たからものー弐 陽だまり

 右腕を目上に置いてゆっくりと呼吸を繰り返す。

 ソファに横たわる高村は、その体躯が大きくて足がすこしはみ出るほどだった。


「……高村先生」

 柊介がつぶやく。

 ソファの脇にしゃがみこんで、高村に縋るように何度も、何度も呼びかけた。

「はよ起きてや──はよ、はよう起きてなんか言うてくれよ。俺はなにしたらええねん、なにしたら環奈の目ェ覚めんねや」

 海の底に沈む夢。

 あれはやはり予知からくる警告だったのかもしれない。文次郎を助けた環奈が、何事かによって夢から戻れない状態なのかもしれない。

 ならば、いまこそ自分が行くべきではないのか。

 ──お前が柄杓や。

 そういうたのは、あんたやろ。

 柊介はうなだれた頭をゆっくりとあげた。ギリリと奥歯を噛みしめて、じっとりと沸き上がる涙を堪えるために極限まで眉をしかめている。


「……なんちゅう顔をしとんだ、お前は」


 声。

 柊介が視線を左に向ける。

 高村の顔がある方だ。彼は、右腕をおろしてこちらをぼんやりと見つめていた。

「…………せ、先生」

「遅なってすまんやった。帰ってきたぞ」

「先生──」

 安堵のためか。

 柊介の瞳から、涙が一筋こぼれる。けれどメソメソといつまでも泣くような男でもなかった。

 高村の胸ぐらをつかんで、ぐいと顔を近づける。

「先生、俺なんでもやる。どこにでも行くから。たのむから──教えてください。今なにしたらええのか」

「わかったわかった。わかってるよ、大丈夫。そう心配するな」

「…………」

 高村はわらっていた。

 そして柊介の背後に首を向け、助かったよ、と挨拶をする。だれに言っているのかとうしろを見ると、いつの間にか業平がそこにいる。

 どうやら柊介が気付かなかっただけで、ずっとそこで高村のようすを見ていたらしい。

「篁どの、小町は?」

「ほかの用事を申し付けた。──さて柊介、これからお前には夢路に行ってもらう」

「…………」

「そこから環奈の夢に入り、あいつを掬い上げてきてくれ」

「掬い、あげる?」

「お前は柄杓やからな。お前の想いは、海よりも深いものだと信じているぞ」

「…………ッ」

 カッ、と耳が熱くなる。

 けれどもはや照れている場合でもない。柊介はうなずいた。

「業平」

「はい」

「もし八郎たちが病院だなんだと言うたら、その必要はないと止めてくれ。環奈のことはなんとしても、いまこのときに連れ戻すから、と」

「承知しました」

 ではゆこう、といって高村が柊介の顔に手をかざす。

 たのむぞ柊介。

 遠くなる意識のなか、そんな声が聞こえた気がした。


 ──。

 ────。

 重力がなくなったかのような感覚。

 地に足がついているのかいないのか、それすらも判断に迷うほどの暗闇に、柊介はやってきた。

 となりには小野篁が立っている。

 どうやら、夢路に来たようである。


「この篁も、いちどは環奈の夢へ行って試みた」

 けれどダメだった、と沈んだ声でぽつりといった。

 この篁がトライしてダメだったなんて、本当に自分が行ってなんとかなるものなのかと柊介の胸に不安がよぎる。

 その心は見透かされていたようだ。

 篁は苦笑した。

「なあ柊介、──おまえ環奈のこと、どう想っとるんだ」

「は、?」

「たのむ。この篁に聞かせてくれ」

「…………ど、うって」

「…………」

 篁は答えを待っている。

 どうって、知ってるくせに──と柊介は前髪をくしゃりとあげる。


「……俺の世界だよ」


 言ってから、ボッと耳が火照るのを感じた。

 この答えで文句なかろう、と篁を睨み付けると、彼は思いのほか複雑な表情で固まっている。

 わずかに、瞳が潤んでいるようにも見えた。

「先生?」

「そうか。そう、そうか──ありがとう」

「……変なの」

 柊介は妙な顔をした。

 一寸先の闇を見る。この先が環奈の夢──かならず見つけて、連れ戻してやる。

「たのむぞ柊介」

「ああ」

 うなずいて、闇のなかへと駆け出した。


 ※

 一方そのころ。

 刑部家に訪問者があった。

 ゼミ生の田端麻由、岩崎剛、佐藤尚弥。そして院生の黒木冴子と仙石清武である。

 環奈の部屋へ招くと、ベッドまで麻由が一目散に駆け寄った。

「刑部の容態は?」

「まだねむってるんですか、──ホンマにどないしたんでしょう。昼飯くらいまではふつうやったんですよ」

「光さんここにおって。おれ、下いって先生としゅうのようす見てくる」

「うん」


 部屋の外から言霊姿の業平がこちらを覗いている。

 八郎は足早に環奈の部屋を出て、業平ととも階下の居間へと向かう。

「し、しゅう!」

 ソファに横たわる高村のそば、ソファに頭をもたげて篁の手を握り眠る柊介の姿があった。

