3話.悪霊

 何か暖かい夢を見ていた優は、目を覚まして周りを確認した。見慣れた部屋……そこは自分の部屋だ。しかしいつもとは違って、誰かが傍で彼を見守っている。


「……母さん?」


 母さんは心配げな顔だった。それは昔、優が酷い風邪で倒れた時、母さんが見せたくれたあの顔だ。


「母さん……」


 優の目に涙がたまった。またその顔が見られるとは思わなかった。


「お兄ちゃん」


 その声が現実を知らせた。優はやっとその人が母さんではないことに気づいた。


「……美奈(みな)」

「お兄ちゃん、大丈夫?」


 優は上半身を起こして、傍に座っている少女を見つめた。女性的な顔の優とも似ているが、誰よりも母さんに似ているその少女は一つ下の妹……真田美奈だった。


「大丈夫なの?」


 妹がもう一度聞いた。優は視線をそらし、涙を隠しながら無愛想に答える。


「気にするな」


 それは優自身が考えてもとんでもない答えだった。妹が本当に気にしなかったら自分はもう死んでいるところだ。


「……ありがとう」


 ちょっと戸惑った後、そう訂正した。しかし美奈は笑い出す。


「何がありがとうだよ、この馬鹿」


 感謝して損した。忘れていたけど、妹はこんなやつだ。


「俺が倒れてからどれほど経ったんだ? 俺の携帯はどこだ?」

「丸一日経ったよ。お兄ちゃんの携帯はここ」


 美奈が携帯を渡してくれた。


「電話なんてまったく来なかった」

「時計代わりなんだよ。不満でもあるのか?」

「いいえ、不満なんかありません」


 美奈が舌を出して笑う。優以外の人にはその顔が可愛く見えるかもしれない。


「お兄ちゃんの職場には私が行って話しておいたよ」

「俺の職場?」

「ルシードドリームという店」


 優が美奈を睨みつける。


「何でお前がそこに行くんだよ。いや、そもそもそこがどういう場所なのかは知ってるのか?」

「狩りの仲介所でしょう? だからお兄ちゃんがしばらく狩りに行けないって言っておいたの。そこのバーテンダーさんもお兄ちゃんのこと心配してたのよ? そんな状態なのに何故何も言わず我慢していたのかって」

