第一章 美礼と男の関係、立月と陽鞠の克服作戦。
「
暗闇に響く、気だるそうな声。その声をたどるように目を開くと、少し寝癖の残る頭をかく妹の姿が。
「んん……
「早く起きてよ、あたしだって暇じゃないんだからさぁ」
「悪い、今起きる」
「先に下行ってるからね、二度寝しないでよ」
「わかってる……」
ドタドタ駆け下りていく
「ちゃんと起きてきたね」
リビングに降りると、やる気のなさそうな垂れ目の妹、視線の先にはフライパン。そんな料理中の
「ああ、
「なにそれ、兄ぃわけわかんない。あと目玉焼きで終わりだから、早く座ってよね」
そんなくだらないやり取りをしつつ、
手を合わせてから、食パンに出来立ての目玉焼きを乗せて二かじり。
「やっぱり
「なに言ってんの兄ぃ。こんなの誰が作っても同じでしょ」
感心する俺に
「そんなことないぞ。このご飯には
「勝手にそんなもの込めたことにしないでよ。つーか、兄ぃあたしのこと好きすぎ。そういうの外ではやめてよねー」
言いつつ、呆れたように笑みをこぼす
「えー……だめか?」
「なにがっかりしてんの」
「ほら、アホみたいなやり取りもほどほどにして。早く食べないとあたし先に行くよ」
「すまん。すぐに食べるよ」
急いで
「どんだけ先に行かれるの嫌なの。別にいいよ、特別に待ってあげるから。ゆっくり食べなよ」
優しい
「おまたせ」
「兄ぃ待たせすぎ、早く行くよ」
文句をぶーたれる可愛い妹と共に玄関へ。母親は遅くまでの仕事でまだ寝ているから、兄妹はそろって小さな声で、
「いってきます」
「次は体育か……」
「どうしたアンニュイな顔して。お前体育嫌いだっけ?」
横からひょいと現れるのは小山田悠大。二年でもこいつと同じクラスになれたのは僥倖だった。正直第一印象は怖い人かと思ったけど、話してみると案外いい人だった。
「いやそういう訳じゃないんだけど、あんまり体を動かす気分じゃないと言うか」
「えっ、もしかして
心配そうに俺の顔をのぞき込む灯野瑞穂。瑞穂も悠大と同じく男友達、なのだが……、
「あ、ああ、大丈夫だからそんなに心配すんな。そしてその……顔が近い」
なんで女装もしてないのにこんな可愛いんだよ!
瑞穂はスッピン(?)であるにも関わらず、学校の、いや芸能界のアイドルレベルに可愛い。俺がプロデューサーだったら千年に一人の逸材と銘打って売り出す。
大きな目に、何より勘違いの原因であろう長く煌びやかな髪。聞くところによると、小学校時代に床屋で切ってもらって男子に馬鹿にされてから、切りたくなくなって伸ばし続けているらしい。そんなところも可愛い。
俺の指摘に瑞穂は慌ててぴょんと後ずさると、
「あっ、ごめんっ!」
わたわた慌てる瑞穂。ああ是非とも女装してほしい。むしろもうしてるのかこれ? してないなら是非とも俺がプロデュースしたい、絶対一流のアイドルにするから。
「嫌な気分にさせちゃったよね」
「断じてそんなことはない」
なんならもっと近づいてそのまま……はっ! 俺はいったい何を言おうと!? やはり瑞穂は油断ならないな。
「おーい
そんな俺の悶絶を読んだかのように悠大の意思確認。俺は満面の笑みで、
「心配するな。ただ幸せを噛みしめているだけだから」
そんな俺を見て悠大はため息。なぜだ? 不意に瑞穂はあっと声を漏らし、
「もうそろそろ移動して着替えないとまずいよ。早く行こっ?」
瑞穂の指摘に俺と悠大はのろのろと体操着を取り出す。そして教室を出たところで、
「
温度のない声で呼び止められた。振り返ると、
「? なんですか
スーツをきっちりと着こなした、二十代後半くらいの女性。俺の貧困な語彙で表すならキャリアウーマン。俺たちの担任の先生だ。いったい何の用だろうか?
「次の時間の体育について
「名指しで俺に持ってこいと?」
「いいえ?」
表情を崩さぬまま首を振る
「えっ、じゃあなんで俺?」
「そこにいたから」
「は、はぁ」
「ではよろしくお願いいたします」
カツカツと踵を返し去っていく
「俺嫌われてんのかね」
「いや、
「そうだよ、気にすることないよ
「じゃあなぜに俺……いや別にいいんだけどさ」
「逆に気に入られてるとか?」
「それはひねくれすぎでは……って、こんなことしてたらいよいよ間に合わないな。俺行ってくるわ」
「早くしろよ。俺たちは先に行って事情話しておくから」
二人と別れ、俺は急ぎ足で体育倉庫へ向かう。倉庫はなぜかグラウンドと離れたところにある不便なうちの学校。階段を降りて特殊教室棟を進んでいると、その道中。
「んっ?」
前を歩く女の子のスカートから、ほつれた糸が宙を舞っていた。えっ、めっちゃ長いしさすがに気になるんですけど。どうしようか一瞬迷った挙句、声をかけながらゆっくりと近づき、
「すみません、糸が飛び出してますよ」
善意で糸を引っ張っただけだった。それなのに、
「「えっ?」」
引っ張った糸はするすると抜けていき、すとんと女の子のスカートが冷たい廊下の床へと落ちた。
要するにその女の子は今、スカートを履いていない状態というわけで。かろうじてワイシャツの裾でオレンジ色のパンツはあんまり見えないけど、大変な状態というわけで、
「……えーっと、ごめん」
理解は追いついていないけど、自分の行動でとんでもないことが起きた、と思うので謝罪。するもしかし、
「きゃああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」
叫びと共にワイシャツの裾をめいっぱい伸ばし座り込む女の子。そして状況のやばさに俺も心臓が異常に脈打つ。
「うわわわっ! ちょっと待ってほんとに落ち着いてこんなことになると思ってなかったんだって!」
「この変態! 女の子のスカートを脱がすなんて!」
必至の弁明も虚しく、涙目の女の子にまくし立てられる。
「だから俺は糸を引っ張っただけで……」
ってこの女の子、どこかで……。つり目がちで、さらりとした金色の長い髪の毛。そしてこの品のいい声……、そうだ思い出した! このあいだ
よくよく見れば制服は一年生のもの。まさか同じ学校の後輩だったとは。
「急に黙って見つめるの止めなさいよ!」
「ごめんそんなつもりじゃ……」
「んんっ? というかあなた」
今度は女の子の方が俺のことをまじまじと見つめる。まさか……。
「あなた、どこかでわたしと会ったことない?」
「いっ! いやないと思うけど!?」
さすがに女装がバレるのはまずい! なんとか気づかないでくれ!
