7話.一つ目(後)
意外と緊張はしなかった。いや、むしろ嬉しかった。ついにこの馬鹿げた物語も終わるのだ。
俺は霊気を操って、敵の数と状態を調べた。数は一、そしてこの人間と魔物が混ざったような気配は……。
「……人狼だな」
確かここからそう遠くない屋敷に人狼の一族が住んでいる。直接会ったことはないが、噂なら何度も聞いた。相当強くて残酷なやつらだそうだ。
人狼か……敵として不足はない。俺は霊気を操って自分の気配を隠し、敵のいる方向へ向かった。正々堂々と戦うのもいいけど、相手は故郷を侵略した敵だ。不意打ちされても文句は言えないだろう。
やがて敵に十分近づいた俺は、こん棒とそれを握った手に霊気を宿らせた。巨大な猛獣も一撃で殺せるほどの力だ。いくら人狼だとしても……。
しかしこん棒を振ろうとした瞬間、俺は思わず止まってしまった。敵が……あまりにも小さい。俺の半分? そのくらいにしか見えない小さな……人間の女の子だ。
「あ!」
女の子が俺の存在に気づいて大声を出した。白い肌に小さな顔、細い体が印象的だった。目が二つもあるのがちょっと残念だけど。
「ま、魔物!」
俺は迷った。敵の姿と様子が想像とはまったく違うからだ。
俺が想像していた術者共は、殺意に満ちて魔物なら容赦なく皆殺しにするやつらだ。しかし目の前にいる女の子は、どこをどう見てもそんなやつらではない。
いや、騙されるな。こいつは人狼だ。変身すれば猛獣になって俺を殺そうとするだろう。
「……何しているんだ?」
「しゃ、喋った……!」
女の子は相当驚いたようだった。
「魔物の中では人間と同じ言語で喋るやつなんてごまんといる」
「そ、そうだよね」
「それより何しているんだ? 俺を殺すために来たんじゃないのか?」
「それは……そうだけど」
「ならさっさと人狼に変身しろ」
敵が子供の姿のままじゃ戦いにくい。殺しにくい。
「私が人狼だって分かるの?」
「それくらいはすぐ分かる」
「そうか……じゃ、変身するね!」
俺は素直に敵の変身が終わるまで待った。しかしいくら待っても敵は小さな女の子のままだ。
「……あ、あれ?」
女の子が慌てた。俺は何となく分かってきた。
「お前、今日が初陣か?」
「ういじん?」
「今日が初めての戦いなのかと聞いているんだ」
「それは……そうだけど」
やっぱりな。昔の俺と同じだ。
「お前は緊張しすぎている。それでは普段できることもできなくなるぞ」
「じゃ、どうすれば……?」
「深呼吸でもして、まずは体の力を抜け。平常心ってやつだ」
女の子は俺の言う通り何回か深呼吸をした。それでちょっと落ち着いたようだ。
「じゃ、もう一度!」
「うむ」
「変身!」
やっと女の子の姿が変化し始めた。背が伸びて、人間の服は消え去り、灰色の毛が生えてきた。そして顔も体も狼のように変わった。
まだ俺よりは小さいけど、立派な人狼になった女の子は狼の顔で得意げに笑った。
「どう? 私にもできるってば!」
「そうだな、よくやった」
俺は素直に頷いた。
「ところで一つ聞きたいことがあるんだが」
「聞きたいこと?」
「人狼たちは変身する前に『変身』とか言わないと駄目なのか?」
「い、いや……それは……」
「変身するやつなら何度か見たけど、これから変身するって敵に知らせるやつはいなかった」
「そ、それは……じ、人狼はみんなそう言わないと駄目なの!」
「そう?」
「そうよ!」
「ふむ、不利になるだけだと思うが……何か儀式みたいなものか」
何故か女の子の顔が赤くなった。また緊張し始めたのかな?
「まあ、どうでもいいだろう。変身できたからかかってこい」
「も、もちろんよ!」
しかし女の子は動かなかった。そして俺も動かなかった。俺たちは互いを見つめながら、何かを考えていた。
俺はふと気づいた。女の子も俺と同じことを考えているのだ。つまり、敵が想像とは違うのだ。
何故か悲しくなった。何故俺たちは殺し合わなければならないんだろう? 俺たちが殺し合って一体誰が得をするんだろう?
