12話.強者たち
赤い目を除く全身が真っ黒な鳥は、優と詩織に向かって敵意のこもった視線を送った。
「あれは『鬼鳥(きちょう)』です。外見と名前の通り飛行できる魔物だから、優さんとはちょっと相性が悪いですね」
「構わん。俺がやる」
人狼に変身した優は鬼鳥に近づいた。飛行できる魔物だから空高く飛んで逃げる場合は厄介なことになるだろうけど、幸い相手は戦う気満々のようだ。それに、優にとって飛行できる相手との闘いは初めてではない。
「まあ、相性の悪い相手との対決もいい勉強になるでしょうし、頑張って下さい」
詩織が言い終わる直後、鬼鳥が疾風のような速さで空を飛んで、優の目玉を鋭い爪でえぐり取ろうとした。優はその攻撃をギリギリ回避したが、少し動揺してしまう。相手の速さが予想以上だったからだ。そして鬼鳥はその隙を逃さず、優の右肩を切り裂く。
「優さん!」
「大丈夫だ!」
結構深い傷だが、この程度なら人狼の回復力で何とかなる。問題は鬼鳥の攻撃の鋭さだ。美奈の霊気の核と戦った時は、攻撃を耐えて隙を作ることができたけど……鬼鳥にそんな戦法は通じそうにない。何かいい方法は……。
しかし優がいい方法を思い出すまで、鬼鳥が待ってくれるはずがない。鬼鳥は高速で空に曲線を描きながら、優の死角を何度も何度も執拗に狙う。
「くっそ!」
優は極限まで集中力を高めて踊るかのように動き、鬼鳥の描く曲線を避けた。それは人狼の運動能力と反射神経、そして優自身のセンスがなければできない妙技だった。でもそれだけでは勝てない。
「優さん! 相手の軌道を見切ってください! 反撃するんです!」
ちょっと離れたところから詩織がアドバイスをした。確かにその通りだ。このままだといつか集中力が切れて、また攻撃を食らってしまう。そうなる前に反撃しなければならない。
致命傷を数センチのところで回避する、ギリギリの戦いが続く。それで優の全身にかすり傷が増えていく。しかし焦ってはいけない。勝つためには焦らず耐え続けて、絶好のチャンスを待つしかない。
そして十数秒後、何の気配もなく、何の兆しもなく、いきなりチャンスが訪れる。ほんの一瞬、優の感覚が鬼鳥の軌道を正確に予測したのだ。
「っ……!」
千載一遇の機会を見逃さず爪を振るった。その必死の反撃が鬼鳥の曲線と重なった瞬間、手応えを感じた。
「よし!」
鬼鳥がバランスを崩して地面に墜落した。手強い相手だったが、こうなるともう終わりだ。灰色の人狼は全力で駆けつけて、地面に倒れている鬼鳥が何か別の行動を取る前にその胴体を両断した。それで魔物は悲鳴を上げることもなく消滅していく。
「ふぅ……」
優は人間の姿に戻ってため息をついた。厳しい戦いだった。いきなり絶好のチャンスが訪れなかったらもっと苦戦したはずだ。
「優さん、傷は大丈夫ですか?」
詩織が近づいて、冷静な顔で心配してくれた。
「ああ、問題ない」
右肩の傷以外は全部軽いかすり傷だし、その右肩ももう治っている。痛みは残っているけど問題はない。
「本当に近接戦闘能力だけは抜群ですね」
「何だ、褒めてくれるのか?」
「客観的な事実を言ったまでです」
「そうかい」
優が苦笑する。
「まあ、優さんは人狼だから近接戦闘に優れていて当然かもしれませんが……」
「それは違うな」
いきなり聞こえてきた声が、詩織の意見を否定した。優と詩織は一瞬目を丸くして驚く。
「誰だ!」
優が森の入り口の方に向かって叫んだ。するとまた声が聞こえてくる。
「人狼の中でも、彼ほどの才能を持っている者は決して多くない」
暗闇の向こうから、一人の男が姿を現した。細い体の美男子……たぶん優が今まで見てきた人の中で一番の美男子だ。高級そうなスーツがとても似合う。歳は20代半ばくらいかな。
しかしその男をただ美男子だと評価するには、何かが違う。
「何だ、こいつ……」
いつの間にか優は全身でその男を警戒していた。いや、警戒では物足りない。『早くここから逃げろ』……本能がそう告げている。
とんでもないほどの実力者なのは確かだ。しかし優がその男を警戒しているのは、ただ強いからではない。その男からは……肉食系の猛獣を目の前にしているような、圧迫感が感じられる。
「氷川さん」
詩織がその男を呼んだ。どうやら知り合いのようだ。
