5話.狼の歴史

 次の日、優は屋敷の板の間に座って、真田家伝来の精霊術の書を開いた。

 体がちょっと重かった。昨日蒼鬼たちと戦ったせいだ。しかし東京で餓鬼と戦った時と比べれば格段に反動が減った。実戦を重ねている内に変身が慣れてきたのだ。

 でもまだまだ弱い。今の成長は、時間を無駄にしたこの3年間を取り戻しているだけに過ぎない。だから本当の意味での成長とは言えない。これからは一族一の天才と呼ばれた昔の自分を越えていかなればならない。強くならなければならない。

 せめて父さんの半分くらいの力を……と考えていたところ、いきなり大きな声が聞こえてきた。


「お前が勉強だと!? これは驚いたな!」


 真田清次郎だ。白髪の老人が自ら車椅子を動かして近づいてきた。


「一族一の天才様じゃなかったのか? 勉強なんかしなくても強いんじゃなかったのか?」

「うるさい」

「学校も飛び級したやつがさ、もう頭が悪くなっちまったのか?」

「うるさいって言ってんだよ! このクソ爺!」


 怒鳴ったが清次郎はびくともしない。


「大体術者の実力ってのはさ、長い年月をかけて積んでいくものだ。お前みたいに才能だけ信じているやつは成長しねぇよ」

「ふん、爺は父さんより2倍以上生きたくせに全然弱いだろうが。何が年月だ」

「このクソガキが……私の足が不自由じゃなかったらお前なんかワンパンなんだよ」

「その空威張りならもう聞き飽きた」


 優は周りを見回した。しかし誰もいない。京志郎は調査することがあるからって朝早く外出し、美佐江は仕事で術者集会所に行き、美奈は登校した。つまり清次郎の相手をする人間は優しかいない。


「くっそ、だからここにいたくないんだよ」


 優が露骨に愚痴を言ったが清次郎はまた無視する。


「しかもさ、京志郎は今のお前より幼い歳で当主になり、闘争の時代にも一族を守り抜いたんだ。滅びかけていた真田家は京志郎のおかげで生き残ったんだよ。家が嫌いになって出てしまったお前なんかと一緒にするな」


 その言葉に優は口を閉ざす。すると逆に清次郎が緊張する。


「な、何だ? 本気で怒ったのか? いや、私はな……」

「へん、怒ってない。慌てるなよ、爺」


 優が笑った。


「それより爺、今の話、もっと詳しく聞かせてくれ」

「今の話?」

「うん、父さんのおかげで真田一族が生き残ったってことは俺も知っている。他の爺さんたちが生きていた頃、何度も聞かされたから。でも詳しいことは全然知らない」

「そうか」

「父さんがどう戦ってどんな活躍をしたのか、聞かせてくれよ。父さんの強さの秘訣が分かるかもしれないし、何らかの参考になるかも」


 清次郎が苦笑した。


「強さの秘訣か……よし、分かった。真田家の最年長者であるこの清次郎が、ありのままの出来事を話してやろう」

「ありがとう」


 優は清次郎に向かって正座した。清次郎は咳払いしてから話を始める。


「真田家と言えば、普通はあの有名な戦国時代の侍のことを思い浮かべるが、お前も知っている通り我が一族はあの侍たちとは関係がない。我々は北海道伝来の精霊術と人狼の力が使えることで有名な『術者一族真田家』だ。昔は『日本一の術者一族』と呼ばれた時代もあったんだよ。しかし人狼の力に酔っていろいろ悪事を働いた結果、周りのやつらが全部敵になって……結局滅びの道を辿ることになった」

「うん」

「しかも人狼って半分魔物だからな。『魔物隔離原則』が作られてからは完全に孤立したんだ」

「それ、決められた領域から離脱した魔物は全部消滅させる原則のことだな?」

「そうだ。およそ百年前、術者界を率いていた偉いやつらが集まって作ったものだ。『大陰陽師安倍晴明』が作った『害のない魔物とは共存する』という原則を覆して、『魔物は皆殺しにするべし』になったわけだ」


