2話.魔犬

 真田優はクリスマスにも正月にも自分のアパートで一人で過ごした。いや、元々優には普段から連絡を取る人が一人もいない。友達とか恋人がいないのはもちろん、家族とも連絡を絶った。ここ最近優がまともに会話をしたのはルシードドリームのバーテンダーと、魔物たちだけだ。


「今回も失敗したらこの業界に居づらくなるぞ」


 バーテンダーが警告した。当然な話だが、魔物狩りは人の命に関わる仕事だからそう容易く資格を得られない。それに万が一資格が剥奪されたら復帰することも非常に難しい。そして優は既に一回失敗した。幸いにも危険な魔物ではなかったし、民間人の被害がなかったから厳しく責められなかっただけだ。


「今回の獲物は魔犬(まけん)というやつだ。個体数こそ少ないが手強い魔物で、普通は人間と関わらない。しかし何故か先週に一匹、昨日もう一匹が出現した。珍しいことだ」


バーテンダーが冷静な声で説明した。


「先週のやつは他の術者が狩ったが、昨日出現したやつはもっと強い。しかも非常に高い攻撃性を見せている。それで封印術者が現場でやつの動きを止めている状態だ」

「そうか」

「封印術者の連絡先と合流場所は、先ほど送ったメールに書かれている。現場で彼女と協力して魔犬を消滅させろ」

「分かった」


 優は自分の携帯をちらっと確認した後、ルシードドリームから出た。バーテンダーはその後ろ姿に冷徹な眼差しを送った。


---


 電車で郊外の住宅街まで行き、そこから歩いて移動した。平日の午前なので物静かだ。空気はちょっと冷たかったが、優はこれくらいの冷たさがちょうどいいと思った。

 10分くらい歩くと、黒いスーツを着ているOL風の若い女性が視野に入った。この前、ルシードドリームですれ違ったあの女性だ。


「あ!」


 若い女性も早速優の姿を発見して、近づいてきた。


「やっと来たわね。貴方が戦闘術者なんでしょう?」

「そうだけど」

「私は水島。封印と追跡が専門です。よろしくね」


 水島が笑顔を見せた。大した美人ではないが、笑顔が暖かい感じで魅力的だ。


「魔犬は?」


 優は挨拶代わりに質問をした。水島は『あら、ちょっと変な子ね』と思いながら、目の前の家を指さす。


「危なく住宅街を徘徊してるから、まず人の住んでいない家に追い込んだのよ」


 強力な魔物を一定の場所に閉じ込められるのは非常に難しい。つまりこの水島は相当な腕前の封印術者に違いない。しかし封印術者らしく、直接戦闘にはあまり長けていないようだ。


「先週もこの付近に魔犬が現れたんだから、ここに何か魔犬を引き寄せる原因があるのかも」


 優はその説明を聞き流した。何故魔犬がここに現れたのかは、正直に言って知ったことではない。優としては現れた魔犬を狩って報酬を貰えばそれでいい。


「強いやつなんだから、貴方一人ではちょっと厳しいかもしれない。ここは私と作戦を組んで……」

「一人で十分だ。ここで待ってろ」


 冷たい言葉を残して、優は足を運ぶ。水島はそんな優の後ろ姿を不安そうに見つめた。


---


 廃屋に入った優は、まず周りを確認した。少し古びたが二階建てで広い家だ。廃屋としては比較的綺麗で、つい最近まで人が住んでいたに違いない。

 居間にはある家族の写真が掲げてあった。たぶんこの家の元住人たちだろう。何故この家を捨てたのか、その事情は知る由もない。

 人がいないからいつ変身してもかまわない。都合がいいな。優はそう思った。

 魔犬はどうやら二階にいるようだ。襲撃されないように気を付けながら階段を上ると、いくつもの部屋が見える。そしてその中の一部屋から激しい気配が感じられる。獲物はそこだ。

