枷の娘ー漆 咎
母は自分のことが嫌いなのだ、と初めて理解したのは幼稚園のころだった。
手をつなぐと振り払われた。
背中から抱きつくと突き飛ばされた。
お友だちの話をしたら「聞きたくない」と耳をふさがれた。
自分を見る目は、いつも怯懦の目──。
母の日の幼稚園で、先生がいっていた。
「みんなはおかあさんをえらんで生まれてきたんだよ」
と。
──かんながおかーさんをえらんだの?
──おかーさんはほかのコがよかったのかな。
──かんながわるいこだからおはなしきいてくれないのかな。
──いいこになったらおはなしきいてくれるかな。
それからは、いつも笑ってみた。
お友だちの話は聞きたくなさそうだったからするのをやめた。
くっつくのも嫌がったからすこし離れてあるいた。
父は優しかったけれど、たまに疲れ果てた顔でこちらを見た。
「いっしょに死のうか」
と、母に橋の欄干へ乗せられたこともある。
こわかった。こわかったけれど──そのときでさえ自分は笑っていなくちゃ、と泣きながら笑いつづけた。
小学校にあがってすぐ。
従弟の八郎とともに七五三をした日の夜のことだった。
「もう我慢できひん。あの子なんなん、こわい。きもちわるいッ」
「ええかげんにせえ、静香。環奈がなにしたっていうん」
「八郎くんに怪我させたんもきっとあの子や。いっつもニコニコニコニコ──まるで私に気ィ遣うみたいにふるまって。あの子の目も、顔も、すがた全部見てるだけで吐きそうや」
「静香!」
「なによッ。私のせい? 私かてふつうの母親になりたいよ。子どもが生まれたら自然に愛せると思うてた。私かてがんばった! がんばったのよッ」
金切声でわめく母親が、まるで鬼のようだった。
──ごめんなさい。
──おかーさんのことえらんじゃってごめんなさい。
──かんな、生まれてきて、ごめんなさい……。
その日は、夜通し声をころして泣いた。
長期休みになると決まって遊びに行った刑部本家。
ひとり、電車に揺られてたった二十分の場所だけれど、はっちゃんやはっちゃんママ、パパはいつもとっても笑顔で迎えてくれた。
「よう来たねェ。ひとりで偉かったわね、暑かったやろ。スイカあるで食べましょ」
「あしたプール行こか。おじちゃん連れてったる」
「かんちゃ、かんちゃァ!」
──お邪魔します。
というと、はっちゃんパパが快活にわらっていったことがある。
「ただいまでええんや。なあかんちゃん、いつでもここ帰ってきてええねんで」
きっと、すでに弟である雄一から話を聞いていたのだろう。
けれど当時の自分はただただうれしくて、はじめて人前で泣いたのを、いまでも覚えている。
──。
────。
「って、むかし環奈ちゃんが話してくれたことがありましてね」
とゆきはいった。
およそ幼稚園から小学校にかけて経験したこととは思えぬ、愛に飢えた日々であった。
初めて聞いたことも多かった柊介は、カレーを口に運ぶ手を止めた。
しかし高村はうなずきながら食べつづける。
「あんまりにもひどい母親や思うて、一度環奈ちゃんに提案したことがあるんです」
「提案?」
柊介はスプーンを置く。
そう、とゆきがうなずいた。
「うちに養子として入ったらどない、って」
「養子──」
「どうせおなじ刑部姓やし悪ない話やと思うたんよ。まあ、断られてもうたんやけどね」
「なんて?」
高村がティッシュで口元をぬぐい、唐突に話に入ってきた。
それがね、とゆきは苦笑する。
「……泣きながら言うたんですあの子。『かんながおかあさんを選んで来たの』って」
「え?」
「いまは嫌われてもうてるけど、いつかきっとかんなのこと好きになってもらうから、──それまでは、おかあさんの子どもでいたいって」
思い出したのかゆきの瞳に涙が浮かぶ。
高村の前に置かれたティッシュ箱をゆきの前に持っていく柊介は、不服そうに「でも」とつぶやいた。
「……そんな母親のことホンマに好きなんか。環奈が選んだからってそれ、ただの義務感やないか」
「そうね、──でもたしかに、弟くんが生まれるって聞いたときはさすがに、とってもショックやったみたい」
「環奈のことや。そんなん……自分の代わりが出来てもうたって思うに決まってる」
「それで」
と高村はよく通る声でいった。
「環奈は見舞いについてまだ答えを出してない、と」
「ええ。無理もないことです」
「そうでしょうが、しかしケジメをつけるにはええ機会や。明日にでも──環奈とすこし話してみましょう。なに、事情はアイツが小学校から知ってますからご心配なく」
「え、ええ──おねがいします」
「柊介」
急に高村が視線を向ける。
んァ、とそのいきおいの良さにおもわずたじろいだ。
「もし環奈が見舞いに行くっていうたら、お前もいっしょについてったりや」
「え」
「お前知ってるかしらんけど、環奈が泣くほど甘えられる人間て」
けっこう限られてんねん。
といって高村は食器を手に「ごちそうさまでした」とカウンターに置いた。
※
『思ひはび さても命は あるものを
うきにたへぬは 涙なりけり』
ゆらゆら。
ゆりかごにゆられているみたい。
あー。
『おぎゃあぁー』
あっ……赤ちゃん?
