枷の娘ー伍 希望
※
「…………」
──いつの間にか眠っていたようだ。
夢を見ている。
ここは、どこだろう。
「おお八郎」
篁だった。
彼はうれしそうにわらって「まあ座れ」と自身の腰かける石を叩く。
ここは川の上流だろうか。岩肌がするどく、下流に流れていく水の勢いがすごい。
いわれたとおりに腰かけて、八郎は篁をぼうっと見上げた。
「あれ。なにしてたんやったっけ」
「お前がとつぜん高村六道に泣きついてきたのだろ」
「…………」
泣きついた。そうだっけ?
八郎は記憶をたどる。そうだ、浜崎に崇徳院の和歌が百人一首にあると聞いて、ならば頼れるはこの人しかいないと、高村の家に押しかけたのだ。
それから、どうして夢のなかへ──。
「どうだ」
と、篁。
どうとは、と八郎は首をめぐらせ辺りを見る。轟々と流れる川の水はまるですべてを食らいつくすような勢いである。その流れを見つめるうち、自分の心がみょうに重いことに気が付いた。
いつだったか、こんな不思議な感覚を味わったことがある。
そうだ、あれは──。
「夢のなかで、先生と初めて会うた時もこんな気持ちやった」
「どんな気持ちだェ」
と問う平安貴族然とした篁は、やはりどこかうれしそうな顔をしている。
しかし八郎はズンと沈んだ気持ちである。沈んだ──というよりも、もっと、もっと深い。
「いき、ぐるしいッスね」
深呼吸をひとつ。
しかしどうにも払しょくされぬこの感覚はいったいなんだろう。
「なんか」
ここにいることも、生きていることもずっと責められている気分。
と八郎が息も絶え絶えにつぶやくと、篁はなにも言わずに視線を川へと移した。
どうどうと流れゆく水音を聞いているらしい。
「は、……」
息苦しくて、胸をかきむしりたくなる。
けれど羽を千切られた鳥のように途方に暮れることしかできない。そのもどかしさからか、八郎の瞳からは不思議と涙がこぼれてきた。
「あれ、れ」
戸惑った。
なにも悲しいことはないのに、涙が止まらない。
「う、くそ。センセ、なんや涙止まらん……どないしよう」
八郎は困り果てたように篁に縋りつき、冷静に泣く。
頭上で篁がいった。
「それが、院の御心」
「え?」
顔をあげる。
「崇徳院の──和歌の感情?」
「いやちがう」
彼が死ぬ間際まで抱えた情だ。
といって八郎を支えながら立ち上がる。
はらはら流れ落ちる涙が、濁流のなかにぽたりと消えた。こんな、こんなにもくるしい。
「死ぬ間際までこんな気持ちやったん。崇徳院って」
八郎はあえぐようにいった。
あまりにもつらそうな彼の姿を見かねたか、篁は八郎の手を引いて川から離れる。そして下流のほうへと歩みをすすめた。
「院は──和歌を詠まれているときは、まこと楽しそうにされていたそうだぞ」
篁はいう。
「幾度も歌合を催された。あの場所がゆいいつ、息つける場所だったのだろうなあ」
「…………う、うた」
八郎はぽろりと涙をこぼす。
川の流れが徐々におだやかになってゆく。それと同時に心にある息苦しさもすこしずつやわらいでいくのを感じた。
それどころかだんだんと心のうちが温かくなってゆく。ああ、いつもの自分だ──と八郎はホッと息をついた。
「わっ」
その瞬間。
景色は岩肌するどい上流から、緩やかな水の流れを揺蕩たせた下流の景色に変わった。河原が広がり、肩の荷が降りるような空気である。
「彼にはね、友人がふたりおったんだよ」
と、篁は懐から和本を取り出した。
ぱらりとめくった頁は、八十三頁と八十六頁。どうやらすでに和本にもどってきている詠み人のようである。
それぞれの詠み人の名は、皇太后宮大夫俊成と西行法師。
友達──と八郎が手元を覗き込んだ。
「そうだ。院は都において狂人になったと勝手なうわさをたてられた。けれどこのふたりは最後まで院の正義を信じて疑わなんだ。そうしてね、院は讃岐からこの皇太后宮大夫俊成、つまり藤原俊成どのに長歌をおくった」
崇徳院の、真の御心を詠んだ歌。
篁は原文ではなく意味を教えてくれた。
『己の身の上を嘆き、粗末な板葺きの小屋で
眠れぬ夜を迎えるたび、
これは前世の罪障のためと己に聞かせて
出家を思い立った。
涙で袖は朽ちようとも、かつての仲間と
和歌を詠み交わした日々は忘れない。
いまだ泉のように和歌が湧くであろうに
その歌の情を解する者はおらぬのか、
おまえが和歌を絶ってしまったと聞いたよ。
仏道に入った私が、もしも浄土に転生する
ときが来たならそのときは、
ともに仏門で語らおう。
それだけを想う私の心を、
おまえはわかってくれるだろうか──』
俊成は、都にてその長歌を読み、枯れるほどの涙を流したという。
「その内にひとつ、詠んだ和歌もある」
篁が瞳をとじて和歌を詠む。
『ゆめのうちに なれこし契り 朽ちもせで
醒めむあしたに 逢ふこともがな』
──夢のような世であったが、
この世で慣れ親しんだ縁は
彼岸でも朽ちることはない。
浄土にて、煩悩に満ちた夢から
醒める朝。
……おまえに逢えたらよいのになあ。
彼はいったいどんな気持ちで。
そう思えば八郎の瞳はまた涙に濡れた。
けれどもこんどは、自分の意志からくる涙だった。
「そう泣くでないよ。……ほれ!」
篁がふるえるその肩をたたく。
ゆっくりと顔をあげた八郎の視線の先。ひとりの言霊がいる。
八郎の瞳からまた一筋、涙が流れたときだった。
『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はんとぞ思ふ』
「……あ、あれ」
「ああ、顕仁様──もとい、崇徳院だ」
「────」
八郎は見とれた。
これまで聞いてきた不遇の運命を背負っているとは、とても思えぬほどの楽しそうな姿。篁が手鏡をかざすと、やがて言霊は白く光って紙となる。
はらりと篁の手中に舞い落ちたその紙に、さきの二枚を重ねてやる。
「いまのはまた逢うることへの希望を忘れぬという和歌だ。な、院はいつだってまた友と逢えることを信じていた」
美しき歌だのう、と篁は慰めるように八郎の頭に手を乗せた。
八郎は何度もうなずいて、うなずいて、そして三枚の紙を胸に抱く。
「来世が、あるなら」
一度しゃくりあげ、
「幸せになりや。──ぜったい……」
と、か細い声で。
今度は愛されて生まれてほしい。
拒絶のない世界で生きてほしい。
三枚の紙に描かれた三人の絵姿が、わずかに口角をあげた気がした。
崇徳院と藤原俊成、西行法師。
この三人の縁はかつて、和歌によって結ばれたという。
平安当時の身体が朽ちて、その後仏門にて会えたのかどうか、それは当然わからない。
けれど、今。
この和本の自歌に残された言霊が、一時の邂逅をゆるしたのである。
※ ※ ※
──流れの速い川、岩で時に二つに分かれても
またひとつに戻るように、
たとえいまふたりが別れても
いつか再び逢えるものと思っています。──
第七十七番 崇徳院
題知らず。
一度は別れたふたりの再会を願う心を
急流になぞらえ、詠める。
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