枷の娘ー捌 袂別

 あの娘よりこわいものなどなかった。


 世の母親たちは、おのれの股ぐらから現れたソレが可愛いと思えるらしい。

 ──私には無理だった。

 腹を痛め、股を裂いて生まれ来るモノに愛しさを感じるには、私は若すぎたのかもしれない。いや、もともと母親という肩書きが向いていなかったのだ。


 ずいぶん酷いことをしたと思う。

 いま思えば育児ノイローゼだったのだろう。娘のすべてが憎く、おぞましく、怖かった。

 夜泣きをすれば枕を投げつけ、すり寄ってくると振り払った。言葉を話すようになるとますます気味が悪くなった。

 娘が、どこにもいないトモダチの話をするたびに嫌悪感に苛まれ、まるで親の仇かと疑うほどの殺意に見舞われた。


「いっしょに死のうか」


 と言ったことがある。

 いっそ死んでしまえば楽になるとさえ思っていた。

 けれど娘は泣きながらわらっていた。それがまた、無性に腹が立った。


 娘は、他者から見れば非常に整った顔立ちをしているようだった。周りから天使のようだと称賛された。

 だからだろうか──夫はいつも娘をかばった。

 娘を罵倒する私に、一度だけ手をあげたこともある。そうなるとますます娘への憎悪が溢れ、絞め殺したい衝動に駈られた。

 母親が娘に嫉妬しているのだ。

 どうしようもない。──と、いまでは思う。けれど当時は毎日が地獄の日々で、冷静になどなれはしなかった。


 いつだったか夫が、自身の兄に相談したらしい。

 娘が中学にあがろうというころ、刑部本家の方で娘を預かるといった。ありがたかった。

 義姉にはひどく罵られたけれど、娘をそばに置いておくよりはよほどマシだった。

 娘がそばにいなくなってから、私はみるみる元気になっていった。夫はそれに喜んだ。私のなかにも余裕が生まれ、娘が生まれてから初めて──笑えるようになった。

 すこし落ち着いてくると、これまた不思議なもので、子どもがほしいと思った。

 自信はなかったけれど、でも昔の私とはちがうという確信もあった。


 そうして──晃多が生まれてからは、さらに楽しかった。


 いったいなにが違ったのか。

 晃多の一挙手一投足がかわいくて、同じ幼稚園で会う母親のなかのだれよりも子どもを愛した。

 いつしか娘の存在は、脳内の奥底に仕舞われて──初めから三人家族であったかのような錯覚にさえ陥ったほどだ。


「晃多には、環奈ってお姉ちゃんがいるんよ」


 ある日、夫が晃多にいった。

 ドキッとした。

 なんてことを言うんだ、と叫んだ。叫んだと同時に、胸に広がる焦燥感と畏怖。

 いま娘は何歳だろう。たしか高校は京都に行ったと聞いた。寮生活といっていたけれど、もう卒業して大学に入ったのだっけ──。


 まるで、他人の子どもに対しての感覚だ。

 ──あれから八年。

 一度だって、娘を見てはいない。


 私はいったい何をしてたんだろう?


