暗雲の兆しー陸 猜疑
「先生、せんせいっ」
まもなく京都駅を知らせるアナウンスのなか、八郎が高村の身体を何度かゆする。
しかし高村は一向に目を覚ます気配がない。
とはいえ、周囲の生徒たちに高村の異変を知られたらめんどうだ。柊介は八郎の腕をぐいと引いて「落ち着け」と顔を寄せた。
「でもどうしたんやろ──先生、具合わるいんかな」
「もしかして、小野篁のほうが夢んなかでなにかあったんちゃうか」
「まさか」
「でもあの高村先生がやで、わざわざ『なにかあったら』なんて話すると思うか」
「…………」
ぐっと唇を噛む。
たしかに、いつもならば常に悠々と振舞う高村がめずらしく万にひとつの念押しをしてきたのだ。もしかすると、八郎たちが思っている以上に危険なことをしているのかもしれない。
八郎の額から汗が垂れる。
そのとき、高村を呼ぶ声がした。うしろの座席に座る生徒のようだ。
「ど、どうしよう」
「たしか高村先生がいうてたぞ。助っ人頼んであるって……だれのことや」
「私のことだよ」
にゅっ、と。
柊介の顔の前にあらわれた言霊がひとり。
突然すぎる登場に、柊介はさけび声をあげる間もなく石となり、代わって八郎は「アッ」とさけんだ。
「な、業平さんッ」
「や。八郎くん」
「どどどどうして、なんで? どこにいてたんですか」
「そんなことはいい。篁どのからお願いされたからね、まずはそれをしっかりと遂行しないと」
といって業平は高村の身体に入っていく。
まもなくその眼をぱちっと開けて、ゆっくりとまばたきをした。
「…………」
「…………」
おもわぬ光景に絶句した八郎をぼんやりと眺めた高村(?)。
が、「センセェ」とふたたび自分を呼ぶ声を聞いて勢いよく立ち上がる。
「なにかな」
女をたらしこめるような微笑みを浮かべる高村(?)。
これまで見たことのないその笑みに、生徒たちはどよめいた。
「せ、先生……京都で降りたあとについて聞きたい、んですけど──」
「ああそうだね。ええっと、つぎの京都駅で降りたらその後は自由解散とする。あしたは振替休日だから、みんなゆっくりおやすみ」
「…………」
旅のしおりを読んだ最後に、パチッとウインクする高村(?)
とうとう生徒たちは「高村がおかしくなった」と青ざめた。
──。
────。
「どうしてこうも性格が真反対な人に、こういう助っ人をたのむんですかねえ」
八郎の胃がキリキリと痛む。
あれからしばらく、業平の性格をした高村は生徒のみんなに心配されてしまって、熱はないのか頭が痛いのか、と散々もみくちゃにされたのである。
「あははは、ホーント篁どのはなんか固いよねえ。私ぐらいに軟派のほうが生きやすいと思うけれど」
「そういう問題とちゃうやろッ。いまは高村先生の見かけやねんから、ちょっとは寄せてくださいよ!」
「善処するよ」
「する気ねえやろ……」
ようやく意識を回復した柊介が、口のなかでつぶやく。
あれから、業平という言霊だと紹介を受けたのでなにが起こったのかは理解したが、なによりもこの男、どことなく光とおなじ波長を感じるだけあって、柊介にとっては殊更やりづらい相手であった。
それより、と八郎が拳をにぎった。
「先生にいったいなにがあったんスか。業平さんにはなんかわかるん?」
ほかの友人たちに別れを告げ、京都から奈良に向かうために乗り込んだ電車にて、八郎と柊介は高村もとい業平を見つめた。
彼の顔が急にけわしくなる。
「篁どのは文次郎の夢に入った。そこは知っているね」
「……はい」
「私は夢路で、篁どのから『文次郎の夢をすこし覗いてくる』とだけ聞いていた。なにもなければすぐに戻るし、なにかあってもそう時間はかかるまい──と。しかし篁どのに言い渡された時間をすぎても、彼は帰ってこなかった」
