16話.鍛錬と日常

 朝からアカデミーの空き教室で勉強していたら、いきなり目の前に缶コーヒーが現れた。


「……え?」


 振り向いたら詩織が両手に一つずつ缶コーヒーを持って、1本を優に差し出している。


「何、これ?」

「見れば分かるはずですが。缶コーヒーです」

「だから……」

「昨日の返しです」

「……なるほどな」


 優は缶コーヒーの蓋を開けて、一口飲む。


「それが真田家の精霊術の書ですか?」


 詩織の質問に、優はテーブルの上の本を指さす。


「これ? うん、その通りだ。実家から借りてきたものさ」

「ちょっと見せてもらってもいいですか?」

「いいよ。あ、でも……この書を読むためには解読術が必要だけど」

「私は破壊術研究員の資格も持っています。日本中の8種類の解読術は全て習得済みです」

「そうかい」


 優は精霊術の書を詩織に渡した。詩織は缶コーヒーを飲みながら、じっくりと書を読む。


「なるほど……これだから他人に見せても構わないわけですね」

「何?」

「ここに記載されている精霊術はどれも特殊すぎです。人狼以外の人はいくら頑張っても習得できないでしょう」

「そうだろうな。元々人狼によって人狼のために作られた、人狼の精霊術だから」

「でもこの書の術に対する解析はかなり古いですね。これでは構造を把握しにくい」

「それは俺も思ったよ」


 確かに精霊術の書は古文よりも難しく書かれていて、一目では術の構造が分かりづらい。元々何百年前に作られたものだから仕方がないけど。


「だから改良を考えていたところだ」

「改良……ですか?」

「ああ、アカデミーの資料を参考して……精霊術の構造を俺なりに解析してみたんだ」

「そこのノートがそれですか?」


 詩織が缶コーヒーを持った手でテーブルの上のノートを指さす。


「うん、そうだけど……」

「なるほど、ちょっと興味が湧きますね。そのノートも見せてもらってもいいですか?」

「いや、まだ始めたばかりだし、俺の勉強も足りないし……人に見せられるものじゃないよ」

「そうですか」


 優は素早くノートを閉じる。『改良』とか何とか大げさなことを言ってしまったけど、本当に初歩的なことしただけだ。そんなものを詩織に見せるのは恥ずかしい。


「そう言えばさ……昨日の樫山は凄かったよな」


 恥ずかしくなった優が無理矢理話題を変える。


「俺なんか即脱落したのに、樫山は最後まで耐えたもんな。才能があるってのは本当に羨ましい」

「何を言っているんですか? 優さんも真田一族の中では天才と呼ばれたはずですが」

「だ、誰に聞いたんだ、その話」


 優の顔がちょっと赤くなる。


「それは3年前までのことだ。俺はこの3年間ぼーっとしていたから、才能なんかとっくに失ったよ」

「まあ、確かに3年の空白は大きいですけどね」

「ああ……たぶん今の俺は3年前の俺より弱い」


 詩織が優の顔を凝視する。


「ちょっと意外ですね」

「ん? 何が?」

「優さんは生意気だから、自分の弱さは口にしないタイプだと思いましたが」

「俺が生意気なのは認めるけどよ、現実は現実だ。いくら否定したくても俺が弱いのは事実だからな」

「なるほど」


 そういうところはちょっと自分に似ていると、詩織は思った。


「……じゃ、強くなるためにちょっと頑張ってみましょうか?」

「何?」

「私なりの理論では、強くなるためには勉強と訓練、そして何よりも『実戦』の経験が必要です」

「ふむ、俺もその意見には同意するよ。いくら勉強と訓練をしても、結局実戦で発揮できないと意味がないからな」

「でも無暗に実戦を繰り返したところで必ず強くなるわけではありません。実戦を通じて自分の特徴を把握し、長所を伸ばす方法、または短所を補う方法……つまり適切な鍛え方を考えなければなりません」

「まあ、そうだよな。で、結局どうするつもりだ?」


 詩織が微笑する。


「ここ数日間で、優さんの長所や短所はもう把握済みです。そして優さんに適切な鍛え方は何なのか、それももう把握済みです」

「なるほど。じゃ、これからその鍛え方ってやらをやるのか?」

「そうです。荷物を整理して、私についてきてください」

「うん、分かった」


 優は小さい鞄に自分の荷物をしまって、詩織と一緒に空き教室を出た。昨日から詩織のやつが妙に親切だな、と思いながら。


---


「ここは……」


 そこはアカデミーの実習室だった。つい昨日、防御術の実習をした場所だ。


「ここでやるのか?」

「はい」


 実習室に入った二人は真ん中の強力な封印の上に立つ。


「これは単なる封印ではありません」


 詩織が右手を上げる。すると手のひらの中にいきなり数枚の御札が現れる。


「『転移用の術陣』ってやつだな」


 それは物体を別の空間に移動させるため、または異空間に隠しておいたものを召喚するために使う術陣だ。実は優の服の裏側にもその術陣が描かれていて、人狼に変身するときは異空間に服を移動させる。