「久しぶりだな、藤間君」
氷川と呼ばれた男がにやける。
「どうして氷川さんがこんなところに?」
詩織が無表情で質問した。詩織もこの男のことを警戒しているのだ。
「この近所を通っていたら、魔物が出現したという情報が入ったんだ。それでちょっと寄ってみたよ」
「つまり偶然ということですか」
「そういうことになるね」
その答えを聞いた詩織は不信感を隠さなかった。
「しかしこんなところで……人狼に出会うとは」
氷川という男の視線が優に向けられる。
「まさか藤間君の彼氏? いや、冗談だよ。そんな怖い顔しないでくれ」
「……こっちは真田優さんです。優さん、このお方は氷川修司(ひかわしゅうじ)さんです」
「よろしく、狼少年」
氷川修司が手を出した。細くて白い手だ。優は黙って修司と握手を交わした。
「真田優君か……ここで会ったのも何かの縁だ。よかったら今度じっくりと話そう」
優は口を黙ったまま何の答えもしなかった。
「魔物は真田君が見事に処理してくれたし、私はこれで失礼するよ。二人ともまた後で」
修司は後ろを振り向いて、森の入り口の方に向かって足を運んだ。
「……何なんだ、あいつは」
修司の後ろ姿が完全に見えなくなった時、優はやっと警戒を解いて口を開く。
「彼は術者一族氷川家の当主であり、日本術者統合会議の議長である氷川修司です」
詩織の説明に優が首をかしげる。
「え? 統合会議の議長って……お前のお父さんじゃなかったの?」
優の無知に詩織がため息をつく。
「統合会議の議長は3人です。通称『3議長』と呼ばれるその3人が、互いを牽制し合いながら術者界を率いているのです」
「お、俺はそういうことにはあまり興味がなくてさ……まあ、教えてくれてありがとう。先生」
優は自分の無知を笑って誤魔化そうとしたが、もちろん無駄だった。
「しかしあいつ、あの歳で相当偉い人なんだ」
「術者界は実力主義ですから。彼は術者としても、経営者としても超一流なんですよ」
「羨ましい人生だな」
確かに氷川修司から感じられる術力は、優の父である真田京志郎に勝るとも劣らない。ということはあいつも規格外の術者……日本中に5人もいない強者だ。
「でもそんな偉いやつが偶然こんなところに……?」
「偶然のわけがありません。たぶん優さんのことを詮索するために来たんでしょう」
優は思わず笑ってしまう。
「へっ、俺なんか詮索してどうするんだよ。偉いやつなのによっぽど暇だな」
「確かに優さん自体は大したことありませんが、忘れないでください。優さんは真田家と藤間家を結ぶ鍵だということを」
「なるほどな。じゃ、これ以上巻き込まれる前に早く縁談をやめさせなきゃ」
「無駄でしょうけど、まあ、頑張ってください」
優と詩織は足を運んで、森の入り口へと向かった。
---
翌日の朝、優は自分のベッドで目を覚ました。
まず洗面所で顔を洗って、普段着に着替えた。実家から持ってきた春用の服だ。そして小さいテーブルの前に座って、冷蔵庫に入れておいたサンドイッチを食べ始める。それが今日の朝食だ。別に美味しくはないけど量は十分だ。
何か体が重い。昨日の戦いのせいで結構疲れたのだ。いや、疲れた原因は戦いだけではない。氷川修司という男もその原因の一つだ。
ほんの少しの出会いだったけど、氷川修司の強烈な印象がなかなか頭から消えない。細い体の美男子なのにまるで猛獣のような圧迫感、魅力と余裕が感じられる態度なのに何故か近づけない雰囲気……明らかに父とは別のタイプの強者だ。
朝食の後、歯を磨いていたら玄関のベルの音が聞こえた。こんな朝早くから誰だ? 優は急いで歯磨きを終え、玄関に近づいてドアを開いた。
「詩織?」
玄関の前にはいつものように可愛い顔で冷たい表情をしている詩織が立っていた。
「おはようございます、優さん」
「何でこんな朝早くから?」
「今から一緒に行かなければならないところがあります」
「え? どこに行くんだよ」
「優さんが面会を申し込んだ人のところです」
「……お前のお父さん?」
「はい、車も用意しています」
まさかこんなにも早く面会できるとは思わなかった。しかしどうせ一度は会わなければならない人だ。優は心を固めた。
「分かった、すぐ支度する」