 しかし優が近づいてきたのに、魔犬は部屋に閉じこもったまま動かない。何かの罠かと疑ったがそうでもないらしく、ただ優にまったく興味がない様子だ。高い攻撃性を見せていると聞いたのに全然違う。

 でもそんなことはどうでもいい。優は迷わず扉を開けた。すると広い部屋の中に居座っている黒くて大きい形体が視野に入る。

 それは魔犬という名の通り犬のような姿だが、顔は人間に近い。いや、人間というより悪鬼の顔だ。まるで般若の面を被っているような、見るからに危険な魔物だ。

 しかしそんな凶悪な顔の魔犬は、何故か優を目の前にしても動かなかった。優としても魔犬の意図がまったく分からなくて、無暗に動くことはできなかった。


「む、む、む、む」


 魔犬が何か言おうとした。だが人間の言葉に慣れていないのか、酷くどもった。優は面倒くさくなってきた。


「何してるんだ。早くかかってこいよ」


 挑発と同時に人狼に変身した。小さな少年が一瞬で灰色の巨大な野獣に変わった。そしてその光景を見た魔犬の顔が激しい怒りに満ちる。


「こ、こ、こ、殺してやる! 殺してやる!」

「そうだ、魔物はそうこなくっちゃ。遠慮なく消滅させられてこっちも楽なんだよ」


 その言葉を理解したのか、魔犬が飛びかかってきた。優は魔犬の頭を掴んでその突進を防いだが、ちょっと押される。


「こいつ!」


 人狼と魔犬の力比べが始まった。両方ともイヌ科の姿なので、それは術者と魔物の戦いというより野獣たちの縄張り争いに見える。


「ちっ!」


 腹の底から力を絞り出したが互角だ。優は内心驚く。一般的に魔物は人間より強い力と速さを持っているが、人狼はそんな魔物よりも強くて速い。しかしこの魔犬は、少なくとも力では人狼に後れを取らない。

 ならば戦い方を変えるしかない。優は素早く足を動かして、魔犬の側面に踏み込んで爪を振るった。力ではなく速さで勝負しようと判断したのだ。しかしその攻撃は見事に外れて、空を切る。


「何!?」


 しまった、と思った瞬間……魔犬の爪が右腕に刺さる。激痛と驚愕、そして動揺が全身に広がる。


「うっ……!」


 優が動揺するのも無理ではない。はっきり言って、優は術者としては絶望的なほど術が使えない。優の戦闘力はあくまでも人狼に変身して得られる圧倒的な力と速さ、つまり身体能力から出るのだ。しかし相手の身体能力は人狼以上だった。

 右腕から血が流れてくる。ただ皮に傷を負ったわけではない。筋肉が千切れた。そのせいで力が入らなくなり、早速魔犬に押し倒された。


「こ、殺してやる! 殺してやる!」


 魔犬の爪と牙が人狼の体を切り裂き始める。優は全身に傷を負いながらも必死に頭を守る。人狼特有の再生力である程度の傷はすぐ治るが、魔犬の怒りに満ちた攻撃はそんな再生力で耐えられるほど甘くない。