 詩織は御札の中で一枚を選び、それを手にして術力を集中した。するとその御札が燃焼して、いきなり狼のような生き物が現れる。それは……式神だ。


「式神召喚術か。凄いな」

「これくらい、少し練習すれば簡単です」

「俺には出来なさそうだけどな」


 優は式神を観察した。大きさも形態も狼とそっくりだ。しかしまるでペットのようにじっとしている。詩織が完全に制御しているのだ。


「で、こいつに何が出来るの?」

「今から優さんにこの式神と戦ってもらいます」

「え? こいつと戦えって……?」


 優はもう一度式神を眺める。そしてすぐ首を傾げる。


「いや、戦って鍛錬するのは俺も好きだけどよ……こいつは……」

「分かっています。優さんにはあまりにも弱い相手でしょう」


 この式神は普通の狼くらいの強さを持っていそうだから、『戦闘基礎』クラスの生徒たちにはいい訓練相手になるかもしれない。しかしそれはあくまで優以外の生徒たちの場合だ。優が本格的に人狼の力を使えば、この程度の式神は秒殺だ。


「じゃ、鍛錬にならないんじゃないか」

「いいえ」


 詩織が首を横に振る。


「優さんはこの式神と……人狼に変身せず、精霊術だけで戦ってください」

「……変身せず精霊術だけで?」

「はい、優さんが強くなるためには、何よりも精霊術の鍛錬が必要ですから」

「なるほど……そういうことか」


 詩織の言っていることは正しい。精霊術の強化なしでは前に進めない。


「よし、分かった。やってみる。でも手加減頼んだよ?」

「心配は要りません。生徒を傷つけるような真似はしないから」


 優が体の向きを変えて、式神と対峙する。すると式神が低い唸り声を出す。まるで本物の狼みたいに。


「しかしまさか狼同士が戦うことになるとはな」

「優さんは狼じゃなくて人狼です。もうこのくだりはやめましょう」

「俺は……」


 何か反論しようとしたが、その瞬間式神が飛びかかってきた。優は急いで右手のひらを開き、術を展開する。


「うっ……!」


 『円の壁』を使って式神の突進を防いだ。優の防御術は相変わらず粗末だが、時間は稼ぐくらいはできる。

 右手で防御術を展開したまま、左手で精霊術を駆使する。それは『精霊水流術』……目標に力を加える術だ。式神がまるで水に溺れたように、いや、沼にはまったように動きが遅くなる。


「よし!」


 敵を完全に捕らえた。攻撃チャンスだ。


「あ……」


 しかしその時、優は気付いた。自分には攻撃手段がない。いつも人狼に変身して爪を振るってきたし、破壊術なんか学んだことがない。つまり人間の姿では相手にダメージを与えることができない。


「くっそ!」


 雑念で術への集中力が切れた瞬間、式神が精霊術の束縛から解放されて『円の壁』を突破する。


「うっ!」


 優は素早く地面を転んで回避する。実戦での経験のおかげでとっさの回避は手慣れている。

 式神が容赦なく地面の上の優を噛みつこうとするが、きりきり次の『円の壁』が間に合う。そして再び『精霊水流術』で式神の動きを止める。それで一応体勢を立て直すことはできたけど……攻撃手段がないという根本的な問題は解決されていない。


「何しているんですか?」


 傍から詩織の冷たい声が聞こえてくる。


「相手の動きを止めたんだから、早く致命傷を与えて勝負を決めてください」

「い、いや……実はさ……」

「……やっぱりそうでしたね」


 詩織の声色がちょっと変わる。顔は見えていないが、たぶん嘲笑ったいるんだろう。


「優さんって、実は精霊術の基本中の基本である『精霊水流術』しか使えないんでしょう?」

「ちっ、バレてたのかよ……」


 詩織に精霊術の書を見せたのがまずかったのだ。優は自分の軽率さを後悔した。


「危機に陥っても全然精霊術を活用しないから、たぶんそうだろうと思っていました」

「分かったなら攻撃を中止させろ!」

「駄目です。このまま精霊術の鍛錬を続行します」


 式神が強い勢いで精霊水流術を振り切ろうとする。優は必死になって術を強めるが、結局式神の突破を許してしまう。


「おい、詩織! まさか……!」


 まさか本気で攻撃するつもりなのかよ、と言いたかった。しかし言うよりも早く式神が本気で攻撃してきた。優は粗末な防御術で自分の命を守る。


「くっそ!」


 防御術の熟練度が低いせいで、術力が急激に消耗する。そして式神はそんな優の側面や後方を狙ってくる。魔犬とかと比べたら格段に弱いのに動きが賢い。それはもちろん詩織に制御されているからだ。