「……泣いているの?」
女の子が聞いた。俺は急いで涙を拭いた。
「いや、泣いてなんかねぇ。目にゴミが入っただけだ」
いい歳して子供に涙を見せたことが恥ずかしかった。女の子はそんな俺をじっと見つめてから、口を開く。
「一つ聞いてもいい?」
「何だ」
「貴方は人を殺したりしないの?」
その簡単な質問が、俺が忘れていた感情を呼び覚ました。
「……殺したくねぇよ」
「ん?」
「殺したくないんだ。俺は……」
俺はこん棒を手放した。こん棒は重い音と共に地面にぶつかった。
「俺は普通の人間も、術者も、人狼も、誰も殺したくないんだ。なのに何故お前たちは俺を殺そうとする? 何故俺の故郷を奪おうとする?」
「そ、それは……」
「答えてくれ。何故だ?」
俺の一つしかない目にまた涙が溜まった。その姿を見て、女の子は変身を解いて人間の姿に戻った。
「あ、あの……」
「答えてくれ……」
泣いた。泣き続けた。俺の寂しさと怒り、そしてその中の悲しみがそのまま涙になって流れてきた。そしてそんな俺の姿に女の子は慌てた挙句、突然洞窟を出て行ってしまった。それで俺はまた一人になった。
---
その後、俺はあの女の子とのことを何度も何度も考えてみた。そして更に悲しくなった。
敵が完全なる悪だと思っていた時は何もかも簡単だった。俺が作っていた物語のように。しかし実はそうではなかった。
何故こんなことになったんだろう? 何故あの女の子と俺は互いを敵対視しなければならないんだろう? 俺はただ故郷を守りたいだけで、あの女の子も本当は優しい子のはずなのに。
それは俺一人の力では解決できないことだった。今度またあの女の子が来れば、本当に殺し合うことになるかもしれない。
どうしようもない悲しみが続いて、俺は落ち込んでいた。そのせいでまた誰かが洞窟に入ったことにも気づかなかった。
「あ、あの……」
「あ!」
俺は驚いて、即座に立ち上がった。振り向いたらあの女の子が、その小さな顔に憂いの表情を浮かべて俺を見つめていた。
「お、お前は……」
「あの……」
俺たちはまたしても互いを見つめながら、何も言わずにいた。
「あの……すみませんでした」
やがて女の子がそう言った。俺はその言葉が理解できなかった。
「え? すみません……って?」
「はい。貴方のことを、勝手に人間を害する魔物だと思って……退治しようとして」
「あ、そういうことか」
何故かまた涙が出てきた。俺は迅速に涙を拭いた。
「いいよ、別に。俺も術者のことを、人狼のことを勝手に思っていた」
「本当にすみませんでした」
女の子が頭を下げた。俺は慌てた。
「もういいって」
「でも……」
「俺がいいって言っているからいいんだよ。お嬢さんが謝る必要は何もない」
それでやっと女の子は頭を上げた。しかしまだ悲しんでいる顔だ。
はっと気付いた俺は、洞窟の奥から座布団を持ってきて女の子の前に敷いた。
「こ、ここに座って」
女の子は素直に座布団に座った。小さな女の子にはあまりにも大きな座布団だ。俺も地面に座った。
「洞窟の中が汚くてすまない。普段から掃除をしておくべきだった」
「いいえ、大丈夫です」
「食べ物でも出して、もてなしたいところだが……一つ目の食べ物は、たぶん人間の口には合わないはずだ。すまない」
「大丈夫です……実は最近ちょっと太ってしまったので」
「え? 俺の目には痩せすぎに見えるけど……人間ってそんなものか?」
「いえ、それは……違うと思います。たぶん」
女の子は何故かちょっと嬉しそうだった。
「そう言えばお互い名前も知らないな。俺は長介ってもんだ」
「真田美奈と申します。あの、長介さんって呼んでもいいんですか?」
「かまわない。好きに呼んでくれ」
何か不思議だった。まさか人間とこうやって話し合う時が来るとは。
「お嬢さんは大きな屋敷に住んでいる人狼一族の一人なんだろう? 噂は聞いたことがあるよ」
「はい、屋敷で家族と共に住んでいます」
「やっぱりそうか。でもそうだったら、お嬢さん一人でこんな森の奥まで入ってきたことについて家族たちが心配すると思うけど」
「わ、私も人狼ですし、一人で大丈夫です!」
真田美奈はちょっと怒ったような顔になった。
「……実は、私が先日ここに訪ねたのもそれを証明するためでした」
「証明?」