「殺してやる!」


 魔犬は牙で優の首を狙った。いくら人狼でも首が千切れたら紛れもなく死ぬ。

 ここで死ぬわけにはない……! 死を目の前にした刹那の瞬間、優は自分でも驚くほどの生存本能を感じた。


「うっ!?」


 今度は魔犬の牙が見事に外れて、空を噛んだ。目の前にいた人狼の姿がいきなり消えたのだ。魔犬は慌てたが、すぐ小さな少年を発見する。


「に、人間!」


 状況を把握した魔犬が少年に襲い掛かった。だが優は人狼に変身せず、手のひらを広げて術を使った。すると優の周りに透明な壁ができた。防御術だ。


「くっそ!」


 しかし優の防御術は酷く粗末で、弱い。すぐにでも突破されそうだ。


「殺してやる!」


 結局5秒も持たず、魔犬の爪が透明な壁を切り裂いた。死がまた目の前まできた。


「まだだ…!」


 絶体絶命の瞬間、術を完成させた優が手のひらで床を打ち下ろすと……青いオーラが噴き出てきた。魔犬はその美しくて激しいオーラに押されて後ろに下がる。

 そしてその直後、青いオーラを纏った青い狼が姿を現す。その青い狼は魔物というより原始的な神に近い威厳に満ちている。魔犬すらその威厳に圧倒されて動けなかった。


「ふん」


 青い狼は優の姿を見て鼻で笑った。


「実家が嫌いで出て行ったくせに、危なくなるとご先祖様に頼るのか?」

「黙れ」

「情けないな、子孫よ」

「黙れ……!」

「ふふふ、よかろう。情けない子孫のおかげで……久しぶりに人間の世で狩りを楽しめる」


 青い狼が優に近づき、その体の中に消えた。すると優がもう一度人狼に変身した。しかしそれはさっきまで魔犬に苦戦した灰色の人狼ではなく、青いオーラを纏った精霊のような人狼だ。


「こんな野良犬に苦戦するとはな」


 青い人狼が嘲笑った。しかしそれでも魔犬は動かなかった。本能的に力の差を感じたせいだ。


「何をしている? この野良犬め。久しぶりの狩りだから少しは抵抗したらどうだ?」

「こ、こ、こ、殺してやる!」


 青い人狼からの圧迫感を耐えられず、魔犬が激しい勢いで飛びかかった。しかし青い人狼は軽く、目に映らない速さで爪を振るい……魔犬の前脚を切り落とす。魔犬は恐ろしい悲鳴と共に倒れる。


「まずは一つ」


 青い人狼が再び爪を振るう。今度は魔犬の後ろ脚が両方とも切り落とされる。


「続いて二つ」


 魔犬は苦しみに叫びながらも、残った一本の脚で抵抗しようとした。もちろんその悲惨な抵抗は青い人狼に触れることすらできない。


「ふふふ、野良犬に相応しい犬死だな。では……」


 嘲笑いながら首を切り落とそうとした瞬間、青い人狼が人間に、優に戻った。そして優の体から青い狼が出てきた。


「貴様……せっかく楽しんでいたのに……!」


 青い狼が怒り出したが、優は無表情だった。


「もう用済みだから消えろ」

「このクソガキが……弱虫めが!」

「消えろってんだよ!」


 優がまた術を使うと、青い狼の姿が跡形もなく消えてしまった。それでそこには傷を負った優と、死んでいく魔犬だけが残った。

 優はふと気づいた。いつの間にか魔犬の顔から怒りが消えている。


「む、む、む、む」


 魔犬がまた何か言おうとした。


「む、む、息子を、息子を返してくれ……」


 それが魔犬の最後の言葉だった。


---


 優はお金の入った封筒を持って自分のアパートに戻ってきた。


「くっそ……」


 いつもより苦しみが激しい。変身に精霊術まで使ったせいだ。


「くっそ!」


 もう限界だ。玄関を開ける力さえ残っていない。優は扉の前で無様に倒れた。


「こんな馬鹿な……」


 何故か笑いが出た。恐ろしい魔物たちとの戦いからも生き残ったのに、結局自分の家の前で倒れて死んでしまうのだ。自分の惨めな姿に笑いを堪えられなかった。

 自立がしたかった。ただそれだけなのに何故こんなに難しいんだろう。何故俺はこんなに弱いんだろう……優は微かな意識の中でそんな疑問を浮かべた。

 その時アパートの玄関が開き、誰かが出てきた。優は揺らぐ視界でその誰かを見つめた。


「か、母さん……」


 優が涙を流す。


「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」


 その誰かが優を呼んだ。しかし優はもう気を失っていた。

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