しばらく後、優は詩織と一緒に高級車に乗った。すると中年の運転手が車を走らせる。たぶんこの運転手は藤間家で働いている人なんだろう。
朝の道路は結構混んでいて、アカデミーまではちょっと時間がかかりそうだ。優は車窓から見える風景に何となく視線を送った。
「優さん」
車が10分くらい走った時、詩織がふと優を呼んだ。
「何だ?」
「体は大丈夫ですか?」
「俺の体? ああ、見ての通り傷はもう完治したよ」
「反動の方は? 変身術は反動も激しいはずですが」
「それも一晩眠ればすっきり回復する」
「人狼の生命力は本当に強いんですね」
「そこが取り柄だからな。まあ、とにかく心配してくれてありがとう」
「生徒の心配をするのは教師としての義務ですから」
「そうかい」
優は苦笑した。そしてその苦笑から30分後、車はアカデミーに着く。
「父は最上階です」
エレベーターで22階に昇ると、回廊の向こうに大き扉が見える。誰が見てもこのビルで一番偉い人の部屋だ。
「私は外で待ちます」
「分かった」
「何卒、馬鹿なことは言わないように」
「小言はいいよ。もう彼女気取りか?」
詩織が目に角を立てたが、優は無視して大きな扉をノックした。すると中から「入ってくれ」という男性の声が聞こえてくる。
「失礼します」
優は部屋に入って、机に向かって座っている男性を見つめた。品のいい中年の男性だ。『美中年』って言葉が自然と頭に浮かぶ。
「真田優君だね?」
「はい」
男性が席から立って握手を求めた。優はその手を丁寧に取る。
「お父さんによく似ているな」
詩織の父、藤間英治がそう言った。しかし優から見れば詩織こそ英治によく似ている。端正な顔立ちと冷たい表情が特にそうだ。
優は緊張した。それは相手が偉い人だからではない。藤間英字の全身から、昨日出会った修司と同レベルの術力が感じられたからだ。
優が今まで見てきた術者の中で、父の真田京志郎が一番強い。それなりにいろんな術者たちを見てきたけど、父と同レベルの人なんて見たことがないのだ。しかし昨日と今日、父と同レベルの術者を二人も見つけた。それは優にとって新鮮な衝撃だった。
「座りたまえ」
「はい」
優は英治の向こうに座った。
「今日君に来てもらったのは、君の話を聞くためだが……その前に私からちょっと話しておきたいことがある」
「何ですか」
「氷川修司についてだ」
その名前を聞いた優の顔がこわばる。
「君と詩織の婚約はまだ公表されていないが、氷川修司ほどの人間ならうすうす気付いているはずだ。しかも昨日の言動からみて、彼は君に注目していると思われる」
「はい」
「氷川は優秀だけど……ちょっと予測不可能なところがあってな。注意した方がいい」
「はい」
つまり『あいつは危険だ。必要以上に関わるな』ということだろう。
「自覚しているだろうけど、君の立場はちょっと特殊だ。余計な誤解を招かないためにも、慎重に行動してくれ」
「分かりました」
優は自分が人狼だということをいつも自覚している。そして人々が人狼をどんな目で見ているか、それもよく知っている。
「私の話はここまでだ。それでは、君が話したいことを話す番だな」
優は少し考えてから、慎重に口を開く。
「一つ聞きたいことがあります」
「何だ」
「何故自分と娘さんを婚約させようとするんですか?」
英治がゆっくり頷く。
「やっぱりそれか」
「いくら同盟のためとは言え、そこまでする必要はないと思います」
「同盟のため……確かにそれもあるな。しかしそれが全てではない」
「じゃ、他に何があるんですか」
「お父さんから聞いていないのか。私が君と詩織を婚約させようとする理由は……君のお父さんに感服したからだ」
「……自分の父の力を買うために娘さんを婚約させるのは……」
「いや、いや」
英治が笑った。さっきまでの冷たい表情とは違う、気持ちのいい笑顔だ。
「そういう意味ではない。まあ、確かに私の説明が不十分だったけど」
「はい?」
「確かに君のお父さんは現在日本の中で最強の術者の一人だ。しかし私は彼の力ではなく、意志に感服したんだよ」
「意志……?」
それは意外な言葉だった。
「少し長い話になるけど、最初から話す必要がありそうだな」
英字は真面目な顔で話を始める。