「誰が狩りに行けないってんだ?」

「お兄ちゃんが」

「俺は…!」


 優が声を上げると、美奈が手を伸ばして優の肩を軽く押す。優はその軽い力に押されてそのまま横になる。


「今のお兄ちゃんなら私でも勝てる。何が狩りだ」

「くっ……」

「だから大人しく休みなさい。この馬鹿」


 確かに今の状態では妹にも勝てない。もしこれ以上体を動かそうとしたら、妹に殴られるかもしれない。それはまさに屈辱の極みだ。ここは大人しくするしか……。


「……ところで、ここはどうやって来たんだ? アパートの扉はどうやって開けた?」

「私も一応術者なの。お兄ちゃんのいる場所なんかすぐ見つけられる。そして扉は……まあ、窓でこっそりと」

「お前、不法侵入って言葉は知ってるのか?」

「お兄ちゃんがそんなこと言っても無駄。私のおかげで助かったくせに」


 それはそうだ。優は別の攻撃方法を探す。


「……お父さんにはちゃんと説明したのか? お前がここに来ていること」

「いいえ」

「じゃ、何の説明もなく家を飛び出したのか? そんなことしてどうすんだよ」

「何の説明もなく家を飛び出て、一人暮らししてるお兄ちゃんには言われたくない」


 それもそうだ。結局のところ、力でも言葉でも妹には勝てない。


「食べ物買ってくる。じっとしていて」

「おい、お金は……?」

「あるよ、お兄ちゃんのお金が」

「こいつ……」

「とにかくじっとしていて」

「美奈!」

「ん? 何?」

「お肉」

「は?」

「お肉買ってこい」

「はあ……分かった、分かった」


 美奈がアパートを出た。優は妹がいない間に体を動かそうとした。しかしままならなく、すぐ疲れて眠ってしまった。


---


 優が動けるようになったのは次の日だった。たった一日でそこまで体力を回復できるのは人狼としての特権だ。

 優は外に出る支度をしながら妹の方を振り向いた。ありがたかった。しかし口から出た言葉は、ありがたいという気持ちとは裏腹だった。


「お前はもう家に帰れ」

「いやだ」


 美奈がきっぱりと撥ねつけた。だが今度は優も引かない。


「お前まで家を出てどうすんだよ。さっさと帰れ」

「いやだって言ってるの。私もお兄ちゃんのように自力で暮らすんだから」

「馬鹿なこと言うな」


 声が少し高くなる。


「そもそもお前がどうやって自力で暮らすんだ」

「お兄ちゃんと一緒に暮らしながら、魔物狩りでもすればいいんでしょう?」

「魔物狩りは遊びじゃない。しかもお前には資格がない。術者評価審査も受けてないんだろう?」


 美奈が口を閉じて、泣き出しそうな顔になる。


「そもそも俺にはお前と一緒に暮らすつもりも、余裕もない。看病してくれたのはありがたいけど早く家に帰れ」


 妹の答えを待たず、優はそのままアパートを出た。


---


 何故かその日は寂れた路地が一層寂しく感じられた。しかしそんなことを気にする暇はないと、優は自分に聞かせた。

 ルシードドリームの扉を開けると、いつものようにバーテンダーが迎えてくれた。


「来たか。体はもう治ったのか?」

「そうだ」


 まだ完全に治ったわけではないが、一応動けるようにはなったようだな……とバーテンダーは判断した。


「昨日お前の妹さんがここに立ち寄ったんだよ。お前が酷い術力反動のせいで動けないと話してくれた。誰かと違って礼儀正しいお嬢さんだったな」


 優は視線を逸らした。妹のことをあまり考えたくない。


「体の調子がそんなに悪かったら報告くらいしろ。何故隠したんだ?」

「そんなことはいいから獲物を出せ」


 優の冷たく言うと、バーテンダーは苦笑した。


「根性があるのは認める。しかし今日はお前に任せる獲物がない」

「嘘だろう」

「本当だ」

「じゃ、その引き出しの中に残っている位置追跡用の腕輪は飾りか?」


 優の指摘にバーテンダーは引き出しから腕輪を持ち出す。


「よく分かるな。腐っても術者ってことか。しかしこれはお前が狩れる獲物ではない」

「何故だ」

「これは普通の魔物ではなく悪霊だ。それも非常に質の悪い悪霊なんだよ」

「構わん。俺が狩る」


 バーテンダーがまた笑った。しかし今度は苦笑ではなく、冷たい嘲笑だった。


「身の程を知れ、人狼のクソガキ」


 バーテンダーの口調まで冷たくなっていた。


「お前が人狼だから戦闘に自信があるのは知っている。しかしそれはあくまでも雑魚を狩る時の話だ。術者のくせに物理的な力だけで戦うやつは所詮C+に過ぎない」


 彼は優の戦い方についてももう把握していた。


「その魔犬は確かに強力な魔物だった。しかしお前が物理的な力ではなく、別の方法で戦ったらすぐに制圧できたはずだ。もっと分かりやすく言えば、ここに来る戦闘術者の中でお前が一番弱いんだよ」


 あくまでも冷静な声で、相手を刺すような評価を下した。バーテンダーは元々冷静な人だが、怒ると冷酷になるようだ。


「何か危ない術を使ってギリギリ勝ったそうだけど、その反動で倒れたくせに。人狼の生命力がなかったらお前なんかとっくの昔に死んでいる」

「分かってる」


 優が静かに答えた。


「俺が弱いのは俺が一番よく分かっている」

「お前……」

「しかし今の俺には狩り以外にできることがない。だからやらなければならない」


 まさに意味不明な言葉だ。しかし優は真面目な顔だった。まるでその意味不明な言葉が自分の全てだと言っているかのように。

 バーテンダーはしばらく優の顔を見つめて後、腕輪の渡す。


「いいだろう。どうせお前のような馬鹿は長生きできない。今日死んでしまえ」

「……ありがとう」

「もし今日も生き残ったら、お前のようなやつも心配してくれる妹さんに土下座しろ」

「じゃ、行って来るよ」


 優はいつもとは違う、どこか力のない声で答えた。


---


 腕輪が示した場所は都心から結構離れた山の奥だった。複雑な山道を進んでやっとその場所に辿り着いてみると、暗い空の下に廃ビルが建っていた。獲物はその中にいるはずだ。

 廃ビルは何か専門的な用途のために建てられたようだった。元々は病院、または療養所のようなところだったんだろう。しかし今は物寂しい廃ビルに過ぎない。そしてその周りには邪気が漂っている。

