第6話:黄昏の桜森②

 「きょう一日はあいさつ回りをしておったようでな。廊下やら職員室やらで見かけて、さっそく騒いどる子らがおったぞ。西洋の肖像画から抜け出したみたいだとか、あれこそ世に言う白馬の王子様だとか。ずいぶん美男子らしいのう」

 「や、その、そこは否定しないけどっ」

 「じゃろ? わらわもそんな王子様に心奪われてしまう美羽のことは否定せんぞ。ついでに巴萌ともえ紗矢さやも同意見だから安心せい♪」

 「だから違うってばー!!」

 ぽん、と気さくに肩なんか叩いてくる杏珠、とってもイイ笑顔だ。そしてさりげなく友人たちと情報を共有・拡散している辺りタチが悪い。

 悪事千里を走るというが、恋のウワサは万里を行く――どこかで聞いた格言っぽいものが頭をよぎり、嫌な予感に打ち震える。この調子でどんどん広まって、当人の耳に入りでもしたらと思うと……

 「お願いだから変なウワサ立てないで! 確かにきれいだし、とっても礼儀正しいし、何だかマメで几帳面な人みたいだし、だけど!!」

 「ほほー、いいとこだらけじゃのう。で、マメとは?」

 「うん。まだ荷ほどき済んでなくて、お茶も出せなくてごめんねって、手作りした栞をひとつ下さって――あっ」

 うっかりこぼして口を押えたが、時すでに遅し。にま~っと嬉しそうに笑った杏珠の顔が憎たらしいったらない。

 「なんじゃもう、プレゼントまでもらったか! 見せつけおってこのこの~~~」

 「ちょ、痛い痛い!」

 飛びつき飛びつかれ、きゃあきゃあ言いながら校舎を出て走り出す。春の長い日も徐々に暮れて、外はすっかり薄暮の時刻だった。すぐそこまで夜が来ているとわかる涼しい風が、二人の頬をなでて流れていく。

 「待て美羽! もらった栞とやら、わらわも見てみたいぞ!」

 「知らない! お話聞いてくれない杏珠には見せてあげませんっ」

 「ああもう、半分くらいは冗談だというに~」

 「ほら、走らないと! そろそろ寮が閉まっちゃう!」

 生徒たちが寝起きする寄宿舎は敷地の東端にあり、門限は六時となっている。まだ少し余裕がある時間だが、あまりギリギリになって駆け込むのはみっともないし、何より危ない。あちこちに瓦斯ガスとうが点いてはいるが、煉瓦れんがを敷いた小道に漂う薄闇は完全には追い払えないからだ。

 ……むしろ、明るく照らすからこそ、余計に闇が濃くなるのかもしれない。

 二人分の足音が響くレンガ道に、不意に別の音が滑り込んだ。

 「――ねえ」

 「ん? なに、杏珠?」

 とっさに足を止めて振り返る。が、薄暮の道には誰もいない。首をかしげる間もなく、再び声がした。

 「……ねえ」

 また振り返るがやはり無人。さっきの延長で物陰に隠れてからかっているのか。

 「杏珠、もう遅いから――」

 「ね・え」

 三度、遮るようにかかった声に凍りつく。何かがおかしい。……杏珠は、こんなひび割れた嫌な声を出したことがあったろうか。

 気づいてしまったとたん、足どころか指の一本すら動かせなくなった。どんどん暗さを増していく小道に、先ほどまでと全く違う風が吹いている。まとわりつくようにねっとりと重たい、生ぬるい空気。

 ――何かが、そばにいる。

 (だめだ、返事したら。振り返ったら、だめだ)

 そう思うのに、動かないはずの身体が勝手に反転していく。その先に、道沿いに植えられたひときわ大きい桜の木があった。

 ほぼ満開に花を咲かせたその枝に、古めかしい西洋提灯ランタンがひとつぶら下がっている。季節外れの螢のような青白い灯りの下には、ボロボロの石畳で作られた道が一本、深い闇の奥へと続いていた。

 (さっきまであんな道、なかったのに)

 風が吹いて、美羽の背中を押す。行きたくないのに、行ったら戻れないと確信しているのに、足が勝手に進んでいきそうになる。またどこかから、あの声がした。

 「こっち、おいで――」

 (嫌……!)

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