 優の顔が強張る。


「その時から我が一族は『呪われた一族』と呼ばれ始めた。極端なやつらは半分魔物も皆殺しにするべきだと主張した。そして実際に何度も何度も攻撃を受けた」


 清次郎は淡々と言ったが、彼はそんな時代を直接経験した。優は改めてそれを実感する。


「それで我が一族はボロボロになって没落した。そして『術者界の戦国時代』……いわゆる『闘争の時代』が始まった頃には、もう十数人しか残っていなかった。正に風前の灯だったな。そんな状況で、16歳の京志郎が当主になった」


 16歳……今の優よりも一つ下だ。優は思わず固唾を呑んだ。周りは敵だらけ、一族は少数でしかもほとんどが体の不自由な老人……一体どうやって守り抜いたんだろう。


「そこで京志郎はまず敵に頭を下げて……和平の道を探った」

「和平か。まあ、現実的にそうするしかなかったはずだけど……そう簡単にできるものかな?」

「もちろん大変困難だった。『人狼は残酷で好戦的な連中だから滅亡させた方がいい』と認識しているやつらがほとんどだったからな。だから京志郎はそうではないってことを証明しようとした」

「どうやって?」

「人狼による被害を受けたことがある術者たちに謝罪して、どんな侮辱を受けても耐えた。そして助けを求める術者たちには手を貸して、味方を作った。それに仕掛けてきた敵も制圧した後は生かして返した……どうだ、簡単そうに聞こえるか?」


 優は首を横に振った。今の優には到底無理なことばかりだ。


「そうしている間にも、我が一族の中で犠牲者が出た。『人狼狩り』という、人狼を殺す行為が正しいと信じているやつらがいたんでな。しかし京志郎は和平の道を諦めなかった」


 俺だったら……たぶんすぐ諦めたはずだ。優は少し落ち込んだ。


「それで数年後には必死な努力が実を結んで、『人狼は嫌いだが真田京志郎は信頼できる』とか、『人狼も悪いやつらばかりではない』と言われるようになった。やがて闘争の時代が終わって術者界が安定した時は、偉い連中が集まって『人狼だとしても無暗に殺してはいけない』と宣言した。半分魔物である我が一族を正式に認めてくれたわけだ」


 清次郎が優の顔を見つめた。いつもとは違う、本当に孫を心配している表情だ。


「分かったか? もちろん京志郎は日本の中でも指折りの術者だ。たぶん戦闘能力だけなら誰にも負けないだろう。しかしそれが京志郎の強さの秘訣ではない。力に酔っていた他の当主たちは一族を破滅に追い込んだんだが、京志郎は一族を守り抜いたんだ」

「そうだな」

「失望した? 何か凄い術でも期待したのか?」

「いや、むしろ感心したよ」

「そう?」

「うん、やっぱり俺には無理だった。父さんの真似すらできやしない」


 優は素直に認める。


「俺は父さんみたいな善人でもないし、責任感も忍耐力もない。平和を望む心もなく、友達を作れるコミュ力もない。俺は俺自信のことだけで精一杯だ」

「そう簡単に決めるなよ。お前はまだまだこれからだ」


 清次郎は優しい声でそう言ったが、次の瞬間いつもの意地悪そうな顔に戻る。


「まあ、確かなのはお前が術者一族真田家の最後の継承者ってことだ。何せお前は結婚できないはずだからな。没落した一族の長男で、お金もないくせに性格も悪い。そんなやつの嫁になる娘なんか存在しないんだよ」

「そいつは同感だ」


 優は精霊術の書を開いて勉強を再開する。清次郎はそんな孫の姿をしばらく見守った後、静かに自分の部屋へ向かう。


---


 午後3時まで勉強したら、流石に疲れてきた。優はちょっと休みながら考えを整理した。


「やっぱり俺が愚かだったな」


 今日勉強したのは精霊術の基本となる簡単な技だ。昔の優もこれを勉強したけど、その時は『こんな簡単なものにそこまで頑張る必要はない』と思って無視した。しかし今日、その簡単な技の大切さがやっと分かった。

 いや、むしろ簡単な技こそが一番大事だと言えるかもしれない。派手で複雑な必殺技はもちろん強いけど、実戦ではその技を出すまで相手が待ってくれないし、体力と術力の損耗が激しくて自爆の可能性すらある。だから使いにくい。それに比べれば簡単な技は戦いの中で思う存分使える。

 昨日父が見せてくれた技を思い出した。『精霊水流術(せいれいすいりゅうじゅつ)』という、精霊術で目標に力を加える簡単な技……しかしその簡単な技も極めれば、必殺技級の威力になるわけだ。

 そう思った瞬間、ちょっと唖然とした。簡単な技をそこまで極めるためには一体どれほどの努力が必要なんだろう? 一体どれほどの実戦を経験しなければならないんだろう?