願いが通じたのかは定かではないが、女の子はふうとため息を一つ。警戒の姿勢は崩さないものの、訝しげな視線を解いてくれた。
「えっと、それで、とりあえず、俺が脱がせようと思ってやったわけじゃないことを理解してもらいたいんだけど……」
「無理」
即答。そうですかー。この状況をどうしたものかと悩みつつ、自分の体操着を差しだし、
「あー……と、とりあえずそのまんまだとあれだし、これ着ておく?」
いや女の子を脱がせておいて(濡れ衣)自分の服着る? ってなかなかのウルトラCだなこれ。
「……ええ、貸してもらうわ」
とは思ったものの、どうやら着るらしい。おずおずと俺から体操着を受け取り履こうとする女の子。
……何だろうなこの着替えを覗いているみたいな背徳感。後ろ向いておこう……。いやこの衣擦れ音もよくないな……。履き終わったであろうタイミングで振り返り、
「えっと、とりあえずごめんなさい」
全面的に俺が悪いわけではないとは思うけど、状況的に謝っておいた。だが女の子は俺の謝罪が全く聞こえていないのか、スカートを拾い上げて何やら肩を落とした。
「スカート、せっかく直したのに……」
口をとがらせわかりやすくいじける女の子。きつい印象を受けたけど、案外表情豊かな人なのかもしれない。
「直したって、自分で縫ったのか?」
「そうよ。ちょっと緩かったから、直そうと思って」
「ちょっと見せてもらってもいい?」
「急になによ。見てどうするつもり?」
いや確かに、急にスカート見せてって変態っぽいな。
「俺の技術で直せないかなと思って」
「あなたに裁縫が出来るの?」
「多少の心得はあるつもりだけど」
本当にこんな男が? そんな値踏みするような視線の女の子。その瞳にどう映ったのかはわからないけど、ふんっとそっけない様子でスカートを渡された。
受け取ったスカートを早速確認……、いや酷いなこれ。裏地部分は無駄に玉止めしまくりでぐちゃぐちゃ。あちらこちらで糸が絡まってて、よくこれ履いていて気持ち悪くないなってレベル。そんな俺の心が見え透いたのか、
「なによその顔は! わたしの裁縫技術に文句でもあるの!?」
今にも泣きそうな顔で猛抗議。慌てて「何でもないです!」と弁明。これ以上余計なことを言って、マイナスに進むわけにはいかない。とりあえずわかったのは、
「これなら直せそうだから、ちょっとだけ待ってもらえるか?」
「まさか私を置いて逃げるつもり!?」
「違うって。裁縫道具取ってくるだけだよ」
走って自分の教室に戻り、急いで元の場所へ。
「借りてきたの? それともあなたの?」
「そうだけど……やっぱりこういうの持ってるのって、変か?」
男らしいだとか女っぽいだとか、気にするのはとっくにやめてたけど、つい聞かずにはいられなかった。だがしかし、
「なによそれ、どういうこと?」
彼女は何も気にする様子もなくそう答えた。
「……そっか。気にしないでくれ」
早速スカートの直しに取りかかると、女の子はほーと関心の眼差しで見つめてくる。
「そんなに見られるとやりにくいんだけど」
「感心しているのよ。言うだけあって、なかなかやるじゃない」
「いやそこまで得意ってわけじゃないから。あくまで応急処置みたいなものだし」
「そうね、
「
聞くと彼女は、まるで自分の自慢でもするかのように無い胸を張り、
「わたしが所属する裁縫部の部長で、わたしの先輩よ」
部活で裁縫やっててこのレベル……。
「だから何よその目は!」
「なんでもないって!」
これ以上面倒が起きる前にさっさと直してしまおう。俺はささっと無駄な玉止めや絡まりを処理して縫い直す。うん、上出来だな。
「はい、さっきも言ったけどあくまで応急処置だから。しっかり直すなら、その
「あなたなんかに言われなくたって、そうするわよ」
ものの見事に嫌われてんなー。いや状況的に仕方ないけど。というかやっぱり俺悪くないと思うんだけど?
「というか、早く着替えていかないと授業遅れるぞ」
「わかってるわよ」
いそいそと体操着の上からスカートを履き、体操着を脱ぐ。別に見えてないんだけど、やはりその一連の動作を見るのはいけないことのような気がした。そして彼女は律義にも体操着を綺麗にたたんでから俺に渡しつつ、
「そういえば、あなた名前はなんて言うのよ」
「えっ? ああ、
俺がおびえた目で見つめると、
「違うわよ! 一応直してもらったんだから、今回は見逃してあげるわ。ただし、次は絶対に許さないわよ」
金輪際糸を引っ張るのは止めておこう。
もうっ、と女の子はため息、そして少し俯き小さく
「わたしは
「はいよ。ちゃんと
「うるさいわね!」
ぷりぷりと怒る
案の定全然間に合わなかった。まぁ空気入れを取りに行っていたことで、普通にお咎めなしだったけど。
「つーかさ
昼休みのがやがやとした食堂。昼飯のサンドイッチを頬張り悠大。何の話かと頭をひねっていると、
「体育の時の話。体育倉庫行くだけなのに時間かかりすぎじゃねぇか?」
「そうなんだけど、ちょっといろいろあって」
「どうかしたの
瑞穂が首を傾げると、さらりと長い髪も流れる。そんな姿に見とれつつたこウィンナーを飲み込み、
「
実際の状況はどうあれ、表現としては間違ってないはず。すると意外なことに悠大が反応を示した。
「んっ……?
「知り合いなのか?」
「いや普通に有名人だろ」
「そうなのか?」
「うん、ボクでも名前聞いたことあるよ」
意外なことに瑞穂までも知っているようだ。そういう学校の情報に案外疎いのか俺。
「まぁあんだけの美人なら有名人でもおかしくないか」
「いやそれもあるけどよ」
「なんか別の意味で有名なのか?」
「ああ、男嫌いでな」
「男嫌い?」
「なんでも、告白した男共をことごとくシカト決め込んで、そのまま立ち去るんだとか」
へぇ……まぁさっきの様子を見れば、そんな噂があっても納得だ。
「普段から男と一切喋らず、完全に避けているんだとさ」
それを聞いて俺はんん? と首をひねった。男を避けている、のか?
