はあくまで私自身のために行動しただけです。婚約者の貴方に何かあったら私も困りますから」
詩織の反応に優は苦笑をこらえきれなかった。
「まあ、そういうことにしておくよ」
今はそれでいい。二人の間にはまだ距離があるけど、少しずつ近づけば……いつかはどこかに辿り着けるだろうから。
---
昼食の後、優は詩織と一緒にアカデミーの実習室へ向かった。もちろん鍛錬のためだ。
もっと、もっと早く強くならなければならない。一族の呪いを解くためにも、周りの人々のためにも。しかし優がいくら強くなりたいと思っても、いきなり強くなるわけではない。今は日頃の鍛錬を重ねるしかない。
「あ……」
しかし実習室へ向かう途中、一階の階段で意外な人物と出くわす。
「あんたは……」
驚くほどの美男子、そして高級なスーツ……まるでファッションモデルのようなその男を優は見たことがある。詩織と一緒に鬼鳥を狩った夜、この男がいきなり現れたのだ。確か名前は……。
「……氷川修司」
優は警戒した。ついさっきまで気配すら感じられなかったのに、この男は何の前触れもなくいきなり現れて、全身からまるで猛獣のような圧迫感を出す。あの夜とまったく同じだ。
「覚えていてくれてありがとう、狼少年」
修司が笑顔を見せた。優しくて親切そうな笑顔だ。しかし猛獣のような圧迫感はそのままなので、優は無意識的に後退りたくなった。
「私たちに何か用でもありますか? 氷川さん」
傍から詩織の冷たい声が聞こえた。
「久しぶりにアカデミーを訪ねたら、君たちの姿が見えたんだ。真田君に話したいこともあったし、ちょうどいい機会だと思って」
「……俺に?」
「ああ。だから藤間君、ちょっと席を外してもらえないかな?」
詩織は修司の顔を凝視した。流石の彼女も修司の意図が読めないのだ。
「……分かりました。では優さん、私は実習室で待ちます」
「うん、分かった」
詩織が地下へと続く階段を降りた。それで優は修司と二人きりになった。
「仲がいいな、君たち」
修司が笑顔で言った。
「当主たちの都合で婚約したのに仲がいいなんて、羨ましいことだ。まあ……君も藤間君も見た目が可愛いから、お似合いカップルなのかもしれないけど」
「そんなくだらない話がしたかったのか?」
優の反応に修司は苦笑する。
「いや、これはあくまでも世間話だ。本論は……君に提案したいことがある」
修司が優に名刺を差し出した。優はそれを受け取って、一番上の行を読む。
「日本伝統武芸研究所……?」
「私が運営しているところだ。もちろん『伝統武芸研究』は建前で、主に戦闘に関する術を研究と戦闘術者の養成を行っている。このアカデミーよりは小さいけど、それなりの規模はあるさ」
「まさかあんたの提案って……」
「そう、君を私の研究所の一員としてスカウトしたい」
修司が優に好意的な視線を送る。
「新しい術を開発するために君の才能と戦闘センスが必要だ。給料は一般的な戦闘術者の収入より3倍くらいやる」
「断る」
「理由は?」
「あんたは藤間家と対立しているんだろう? 真田家はその藤間家の同盟だ。つまり真田家の後継者である俺があんたの下で働くといろいろまずい。子供でも分かることだ」
「ふっ、確かにそれはそうだな」
修司が微笑する。
「しかしその判断には一つ問題がある」
「何だ」
「藤間家が同盟として信頼できる相手なのかどうか、その点だ」
修司は廊下の壁に体を寄りかかって、説明を続けた。
「藤間家は古くからの名門だ。よって古い考え方にとらわれている人が多い。人狼は全て排除すべきだと考えている人はもちろん、実際に『人狼狩り』を行った人もいる。同盟とか何とかいっても、果たして彼らとうまく行けるかな?」
確かにその点は断言できない。
「それに比べて、私はいわゆる新興勢力だ。出身とかそんなくだらないものに拘るつもりはない。才能ある者、信頼できる者は誰でも歓迎だ」
「なるほど……あんたの言っていることは一理ある。しかしそれでも断る」
「そうか」
修司が肩をすくめる。
「まあ、気が変わったら連絡してくれ。君のことはいつでも歓迎するよ」
意外と潔い諦めだ。たぶん修司も、優がこの場で提案を受け入れるはずがないと思っていたんだろう。
「じゃ、私はこれで。また会おう、狼少年」
修司はアカデミーを出てどこかへ行ってしまった。それで修司の凄まじい圧迫感も感じられなくなった。
---
実習室に入ると詩織の姿が見えた。優は彼女に近づき、修司からの提案について説明した。
「なるほど。彼は優さんに深い興味を持っているようですね」
「……誤解されるような発言は止めてくれ」
修司ほどの有力者が直接スカウトを提案してきたんだから、彼が優に対して深い興味を持っているのは間違いないだろう。しかしその興味の理由は何なのか、優はその点が気になった。
「まあ、とにかく鍛錬だ。時間が惜しい」
「はい、分かりました。早速始めましょう」
優は実習室の真ん中で、詩織が召喚した2匹の式神と対峙した。すると自然に闘志が湧いてくる。大事な人たちのためにも、早く強くならなければ……! そんな気持ちが優の全身を覆った。
しかし数分後、優はボロボロになって地面に倒れた。
「くっそ……」
優が1匹の式神に集中すると、残り1匹が死角に回り込んで攻撃してくる。簡単だけど的確なその動きに散々やられた。
「今日はこのくらいにしましょう。お疲れさまでした」
「鬼か、お前は……」
ちょっと親密になった……と思ったけどやっぱり詩織は容赦ない。式神2匹の壁を越えるためには相当時間がかかりそうだ。
優は地面に倒れたまま、修司との会話を思い出す。彼の言う通り藤間家は信頼できない相手かもしれない。しかし……詩織は違う。彼女はいつも冷たい態度で、容赦のない鬼教師だけど……信頼できる。一人の人間として。
鍛錬の後、優はしばらく休憩した。普通の術者がそんなにやられたら丸1日くらい休まなければならないだろうけど、人狼の優は数時間で足りる。
そして4時になると、優は『戦闘基礎』クラスの教室に向かった。
「あ、真田君! こんにちは!」
「こんにちは、真田君」
瑞穂と健が昨日と変わりない笑顔で優を迎えてくれた。優も笑顔で彼らに「こんにちは」と挨拶を返して、隣の席に座る。
「実は、樫山君と二人で花見の計画を立ててみたんだよ!」
「花見って計画まで必要なのか」
「もちろん!」
楽しく喋る瑞穂と、その瑞穂を傍で見守っている健……この二人はもう優にとってかけがえのない存在になっている。
今までの優は、一族以外の味方なんていなかった。だからこそ一人で突っ込んで、一人で戦ってきた。しかしそんな優の前に詩織、瑞穂、健が現れた。彼らは赤の他人なのに、優のことを信頼して守ってくれている。
もう一人で突っ込むだけの自分ではいられなくなったのだ。少しずつでもいいから、変わらなければならない。そして守ってもらった以上に、彼らを守って行かなければならない。
優は自覚していないけど、それは責任感というものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます