人と狼
14話.狼を見る目(前)
日本術者統合アカデミーの9階には、『監察部』という部署がある。この『監察部』はアカデミーとその周辺の秩序を守るために設立された部署で、術者絡みの事件が起こった場合はここで調査を担当する。つまり術者界の警察みたいなところだ。
今日はその監察部に一人の少女が訪ねた。長い黒髪と端正な服装、そして冷たい表情をしたその少女は……藤間詩織だ。
詩織は9階の廊下を歩いて一番奥の扉に近づいた。その扉のプレートには『監察部部長』と書かれている。まず深呼吸をして、扉をノックすると中から「入りなさい」と若い女性の声がした。
「失礼します」
扉を開いて部屋に入ったら、事務机に座っている若い女性が笑顔を見せる。
「詩織」
「お姉さん」
スーツと眼鏡が似合うその美人は、詩織の姉の藤間泉だ。
「ごめん、そこに座ってちょっと待ってて。すぐ終わるから」
泉は机の左側に置いてあるパソコンで仕事をしていた。詩織は姉の対面に座って、パソコンの画面をちらっと覗く。どうやら事件の記録を整理しているようだ。
詩織は視線を戻して、仕事に熱中している姉の顔を見つめた。すると自然に3年前のことが思い浮かぶ。
3年前、まだ21歳だった泉は歴代最年少で監察部の部長に就任した。それで周りの人々から『権力者の娘だからといっていきなり部長とはあり得ない』とか、『いくら等級Aの術者でも若すぎる娘に何が出来る』とか、いろいろ言われたのだ。
しかし泉は人一倍の努力と才能で数々の難事件を解決し、周りを黙らせた。特に2年前には、カルト団体を作って横暴を働いていた術者を逮捕して、苦しんでいた多くの人々を救い出した。その功績は今でも時々話題になる。
そして現在……24歳の藤間泉は監察部の部長として誰からも認められる存在となった。アカデミーの術者たちからも、一族たちからも、そして父からも。
「これで終わり」
泉がパソコンから目を離して、詩織に視線を送る。
「待たせてごめんね、詩織」
「結構です。それより、私を呼び出した理由は何ですか」
詩織の反応に泉が笑顔になる。まるで妹の気持ちを見透かしているようだ。
「実は貴方の婚約者について、ちょっと話したいことがあってね」
「真田優さんのことですか? 婚約の件なら保留になりましたが」
「ふふ、まさか詩織はそれ信じているの? 『保留』とか『予定』はお父さんが人々を騙す時に使う言葉でしょう?」
詩織は反論しなかった。
「お父さんは何が何でも、結局は自分の意思の通すお方なのよ。だからこそ周りから恐れられているわけだし」
「……それで、お姉さんは優さんについて何の話をしたいんですか?」
その瞬間、泉が笑顔から無表情に変わる。それは彼女が事件を追う時に見せる冷徹な顔だ。
「実を言うと、私たち監察部は以前から真田優をマークしている」
「そうですか」
「マークと言っても尾行とかはしていないし、ちょっと情報を集めているだけ。しかし婚約の件で状況が変わったのよ。氷川修司を含めた有力者たちが真田優のことを注目し始めている」
詩織の顔がどんどんこわばっていく。泉はそれを見逃さない。
「つまり真田優へのマークをもうちょっと強めなければならなくなったの。それで……」
「……それで私の協力が必要だということですね」
「正解」
泉が笑顔に戻る。
「このままマークを強めても、真田優の傍にいる貴方にばれるだろうし……いっそ協力してもらうかな、と」
「断ります」
詩織が即座に断ったが、泉は別に驚かなかった。
「まあ、予想通りの答えね」
「そもそも何故監察部が優さんを監視するんですか? その必要性はどこにあるんですか?」
「それは効率の問題なのよ」
「効率……?」
詩織が眉をひそめる。
「そう。いくら監察部だとしても、日本中の術者の全員をマークすることはできない。だから事件に巻き込まれる可能性の高い人物を優先的にマークしているわけ」
「どういう根拠で優さんが事件に巻き込まれる可能性が高いと判断するんですか」
「それは簡単でしょう、詩織。何しろ彼は人狼だからね」
泉が再び無表情になって、説明を続ける。
「もちろん私は人狼だからといってどうこう言うつもりはないわ。でも人々はそうでもない。人狼だということだけで怖がったり、軽蔑したり、憎んだりする人がいくらでもいる。昔は『人狼狩り』なんかがあったくらいだからね。こういうことは生徒たちに歴史を教えている貴方が私よりも詳しいでしょう?」
詩織は何の反応も見せなかった。
「しかも真田優は人狼一族の後継者……いつ事件に巻き込まれてもおかしくないのよ。つまり私たち監察部が彼をマークすることは、彼の安全のためでもあるの。どう? これで納得してくれた?」
しばらく重い沈黙が流れた。
「……どうやら同意しないようね」
泉が苦笑する。
「貴方はいつも冷静な人間を演じているけど……実は情に流されやすい。昔からそうだった」
泉は何もかも見透かすような鋭い眼差しで妹を見つめた。
「だからお父さんも、そして私も貴方に大事な役割を任せることができないのよ。そのことについてよく考えてみて。貴方もアカデミーの教師のままで終わりたくないでしょう?」
「……いいえ」
詩織は挑戦的な眼差しで姉を見つめながら、席を立つ。
「私は自分が教師で満足です」
そのまま体の向きを変えて、詩織は部屋を出た。泉はそんな妹に何も言わなかった。
---
和食レストランで昼食を食べながら、詩織は自分の婚約者を見つめた。
「もっと食べろよ、詩織。お前いつも少食すぎるぞ」
優は忙しく箸を動かしていた。小柄で細いのに大食いだ。
「優さんこそ肉ばかり食べないで、もっと野菜を食べてください」
「狼は肉食だから仕様がないんだよ」
「優さんは狼じゃなくて人狼です。ふざけないでください」
ここ三日間、優と詩織は一緒に行動した。一緒に勉強して、一緒にご飯を食べて、一緒に魔物と戦った。こうして会話をしていると一見親しい関係のようにも見える。
しかし二人の間には見えない壁が存在する。そして二人ともその壁を越えようとしない。いつも心の中で一定の距離を保っている。
「……けどさ、ここは値段がちょっと高いよな」
ふと優が言った。二人は一緒に食事をする時、いつも割り勘をしている。しかしお金持ちの詩織はともかく、優にとって毎日外食はちょっと無理な話だ。
「食事代なら私が支払います」
「いや、そんなことで一々借りを作りたくないんだ」
「そうですか。まあ、勝手にしてください」
「うん、でも次からはちょっと安いところで頼む」
優はレストランの内部をざっと見回した。本当に高級なレストランだ。雰囲気も味も最高だ。しかしあまりにも高級すぎて、貧乏の俺には似合わない場所だ。優はちょっと自虐的にそう思った。
そう、似合わない。別の言葉で言い換えると、釣り合わない。
「……なあ、詩織」
「はい?」
「今日の狩り、ちょっと休みたいんだけど……いいかな?」
「別に構いません。いや、そもそも私の許可を求める必要はありません。休みたい時に休んでください」
「そうか。まあ、そうだよな」
「でも優さんが狩りを休むなんて、ちょっと意外ですね。何かあるんですか?」
その質問に優はちょっと恥ずかしがる。
「いや、実はさ……今日は静原や樫山と一緒に食事をすることにしたんだ」
「そうですか」
詩織が頷く。
「まあ……優さんがアカデミーの生徒たちと仲良くしてくれることは、私にもいいことです」
「そうなの?」
「勿論です。優さんは私のお勧めでアカデミーに通っている生徒ですから、円満な生徒生活を送ってくれないと困ります」
「なるほど、メンツの問題か」
優は納得した。
「ところで、一つ言っておきたいことがあります」
「何だ」
「もしアカデミーでイジメにあったら、必ず私に報告してください」
「イジメ? 俺が?」
優は驚いて目を丸くする。
「何で俺が……人狼だから?」
「理由は関係ありません。とにかく優さん自身がいじめられた場合、もしくは他の誰かがいじめられているところを目撃した場合、必ず私に報告するんです。必ず」
「分かったよ」
詩織の強い口調にちょっと驚きながらも、優は素直に頷いた。
---
午後になって、優はアカデミー4階の空き教室で黒魔術の勉強を始めた。黒魔術を勉強すれば何か強くなるためのヒントを得られるかもしれないし、何より黒魔術そのものにも興味がある。
黒魔術はどこか数学に似ている。術式と図形を精密に扱って、『一つの術』という答えを導き出す……その一連の流れが数学の公式のような感じだ。ほんの少しでも間違えばとんでもない答えに辿り着く。
しかしいくら興味があっても、新しい分野を一人で勉強するのは流石に限界がある。特に黒魔術特有の複雑な図形の解析が難しくて、優はなかなか次の段階に進めなかった。
優はふと周りを見回した。するとちょっと離れた机に座っている詩織の姿が見えた。彼女は教師としての書類仕事と、彼女なりの勉強をしている。この空き教室はもう優と詩織だけの空間だ。
優は勇気を出して、詩織に近づいた。
「詩織」
「何ですか?」
「ちょっとこれを見てくれ」
そう言いながら優が詩織に見せたのは……黒魔術の資料だった。
「この図形の意味が分からなくてさ。よかったら……教えてくれないかな」
「それは星座の印です」
「……え? これが星座なの?」
「はい。黒魔術ではそれぞれの星座に意味を与えて、印として使います。まあ、私の専門分野ではないから概要くらいしか教えられませんが」
詩織は優に出来るだけ分かりやすく説明してくれた。
「ありがとう、大体は理解できたよ。それにしても……」
「それにしても?」
「何か今日のお前は……ちょっと親切だな」
「気のせいです」
詩織が冷たく口調で返事した。
それから2時間くらいはページをめくる音だけが流れた。2時間も難しい資料ばかり読んでいた優は結構疲れてきた。ここら辺で少し休憩をした方がよさそうだ。
ちらっと詩織の方を見たら、依然として勉強を続けている彼女の姿が視野に入った。人狼だから疲労の回復が早い優よりも休まずに頑張っている。いや、『頑張っている』というより『無理している』ように見える。
優はアカデミーに1階の自販機で缶コーヒーを2本買ってきて、1本を詩織に渡した。
「何ですか、これ」
「見れば分かるだろう? 缶コーヒーだよ」
「……ありがとうございます」
詩織は缶コーヒーの蓋を開けて、一口飲む。
「しかしさ……お前はもうB+だろう? それなのにまだ頑張るんだな」
「優さんと同じです」
「何?」
「一日も早く強くなりたい……そう言ったのは優さんでしょう?」
「なるほど」
優は納得した。しかしそれは詩織の答えを理解したからではなく、彼女の瞳から執念が見えたからだ。
「じゃ、俺も負けられないな」
休憩は取り消しだ。優は再び黒魔術と静かな戦闘を始めた。そしてそんな優の姿を、詩織は無言で見つめた。
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