「それで
「……いや、別に大したことじゃないさ」
落ち着いて考えてみれば、さっきの出来事ってどう説明すればいいんだよ。ここははぐらかしておこう。と、するとそんな時、
「あっ、いたいた。
不意にかけられた声に振り向くと、俺にとって馴染み深い顔。
「
短めの髪に整った顔。中性的で、立ち居振る舞いもどこか男らしい女の子。
「いやね、今日は学食で食べようと思ってたんだけど、あんまお金持ってなくてさぁ」
あはは、と恥ずかしそうに笑みを浮かべつつ
「つまりは俺に金を借りに来たのかよ」
「そゆことそゆこと、ごめん
ぱちんと手を合わせて頭を下げる
「別にそれくらいいいから、そんなに頭下げるなって。なんなら一緒に食うか?」
「悪いけど、実は先約があってね」
ちらりと彼女が視線を向けた先。数人の女の子達がそれに気づき黄色い歓声をあげた。
「そっか。五百円で足りるか?」
「助かるーさんきゅな。今度はあたしが奢るから、それでチャラね」
「別に気にすんな。ほら、先約があるなら急いであげなよ」
「
くるりと踵を返し颯爽と立ち去る
「やっぱり演劇部の花形はオーラが違うねっ。ボクもあれぐらいかっこいい人に、漢になりたいなぁ」
瑞穂は祈るように両手を握り、王子様を見つけたお姫様のように目をきらきら輝かせていた。そんな姿に思わず、
「瑞穂はそのままが一番素敵さ」
「えっ?」
「
べちんっ、と悠大に叩かれて辛うじて理性を取り戻した。
「確かに
「そういや
「たぶんそれぐらい……か。なんというかもう、いて当たり前みたな存在だな」
思い返せば本当に長い付き合いだ。家も近いし子供の頃はよく
「っとそういや話戻るけど、会話できたってだけで奇跡だよな」
サンドイッチを食べ終え、手を軽く合わせながら悠大。
「
「落とした消しゴム拾ったら、そのまま受け取ってもらえなかったとか」
それを聞いた瑞穂は、口に運びかけていた大学芋を途中停止させて目を丸くし、
「えっ? でもボクこの前挨拶したら、ちゃんと返してくれたよ?」
「「……」」
俺と悠大は揃って沈黙。
「……まぁ、意外と
「
うんっ? と首を傾げてなんのことやらな瑞穂。そんな姿もやっぱりかわいい。
それにしても、
俺は残りの白飯をガツガツとかきこみ、手を合わせた。
「兄ぃ、お化粧おねがーい」
「ちょっと待ってくれ。もう少しで自分のが終わる」
休日。今日は
鏡の前でにっこり。うん、上出来ね。
「いいよ、こっち来て」
「ありがと」
私が呼ぶとぱたぱた足音。そしてイスにちょこんと座る
「とはいえ、私としては別に化粧する必要ないと思うけど」
兄補正がかかってないかと言えば嘘かもしれないけど、それを抜きにしても我が妹はかなり可愛いと思う。どちらかといえば野暮ったいほうかもしれないけど。
「いーの、女の子としてはスッピンで歩くなんて手抜きできないの。全く、そんなんで女の子のこと理解できるの?」
「うっ……ごめん」
「わかったからほら、軽くでいいからつべこべ言わずにやって」
はいはい、と目を閉じる
最後に頬に薄紅色のチークを軽く乗せて、
「終わったよ」
「ありがと、お姉。今度またメイク教えて」
「もちろん構わないよ」
私がそう言うと、なぜか
「世界中どこ探しても兄に化粧を教わる妹なんて、あたしぐらいかなって思って」
「いやいや世界は広いよ。ほかにも居るでしょ、たぶん」
「正論で返さないでよ。お姉つまんない。ま、それより早くいこうよ。あたしもうお腹と背中がくっついてる」
「それじゃあ急がないとね。行こうか」
玄関で靴を履き替え外へ。まぶしい日差しに目を細め、駅に向けて歩き出す。電車に乗っていくつか駅を越え、竹上通りの最寄り駅に到着。
「すごい人だね」
駅を出て早速の人人人。さすがの賑わいだ。そんな様子に感心する私とは対照的に、
「お姉やっぱり帰ろう」
私の肩にもたれ掛かる妹。重い重い、胸の感触は素晴らしいけど早く離れて
「心折れるの早すぎ。私も付いてるから、ほら行くよ」
「えーお姉と手ぇ繋ぐの?」
文句をぶーたれる妹だが、これは条件反射みたいなものだ。本気の拒否じゃない。ぶつくさ言いつつも手を握ると、
「お姉さっさと案内して」
はいはいと返事をしつつ人混みをかき分け、スマホでなんとなく位置を確認しつつ進んでいく。しばらくすると目的地が見えてきたが、
「ちょっと並んでるね」
「えー……。やっぱ別の店にしよう」
「本気か」
「やだなぁお姉、あたしの本気もわからないの?」
「今日の目的の大部分がさよならよ?」
「それでもあたしは構わない!」
どーんと握り拳を掲げ、豊満な胸を惜しげもなく張ってみせる妹に一つため息、
「わかったよ。じゃあ何が食べたい?」
「なんでもいい」
「予定変わった途端にこれか」
「いやいやそれほどでも」
「褒めてないって。だったらとりあえず歩いてみようか」
「お姉が探してきてよ」
「マジか」
「マジマジ。ほらほら行ってこーい」
「はぁ……、ここで待っててよ」
「もちろん、一歩も動く気はない!」
早速懐からスマホを取り出しイジイジ。これだから現代っ子は。とりあえずこのあたりを歩いてみますか……っと、
「ねぇねぇお姉さん。素敵なドレスが着れるお仕事あるんだけど」
またこのパターン? いや、意外とどこでもあるのかな。頭を押さえつつ、声の方角に視線を向けると、
「……またなの?」
怪しい勧誘を受けているのは、まさかの
「
私が声をかけると、
「探したよ。早く行きましょう?」
私が声をかけると、男は分が悪くなったのを察したのか、何も言わずに去っていった。姿が見えなくなったのを確認して、
「大丈夫? 変なことされてない?」
「え、ええ……ありがとう。また助けてもらって」
「気にしないで。これくらい当然よ」
ふふんと少し気分よく答える私だったが、
「それにしても、どうしてわたしの名前を?」
「えっ、この前会ったときに聞い……」
てないぞそういえば! しまった
「あ、あれーそうだったかな? と、とにかく私は
「え、ええ……」
勢いで誤魔化すしかなかった。
「あなたはどうしてここに?」
「今日はいも……知り合いとここに来ていてね」
今の俺は
「そうなのね。わたしはこのお店に行こうと思っていたんだけど……」
「ここ? 私たちが行こうと思ってたお店じゃない。けっこう並んでたよ」
「そうなの? ふふん、望むところじゃない」
「あっそういえばその、やっぱりあなたに……ううん、
ひ、
つっこみたい気持ちはあるものの、まっすぐとした
「その……どうしたら、男の人と普通に接することが出来るのかしら」
俯き、目を閉じる。その姿は、道を失って立ち止まる。そんな痛みがあった。
「……
「ううん、そんなことないわ。ただ、どうしても苦手なの」
「苦手?」
「大きな体、低い声、強い力。女であるわたしとの違いに、どうしても身が竦んでしまって」
……つまり、悠大から聞いた噂の真実は、
「ねぇ……どうして、克服したいの?」
「それは、その……」
「お姉遅い! 何してんの!?」
その声に肩が飛び跳ねる。絶対に動かないって言ってた
「
「み、
呆気にとられたように
「二人は知り合い、なの?」
「知り合いも何も、
「そ、そうだったの!?」
衝撃の事実に恐れおののいていると、
「そ、れ、で。お姉はあたしをほっぽって、こんな所で
ぎりぎりと問いつめる
「
「ひ、
「お姉は兄貴の知り合いなの。それであたしもたまに会ってるんだ」
さすが
「そうだったのね。あっ、ごめんなさい引き留めてしまって」
「
キリっと睨みつつ足を踏みつける
「た、頼むから足どけて……」
「お姉のくせにあたしに口答えしない。そうだ、よかったら
欠伸混じりに
「
「うげ、じゃあここでお別れだね」
行列を思い出したのか、明らかに嫌そうな表情を浮かべる
「待って。二人が嫌じゃなければ、わたしもご一緒させてもらえない?」
「「えっ?」」
通りに面したカフェのテラス席。丸テーブルを囲むように座って注文を済ませると、
「無理を言ってしまってごめんなさい」
「いやいや気にしないでいーよ別に。あたしだって
「なんでそうなるのよ」
「
「いや帰らないよ。だって私に話があるんでしょ?」
「あれ? むしろあたしの方がお邪魔なパターン? 帰ろうか?」
うちの妹はこれでも結構空気読むんだよな……意外と外面いいのかな?
「ううん、
「それなら聞かせてもらおうか」
「なんで上から目線……」
そんな私たちのやり取りを気にする余裕もないのか、
「わたし、男の人を克服したいの。それは二人とも話しているわよね」
「その克服に協力して欲しいの」
「あたしはそんなに無理する必要ない……って前から言ってるか。それでも克服したいの?」
「ええ、どうしても」
「だってさお姉。頑張りなよ」
「いやなんで私だけ……
「えー……」
よくこんなので友達やってるな二人。
「いいのよ
おお? 同性にはだいぶ甘いですね
「そこまで言われちゃしょうがないね。特別に手伝ってあげるよ」
「ありがと
「ん……うん、協力するよ」
「二人とも……ありがとう」
「で、なんでそんなに克服したいの?」
それは俺も先ほど聞こうと思ったこと。程度によってはこの先困ると思うけど
「い、言わなきゃダメ?」
わかりやすくうう……と身を縮こまらせ、何かから身を守るように
「そんなに言いたくないなら」
「えー教えてくれないのー? じゃあやっぱり止めようかなぁ」
この妹は……。
「う……、じゃ、じゃあ言うわよ。それはその、将来の夢の為よ」
「将来男の人が多い職場で働きたいってこと?」
「そ、そんなところね!」
「で、その将来の夢って?」
我が妹ながら本当に容赦ないな。
「うう……」
ほらもう
「その……メイドさん、なの」
「「……はっ?」」
「だ、だから! メイドさんなの! 将来メイドさんになりたいのよ!」
「本気?」
「ほ、本気も本気よっ! 悪い!?」
顔を真っ赤にして前のめりに
「いっいいと思います! はい!」
ぴーんっと背筋まで伸びてしまった。私のその様子に
「えっ、と、もう少し詳しく聞かせてもらっていいかな?」
もはややけっぱち。そんな様子で
「わたし、家にメイドが居るの」
「……」
か、金持ちだったのか……。
「それで、そのメイドさんがとにかくすごいの。家事はもちろん、ガーデニングまでなんでもできて、彼女さえいれば他に使用人を雇う必要なんてないほどだったわ」
なんでも出来るのか……あくまでメイドなんだな。
「ちっちゃい頃からそんな彼女に憧れていて……それでわたしも、そうなりたいって思ったの」
「でも、そのためには男嫌いを治す必要があると」
「ええ、さすがに男の人が一切いない場所で働くとは限らないもの。だから今のままじゃダメなの」
「なんでも出来るメイドさんなら、裁縫も出来るようにならないとだけどね」
「何言ってるのよ
自信満々の表情の
「あのレベルで?」
「なっ……わたしの裁縫の腕に不満でも!? ……って
言って、しまったと口を押さえた。そうだあの事実は
「はぁ……、あたしが裁縫ド下手な子が居るって話したの」
私が何も言えずにいると、
「
下手すぎるでしょそれ……。いやこれ以上は何も言うまい。話を戻そう。
「それでその人に憧れて、メイドになりたいってこと?」
「メイドって言っても、現代日本では使用人とか家政婦とかの方が近いと思うけれどね。ああでも、海外ではちゃんと職業として存在するわ。それで家によって様々な……」
メイドについて楽しそうに語る
「ステキな夢だと思うよ。ね、お姉?」
「私もそう思うよ
「二人とも……ありがとうございます」
ぺっこり頭を下げる
「あっ、
「えっ? あっ、あー……」
確かに今は同性だしおかしくないかもだけどええー、
「えっとー……み、
「ふふっ、なんでそんなに緊張してるのよ。同じ女の子同士なのに。そんな風にされると、こっちまで恥ずかしくなるわ」
俺が悶絶していると
「とはいえ、克服ってどうすればいいんだろうね。男の協力者がいないと難しいと思うけど……」
これに付き合ってくれる男なんているかな。悠大……は多分やりたくないだろうし。瑞穂……は女の子だし。
と、ここで声を上げたのは、
「ああーそういえば」
「
「いるよー丁度いいのが」
ま、マジか、
「うちの兄貴使いなよ」
「はっ?」
思わず
「うちの兄貴ならその夢を言っても笑わないし、絶対に口外しないよ。というか、そんなことしたらあたしが縁切るし」
笑うどころか既に知っているのですが。えっ? というか縁切るって何? そんなことしたらお兄ちゃん生きていけないよ?
戸惑う私だったけど、それは
「でも、それは……」
「あたしからも話を通しておくからさ」
優しく語り掛ける
「そうね、せっかくのアドバイスだものね……。協力、お願い、しようかしら」
「決めてくれて嬉しいよ。それじゃあ帰ったら伝えとくね」
「あっ、えっと、それは、大丈夫」
どうして? と瞳を覗く
「こういうのはちゃんとしたいから、自分で話す」
「……そっか、いいんじゃない?」
「うん、頑張るわ……あっ」
「どうかしたの?」
「ねぇ
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「やっぱりあの男……っ!」
おっと、とてつもなく嫌な予感がするぞ?