 陰惨で強力な邪気……強い悪霊が居座っているに違いない。こんな強いやつが人の住む町に移動したら大変なことになる。

 他の魔物と違って人間の魂が変質した零体たち、その中でも悪霊の行動パターンはまさに予測不可能だ。数百年も同じ場所で居座る場合があれば、人間への恨みで移動し続ける場合もある。そのため強い悪霊を発見したら早期に退治する必要があるわけだ。

 優は少し周りの様子は見てから廃ビルの中に入った。暗くて寒かったが人狼には大した問題ではない。いや、むしろちょっと暗いほうが気楽だ。

 ふと昔の記憶が蘇った。小学生の頃、廃ビルで肝試しをしたことがある。その時は臆病で泣き虫だった妹の美奈が優の腕にぶら下がって泣き出した。それで優は妹に怒鳴った。

 いや、今は狩りに集中しろ。優は雑念を払おうとした。しかしその瞬間、後ろから気配がした。優は隙を見せず振り返った。


「……美奈?」


 後ろに立っていたのは妹だった。女性的な優の顔ともよく似ているが、誰よりも母さんに似ている妹が暗闇の中でこっちを見つめている。


「お前がどうやってここに……」


 疑問を口にした瞬間、答えが分かった。それは悪霊が作り出した幻だ。悪霊は人間の精神に侵食するために幻をよく使うと聞いたことがある。


「何だ、くだらないやつだったな」


 優は嘲笑った。


「まさか美奈の姿をすれば手加減するとでも思ったのか?」


 早速人狼に変身して、妹の幻を真二つに切り裂こうとした。しかしその時、異変に気づく。


「何……!?」


 変身が出来ない。いくら頑張っても小さな少年の姿のままだ。

 優は慌てた。まさか体の状態が悪いから? いや、そんなはずはない。最高のコンディションとは言えないが一応回復はした。変身すら出来ないはずはない。


「くっそ……」


 ならば答えは一つしかない。すでに悪霊の精神侵食にやられているのだ。つまり悪霊に出会った瞬間、もしくは廃ビルに入ったその瞬間からすでに幻による攻撃を受けて……今優が立っているこの場所はもう精神の中の世界なのだ。

 とんでもないやつだ。バーテンダーの警告は正しかった。物理的な力で戦うだけの優はこんなに強い幻を振り切ることが出来ない。このままではただの餌だ。

 優は精神を集中した。無理だと分かっても足掻くしかない。


「お兄ちゃん」


 突然美奈が、いや、美奈の幻が口を開いた。


「お兄ちゃん」


 感情のない妹の声に、優は両手で耳を塞ごうとした。しかしそれが出来ない。もう体の動きもままならないのだ。


「私は何故お兄ちゃんが家出をしたのか知ってる」

「黙れ」

「お兄ちゃんは、お母さんが亡くなったことが自分のせいだと思ってるんでしょう?」

「黙れってんだ」

「しかしもうお兄ちゃんが責任を感じる必要はないよ。だって……ここで死んでしまえばいいからね」


 美奈が笑った。綺麗だけどまるでマネキンのような、生気の欠片もない笑顔だ。


「お母さんが亡くなったのはお前のせいだからここで死ねばいいのよ」


 視界が揺らぎ始める。もはやしっかり考えることすらままならない。


「死んでお母さんを殺した罪を償え、真田優。私もお父さんも、叔母さんもお爺さんもお前に死んでほしいの。だから死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……」


 その呪いの言葉は後ろからも聞こえてくる。いつの間にか美奈が二人になっていたのだ。いや、二人だけではない。何十人の美奈が口を揃えて、笑いながら優を呪い続けている。


「俺は……」


 優が崩れるように膝をついた。


「ごめん……俺は……俺のせいで……ごめん……」


 そう、謝りたかった。幸せな家族を壊したのは自分だ。自分のせいで大事な人を失い、家族みんなに悲しい思いをさせた。だからずっと謝りたかった。

 しかしみんなは優しかった。お前のせいではないと言ってくれた。そんな優しい家族の顔をまともに見ることができなかった。だからある日、家を出て逃げた。

 今も呪い続けている美奈たちが本物かどうか、そんなことはもうどうでもよくなった。過去の過ちから逃げることもできない、ちゃんと自立することもできない、大事な妹の顔をまともに見ることもできない……ならいっそここで死んでしまう方が楽じゃないのか。そんな気がした。


