枷の娘ー陸 傷心

「かんなの、おかーさんのこと──?」


 葉色が褪せた桜の木々が、強風に揺れた。

 向かい合って立ちすくむ環奈と柊介も、強い風に煽られてバランスをくずす。

 そのとき。

 柊介の携帯が鳴った。

「…………」

 ゆきからのメールである。内容は、雄一は帰ったので環奈といっしょならば帰っておいで──というものだった。

 話のつづきを待っている環奈に向き直る。

「……環奈、帰ろ」

「え?」

「帰ってからゆきさんがもっとくわしく話してくれるさかい。俺からよりも、そっちのがええ」

「…………」

「わるいな」

 柊介は刑部家の方へと歩きだした。

 動きにつられた文次郎がお尻を振ってあとにつづくも、そのリードを持つ環奈は立ち尽くしたまま動かない。クン、と首がしまって、文次郎が環奈をふり仰ぐ。

 それに気づいた柊介も立ち止まった。


「聞きたくない」


 環奈がいった。

 聞いたことがないほど、掠れて、ふるえた声色だった。

「環奈」

「聞きたくない。かんな、ヤダ。聞きたくない」

「……かえろう」

「どんなこと? また、かんながこわいって話? 気持ち悪いって話? 顔も声も姿も、二度と見たくないって……また、赤んぼ出来たから、もうかんないらないって話──?」

「環奈!」

「だって、いままでそーゆーのばっかだったもん! おかーさん、かんなとお話するたんびそーゆーことしか言わなかったもんッ」

 環奈はさけび、うずくまる。

 あわてて文次郎が駆け寄って環奈の膝小僧に鼻をつっこむ。柊介もまた、そばに寄って環奈の前にしゃがみこんだ。膝に乗せた手に顔を押し付ける彼女の頬をはさみ、柊介はぐいと持ち上げる。

 環奈はポロポロと涙をこぼしていた。


「ちゃう。ちゃうよ、せやのうて──環奈のおかんが、入院するって話や。ただそんだけや」


 そして、柊介はこぼれる涙を指ですくう。

 なぐさめるように何度も何度も頭を撫でて、自分の袖で濡れた頬をぬぐってやった。

「入院……」

「ああ。たぶん病気の名前とかどういうもんなんかとか、その程度の話」

「おかーさん、どっかわるいの」

「みたいやな。やからはよう帰って、それ聞こうや」

「…………」


 あの日。

 堀しのぶを見舞いに行った病院で、柊介はさきほどの少年──刑部晃多とその母、静香を見かけた。そのときはもう、考える間もなく身体がうごいた。

 どうやら検査の結果を聞きに病院に訪れていたようだった。

 彼女の夫である雄一と電話で話す内容を聞くかぎり、彼女はちかく入院するようなことを伝えていた。病名はよくわからないが、様子を見ただけでもだいぶ視力が落ちていることは見て取れた。

 その病が命に直接危険を及ぼすものなのかどうか、そこまではわからない。


 文次郎は、前足を環奈の膝にかける。

 みじかいうしろ足で懸命に立つ姿に、環奈は苦笑した。

「腰、わるくしちゃうよ。もんちゃん……」

「文次郎ももう飯の時間やで。はよ帰ったらなかわいそうや」

「……ウン」

「帰れるか?」

「うん」

 環奈は立ち上がった。

 すこし冷静になったその姿にホッと息を吐いて柊介もゆっくりと腰を上げる。

 いまだに元気がないようすの彼女ではあったけれど、文次郎がかまわず駆けまわるので、次第に笑顔がもどっていった。

(…………)

 ひとり、彼女のなみだでぬれた袖にふれる。

 しっとりと湿った布は風にあたって腕を冷やすたび、柊介の身体中の血がその一点に集まって熱を持った。


 ※

「ベーチェット病──」


 刑部家に帰宅早々、雄一から聞いた話をゆきは告げた。

 卓をはさんで向かい合う環奈とゆき。柊介は縁側で横になり庭を眺めながらうしろの話を聞いている。

「それ、どんな病気?」

「難病指定されてる病気やて。いろんな症状があって──雄一さんが帰ってから静香さんの症状がメールで来たんやけど、静香さんは目と血管を病気に攻撃されてるんやて。とくに目が、……失明の危険性もあるくらいに進行してるって」