「ま、まさかうちの兄貴が何かやらかしたの?」
「スカートを脱がされたの! ほんっと信じられないっ!」
「ぐあぁっ!?」
瞬間、足に絶大な痛みが走る。
「
「だ、大丈夫、なんでもないから、なんでも……」
ぐりぐりと足が踏みつけられ、にっこり笑顔の
「あとで詳しく聞かせてもらおうか?」
と、ドスの効いた声で脅された。うちの妹怖いよ……。
やっとこさ足が解放されたけど、今だに残るジンジンとした痛み。
「まぁ兄貴が何しでかしたのかは詳しく聞かないけどさ、一応節度は弁えてるから変なことはしないと思うよ。そもそもチキンだし」
私が
「
というか、
「あっ、ごめんなさい。今日は二人で出かけてるのに、わたしばっかり喋って」
「ううん、気にしないでいいよ。どーせお姉とはいつでも会えるし」
「それならいいのだけど……」
なおも申し訳なさそうな
「
「もともと兄ぃのせいでしょ」
家に帰り化粧を落としながら俺は不満の声。だが
「あたしをほっぽって女引っ掛けるなんてさ」
「言い方言い方」
「それに兄ぃさぁ?」
ぐいっと顔を寄せ、睨みを利かせる
「あたしの友達をひん剥いた件、詳しく聞かせてもらおうか?」
「こ、怖いっす
本気で怯む俺を見てふぅとため息。強張った表情をいくらか崩し、視線だけで先を促す。俺は観念して、言葉を選びつつこの前のことをつまびらかに話した。
「……っ」
「あっのーう……というわけでぇ、俺のせいではないと思うんですよぅ……」
相変わらず睨みを利かす
「ま、そういうことね」
「ご理解いただけました?」
「
「さっきも言ってたけど、そんなレベルなのか?」
「五時間かけて縫ったものが、三秒でほどける特殊能力持ちだよ」
「どういうことだよ」
「ボタンを直すだけなのに、服のサイズが一つダウンしたという逸話も」
「すげーなおい」
「ま、それはともかく。あたしの友達をひん剥いたことについては、理解したよ」
「そう言って頂けて何より」
よかったー
「ただ許しはしないけどね」
にっこりと低い声で
「なんで!?」
「なんでも! 理解は出来ても許したくないの! いい? わかった!?」
「えー……」
「あ、に、ぃ?」
「はいっ! 了解です!」
ここまで怒られるとは……
「というか、随分と勝手に話を進めてくれたよな」
「
「確かに何とかしたいとは思ったけど、俺が出張る必要有るか?」
「いいじゃん手伝ってあげれば。どうせ暇でしょ?」
「いやまぁそうなんだけど……。ところで、
「なに? 兄ぃまさか本気で狙うつもり?」
「そんなんじゃないって。これから関わるのに、事前情報ゼロでは行きたくないってだけだよ。いやまぁ、噂程度なら聞いたことあるけど」
「もしかして男子が嫌いってヤツ?」
「そうそれ。まぁさっきのを聞く限り、そういうわけじゃなさそうだけど」
「まぁ間違ってないと思うけどね。あたしが男子と話しているとき、絶対に入ってこないもん」
「せ、
「なにそれ、まさか嫉妬? ほんと兄ぃやめてよねー実の妹に嫉妬なんてさぁ。ほーんと困るからさぁ」
どこか嬉しそうにつーんとそっぽを向きながら
心の中でそんな言い訳をしていると、不意に玄関の扉が開く音。
「お邪魔するよー」
母さんかと思ったけど、この声は違うな。
「
リビングにとたとた入ってきたのは、ランニング終わりなのか半袖にショートパンツという出で立ちの
「別にー、これといって用事はないよ。外出たからついでに寄ってみたんだ。気分転換的な感じ?」
「ふーん……演技でうまくいってないのか?」
「な、なんでそんながっつり当てんだよー」
図星を突かれわかりやすく狼狽える
「これでも付き合い長いんだから、なんとなくわかるって」
「はぁ、
「また前みたいに本読み手伝おうか? 今なら大根役者の
「兄ぃに大根呼ばわりされるのは腹立つけど、
ぐっとサムズアップで気合を見せる
「ありがたいんだけど、今その次元ですらないんだよねー。もう無理っ! ってなったら頼らせてもらうよ」
「別に今頼ってもいいと思うけど」
「んーん、出来る限り自分で足掻きたいんだよね。ただの意地かな」
「あははっ、
「なんだよー、子供っぽいって言いたいのか!」
「違うよ。そういう姿、かっこいいと思ってるんだよ」
「ふふ、
えへへーとわかりやすく照れる
「ああそうだ
「そうだね、今日はパパの帰りも遅いらしいし、頂いちゃおうかな。ああでもその前にシャワー浴びないと。汗かいちゃってるからね」
ウインク一つして、
翌日、俺は
先に来ていた
「急に呼び出してどうしたんだ?」
「その、実はあなたにお願いがあって……あなたに頼むのは本当に、正直ものすごく不本意なのだけど、出来れば他の人に頼めればよかったんだけれど」
めちゃくちゃ嫌そうだな……。普通にお断りしたくなってきたぞ。
「わたしの、男性克服の手伝いをしなさい!」
「男性克服? 苦手なのか?」
自分でもわざとらしいなと嘆息。だけど女装がバレるのは困る。ポーカーフェイスを心がけねば。そのまま何も知らないふりをして、お願いするまでに至った経緯を聞いていった。
「それで、その……将来メイドさんになりたいの。だから、お願いしてるのよ」
「いい将来の夢だな」
俺がそう言うと
「てっきり笑われたり、驚かれたりすると思っていたのに」
「そりゃあ驚きはしたけど、笑いはしないって。だって、本気なんだろ?」
「ええ、もちろんよ」
殊勝な笑顔で凛として答える
「事情はわかった。何ができるのかはわからないけど、俺も協力させてもらうよ」
「……意外とすんなり協力してくれるのね」
俺の前ではいつも強気な態度なのに、今は少ししおらしい様子で身をよじる
「そりゃまぁ……曲がりなりにも頼られてるわけだし。力になりたいと思ったんだよ。で、俺は何をすればいいんだ?」
「それは、そうね……」
口をもごもごしながら、ゆっくりと視線が地面に落ちていく
「特に何も考えてなかったんだな」
「うっ、うるさいわね! 文句でもあるの!?」
「別にないって。ないなら俺も考えるから」
「ふふん、良い心がけじゃない」
「はいよ。つってもそもそも、どんな風に男が苦手なんだ?」
対策はまず自分がどこにいて何が出来るのかを知るべきだ。それを知らずに対応なんて出来るわけがないんだから。
俺の問いに
「怖い、の」
少し怯えた様子でぽつり、と呟いた。そして視線を窓の外、雲へと移し、
「幼稚園のころ、男の子たちにいじめられて、それから避けるようになった。それを見た両親があんまり負担をかけないようにって、女子小学校に入れてくれたの。それで女の子に囲まれたまま過ごして、中学校も当たり前のように女子中学に進んだわ。でも、その時になって気づいたの」
「男の人が、得体の知れない存在になっていることに」
得体の知れない存在。その表現に、俺は自分でもよくわからないため息が漏れた。
「その時から、男の人の顔を見るのも怖かった。それは一番酷いときの話だけれどね。今では少しは落ち着いたけど、今でもこんな状態なのよ」
「……なるほどな」
「だからきっと、男の人を理解できれば怖くなくなると思うの」
不意に
「だから、だからわたし、あなたのことを、男の人のことを理解したいの」
「よく、わかったよ」
「えっ?」
「その克服作戦、全力を尽くさせてもらう。そして必ず克服して、
「きゅ、急に改まってどうしたのよ」
「別にいいだろ。やる気があるって事なんだから」
「ま、まぁそうね……。それじゃあ、しっかりやりなさいよ」
「せっかく手伝うのに、お礼の言葉もないのかよ」
「当たり前じゃない。お礼は克服してからに決まってるでしょ」
「そうですか……」
それは一体いつになるのやら。
とりあえず。
今ここに、
翌日の昼休み。俺はのそのそとやきそばパンを咀嚼しながら、楽しそうに話す悠大と瑞穂を眺めていた。すると悠大たちが、
「どうしたんだよ、ぼーっとして」
「
「あーいや、大したことじゃないんだ。気にしないでくれ」
俺の気が抜けているのはもちろん、
俺の様子にふーんと頷く二人だが、まだどこか心配そうだった。
男に慣れるって……どうすりゃいいんだ?