「私が君のお父さんに初めて会ったのは、今から20年以上前……君が生まれる前のことだ。当時の日本術者界は、後に『闘争の時代』と呼ばれる混乱の中だった。毎日紛争が起こって、誰かの血が流れることも珍しくなかった悲惨な時代……その途中で、たった16歳の人狼が一族の体表になり、人々の前に姿を現した」
優は英治の話を注意深く聞いた。
「私を含めて、最初は誰一人もその若い人狼を信用しなかった。当然なことだ。みんな人狼に関してはいい思い出がなかったし、中には先祖や家族が人狼に殺された人もいたからな。その若い人狼が孤立したのは必然だった」
むしろ孤立しなかったらおかしいだろう。優はそう思った。
「私は真田一族の滅亡を予感したよ。混乱の時代、力もないのに孤立してしまうと滅亡するのが摂理だからな。しかし私の予感は見事に外れた」
英治が優の顔に視線を送った。
「若い人狼は、まるで自分の命を燃やすような勢いで強くなり始めた。あの成長は才能という言葉で説明できるものではない。頭脳と身体を極限まで活用して、毎日毎時間毎分、自分を鍛錬したものだけが手に入れられる成長……つまり狂気に近い執念がないと不可能なことだ」
優は思わず固唾を呑んだ。
「力だけではない。若い人狼は仲間も作り始めた。自分と同じく孤立した人々や、困難に陥った人々を助けて信頼できる仲間にしたのだ。それでいつの間にか若い人狼は周りから認められる存在となって、『闘争の時代』を終わらせるために頑張った。そして平和な時代が始まってからは、暖かい家庭を作ろうとした」
そこからのことは優も知っている。そもそも優と美奈こそが、その暖かい家庭の結晶だ。
「その姿を見て私はやっと分かったよ。若い人狼の執念は、自分の一族を守りたいという意志だったということを。形は違うけれど、私も一族を守るために動いている人間だから分かる。分かるからこそ、その人狼に……真田京志郎に感服したわけだ」
英治はいとも真面目な口調だった。
「しかも私には出来なかったことが、真田京志郎にはできた。つまり彼は暖かい家庭を作ることができた」
一瞬英治の声が悲しく聞こえた。
「これは言い訳だが、日本術者界を安定化させることに忙しくて……私は娘たちに十分な愛情を注いでやれなかった。妻も10年前に世を去ったから、あの子たちは暖かい家庭を知らない。豊かな生活を送らせてあげたけど結局それだけだ」
優自身も3年前に母を亡くした。しかしそれまでの間、ずっと愛情を受けていたから幸せだった。それなのに詩織は10年前、たった7歳で……。
「もちろん君のお父さんの力が必要なのも事実だ。しかし私はそれ以上に……あの真田京志郎の息子なら、詩織に暖かい家庭を作ってあげられるだろう……そう期待している」
予想外の発言だ。優は反応に困った。
「これで私が何故婚約を進めたのか、理解してもらえたかね」
「はい、しかし……」
しかし自分はお父さんのような人ではありません。優はそう言いたかった。
「まあ、君の気持ちも分かる。確かに急ぎすぎたな。それでは……まず詩織と友達から初めてくれ。婚約は二人が心を決めるまで『保留』にする。それでいいかな?」
「……分かりました」
優の答えに英治が頷く。
「じゃ、詩織のことをよろしく頼むよ。あいつは、ああ見えても実は寂しがり屋だ」
「はい……」
二人の会話はそこで終わった。優は挨拶して部屋を出た。
---
「それで、父と何の話をしたんですか?」
エレベーターの中で、詩織が単刀直入に質問した。しかし優はその質問にどう答えたらいいのか分からなかった。
「何の話をしたのかって聞いています」
「いや、それが……」
優が目をぎゅっと瞑る。
「くっそ、くっそ、くっそ……」
「何しているんですか?」
「何で俺に……何で俺が……!」
優の呟きに、詩織が何もかも分かったような顔で笑う。
「ふふふ、ほらね。私の父に逆らうことはできないって言ったでしょう?」
「くっそ……」
「貴方の腕では絶対無理です。ぶち殺されなかったことを感謝しなさい」
「そんなんじゃない……そんなんじゃないんだよ……」
優は必死に首を振ったが、詩織は嘲笑うだけだった。
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