「…………」
「そこでなにがあったのかはわからない。しかし、あの人がいまだ現れぬということは、まだ文次郎の夢のなかにいるということ。そしてそこで何かしら想定外の出来事が起こったということだ」
と、いって業平は口を閉ざした。
八郎の背筋が凍る。
いったい何が起きているんだろう。篁は、文次郎は無事なのか。なにかできることはあるのか──。
悶々と思考をめぐらす八郎の横で、柊介の携帯が鳴った。
光からだった。──ふたりの胸がどきりと脈を打つ。
柊介は、携帯画面をスライドして通話状態にする。
「いま電車やからリアクションとれへん。用件しゃべってくれ」
と一方的に喋ってから、柊介は一切の口を閉ざす。
……わずかに漏れ聞こえる光の声。
「────」
その切羽詰まった彼のことばに、一同は絶句した。
※
環奈に異変が起こったのは、ゼミ研究室にて論文を作成している最中のことであった。
それまでふつうにパソコンと向き合っていた環奈が、突然椅子から転げ落ちたのである。
「刑部ッ!?」
となりに座っていた麻由があわてて駆け寄るも、環奈はぐったりと動かない。
息を確認する。
スー、スーと規則正しいあたり寝息のようにも聞こえる。が、これほど派手に転がり落ちて目を覚まさないものだろうか──。
「貧血か?」
「わからへん。刑部ェ、刑部起きや」
ぺちぺちと頬を叩けど、彼女は無反応だった。
ここで転がしていてもしょうがない、と剛がゆっくりと環奈を抱え上げた。
「医務室運ぼう。もしかしたら眠ってるだけかもしれへん」
「うん……佐藤、先生が来たらそう言うとって」
「ああ、だいじょうぶか?」
「たぶん」
そうして環奈は医務室のベッドに寝かされ、二時間。
いまだ夢のなかから生還していない。
────。
「あの子は知恵遅れなのよッ」
と、静香がいう。
「親戚の子を傷つけたんですって。……」
と、幼稚園の先生がいう。
「クスクス。どうせ教授の贔屓でしょ」
「あいつ頭おかしいじゃん。いなくなってよかったよ」
と、東京の大学生がいう。
「せっかく三人で家族やったのにな……」
と、浩太郎がいう。
「あの子なんか、引き取るんやなかった」
と、ゆきがいう。
「いっつも世話焼かなあかんねんもん。もうつかれたおれ」
と、八郎がいう。
「──この癇癪娘、嫌いだよ」
と、篁がいう。
「────」
環奈は、闇のなかで耳をおさえてうずくまっている。
いやな夢。消えろ。きえろ。きえろ。
そんなこと言わない。
みんな言わない。
くすくすくす。
笑い声。
環奈はパッと顔をあげた。
目の前に、文次郎を抱えた少女が立っている。
「文次郎ッ」
さけんだ。
そうだ。これはいつぞや見た夢である。夢なのだ。
(お前なんか、消えてしまえばいいのに)
「かえしてッ」
(みんなおまえが嫌いだよ)
少女はにんまりとわらった。
ドキッとして、環奈が唇を噛む。
「……うるさい──かえして。文次郎を、みんなをかえして!」
少女にとびかかる。
「熱ッ──」
少女の身体が焼けるように熱い。
けれどもう負けるわけにはいかなかった。環奈は少女の腕にかじりついて、腕のなかで鳴く文次郎を奪い返す。
「やった。文次郎ッ!」
ホッと笑みを浮かべる。
その前に、少女が立ちはだかった。
「……あ」
(──ならばお前がねむるか?)
少女が環奈の顔に手をかざす。
遠くのどこかで、篁の声が聞こえた気がする。
環奈の意識はその瞬間、消えた。
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