「「あっ」」
そんなことを考えていると件の人物、
「ん? その女は……?」
声をかけられた
「だ、だだだだ誰?」
「俺の友達。そんなの驚かなくても、無害な人間だよ」
「そうは言っても男の人じゃないのよ!」
「あん? どういう状況だこれ」
いまいち事態の飲み込めない悠大。その問いは
「まぁいろいろとありまして。ほら、彼女が
「ああ、納得だわ」
悠大は了解了解とうなずきながら昼食に戻った。すると今度は瑞穂が立ち上がり、
「ボクは
優しく語りかける瑞穂に、
「あ、ありがとうございます……」
悠大の問いはスルーなのに、まさかの返答があった。これはもしや。
「ま、まぁなんだ。せっかくの機会だし、二人とももっとお話ししないか?」
「うんっ! ボクはもちろん良いよっ!」
「ほら
「男の人に慣れなきゃいけないのに、こんなことして何の意味があるのよ?」
「……まぁまぁそんなこと言わずに」
「そういえば
「ちょ、ちょっと色々あって……」
まぁ本人も俺にスカートを脱がされたなんて言いたくないわな。いや脱がしてないんですけどね?
「それより、えっと……灯野先輩。髪の毛とっても綺麗ですけど、なにかこだわりでもあるのかしら?」
「うん、髪の毛のお手入れって大変だから、とっても気を使ってるよっ!」
楽しそうに会話を弾ませていく二人を眺めていると悠大が、
「なぁ、これってなんの時間なんだ? もしかして
「相変わらずすげーな悠大……。まぁそんなところだ。あとで詳しく説明するけど、今はしばらく付き合ってくれ」
はいよ、とつまらなそうに悠大。俺たちがそんなやりとりをしているうちに、シャンプーのメーカーの話までし始めている二人。すごいすごい、女の子同士の会話覗いているみたいでちょっとドキドキ。っと元の目的を失念するわけにはいかない。このあたりで聞いてみようか。
「どうだ、
「何を言ってるの? 灯野先輩は女の子でしょ?」
やっぱりかーまぁそうですよねー。瑞穂は可愛いもんね、しょうがないしょうがない。だけど現実はしっかりと伝えねば。
「えーっとだな、瑞穂は男だ」
俺の言葉に、頭に?を浮かべて首をこっくりと
「まぁ、なんだ。瑞穂はこれでも男なんだ。スカートじゃなくてズボンだろ?」
言われてゆっくりと机の下を覗き込む
「だ、男装?」
そうだったらよかったんだけどねー。
「いい加減現実を受け入れてくれ。あー悪い瑞穂。生徒手帳持ってる?」
「うん、持ってるけど……」
ひそひそ話している俺たちを見て、怪訝そうな瑞穂から生徒手帳を受け取り、性別の欄を見せると
「う、嘘……」
「これが現実なんだよ」
「……」
「そんな……どう見ても女の子なのに……」
「おっ、女の子っ!?」
それを聞いた途端、瑞穂はわかりやすく肩を落とし、
「そうだよね……ボクって女の子みたいだよね……」
「あっ、そのっ、えっと……ごめんなさい」
「ううん……いいんだ……みんなそう思ってるのはわかってるから……」
「と、とても悪いことをした気分……。わたしの感覚がおかしいの……?」
「いやその感覚は正しい、うん、俺が保証する。ただ本人の前ではあまり言わないでやってくれ」
小声で
「あー、心配するな瑞穂。俺から見て瑞穂は出会った中でも一番男らしいと思うぞ?」
瞬間、ぱぁっーっと輝き出す笑顔。
「そうだよねっ! ボクって漢らしいよね!?」
顔をぐぐいと近づけて目を輝かす瑞穂。いや近い近い良い匂いするすごい好きしゅき……、はっ、俺は一体!? 理性を取り戻した俺は、
「わ、わかったから落ち着いてくれ瑞穂」
これ以上は恋に落ちるからダメだぞ☆ いや落ち着くべきは俺だなこれ。
「あっ、ごめんっ! 迷惑だったよね」
「いやそんなことは……ってそうじゃなくて。その、
「うんっ、もちろんだよっ! 漢の中の漢は細かいことは気にしないもんねっ!」
えっへん腰に手を当てる瑞穂はそりゃあもう美女の中の美女だった。さすがだ瑞穂。
それはさておき、やっぱり二人にも協力してもらえた方がいいよな。
「なぁ
といっても悠大はすでに察しているんだけども。俺の提案にやはり
「二人とも信頼できるやつだから、そこは心配すんな」
俺がそういって笑ってみせると、
「それでボクとお話しさせたんだね。漢の中の漢であるボクにっ!」
「……まぁそんなところだ。だからたまにでいいから協力してくれると助かる」
「ふふん、もちろんだよ。困っている人を助けるのが漢だからねっ!」
「はぁ……別に良いけどよ」
熱量に差はあれど、協力を申し出てくれた二人に
「にしても男が嫌いなんじゃなくて、苦手だったとはな」
「本人も困ってるんだよ。だけど今のところ、いい克服方法も思いつかなくてな」
「いっそのこと、荒療治しちゃった方がいいんじゃねぇの?」
退屈そうに伸びをしながら提案する悠大に、具体的には? と聞くと、
「それこそ男だらけのどっかに放り込むみたいな」
「悠大なかなか鬼畜だな」
「いやだってお前もどうせ付き合うんだろ? じゃあいいじゃねぇか」
「俺どういう信頼のされ方してんだよ」
「だって理由は知らねぇけど、お前男のくせに
「えっ」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。そういえば全然考えてなかった。なんで俺男なのに、
不意に
「お前……なんも考えてなかったのか?」
無言で静止する俺に悠大は盛大なため息。
「ま、俺にはどうでもいいけどよ。とりあえず荒療治も考えてみりゃいいんじゃねぇのって話」
確かに悠大の言うとおり、今はそれよりもどうすればいいか考えるべきだよな。とはいえ男の多いところって……。
あっ。
「なぁ
名案とばかりに、思わず瑞穂との会話に割って入ってしまった。ぷくーっとほっぺたを膨らます瑞穂に頭を下げつつ
「か、構わないけれど」
「ちょっと提案があるんだ」
不敵にほほ笑む俺に、
「で、提案って何よ」
少し不機嫌な様子で空き教室にやってきた
「メイド喫茶で働こう!」
「……はぁ?」
「いやだから、メイド喫茶で働くんだよ」
俺の高尚な提案に
「そっ! そんなことできるわけないでしょ!? だってメイド喫茶の接客って、男の人が相手じゃない!」
「だからこそだよ。それにさ、メイド喫茶で働く人たちって、少なくとも男性客の相手に慣れてるだろ? その人たちからコツとか教えてもらえれば、もっと良くなるんじゃないか?」
「うっ……あなたにしては、なかなかいい提案じゃない……」
とは言うものの、やはりやるとは言えないらしい。子供のように人差し指同士をくっつけ話し手を繰り返す。クールに見えて、意外と感情表現豊かだよな。
「ほら、俺も手伝うからさ」
「当たり前でしょ。あなたがいないんじゃ、絶対にやらないわよ」
「そ、そうだよなごめん。でも逆に、俺がいれば、多少はやろうって思えるのか?」
「うぅ……その……」
「そっかーいい案だとは思ったんだけどな。流石に無理強いは出来ないし、克服に繋がる保証は出来ないしな。またほかの案を考えようぜ」
……なんか煽ってるみたいになったなこれ。まぁこんな安い煽りに乗るような
「……やる」
「えっ?」
「わたし、やってみる」
あらやだ
「でも、その、代わり一つ、協力してほしい事があるんだけど……」
このままとんとん拍子で物事が、と思いきや何やら気まずそうな
いったい何を頼むつもりなんだ……?