 もう少し可愛がってやればよかった。

 思えばそんなに嫌うこともなかった。

 話くらい聞いてやればよかった。

 いったいなにがそんなに──。


 胸のなかに、後悔が広がってゆく。

 ああ。

 ……────目が、痛い。


 痛い。いたい。いたい──。

 目が。……胸が。


 夜空にぽつりと月が浮かぶ。

 いや、自分のまぶたはとじている。これは夜空ではなく、自分のまぶたの裏側に浮かんだ月なのだ。


 明日。

 娘が見舞いに来ると夫がいった。



『心にも あらで浮世に 永らへば

      恋ひしかるべき 夜半の月かな』


 うたが、きこえる。


※ ※ ※

 ──思いがけず、この儚い現世を

   生きながらえてしまったのならば、

   きっと今宵眺め見たこの夜更けの月が

   さぞ恋しく思い出されることだろう。──


 第六十八番 三条院

  病をわずらう院が、

  位を去らんと思うころ。

  月の明りけるをご覧じて詠める。



 ※

「静香。環奈が来てくれたよ」

 病室のとびらをあけた雄一の声は弾んでいた。

 うしろに控える環奈は、じっとりと手のひらに汗をかいている。不安げに胸の前で手を合わせる彼女の肩に手を置くのは柊介だ。

 だいじょうぶ、とうなずいてその背を押してやる。


「環奈入って」

 雄一にうながされて環奈は一歩、また一歩と病室をゆく。

 六人部屋の一角、母は半身を起こして待っていた。

 その眼はぼんやりと開かれてはいたが、おそらくほとんど見えなくなっているのだろうか──焦点が定まっていない。

 焦って柊介を振り返る。

 彼は病室の入口で、扉にもたれたまま動かない。どうやら病室に入ってくる気はないようだ。

「静香、環奈が来たで。晃多は学校がおわったらすぐに来るって」

「…………」

 静香はなにもいわない。

 もうほとんど見えてないんよ、と雄一がささやく。そして環奈の手をとり、そっと静香の手に重ねた。

 環奈はハッと手を離したが、意外にも静香がそのぬくもりを探ろうと手をさ迷わせる。


「……おか、おかーさん」


 呼びかけた。

 母はふっと顔を環奈のほうに向け、わずかな声をくちびるから漏らした。──かんな、と。

 それを見た環奈はパッと母の手を両手で握る。

「……か、かんなだよ。かんな来たヨ。おかーさん──病気だいじょうぶ?」

「環奈──」

「あ、……あのね。えっと、ち、中学出たあとね。京都の高校行ったの。寮だったからひとりでなんでもやってね。そんでね、だ、大学は白泉大学っていうところ。うんと、さいしょの一年間は東京行ったんだよ。そんだけど、書いた論文を褒められて今年から奈良のキャンパスにうつったの。それで、あのね。あの、かんな──もう二十歳になったんだヨ」

 環奈は堰を切ったように話し出した。

 握った手はかすかにふるえていた。しゃべる声も、肩も、身体中がふるえていた。それは緊張からくるものでもあり、恐怖からくるものでもあり。悲しみ、よろこび──かかえきれぬほどに襲いくる感情のためであった。

 静香は相槌もなくぼんやりと聞きふける。

 いまはね、と環奈はつづけた。

「はっちゃんちにまた厄介になってるのネ。そんで、お友だちもたくさん出来たんだよ! マユちゃん、ゴウくん、ナオくんってゆって、おんなしゼミでね。みんなやさしくってかんなすぐ仲良くなったの。そ、それとはっちゃんのお友だちともよく遊ぶんだぁ。みんなみんな、やさしくて……それで」

「環奈」

「あっ、ごめんなさ──」

「かんな……お顔見せて」

 と、静香の手が環奈の手から離れて宙をさまよう。そばにいた雄一はその手を環奈の頬に持っていった。

「静香、環奈の顔だよ」

「…………」

 探るように、静香の手が環奈の顔を這う。

 頬。顔の輪郭から顎、くちびる、鼻、瞼──すべてを指先で感じ取ってゆく。環奈の顔はこわばっていたけれど、決してその手を振り払うことはしなかった。

「────もう」

「え?」

「もう、二十歳になったの。……」

「……う、うん」

「そう。…………そうなのね」


 母の瞳から、一筋涙がこぼれ落ちた。

 それを見た環奈の顔がゆがむ。

「おかー、さ」

「環奈──…………」


 ごめんね。


 母は言った。

 環奈の頬を両手で包みながら。

「……おかーさん」

「ごめんね環奈、ほんとうに──ごめんなさい。……」

 そして静香は顔をうつむける。

 彼女の頬をつたった涙がしとどに布団を濡らしてゆく。

 環奈はそのようすを見つめ、じぶんの頬を包む母の手に手を重ねた。

「きょう、かんなね。どうしても言わなくっちゃって思ってたことがあってね」

「…………」

「あのね、……」

 母の手が緊張したようにこわばる。

「生んでくれてありがとう。……それと」

 怒ってないよ。

 と、環奈は口角をあげた。

「かんな、ホントに怒ってないのヨ。おかーさん選んだのかんなだもんね。だからホントのホントに怒ってないんだよ。だからひとつ聞かせてほしいの」

 環奈のこと愛してる?