 優はやっと自分の弱さの秘訣が分かった。ちょっと理解が早くて、他の一族より幼い歳で人狼の力が使えるようになったから天才と呼ばれた。しかし優は努力も実戦経験も十分にしていない。本当の強者から見ればただの生意気なガキだ。


「しかし今は……」


 今は違う。いや、今から変わる。今日から本当に強くなる。そう決心した優は精霊術の練習を始めた。簡単な技から、焦らずにじっくりと。それは優が生まれてから初めてのまともな努力だった。

 まず右手にオーラを纏わせる。精霊術特有の青いオーラ……そして精神を集中し、オーラを右手から全身に広がせる。


「凄い!」


 いきなり後ろから声がした。妹の美奈だ。


「お兄ちゃん、それって精霊術なんでしょう?」


 美奈は制服姿だった。下校したばかりなんだろう。


「それ、私にも教えて!」

「何言ってんだ、こいつ」


 優が眉をひそめる。せっかく鍛錬しているのに邪魔だ。


「教えてもらいたいんなら父さんとか爺に言え」

「お父さんもお爺ちゃんも教えてくれないの!」

「じゃ俺も教えられないな。一族の当主はあくまでも父さんだ。当主の意見を無視するわけにはいかない」

「……この馬鹿お兄ちゃんが……お父さんの言うことなんか聞いたことないくせに……」


 美奈が目くじらを立てた。優はそんな妹が物凄く面倒くさくなった。


「ほら、精霊術の書ならそっちにある。本読んで勝手に勉強しろ」

「じゃさっきに解読の術を教えなさいよ! 私はあれ読めないの!」


 精霊術の書には特殊な術式が描かれていて、それを読むためには解読の術を使わなければならない。そしてもちろん美奈はその術を教えてもらったことがない。


「俺に知ったことか……そもそも何で精霊術を勉強する気なんだよ」

「それは当然でしょう? 私も戦闘術者になるんだから!」

「ふざけるな。お前には無理だ」

「何でそういうふうに言うのよ……私が女だから喧嘩は駄目とか思ってるの!?」

「違う」


 美奈に危ないことをさせたくない。たぶん父さんも爺も同じ気持ちなんだろう。


「私も人狼の力を制御できるし、戦闘術者だってなれる」

「だから無理だと言っている」

「何で!?」

「お前が俺よりも弱いからだ」


 優が冷たい口調で言った。


「俺が死にかけたことは知っているだろう。俺よりも弱いお前だったらもうとっくに死んでいる。

人狼の力が制御できるって? 俺の半分の力もないくせに」

「わ、私も鍛錬すれば……」

「無理だ。普通の勉強をして、普通に生きろ。それがお前のためだ」


 優は精霊術の書を持ってその場を去った。美奈は何も言えないままお兄ちゃんの後ろ姿を見つめるだけだった。

 一人になった美奈は膝を抱えて座った。


「お兄ちゃんの馬鹿」


 お父さんもお爺ちゃんもお兄ちゃんもみんな馬鹿……美奈は涙が出そうだった。

 ふと昔のことを思い出した。14歳で人狼の力を制御できるようになったお兄ちゃんが、魔物を一匹狩ってきたことがあった。それでお父さんを除いたみんながお兄ちゃんのことを褒めた。流石一族一の才能の持ち主、天才って。

 美奈もその時、悔しいけどお兄ちゃんのことが凄いだと思った。そして自分もそうなりたかった。


「……そうだ!」


 そうなればいい。つまり自分も魔物を一匹狩って来ればいい。そんな結論に至った。

 「確かあの森の奥にはまだ魔物が……」

 真田屋敷から約2時間くらい歩けば辿り着ける森の中には、魔物が住んでいる洞窟がある。しかし人の住んでいる街とは結構離れているせいで、戦闘術者たちもまだ狩りに行ってない。だから無暗に近づいては駄目だ……と教えてもらった記憶がある。


「……よし!」


 そしてたった今、美奈はその教えに逆らう決心をした。

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