あれれェ。
「はいはい、泣かないで」
あ。
──おかーさん。
「いい子、いい子」
うふふ。
フフッ。
いい子、かんないい子?
うふふふ。
ふふ……
「ミルク飲もうね」
──コウちゃん。
「ハッ」
目が覚めた。
いや、覚めたというには周囲が暗い。ここは見覚えがある場所だ。そう、──夢路。
ふと自分の頭の下に枕があることに気が付く。むくりと身体を起こした。
「あェ?」
「おはよう環奈」
篁の膝だった。
パッと身体をよじって見上げると、この夢路でよく見る平安貴族姿の篁がおだやかにわらっている。
「むっちゃん!」
「ここで会うのは久しぶりだな」
「ウン。ごめんね今日、いっしょにごはん食べなくって」
「そんなことはいい。それより聞いたぞ、お前の母親が入院するんだって?」
「……ウン」
環奈はうつむいた。
まったく、落ち込み方がまるで子どもだ。篁は立て膝を崩して胡坐をかく。
「どうすんだ。行くのか?」
「どうしよ、っかなァ──」
脳裏に先ほどの夢がよぎる。
起こした身をふたたび横たえて、右腕で目元を隠す環奈は深いため息をついた。
「なにをそう迷うことがある。行ってやりゃいいだろ、お前だって言いたいことがあるんじゃないのか?」
「いいたいこと──」
「あるんだろ。ぜんぶぶちまけちまえばいいじゃないか」
「…………でも、こわい」
「大丈夫だよ。柊介もいっしょに行ってやるってさ」
というと、環奈は腕をずらしてくるりと大きな瞳を篁に向ける。
「シュウくんも?」
「ああ。な、こわくないだろ」
「────」
「だいじょうぶ、なるようになるさ。お前だってあのときより十年以上も成長したんだから」
「……うん」
ごろりと横を向いた。
静謐な時間──環奈はむかしからこの夢路の時間が好きだった。怒る母はいないしいつだって篁がやさしく話を聞いてくれたから。
「むっちゃん」
「うん?」
「きょうね、弟くんに会ったよ。コウタくんってゆーの」
「そうか」
「すっごい可愛かったよ」
そうか、と篁はふたたびいった。
夢路のなかに風が吹く。心地よい。環奈は微睡んでいるのかショボショボとまばたきをする。
「シュウくんが来てくれて──よかった」
「…………どうして?」
「だって、あのままだったらきっとかんな、……川につき落としてたもの」
声色は暗かった。
お前は、と篁は環奈の額を撫で、
「そんなことしないさ」
といった。
夢路のなか、月が煌々と輝いている。
※ ※ ※
──つれない人を思いつづけ、
想う気力すら失えど命は耐えるが
つらさにこらえきれず、
こぼれ落ちるのは涙であった。──
第八十二番 道因法師
題知らず。
つれない相手への想いにふけ、
耐える命とこらえきれぬ涙を詠める。
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