「……そうだな。もうここで……」


 そう諦めた瞬間だった。何十人の妹たちの姿がいきなり消えて、たった二人だけが残った。そして一人の妹がもう一人の妹の胸倉を掴んで、大声を出す。


「お兄ちゃんを虐めるな!」


 その直後、優の目の前が赤い光に満ちた。そしてその光が鎮まった時、一人だけ残った妹と、彼女を包んている黒い霧が見えた。

 一体どういう状況なのか、理解できなかった。意識がまだ曇ったままだ。


「お兄ちゃん!」


 一人だけ残った妹が優を呼んだ。優は妹の顔を見つめた。それはさっきまで笑いながら優を呪っていたその顔ではない。それは昔、優が酷い風邪で倒れた時、母さんが見せたくれたあの顔だ。それに気づいた優は退魔術を展開し……妹を包んている黒い霧を攻撃した。


「消えろ……!」


 優の退魔術は粗雑で弱かった。しかし黒い霧……つまり悪霊も精神侵食から反撃されて随分弱くなっていた。そのため退魔術の白い光は悪霊の本体まで届いた。すると人間の声のようだが同時にとても人間の声とは思えない、低音の悲鳴が轟いた。


「お兄ちゃん!」


 美奈が優に走ってきて、腕を掴んだ。まるで小学生の頃、臆病で泣き虫だった彼女がお兄ちゃんの腕にぶら下がって泣いていたあの姿のように。しかし今の美奈は泣くことなく、優の退魔術に力を添えていた。


「消えてしまえ!」


 妹の力添えで一層強くなった退魔術の光が、悪霊の本体を捉えて蝕むように消滅させた。悪霊は禍々しい悲鳴を上げながら抵抗したが、やがてその悲鳴さえもこの世から消え去った。

 勝利を確認した優がよろけた。美奈がそんなお兄ちゃんを支えてくれた。


「お前が…とうやってここに来たんだ?」

「バーテンダーさんから連絡が来て……これを持って早くお兄ちゃんのところに行けって……」


 美奈は赤い宝石を手に持っていた。それは術力を貯めて一気に放出する貴重な道具だ。


「あいつが……」

「これのおかげで幻を破って、それで、それで……」


 美奈はそれ以上は言えず、優を抱きしめて泣き始める。


「ごめん、ごめん……! お兄ちゃん、ごめんなさい!」

「何でお前が謝るんだよ。馬鹿野郎が……泣くな」


 まるで泣き虫だった昔に戻ったかのように、美奈は泣き続けた。優は手を伸ばして妹の肩を抱いてあげた。


---


 晴れた朝、少年と少女が一緒に東京のとある路地を歩いている。そこは随分と寂れたところだったが、何故か今日はそこまで寂しく感じられない。

 やがて二人はルシードドリームという小さい店の中に入る。そこは古くて狭いバーだったけど、どこか暖かい雰囲気が漂っている。少年は初めてその雰囲気に気づいた。


「いらっしゃいませ」

「おはようございます!」


 バーテンダーと少女が挨拶を交わした。少年は懐から腕輪と赤い宝石を持ち出した。


「狩りは完了した」


 バーテンダーは腕輪と赤い宝石を受け取って確認した後、軽く頷く。


「狩りの完了を確認した。報酬はいつも通り現金で貰いたいんだろう?」

「当然だ」


 優はお金の入った封筒を受け取る。それで一仕事が終わった。いつもの優だったらもう店を出ていったところだ。しかし今日は美奈がいる。


「バーテンダーさんのおかげで馬鹿お兄ちゃんが無事なんです。本当にありがとうございました!」


 美奈が頭を下げる。


「ほら、お兄ちゃんもお礼しなさい」

「俺は……」

「早く!」

「わ、分かったよ……ありがとう」


 バーテンダーが微かな笑顔を見せる。


「いいんだよ。私もお譲さんのお兄さんが勤勉に働いてくれて色々と助かった。だからちょっと恩返しがしたかっただけだ」


 優が視線を逸らす。ちょっと恥ずかしがっているようだ。


「それで、二人はこれからどうするつもりなんだ」

「私たち、実家に戻ることにしました」

「そうか」


 バーテンダーがまた軽く頷く。


「少し残念だな。大事な働き手が減ってしまう」

「心配するな。すぐ帰って来るから」

「それは妹さんの許可を得てから言え」

「うっ……」


 優の困り顔にバーテンダーも美奈も笑う。


「まあ、その気になればこい。ルシードドリームはいつもお前を歓迎する」

「分かった。じゃ……また来るよ」

「また来ます」


 優と美奈は別れの挨拶をしてルシードドリームを出た。バーテンダーは二人の後ろ姿を静かに見守った。

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