「八郎どの、ふたりはいま環奈の夢へ入ってる」

「えっ」

「上にいる者たちが、環奈を病院にだのなんだのと言ったら止めるように篁どのに言われているんだ。頼めるかな」

「……それは、つまり」

「ああ。このふたりがなんとしても連れ戻すってさ」

「…………」

 柊介のそばに腰を下ろす。

 ふたりのつながれた手に、おのれの手を置いた。

「……たのむで、しゅう」

 ツキンと胸がふるえる。

 しかしその痛みを振り払うため首を振り、八郎はふたたび立ち上がった。

「業平さん、おれは他になにしたらええの?」

「ふたりを──いや三人を信じて、ここで待ってやることだね」

「…………わかった」

 とつぶやくなり、八郎は階上へと駆けた。

 環奈の寝顔を覗きこむ一同を見て、

「光さん、たのむから病院とかには連れていかんといてや!」

 とさけぶ。

 しかし反論の意を見せたのは、田端麻由だった。

「なにいうてんの。このまま起きひんかったら栄養失調で衰弱してまうで」

「大丈夫ッ、ぜったい起きるから!」

「はあ?」

「かんちゃんはこないなことで負けるような子ちゃうねん。いま迎えいっとるから、すぐ戻ってくるからッ」

「……八郎くん」

 光や、周囲の視線が刺すように八郎を襲う。

 無理もない、迎えにいっているだの、なんの根拠もなしに起きるだのと言ったところで、その反応が妥当である。

 しかし八郎とてここで引き下がるわけにはいかなかった。

「せめて──せめて今日、今日だけでもええ。様子見てほしいねん。いまかんちゃんになにかしてしもたら起きるもんも起きられへん」

「なにか確信があってのことなんか」

 意外にも仙石が口をひらく。

 こっくりとうなずくと、彼は再度環奈へ視線を移した。

「それは、高村先生がそういうたんか」

「…………は、はい!」

「…………」

 しばしの沈黙。

 その空気を破ったのは尚弥だった。

「よーしわかった。刑部ェ、ほんならお前あした起きたら、この前言うてたキムチ鍋の店いっしょに行くぞ。な、おまえら」

「え、あっ。……せや! せやで刑部。あと卒論の題を相談しあおうて話もしてたやんか。はよ起きてそれしようや!」

「……史料収集にはとことん付き合わせるさかい、はよ起きんさい」

 剛も、麻由も。

 ずいと環奈の寝顔を覗き込んで声をかける。

 うしろで見守っていた冴子と清武は互いに顔を見合わせて苦笑する。そして冴子が八郎の手をにぎり、うなずいた。

「また明日来るから、もしこのあと目が覚めたら私たちの誰かに連絡してくれる?」

「はい」

 ありがとう、と八郎はパッとわらった。

 その笑い方はまるで環奈のようである。仙石は名残惜し気に、すやすやと寝息を立てる環奈の額を撫でて立ち上がる。

「みんな、こないに大勢いると邪魔になる。またあした見舞いに来よう」

「はい」

「高村先生と柊介くんは? 挨拶だけでも──と思うたんやけど」

「あっ、えっとえっと」

 ちら、と部屋の外を見る。

 こちらをうかがう言霊の業平が、大きく腕でバツをつくっているのが見えた。

「ふたりはちょっと、いま邪魔しちゃダメな感じなんで。伝えときます」

「そうなん? ほんならまたあした」

「ありがとうございました」

 と八郎は恭しく頭を下げた。

 そして一足先に階下へおり、居間へ通じる襖をすべて閉めきった。階段をおりて玄関へ向かう彼らに見られないように──である。


 まもなく、大学ゼミ仲間一行は刑部家を去った。

 残ったのは八郎、光のみ。八郎のようすでなにを察したか、光は柊介や高村のことについて深く詮索しようとはしなかった。

「八郎くん、僕も帰ったほうがええかな。残ってたらまずい?」

「えっ。えーと、いや……し、しゅうと先生がいま取り込み中なんで、そこに触れなければ大丈夫です」

「取り込み中って──なんかやらしいことしてるわけとちゃうよね?」

「ちゃいますちゃいますッ。それしゅうが聞いたら怒髪天スよ! やめてください!」

「あはははは、ジョーダンジョーダン。ほんなら僕は環奈ちゃんの部屋で仕事してるから。ゆきさんたちにも言わんほうがええんやろ、大丈夫とは思うけど、なんかあったらまた八郎くんのこと呼ぶね」

「すんません、ありがとうございます」

 と、また八郎が深々と頭を下げる。

 まったく自分の周りにいる人びとが、いかに心優しくたのもしい人たちであるか──この期に及んでようやく気付かされた。

「かんちゃん……」

 口から漏れる。


 ここは陽だまりみたいにあったかいで。

 だから、だから──。


「帰ってきてよう」


 願いを込めて、八郎は環奈の手をぎゅうと握りしめた。

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