 ──環奈は問うた。

 母はうつむけた顔をふたたびあげて、環奈の声が聞こえるほうへと顔を向ける。環奈の頬を包む手は気が付けば環奈の手にがっちりと掴まれて、もはや動かすことはできない。

 静香は緊張したようにごくりと喉をならす。

 いまさらすぎる質問であった。そんなことを聞かれるとは露も思っていなかった。静香は──とまどった。

 けれどいま心の内にある言葉は、ひとつ。

 静香はすっかり衰えた頬にしわを寄せ、わらった。

「ええ────環奈、愛してる」

「…………」

 うふふ。

 環奈はわらう。

 そして静香の手に雫がこぼれ落ちるのを感じたとき、

「かんなは、だいっきらいなのよ」

 とふるえる声。


「おかーさんなんか嫌い。だいっきらいよ!」


 その声は、病室中にひびいた。

 そばにいた雄一が戸惑ったような気配を見せる。──けれど静香はわらっていた。

 環奈の頬に触れたままの手がどんどん濡れていく。見えなくとも、彼女の瞳からあふれる涙はわかった。

 べつに嫌いでもいい。

 許されなくたっていい。

 八年前までの自分がしてきた咎は許されるべきではなく、むしろ嫌われて当然のことだということは、自分が一番よくわかっている。

 ただ、静香はうれしかった。


 それでも彼女が会いに来てくれたこと。

 面と向かって話してくれたこと。

 生きて──いてくれたこと。


 静香はそれだけで、今日まで生きてきた意味があったと思った。


「だ、だからかんな、もうおとーさんとおかーさんには会わないよ。ぐうぜん会っちゃってももう他人のフリするヨ。かんなのおかーさんは──はっちゃんママだけだから」

 だから安心してって言いに来たのに──と、いって環奈は握っていた母の手をゆっくりと離した。

「どうしていまさら、そんなこと言うの──…………」

「……ごめんね環奈。ごめんね」

「おかーさんなんかだいっきらい。だいっきらいなのに……なんでわらうの。なんで愛してるって、ごめんねって──これじゃ、これじゃあかんなどうしたら……」

 そして環奈はうずくまってしまう。

 頬からはずれた静香の手は、ふたたび宙ぶらりんとなって、やがて布団の上に落ち着いた。

「いいのよ」

 静香がいった。

 ひどくおだやかな声。きっと環奈がこれまでに聞いたことのないほどの、やさしい声。

「あなたは私のこと、嫌いでいいの。ゆるさなくっていいの。私があなたにそれだけのことをしたんだもの。だから、環奈が私たちの子どもでいるのがイヤだとしたって、私はやめないでなんて言えないわよ」

「…………」

「だけど信じてほしい。これだけは」

 静香の瞳に、わずかに光が宿る。

 環奈はゆっくりと立ち上がった。


「──いま、お母さんはあなたのこと、ほんとうに愛してるから」


 そのとき。

 初めて視線があった気がした。

 子どもの頃からずっと、そらされ続けた母の視線。二十年の時を経てようやくかみ合った瞬間だった。

 最後、環奈は静香のことをつよく、つよく抱きしめた。


 時を同じくして病室に駆けこんできた影。──晃多だ。

「ママァ。あっ、かんなねーちゃん!」

 どうやら学校が終わってからまっすぐ病院に駆けてきたようだ。背中には黒いランドセルが背負われている。

 環奈の姿を視認してうれしそうに駆け寄った晃多だったが、静香から身を離した環奈は一瞥したのみで彼とことばを交わそうとはしなかった。

「かんなねーちゃん?」

「コウちゃん」

 ただひと言。

 ──かんな、お姉ちゃんじゃないよ。

 といった。

「えっ」

 そして環奈は静香に背を向ける。


「コウちゃんママ、はやく良くなってね」


 さよなら。

 と、柊介の手を取る。

 環奈は病室を出た。

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