たからもの

たからものー壱 ご褒美

 中学二年の冬に父親が死んだとき。

 本当は刑部家で世話になんかなりたくなかった。いや、なるわけにはいかなかった。

 当時つるんでいた友人がどうしようもない奴らだったから、昔からの友人である八郎たちには随分とイヤな思いをさせたと思う。きっとそれは、八郎づてで刑部家の人々にも伝わっていたことだろう。

 だからこそ、居心地のよい、いつも健やかなあの刑部家に、自分のような異物が混ざってしまうのがこわかった。

 だれが、綺麗な水にわざわざ泥をいれようと思う。


 身寄りのない中坊のガキがひとりで生きていけるほど、世の中は甘くない。そんなことすら分からないような子どもが、それでも意地を張って、ただひたすらに刑部家の親切を拒んでいた。


 そんなとき。

 アイツがひとりで、家に来たことがある。


 京都の寮から一時間以上の道程をたどって、従弟の友人のために足を運んできたアイツ。


 鍵をかけ忘れた玄関のとびら。そこから入って奥の寝室。

 起きる時間をとうにすぎた俺は、冬の寒さのためにぐずぐずといつまでも布団にくるまっていた。

「シューウくーん」

 そのとき、とつぜん耳元で声がしたのだ。

 驚きのあまりに身を起こすと、布団の横にはアイツが正座してこちらを覗き込んでいた。


「……な、なん。おまえなんでここに」

「ネボスケさん。起こしに来たヨ」

「はァ?」

「ふふふ、眉間寄ってる。ひさしぶりなのネェ」


 といって、彼女はいつもと変わらぬ笑顔をこちらに向けた。

 意味が分からなかった。

 なぜコイツがここに。俺とはなんの関係もないはずなのに。ていうか学校はどうした。……

 そんなことをぐるぐると考えていると、アイツは俺の掛布団をパッとはぎ取って自分の頭にかぶせたのだ。


「さ、寒い!」

「だーってもう起きなくっちゃデショ。ねえねえ立って。ほらほらはやく」

「なん、なんやねん」


 言いながらも、しぶしぶ立ち上がった。

 するとアイツはぴったりと横に並んで背比べをはじめた。


「わァ。シュウくんおっきくなったねェ!」

「…………」

「もうかんなの背も抜かしちゃったネ」

「だから、」

「シュウくん」


 となりに立つ彼女の肩がふるえていた。

 俺は何事かと顔を覗いた。アイツは、目いっぱいに涙を浮かべてわらってた。


「お勉強、サボっちゃだめヨ」

「……え」

「いっしょにお勉強しようよ。はっちゃんちで」

「べ、勉強?」

「お勉強じゃなくてもいい。いっしょに遊ぶンでもいいヨ」

「…………」

「はっちゃんちでいっしょに、遊ぼうよ。ねえシュウくん」


 おいでよ、といって彼女は泣いた。

 あの環奈が、泣いたのだ。


 かつてあれほどに親から無碍にされてもへらへらと笑っていた環奈が、どういうわけか俺がひとりぼっちになったことに胸を痛めて泣いていた。

 その涙を見て、なおも断れるほど自分の心は強くなかった。

 