「はい、私も一人で……戦えるって」
それから美奈はいろいろ話してくれた。お父さんが戦い方を教えてくれないこと、それでお兄さんに頼んだが無視されたこと、ついカッとなって一人で魔物を狩りに来たこと……。
「そうか、そんな事情があったのか」
「お兄ちゃんに無視されて本当にムカついたんです。あの馬鹿お兄ちゃんは私のおかげで助かったくせに……」
「お嬢さんのおかげで?」
「はい!」
美奈は彼女のお兄さんである『真田優』と一緒に悪霊を退治したことを話してくれた。
「それなのにずっと私のことを無視して……あの馬鹿お兄ちゃん……」
「それはどうかな」
「はい?」
「お嬢さんのお兄さんはお嬢さんのことを無視したんじゃなくて、心配したんだと思う」
「心配……?」
「そう。ただ言い方が下手くそなだけで、妹のことを心配して戦わせたくなかったと思う」
「で、でも私は……」
「もちろんお嬢さんの気持ちも理解できる。自分が認められなかったら誰でもいやになるはずだ。でもお兄さんはお嬢さんのことを大事にしているから戦わせたくないんじゃないかな」
俺は伸介とのことを思い浮かべた。
「……俺の兄弟も昔から俺のことをよく小馬鹿にしたけど、結局は誰よりも俺のことを心配してくれた。お嬢さんのお兄さんも同じじゃないかな」
「それは……」
「家族の態度にムカつくことも普通にあるさ。しかし家族だってお嬢さんのことを嫌ってそんな態度を取ったんじゃないと思う。だから家族のことを少し理解してやるのも悪くない……と思う」
「……はい」
「まあ、俺もお嬢さんに説教できるほど偉くはないがな」
俺は苦笑した。若者に説教とは完全におっさんだ。まあ、実際に3百歳を超えたんだからおっさんだけど。
「あの、長介さんのご家族は?」
「俺の家族?」
「はい。ここで一緒に住んでいるのかな、って」
「……俺の家族は、ここから出てしまった」
「どうしてですか?」
答えるか否か、俺はちょっとためらった。しかし今更隠す理由はない。
俺は全部話した。術者たちがある日から残酷になって俺たちは狩られるようになったこと、それで同族たちが一人ずつ逃げていったこと、結局頑固者である俺だけが残ってしまったこと、伸介が俺を説得しにきたけど追い出したこと……。
「それでもう十年以上一人で暮らしているんだ」
「そんな……」
「まあ、伸介のやつもやつなりに俺のことを心配してくれたんだけど、俺はここから離れたくない。ここは故郷であり、一族が眠っている場所でもあるから」
美奈は悲しい顔になった。そんな彼女を見ていると、俺も何故か心が痛む。
「長介さんの気持ちも理解できますが……」
いつの間にか美奈の瞳に涙が溜まっていた。
「長介さんは……ご家族のところへ行った方がいいんじゃないかな、と思います」
「……何故そう思う?」
「確かに故郷も大事ですが……それは家族と一緒に暮らした場所だからだと思います。だから……」
「そうかもしれない。しかし……ここにはお父さんもお母さんも眠っているんだ」
「長介さんの両親も……長介さんが家族のところへ行ってほしい、と思っているんじゃないでしょうか」
俺は反論しなかった。
「すみません。生意気なこと言ってしまって……」
「いや、お嬢さんの言った通りだ」
不思議な気持ちだった。美奈は俺の話を真面目に聞いて、俺の気持ちを理解してくれて、俺のことを心配して優しく助言してくれているんだ。俺に必要なのは正にこれだった。
力でも論理でもない。小さな女の子の素朴な心が、俺の心を動かしたのだ。
「お嬢さんのおかげで心が楽になった」
「じゃ……」
「俺は……ここを出る。ここを出て伸介のところへ行く」
美奈の顔が明るくなった。本当に可愛い娘だ。目が二つもあるのがちょっと残念だけど。
俺は席を立った。すると美奈も席を立った。別れる時が来たのだ。しかし別れる前に……。
「お嬢さんにお礼がしたい」
「はい?」
「何かお土産になるものはないかな……」
美奈が首を横に振る。
「いいえ、大丈夫です。お土産までもらうわけには……」
「遠慮する必要はないよ。でもお土産になるようなものが……」
何もない。俺は元々貧乏だし、この洞窟に何かお宝があるわけでもない。
「……あった!」
一つだけあった。俺は手を伸ばして、霊気の核を作り出した。小さな太陽みたいな核だ。