 巨大な狼が四方から命を狙う。その許しのない攻撃に優の気力と精神力が削られる。そして何よりも頼っていた人狼の力を使えないことがきつい。


「くっ……」


 ついに優の術力が切れてしまう。同時に式神の攻撃もギリギリのところで中止される。式神と牙と優の顔は5センチも離れていない。

 優は地面に膝をついた。術力の反動で体がボロボロだ。


「まあ、今日がこの辺にしておきましょうか」

「……おい詩織……お前、生徒を傷つけることはしないとか言ってなかったか?」

「もちろんです。ほら、優さんは無傷でしょう?」

「反動のせいで動くことすらままならないんだけど」

「優さんの人間離れした回復力ならその程度はへっちゃらです。もう計算済みですよ」

「そうですか」


 事実だから反論できないのが逆に腹立つ。


「でもやっぱり模擬戦闘だから緊張感が足りませんね。明日はもっと厳しく行きましょう」

「はあ……!?」

「何を驚くんですか。一日も早く強くなりたいって言ったのは優さんでしょう?」


 これも反論できない。


「……厳しい指導、ありがとうございます、先生」

「どういたしまして」


 優の皮肉を詩織は笑顔で受け流した。

 詩織のやつが妙に親切になったと思ったけど……もしかしてこいつ、ただ俺を苦しめたいだけなんじゃないのか? 優は本気でそう思った。


---


 その日の『戦闘基礎』クラスの1時限目は『術の道具』だった。御札、宝石、鈴、鏡、注連縄など……術者の役に立ついろんな道具について勉強する授業だ。

 アカデミーで改良された術の道具の中では、強力な効果を持っているものも多い。例えば自分の術を道具に充填して使いたい時に放出したり、使い手の幻影を作って相手を惑わしたり……しかし強力な道具ほどそれ相応の知識や術力がなければ活用できない。

 逆に言えば、知識や術力さえあれば優でも術の道具が使えるってことだ。人狼は精霊術以外の術が苦手だけど、術の道具に関しては普通の術者たちとほぼ同じだ。

 そして2時限目の『道具の活用』は、実習室で道具を実際に活用してみる授業だ。優も席に座って御札などの比較的に簡単なものを使ってみた。何か普通に面白い。しかし人狼に変身して戦う優が、戦闘の途中で道具の活用ができるかどうかは正直疑問だ。


「では皆さん、また明日会いましょう」


 授業が終わった。しかし優の本当の試練はここから始まる。


「……まじで来ちゃったよ」


 優はカラオケの部屋で可哀想なほど動揺した。瑞穂と健はもう歌い始めている。ここは拍手でもしながら耐えるしかない。


「ほら、真田君も歌って!」

「う、うん……」


 リモコンを操作して歌を探す。そしてやっと知っている歌を見つける。


「これにしようかな……」


 瑞穂も健も歌が上手い。くっそ、やっぱまずいな……と思いながら優は席から立って、マイクを手にする。


「今日も僕は変わらない日常に……」


 狩場で自信満々に魔物と戦う時とは正反対の、自信なげな声で歌う。しかし二人の友達はそんな優に拍手と応援の声を送ってくれる。


「だからこれからも一緒にいたい……」


 やっと歌が終わった。瑞穂と健が拍手喝采する。それで優もちょっと自信ができて、普通にカラオケを楽しむようになる。


「次はまた私!」


 それから3人は楽しい時間を過ごした。その途中、優はコマちゃんと一瞬目が合ったけど……両方とも何も言わなかった。


---


「じゃ、また明日ね!」

「うん、バイバイ」


 優は友達と別れて、自分のアパートに向かった。今度は猫が追ってくる気配もない。

 瑞穂と健のおかげで本当に楽しかった。カラオケもたまには悪くない感じがする。今度はあの歌を歌ってみるかな……いや、別の歌がいいかも……と優は楽しい空想をした。

 電車を降りて15分くらい歩くと、優の古いアパートが見えてくる。今日は時間がもう遅いからちょっとくらい勉強して寝よう。


「ん?」


 しかし今日はアパートの階段の前に誰かが立っていた。それは気配からして……同族だ。しかもとんでもない強者……。


「……父さん?」

「優」


 真田京志郎が息子に向かって笑顔を見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る