 彼女を泣かせてしまったことへの後悔と、これまでのおこないすべてへの懺悔。

 俺はそれだけを胸に、刑部家の厄介になることを決意した。


 それからも環奈はほんとうに言ったとおり、休みのたびに帰ってきては俺や八郎の高校受験勉強を見てくれた。自分とて白泉大学の受験勉強があるなかで、である。

 じつをいうと、壊滅的なほどに勉強のできないふたりが、白泉大学附属高等学校を進路先として選ぶなど身のほど知らずもいいところだった。

 けれど、環奈が白泉大学を受けると聞いたから。ほかの選択肢はなかった。

 すべては刑部家の人々、そして彼女の涙に報いるために。

 俺は、死ぬ気でがんばった。


 あるとき。

 八郎が不在で、俺と環奈のふたりで勉強会が開かれたことがあった。

 後にも先にもその一回きり。俺が柄にもなく緊張して、ひたすら勉強に集中していたときである。


「じゃあ次はこの問題ネ。これねェ、ちょっとむずかしいからね。できたらご褒美あげる!」


 唐突に彼女がそういった。

 ガキ扱いかよ。

 と思ったけれど、その日は俺もどこか舞い上がっていて、ふたつ返事で受けて立ってしまった。とはいえ、解いてみると意外と簡単で、俺は嬉々としてアイツに解答を見せつけた。


「ウン。正解なのネ! シュウくんやればできるんじゃない」

「で、ご褒美は?」

「へへへェ。なんでもいいよ、シュウくんの欲しいの買ったげる。ただし予算は千円以内ね!」

「欲しいもの──」


 予算千円以内って。

 たいしたもの買えねえじゃん──なんて考えたあとに、いったいいま何が欲しいかを考えた。

 思い当たるのはひとつしかなかった。


「環奈」

「ん?」

「……の、使ってるシャーペン」

「…………」

「…………」

「え? これ? こんなのでいーの?」

「……うん」


 彼女の白いシャーペンをもらった。

 シンプルなデザインだったから、男が使っても違和感のないもの。ホントならもっと欲をいったって良かったんじゃなかろうかと今では思う。けれど、思春期の男子中学生にはそれが精一杯の告白だった。

 高校受験はこのシャーペン一本で挑んだ。

 だから。


「はっちゃん、シュウくん。合格おめでとう!」

 

 高校に入学できたのも、彼女の教えが、そして彼女という存在があったからに他ならない。

 それからいままで、俺は環奈からもらった白いシャーペンを後生大事に机の引き出しにしまっている。


 ──知らねえだろ。

 おまえが東京のキャンパスに行ったと聞いたとき、俺がどんなに悔しかったことか。

 おまえが奈良に戻って見せた笑顔で、俺の心がどんなに弾んだことか。


 おまえが──。

 そばにいるだけで、俺の世界にどれほど色がつくことなんか。


 知らねえだろ。

 なんにも。


 ──。

 ────。

 彼女の自室、ベッドの上で。

 子どもみたいな寝顔を浮かべる彼女を一瞥し、柊介はうつむいた。

「大学から連絡をうけたんよ。ねむってから四時間くらい経っても起きひんいうて、浜崎先生がね。ほんで車で迎えに行ったんやけど……あれからまだ、まったく目ェ覚まさへん。病院に連れて行こうと思うてんねんけど、行きつけの病院とかあんのやったら聞いたほうがええと思て」

 と、光はいった。

 声こそ情けないが、八郎や柊介が帰るまでつきっきりで環奈のようすを見守っていたらしく、寝がえりなどの状態変化もくわしく話してくれた。

 ワン、と柊介の足元で文次郎が鳴く。

「文次郎が目覚めたんは、ちょうど環奈ちゃんがねむっちゃったらしい時間やった。午後二時くらい。とつぜんぱっかり目ェあけて──環奈ちゃんが帰ってきたら一番に報告したろうって思うてたのに……」

 腰をかがめて、光が文次郎を抱き上げる。

 クンクンと鼻を鳴らす文次郎は環奈のそばに行きたがった。ゆっくりとベッドにおろしてやると、彼はぺろぺろと環奈の顔をなめた。

 その光景を横目に「せや」と光が八郎を見た。

「高村先生はだいじょうぶ?」

「あ──はい。たぶん」

 というのも、業平の入った高村が刑部家へ到着するなり「具合がわるい」といって居間のソファで横になってしまったのである。ふつうの身体じゃないのだ、なにか理由があるのだろう。

 柊介はうつむいたまま、

「先生見てくる」

 と部屋を出ていく。


「しゅう──」

 残された光と八郎は顔を見合わせて、ちいさくため息をついた。

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