「長介さん、それは……?」
美奈がちょっと驚いた顔で聞いた。
「この洞窟の霊気で作った核だ。見ての通り凄まじい力を持っている。普通には人間が扱えるものではないが、俺が命令すれば問題ない」
俺は霊気の核に向かって命令した。
「これからこのお嬢さんの言う通りにして、お嬢さんを守れ」
霊気の核が美奈に近づいた。彼女を新たな主人として認識したのだ。
「この光の玉は……生きているんですか?」
「いや、そいつは生物でも魔物でもない。そいつは……そうだな、機械みたいなものだ。これからはお嬢さんの言うことに従うだろう」
「機械……」
「そのままだと眩しいから、姿を消せと命令してみて」
「……姿を消して」
美奈が小さな声で命令した。すると早速霊気の核が見えなくなった。
「簡単だろう? そいつはお嬢さんを守るために作動する。もう普通の術者や魔物はお嬢さんに指一本触れることもできない」
「こ、こんな凄いものをもらうわけにはいきません」
「いいって。俺にはもう必要のないものだ」
美奈は何度も遠慮したけど、俺は同族一の頑固者だ。彼女はお土産を受け取るしかなかった。
「……本当にありがとうございます」
「俺の方こそいろいろありがとう。じゃ、俺はこれから旅立つ支度をするよ」
「はい。では、私はこれで……」
「うん、元気でな」
何度も頭を下げた後、美奈は洞窟を去った。急に寂しくなった。
「じゃ……俺も準備するか」
まず洞窟の中を掃除した後、荷物を整理した。荷物と言ってもこん棒と毛皮の服くらいだ。残りは故郷に任せてもいいだろう。
「みんな、いつかまた来るよ」
俺はその言葉を最後に、洞窟を出た。何故かお父さんとお母さんの姿が浮かび上がった。二人は笑っていた。
十年ぶりの太陽は大変眩しかった。でも気持ちのいい眩しさだ。
「そうだ」
同族たちのいるところに行ったら、物語を作ろう。一つ目と人間の少女が二人で旅をしながら、いろんな魔物といろんな人間と出会って、平和のために頑張る物語を。
そしていつかはその物語りを魔物たちにも人間たちにも聞かせたい。その夢こそが真田美奈からもらった、私の小さな太陽だ。
---
その日の夜、美奈は勝手に森に入ったことがバれて、父の京志郎に厳しく怒られた。
「お前はその魔物に殺意がなかったから助かっただけだ。そうじゃなかったらとっくに死んでいる」
「……ごめんなさい」
優はそばでその光景を見ながらいいざまだと思ったが、だんだん妹が可哀想に思えてきた。
「父さん、こいつに説教しても無駄だよ。どうせ聞かないし」
美奈が優を睨みつけたけど、もちろん優はびくともしない。
「それよりこいつに戦い方を教えた方がいいんじゃないかな」
「何故そう思う?」
「こいつがいつも自分勝手に行動するのは、自分自身の弱さを知らないからだ。強い魔物に一人で喧嘩を売ったしさ。だから戦い方を教えて、現実の厳しさを思い知らせた方がいいと思う」
優の説明に美奈はちょっと驚いた。そして京志郎はちょっと考えてから頷いた。
「確かに悪い考えではないが……一つ条件がある」
「条件?」
「私は時間がなく、叔父は体が不自由で、美佐江は戦い方に詳しくない。つまりお前が美奈に戦い方を教えなければならない」
「げっ」
そう言えばそうなるんだ。優は自ら地雷を踏んでしまったことに気付いた。
「くっそ、分かったよ」
「それに美奈、お前は治療術者にその霊気の核を見てもらえ。何か隠れた危険性があるかもしれない」
「はい」
美奈が素直に答えると、京志郎は兄妹を残して本館に入った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「何で急に心が変わったの?」
「その方が効果的だと思っただけだ」
「本当にそれだけ?」
「じゃ、他に何があるんだよ。お前はちょっと現実を知った方がいい」
優は背中を向けた。
「それに……お前が戦闘術者になりたいんならそれはお前の自由だから、俺が何だかんだ言うのもあれだし。だから先日は……ちょっと言い過ぎたかな、と」
「それはごめんなさいって意味?」
「知らねぇよ」
背中を向けたまま、優も本館に入った。美奈は何故か笑いが出た。
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