「……目」

「それでね、雄一さんが──環奈ちゃんもお見舞いどうやろかって。もう十何年も会うてへんし静香さんも最近はようむかしのこと思い出しているから、きっと環奈ちゃんとお話したいんちゃうやろかって言うててん」

「…………」

 環奈はうつむいた。

 でもね、とゆきがあわてて付け加える。

「環奈ちゃんが無理して行くことはないと思てるの。顔を見てイヤな気持ちになってまうくらいなら、私は──行ってほしくはないからね」

「ん、……」

 どこか煮え切らぬ表情で環奈はうなずいた。

 これまでのことを思えば当然の反応だろう。柊介はみじろぎひとつせぬまま瞳をとじる。と、そのときである。

 玄関のチャイムが鳴った。

「あらまたお客様」

「!」

 環奈の顔がひきつる。

 しかしゆきは微笑んで首を横に振ると「だいじょうぶ」とわらった。

「とにかく、そんな焦って決めることとちゃうからゆっくり考えて。行くにしろ行かないにしろ、どっちを選んだってどうなるわけでもないの。環奈ちゃんの自由やからね」

 といって、玄関へ駆けてゆく。

 卓に残された環奈はうつむいて、くちびるを噛んだ。

 こんどの客人はだれだ──と柊介がごろりと身を返して起き上がろうとしたところ。


「あらっ、高村先生!」


 というゆきの声が聞こえてきた。


 ──。

 ────。

 高村の背には、すっかり寝入った八郎の姿があった。

 ゆきはたいそう恐縮し深々と頭を下げる。

「まったくどないしたらこういうことになるんやろ──ホンマにご迷惑をおかけして」

「ええんですよ。めずらしく授業のことで質問に来たんで、いろいろと話しとるうちに寝てもうたんです。起きても叱ってやらんでください」

「ホンマおおきに……あ、先生ご飯まだですか。うちこれから夕飯なもんですからごいっしょにいかがです? お礼もしたいし、ぜひ!」

「えっ。ホンマですか、ありがたいッス」

 と、高村はふたつ返事で言葉に甘えることにした。

 

 いつまでたっても八郎が目を覚まさない。

 どうやら高村には理由がわかっているらしく、そのまま起こさずに寝かせてやってくれ──というので、柊介は高村とともに二階の八郎の部屋へあがった。

「ハチのやろー」

 ごろり。

 八郎がベッドに横たえられた姿を忌々しげに見つめた。

「いっしょに宿題やろう言うからずっと待っててんで。なんで寝て帰ってくんねん」

「そうやったんか。きょうは俺もご相伴にあずからせてもらうことになったし、ついでになんでも聞いてくれてええぞ」

「数学やで」

「ウン。環奈のが得手やな」

「……あれは、きょうはもう役に立たへん。しゃーなし、明日学校で明夫に聞くわ」

「なんかあったんか」

 八郎に掛布団をかけてやり、高村はゆっくりと身を起こした。

 そういえばこの男は──環奈のことを小学校のときから知っているのだっけ。柊介は眉をひそめた。

「環奈の親父がここに来てん。運よく環奈とは鉢合わせせえへんかったけど、代わりに息子に会うてもた」

「…………なにしに来た?」

「母親が入院するねんて。見舞いにどうやっちゅう話らしいけど」

「ふうん──勝手な話やなあ」

「な」

 八郎の部屋を出る。

 階下に降り立ったところで、環奈がこれから階段をのぼろうとするところだった。

 どうした、とすれ違いざまに柊介が環奈の肩をつかむ。

「もうメシやで」

「ウン……カレーなんだって。だからかんな、あした食べるってゆっちゃった。おなかすいて夜中食べてもいいってはっちゃんママがゆってたから」

「ああ。ま、……きょうは疲れたもんな。はよ寝ろ」

「ありがとシュウくん。むっちゃん、またね」

「おやすみ環奈」

 高村はにっこりと微笑んだ。

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