「さぁ、入ってちょうだい」
「お、お邪魔します……」
後日、俺はなぜか
その
「それでえっと……俺はどこで待ってれば?」
「ちょっと、なんで緊張してるのよ」
「そりゃ女の子の部屋だし……」
「そ、そんなことで緊張しないでよっ! わたしだってその……男の人を家に入れるなんて、初めてで緊張してるんだから……」
「えっ」
俺の素っ頓狂な声に
「い、今のは忘れなさいっ!」
とくるりとそっぽを向いてしまった。いやまぁそりゃそうだよな。男が苦手なんだから家に呼んだことなんて、あるわけないよな。ここはひとつ、せめて俺だけでも堂々としていよう。
「とりあえず、どこかに座ってなさい。もうそろそろでお父様も帰ってくるだろうから」
そうだった。今日はメイド喫茶で働くために、
家族ではあるものの、寡黙な父親が
「わたしはお茶を持ってくるわね」
「お構いなく」
パタンと出ていく
「お待たせ……って、座布団出し忘れていたわね。ごめんなさい」
「あ、いやお気になさらず……」
ささ、と
「本棚、難しそうなのが並んでるな。
ちらりと見れば、学校の教科書以外にも様々な本が並んでいた。『優しい裁縫 サルでもできる初心者の入門編』という本も見えたけど、
「もちろん、いいメイドは高い学力も要求されるのだから当然よ」
「熱心なんだな」
よっと立ち上がり不意に本棚をスライドさせると……、
「あっ! ちょっとっ!」
なぜか声をあげる
「……ライトノベル?」
スライドした本棚の奥には、青少年男子が大好きなライトノベルがずらりと並んでいた。タイトルも様々取り揃えられている。
「見るなああぁぁっ!」
瞬間、突貫してきた
「痛っ!」
ばさばさと落ちてきた本が何冊か頭にぶつかる。
「つつ……大丈夫か
「わ、わたくしは大丈夫……」
俺は痛む部分をすりすりと撫でながら、不意に落ちてきた本を手に取った。
「あっ」
響いたのは
「『メイド寵愛日誌』?」
読み上げたのはタイトル。その本は世の健全男子たちが手に入れようと躍起になるもの、いわゆるそう。
エロ本だった。
呆気にとられる俺から
「忘れなさあぁぁぁぁいっ!」
「いってぇぇ!?」
その本で思いっきり殴られた。
その後、暴れる
「えっとつまり、俺に体当たりしたのは、ライトノベルを読んでることが知られたくなかったから?」
「……そうよ」
顔を真っ赤にして涙目でぷいっとそっぽを向く
「で、体当たりしたら本棚からもっと知られたくないものが落ちてきたと?」
「そうよっ!」
「えっと、もしかしてメイドになりたいのってそういう……」
「そんなわけないでしょ馬鹿っ!」
「わ、悪かった冗談だって確認したかっただけだって!」
ばんばん机を叩き猛抗議する
「とりあえずその、いろいろ理由を聞かせてくれ。まず、なんでライトノベルを?」
「それは……男の子たちが読んでいるものを読めば、少しは理解できるかなって思ったのよ。クラスの男の子が、そういうものを読んでるって聞こえてきたから」
そういや俺も結構、少女漫画読み漁った時期があったもんな……最近はお気に入りだった作品ぐらいしか読んでないけど。
「えっと……じゃあ、さっきの本も、そういう理由で?」
恐る恐る聞いてみると、
「ま、まぁいいよ。それ以上は。もうなんとなくわかったから」
それを読んでも理解できるとは思わないけど……いやでも男の願望が詰まったロマンの塊でもんな。ある意味何かつかめ……いやエロ本で掴んで嬉しいのかそれ? 俺がそんなことを考えていると、不意に
「……がい……」
「えっ?」
「……願いだから、誰にも言わないで……、なんでもするから……」
怯えた目でぽしょりと呟いた。そんな表情に、悪いことをしたわけじゃないのに胸を締め付けられる。
「はぁ、そんな顔するなよ。言うわけないだろ。そもそも俺になんのメリットあるんだよ」
「……ない、と思うわ。でも本当は、今回のこのネタでわたくしを脅してあんなことやこんなことを……」
妄想力豊かだな。意外と耳年増……ってあんなもの読んでれば不思議でもないか?
「しないって。男の全員が全員そんなんだと思うなよ。特にその辺の本は、色々都合いいように書いてあるんだから。あんまり真に受けるなよ」
「……わかった」
不満そうながらも頷く
と、そんな俺の願いが通じたのか、ガチャリと扉が開かれる音。
「お父様が帰ってきたみたいね」
「ついにか……。で、俺はどうすればいいんだ?」
「わたしの隣にいてくれれば、それでいいわ。すでにお父様には、大事な話があるって伝えているから」
「おおそうか、それじゃあ……」
って待てよ。自分の娘が大事な話があるって男と並んだらそれもう……。
「まっ、待ってくれ
「勘違い? なんのことよ。あなたはただ、わたしの隣にいるだけでいいんだから。何も心配することはないわ」
ある! めっちゃあるぞ!
だが俺の制止も虚しく。とてとて先をゆく
「お父様、この前伝えたとおり、お時間よろしいですか?」
父親とエンカウント。俺は心で嘆きつつ、父親を確認。なんとなく怖そうな人かと思ったけど、全然優しそうな人相をしていた。
「構わん」
「ヒッ」
が、しかし。愛しいであろう愛娘の後ろにいる俺を鋭く睨みつけた。その形相はまさしく鬼。やはり完全に勘違いしておられるようだ。うわー帰りたい。
「なに怯えているの? 早く行くわよ」
「いやだってその……」
あー待ってよ
俺の隣に
「それで、大事な話とは何だ?」
いやそうだよ。そこをはっきりさせれば何も問題ないはず!
