枷の娘ー肆 申し出

「知ってたんか」

 柊介は青い顔をしている。

 ウン、と土手をゆっくりと歩みすすめる環奈の足取りは、重い。

「かんなが京都の高校に行ってすぐのころにね。たまたまかんなが、こっちに戻ってきてたとき。おかーさんに内緒で、おとーさんが一度だけ赤んぼ抱っこさせてくれたの。名前、晃多ってゆーんだよって、おしえてくれたのヨ」

「…………」

「でもおっきくなった姿、見たことなかったから──わかんなかったんだけど。でもコウちゃんが『かんなって名前のお姉ちゃんがいる』って言ったの。うふふ。……びっくりしちゃった」

「ホンマ、すごい偶然やな」

「うん。それもそうだけど、……ちゃんとお姉ちゃんがいるって、教えてあげたんだァっておもって」

 環奈は足もとの石を蹴った。

 こつんと跳ねたそれは、土手の下にころがっていく。

「おかーさん、パン屋さんにいたんだネ。どうしてこのあたりに来たんだろう」

「環奈」

 柊介が呼んだ。

 おもえば、彼女の名前をきちんと呼んだのは久しぶりかもしれない。

「言うてへんことがある。たぶん、ゆきさんはいまごろ聞いてるかもしれんけど」

「…………」

「おまえのおかんのことや」

 ふたりは、立ち止まった。


 ※

「入院する?」

 ゆきは眉をひそめた。

 対するのは八郎の父の弟、雄一。

 ──彼は、環奈の父親である。

「ええ。うちの静香ですが、近ごろひどく体調を崩したものですから、この間精密検査をしに病院へ行ったんです。何度か検査を繰り返して、そうしたら……ベーチェット病やといわれました」

「ベーチェット?」

「難病指定されとる病気やそうで。うちの静香の場合はかなり症状が進行してるもんで、もしかしたら失明してまうかもわからんと」

 雄一はうなだれた。

 そのつむじをぼんやりと見つめるゆきは、しかし同情できるほどに冷静ではいなかった。

「それで?」

「は、」

「雄一さんには申し訳ないですけれど、それでなんだってきょうはうちにいらしたんです。弟の晃多くんも預かれいうんですか」

「ちが、ちがいます! そうではなくて」

「ではまさか、環奈ちゃんに見舞ってやれなんて言いませんよね?」

「…………」

 ゆきはハッと鼻をならす。

 呆れてものも言えへん、とつぶやく彼女の肩はふるえている。無論、怒りで、である。

「ずっとずっと環奈ちゃんを拒絶し続けた母親が大変やから、見舞いに行けって? どの口がいうてまんの!」

「…………」

「なにかとあっちゃあヒステリー起こして、すべてを環奈ちゃんのせいにして。挙句環奈ちゃんをよそに預けたと思たらあたらしい子どもつくって? その子どもが生まれるさかいに、娘の卒業式も父親に見に行かせんと自分のそばに縛り付けた母親のくせに──ええご身分やわ!」

「ち、ちゃうんです。これは静香の意志やのうて……僕の意志です。もう二度と目が見えんくなるかもしれへん。きっと静香も環奈に対して、申し訳ないと思うてるはずなんです。顔を見てひとこと環奈に謝ることができたら──きっと静香もまだ救われるかも、って」

「救われる?」

 バンッ、とゆきははげしく卓をたたいた。

 叩いた手のひらはじん、と痛んだけれど、それでも抑えきれぬほどに怒りが噴出するのを自分で感じている。

「外道な母親が救われて、それで環奈ちゃんは? ただごめんなさいのひと言もろうて、これまでの二十年が環奈ちゃんのなかで帳消しになってあの子も救われるとでも思うてはるんですか雄一さん。あのね。あの子は、貴方たちが思うよりもずっとずっと傷ついてんですよ。いっつもにこにこしとるさかいに一見わからへんかもしらんけど、だれよりもいっつも心細うて泣きたくて、それでも我慢してる子ォなんです!」

「わかってます。ホンマに申し訳ないと──環奈には、なにを言うてもきっと許しちゃもらえへんと思てます。でも僕はあの子を愛してます。それは、あの子かてわかってくれてる」

「でも、捨てたやないですか」

 ゆきは奥歯をぎりりと噛みしめる。

 もはや怒りを通りすぎて涙が出てきた。

「雄一さんは、学費払うて養育費もうちにいれて、それでたまに環奈ちゃんの前に顔を出してたくらいで自分にはなんの非もないと。それだけやれば父親の任を果たしてるって思うてるわけですか」

「それは、」

 雄一が口ごもるのを見て、ゆきはすこし冷静になったのか一度深呼吸をした。

 瞳に浮かんだ涙をぬぐい静かな声で「正直なところ」とつぶやく。

「いい気味です。難病がどれほどのものかわからへんし、気の毒やとはおもいます。でも、私はきっと天罰が下ったんやと思うてなりません。あの子の笑顔を見るにつけ、幾度天罰が下ればいいと思うたことか。……でも」

「…………」

「あんな女でも、環奈ちゃんの母親やし。それに晃多くんの母親はちゃんと出来たはるんでしょう。晃多くんにも罪はありませんからね──」

 といったゆきの顔はひどく疲れている。

 雄一は何度も、何度も頭を下げた。その謝罪はいったいなにに対してのものなのか。環奈と関わってからのこの二十年間を思えば思うほどに、ゆきの瞳には涙があふれる。

 彼女がこれまで、どれほど──。

「とにかく」

 声をふるわせながらも居住まいを正した。

「静香さんが入院することは、環奈ちゃんに言うてみます。それからお見舞いに行くか行かへんかはあの子が決めることやろうし。……それできょう静香さんは? 晃多くんとおうちですか」

「いや、近くまで来てるんですがこちらには来たくない、と。……すみません」

「かまやしまへんよ。私かて静香さんがいっしょやったらぶん殴ってもうたかもわかりまへんし」

「あは、……」

 しばらくの沈黙ののち。

 最後に、とゆきはやがて大儀そうに立ち上がった。

「静香さんはいま、環奈ちゃんのことどない思てますのん」

「…………」

「それによっては、環奈ちゃんをお見舞いに行かせたくはないので。わかるでしょう?」

「ええ。えっと、環奈の話を彼女とほとんどしないので──どう思うているのかはあまり。ただ、病気がわかってからはよく昔の話をするようになりました。なんとなく、環奈の話をしたいけれど出来ひんというような感じで」

「……そうですか」

 わかりました、とゆきがうなずく。

 早く帰れ──というような眼力に、雄一は身体をちいさくしてすごすごと玄関へと向かう。しかし雄一が引き戸を開ける間際、ちいさくゆきが笑う気配がして振り返る。

 案の定、彼女は微笑していた。

「取り乱してもうて、お茶もなんも出しませんで──すみません。つぎいらっしゃるときは、ご連絡くださいませな。どうぞ晃多くんも連れてね。静香さんの病状しだいでは晃多くんもさびしい思いしてまうかもしれんし」

「義姉さん……ホンマに、ありがとうございます。ホンマに」

「静香さんにお大事に、とお伝えください」

「はい」

 そして雄一は刑部家をあとにした。


「はァ──」

 ゆきはその場にへたりこむ。

 携帯で柊介にひと言連絡をいれて、ぐったりと頭を壁にもたれさせた。

 許したわけではない。

 許したわけではない、が──。


 いい加減向き合うときが来たのかもしれない。

 静香にも、環奈にも、そしてお互いに。

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