第7話:黄昏の桜森③

 「――はい、ストップ!」

 突然響いた場違いに朗らかな声が、淀んだ空気を打ち払った。

 なにか暖かいものが両肩に触れると、不本意な前進がぴたりと止まる。驚いてそちらを降りあおぐと、

 「……せっ、先生!?」

 「はい、お昼はどうも。しばらくぶりですね」

 美羽の肩に手を置いて、にっこり笑ったのは誰あろう、語学担当の新任教諭だ。紫を溶かした薄闇の中に、金の髪が鮮やかに浮かび上がっている。

 「職員寮は反対側なのになんで……というか、あの、杏珠は」

 「お友達なら無事ですよ。今は安全なところにいますので、安心してください。

 私の方は――そうですね、見てもらった方が早いかと」

 「は?」

 姿が見えない友人の安否が確認できて少しだけ安心したが、後半は意味がわからない。うろんな顔で首をかしげた美羽にまた笑って、アルベルトは右手の指をぱちん! と器用に鳴らした。

 次の瞬間、同じ手にどこからともなく出現していたのは、あの部屋で見た美しい羽根ペンだ。一体どういう仕組みなのか、うっすらと螢火のような燐光をまとっている。

 「驚きましたか? まだまだここからが本番ですよ。It's a show time!」


 カッ!!


 掛け声と同時に閃光が走った。劇場のスポットライトとは真逆に、足元から闇を切り裂いたのは、複雑に入り組んだ紋様だ。五つの頂点を持つ星と、その内外を埋め尽くす記号の群れが、まるで花が咲くように展開する。

 「『天球の蒼にいこうもの 地平の藍にうたうもの

 その羽搏はばたきで時を翔け そのさえずりで朝をもたらせ』」

 うたうように唱えながら、携えたペンを宙に走らせる。銀色の先端から、蒼くきらめくリボンのようにアルファベットが流れていく。美しく装飾された文字は、昼にもらった栞のそれと同じものだ。

 鈍い音がして視線を転じると、桜に掛かった西洋提灯ランタンが揺れて……いや、上下にガタガタ震えていた。その背後に続いていた暗い道も、連動しているかのように歪み始める。そこへ、

 「さあ、悪戯トリックはここまで。

 私の生徒を怖がらせましたね? きっちり反省なさい、ウィル・オー・ザ・ウィスプ!!」

 『―――――ッ!!』

 光る文字が宙を舞い、あり得ない風景ごと西洋提灯を取り囲む。耳障りな断末魔が響いて――

 ひときわ強い輝きが消えたあと、そこには普段通りの風景があった。桜の枝には何もなく、後ろはすぐに校舎の壁だ。ただ日はすっかり暮れて、西の空に木苺のような明るみがわずかに残っていた。

 いつの間にか座り込んでいた美羽の手元に、何かが転がってくる。丸く透き通ったビー玉みたいなものだ。それを長い指でひょい、と拾い上げて、アルベルトがにっこり笑う。先程と何も変わらない、いたって穏やかな口調で、

 「さ、これにて一件落着です。お疲れ様でした」

 「……おしまい?」

 「ええ、今日のところは。寮までお送りしましょう」

 ……とりあえず、このお兄さんが親切でマメで、ときどき心臓に悪くて、さらに何だかすごい特技を持っているのはわかった。わかったが、もはや返事をする気力も残っていない。というか、ここまでもてば上出来だろう。

 「…………はう」

 「あっ、美羽さん!?」

 大丈夫ですか! と慌てる声を遠くに聞きながら、美羽は遠慮なく意識を手放した。

 そういえば私、先生に自己紹介なんてしたっけ、と思いつつ。

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