「わたしの今後に関わる重大な話です」
言い方ぁー!! 間違ってないけど違うでしょ!?
「あ、あの僕の方からも……」
恐る恐る手を挙げて、誤解を解くべく勇気を振り絞る。が、
「あなたは何も言う必要ないわ。わたしに任せてちょうだい」
小声の
「
「お父様、なんの話かわかっていたのですか」
「ああ、もちろんだ」
わかってないんですよー。もうどうすればいいんだこれ。
「それより聞きたいんだが」
と、父親の視線がこちらに向いた。ただそれだけのことなのに、俺の冷や汗は二倍三倍と吹き出した。
「君、名前は?」
「あっ……
「ちょっとお父様、今彼は関係ないでしょう?」
「少し黙ってなさい。
お父様それ彼氏に聞くやつですよ。僕残念ながら違うんですよ? いやお父様としてはその方が嬉しいのでは。とりあえず俺が彼氏ではないことを説明しなくては。
「いやあのですね、そもそも今回は……」
「質問したことだけに答えなさい」
「……はい」
なんでこの家族は俺の話を聞いてくれないんですかねー、俺って家族ぐるみで嫌われてるの?
とはいえ、こちらの弁明など一切聞く気がない様子。仕方ないしとりあえず質問に答えるか。
「……」
いやいやなんて答えればいいんだよこれ! 彼氏じゃないんだからどう思ってるって聞かれても困るんですけど!?
「えーっと……その、
ふと
「ふむ、そうか。
おおぉ!? これは急にいい流れが来たぞ!? 思わずこぼれそうになる笑みを必死の押さえながら、流れを見守る。
「そうです、今日はそのためにお時間を頂いたの」
「ん、まさか将来の夢ってお嫁さ……」
違いますよお父様?
そして
「わたし、メイドになりたいの!」
「?」
「だから、男性克服のために、メイド喫茶で働きたいの、お願い、わたしにメイド喫茶で働かせてちょうだい!」
「???」
何がなにやらご理解頂けていない様子。まぁそうですよね。
「待ちなさい。少し確認させてくれ。君……
「本当に、ただの付き添いです」
「はぁ」
俺の回答に間の抜けたような返事。そして
「お願いお父様、どうかお許しを」
懇願する
「本気、なんだな?」
流れる雲を見て思考がまとまったのか、落ち着いた声音の父親。そしてその覚悟を問うような力に、
「しっかりしろ、らしくないぞ」
そう言って笑って見せると
「もちろんです。本気で、絶対にこの夢を叶えたいと思っています」
「そうか……」
それはどこか寂しいため息。それにどんな意味が込められているのか、俺にはわからなかった。あるいは、娘の成長を嬉しく思うも、自分の手を離れてしまうのかという気持ちなのかもしれない。
「いいだろう。ただし、危険なことに巻き込まれてはいけない。もし巻き込まれそうになったら、すぐに相談するんだぞ」
「分かっています。それに、彼がいますから」
俺? いやもちろん手伝うけどさ。
「克服できると信じているぞ」
「やるからにはもちろんです」
そう強く決意を語る
「それでは失礼します」
先に部屋を出る
「
ふいに呼び止められ、思わず肩がビクつく。
「な、なんでしょう?」
「娘をよろしく頼むぞ」
「は、はい、もちろんです。自分が言うのもなんですけど、自分の愛娘をこんなどこぞの馬の骨に任せていいんですか?」
「いや私だって君に全幅の信頼を寄せているわけではないが、男に近づくのさえ困難な
「確かにそうかもですけど……」
本当に、なんでなんだろうな。どうして
「どうかしたのかい」
「あぁいえ、なんでもないです。信頼に応えられるように、精一杯サポートします」
「ああ、頼んだよ。だが、くれぐれも変な気は起こさないことだぞ☆」
いやーんお父様超こわーい。いや本当にシャレにならないなこれ。どうして父親ってこんなのばっかりなんだよ。あははーと適当に笑いを浮かべて、そそくさ部屋を出ていった。
「お父様と何の話を?」
「いや大したことじゃないよ」
「そう? ならいいけど」
もとはと言えばあなたが何の用事なのかを、正しく説明してくれてればこんなことにはならなかったと思うんですけどね。
「とにかく許可ももらえたことだし、これでバイトできるな」
「そうね」
「あとはどこで働くかだな。このあたりにメイド喫茶なんてあったっけか……」
「それはもう決めてあるの。実はわたし、中学の頃友達とメイド喫茶に行ったことがあるのよ。そこに行こうと思うの」
「なにか理由でもあるのか?」
「とても対応の良いメイドさんがいたのよ。あの人に学べば、きっとわたしも上手に男の人と話せるようになる、と思うの」
「なるほどな。じゃああとは、そこが新しいメイドさんを募集していればいいけど」
「そうね、まだまだやることがいっぱい。ちゃんとわたしに付き合いなさいよ」
「えっ、バイト面接まで付き添うの俺?」
ぴしっ! と
「当たり前でしょ。わたしの男性嫌いが克服できるまでなんだから」
「はぁ……わかったよ。とはいえ、ちゃんと面接の申し込みとか出来るか?」
「電話で男の人が出なければ、わたし一人で充分よ」
……男の出る確率高いと思うのは俺の偏見?
「まぁまたなにかあったら声かけてくれ」
「ええ、あっ……」
「何してるのよ、早くケータイ出しなさい」
「きゅ、急にどうしたんだよ?」
「どうしたって、あなたのわたしの連絡先知らないでしょ。それじゃあこの先何かと不便じゃない」
「ああ、そういえば……はい」
俺もポケットからスマホを取り出し、連絡先を交換。画面に浮かぶ俺の名前を見て、
「ああ、ごめんなさい。わたしのケータイに男の子の名前が表示されるの、なんだかおかしくって」
「そりゃそうだよな」
男が苦手なんだから、連絡先の交換なんてするわけないよな。それと同時に、俺は少し驚いていた。どうやら俺は瑞穂と違い、ちゃんと男として認識されるらしい。それならなおさら、俺と普通に接している理由が分からないな……。そんな俺の疑問などつゆ知らず、
「ちゃんと返信しなさいよ」
「するよ。っと、それじゃあそろそろ俺は帰るよ」
気づけば窓から差し込む光が赤みを帯びていた。地獄空間にいたせいで正直もう少し時間たってるかと思ったけど、そうでもなかったらしい。
「ええ、早く帰りなさい」
「邪険にしすぎだろ……」
とはいいつつも、律儀に玄関の外まで見送りをしてくれる
「それじゃあまたな」
「ええ、これからもよろしく頼むわよ」
「はいよ」
そうして
「……?」
不意に視線を感じ辺りを見回す。だがしかし、特に気になる人影はなかった。ま、気のせいか。
俺は開放感からあくびを一つ。大きく伸びをして家路についた。
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